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[1711] 経済の話し
日時: 2013/03/12 23:22:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:1363098145

最近、阿修羅掲示板に良く投稿される「あっしら」のサイトへ行ってみました。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/index-as.htm

HNは「あっしら」と名乗られているが経歴は解りませんが、資本主義経済のシステムが持っている色々な矛盾を説く解す能力豊かな、経済に強い確かな方と見受けしました。
その一部を転載します。



「供給=需要」の向こう側 <想像力から創造力へ> S子
         
「利潤なき経済社会」を興味深く、また、意義深く読ませていただ
いております。資本主義経済において、結局、私たちが見誤ったも
のは、マネーにおける「目的」と「手段」をはき違えたことにある
のは間違いないだろう。経済活動における潤滑油とはマネーであり
、そのマネーが滞ることなく流通し、循環してこそ経済の活性化を
見ることができ、個々人としての生きる活動も活発化してくる。

それはまるで私たちのからだを流れる血液のようなもので、血液が
さらさらの状態であれば私たちは健康で日々を無事に過ごすことが
できる。が、血液がどろどろ状態になり、この流れが悪くなり脳で
詰まれば脳梗塞が起き、その部分の脳組織が壊死してしまい、私た
ちは失語症になったり、半身不随になったりする。

資本主義も当初はマネーがモノを交換するための「手段」として流
通していたが、資本主義が成熟してゆくにつれて、いつの間にか「目
的」と化した。マネーの目的化はつまるところ全てを目的化させてし
まい、私たちにあらゆるものの「本質」を見る目を喪失させた。
これは事実である。

そして、それが「供給=需要」という経済活動を必然的に生じさせ
、モノに溢れた社会が誕生した。「供給=需要」という経済活動は
よくよく考えてみれば、「与えられた人生」を送ることになり、
そこには自主性や主体性はなくても私たちは「与えられたモノ」を
購入し、そこそこ無難な人生を送ることができる。

私たちが無難だと錯覚し、安心してしまうのは、周囲が皆「与えら
れたモノ」である「同じモノ」を持っているからである。つまり私
たちは「与えられた、同じモノ」を持つことによって人生の安定や
幸福の尺度をはかっていた可能性がある。「供給=需要」という経
済活動では、人間の欲求すらも本質から遠ざけてしまうということ
である。

本当に自分が欲しいモノだったのか、他人が持っているから欲しい
のか、テレビコマーシャルで見たから欲しくなったのか、売り込み
にきたから購入したのか、ないと困るほどではないがあって困るほ
どでもないので購入したのか等、心から欲しているものではなく、
供給されたから需要したという構図が自然と生まれる。それを自分
の欲求があったから買ったと、私たちは錯覚しているにすぎない。

こうして私たちは「与えられた人生」を無難に安定して生きること
で、「危機感」を抱くことなく日々を過ごし、人生を終える。人間の
三大欲求であり生きる基本の「食・性・寝」も既にこの「供給=需
要」という経済活動に組み込まれ、マネーの目的化とともに人間と
しての本能を私たちは喪失しかけている。現代人はこの自覚すらも
ないという悲しい状況におかれているのである。

しかし、マネーの目的化による「供給=需要」という経済活動では
経済成長が持続できないどころか、経済の空洞化を生み失業者を増
加させ、個人としての生きる活動が阻害されてしまう。そのことに
気づいたのが、今回の欧州連合憲法批准拒否の仏国民である。拡大
EUの存続に待ったをかけた格好となったが、「危機感」を抱いた彼
らの人間的本能はまだ廃れていないどころか、十分に健在である。


(中略)

ひるがえって日本を見れば、「供給=需要」人生が非常に行き届い
ており、大人も子供も主体性をなくし、自信喪失し、想像力にも欠
け生きる気力も無い状態に置かれている。だから米国の言いなりに
しか生きることができないのである。「供給=需要」という「与え
られた人生」を送ることは確かに楽ではある。が、そこには「自分
」というものがない。この人生を生きる「自分」がないのである。

だから真の喜びや真の悲しみを味わうことはまずないだろうし、
そこそこ無難で安定した人生を送ることで「危機感」を覚えること
もまずないだろう。実はそれこそが問題なのである。「危機感」を抱
くこともなければ、正直な話がまともに「自分」とは向き合えない。
「自分」という人間のこともわからずして終える自分の人生って一
体何??ということになる。

マネーが目的化されることで「供給=需要」という経済活動が必然
的に生じ、「与えられた人生」を送ることで私たちは主体性を失い
、自信を失い、生きる源泉ともいえる想像力までも失った。また、
そういう場所さえも失った。想像力を失えばこの世で実現する創造
物さえもなくなるのである。つまり来るべき未来が描けない。

「利潤なき経済社会」ではマネーを手段に転落させることで、資本主
義の論理が大きく揺らぐだけではなく、世界の構造が大きく転換し
てしまう。これまで築き上げてきたもろもろが崩壊に直面している
と言っても過言ではない。それは日本が明治維新以降追求してきた
西洋文明であるかもしれないし、合理化の名のもとに推進されてき
た科学万能主義であるかもしれないし、それを基点とした物質文明
であるかもしれない。

「供給=需要」人生で「危機感」を抱くこともなくなった私たちが
、価値観の転換をはかることは容易にできそうもないのは明白だ。
しかし、マネーの目的化による「供給=需要」経済活動では世界は
やがて行き詰まる。価値観の転換は時間も要するだろうが、案外石
油の枯渇がその契機になりはしないかと、私は密かに思っている。
その「危機感」が「自分」と真剣に向きあうことになり、それが男
女双方への理解へと向かわせる。そこから男女双方の想像力が生ま
れ、それが創造力へとつながり実現化し、新しい未来が描けるとい
うものである。

(引用終わり)
メンテ

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変更・変化・変革、改革と革命、そして維新・改新の話 2 ( No.109 )
日時: 2016/02/09 20:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:L/O/VDXE

何処を変えるか!

そもそも通貨の概念、そのものを変えるべき。

従来は物々交換の媒体として登場した通貨が、その内(急激に)富の蓄積の手段となった。
それは通貨を持っていれば、何時でも商品を買えるという安心感、安定感である。

また続いて、利潤と言う概念が出来、通貨の流通をさせることで富を蓄えられると言うことに気がついた。
資本主義経済のシステムは、この時期に起こり、経済(通貨の流通)を、需要、供給という図式で現した。

人類の生活において、商品(物資)は常に不足していて、それを手に入れること大変であり、当時は商品の生産はほとんど人間の手で行われていた。
だから、商品を望む人間(消費=需要)がある限り、生産は続き、それに寄って人々は生活手段を確保できた。

この頃になると自給自足の社会はほとんどなくなり、通貨を手にすることが生活の唯一の手段となる。
通貨も、人々全員を対象に、何とか配分できていた(それを経済学的には富の配分という)。

現在までの資本主義の論理では、通貨は概ね手にすることができるという前提で成り立っている。
資本主義と言う経済のシステムは、全人口を抱合し、真面目に働けば生活の糧である通貨は手に入った。

ところが最近の半世紀は、生産技術の発達と流通過程のグローバル化で、商品の生産、流通における省力化が進み、需要、供給の場面が、途方もなくはなれ、需要(消費)したいが供給の施設がないので通貨が手に入らない地域が、アチコチに現出した。
昔はそうではなかった。通貨を手に入れることができる施設(生産拠点)が各地に散らばっていた。

更には生産技術の発達は、供給に必要な人力を必要としなくなり、需要と供給の関係が人件費的には量的に不釣り合いとなった。
そのことは、失業者の増加と言う形で現れ、工業先進国ほど失業率が高いという状況に陥った。
一部の最先進国は、流通の領域や第三次産業の発達で誤魔化してはいるが、力のない先進国は、軒並み経済的苦境に陥っている。

これが現実であり、要するに、現行資本主義のシステム下、もはや需要、供給という概念では人類を抱合した経済のシステムとは言えなくなっている。

株価の上下や為替の変動で影響を受けている人々は、まだ、その資本主義の論理のなかで生活できているが、資本主義のシステムから見放された多くの人々は、経済のシステムなど頼ることもできず、自給自足の生活に追い込まれつつある。

初めに返り、通貨とは何であろう。
通貨は万民のために、万民が手にすることが出来た生活の糧であった。
そういう物を通貨と考えていた。
それを保証してくれる、経済のシステムを信用していた。

ところが現在は、そんなものではない。
働きたくても働く場所がなく、通貨は廻り回っては来てくれない。

要するに、現行経済のシステムからはみ出したものは生きてはいけない。
そんな立場の人間は、死んでしまえ、と言うのが現行の経済の論理である。

だが、これを救済する手段はあるのである。
最低生活の為に必要な通貨を国家が配分することである。
ただし、大方の人間が働かなくて生活できると言うことは、倫理道徳と言う人間性が失われ、とんでもない社会となる。
だから国家は生活の糧を金ではなく仕事で与えるべきであるのである。

こんな場合でも、結局は通過自体が必要となり、それを豊かな人の税収で賄うには、はみ出した人間が多すぎる(福祉政策では救済できない)。
この場合に増刷する通貨は、既に従来の通貨の概念には入らない。
しかしながら、従来の通貨の概念自体、当初のそれとは随分と違ってきている。

信用創造とか、何とか言って、実態経済を何十倍も上回る通貨が発行されている。
その途方もない通貨は、通貨を蓄財する目的の為の流通であったり、経済のグローバル化を推し進めるために使われている。
要するに、資本主義経済圏で生活する人間を、どんどん追い出すために使われている。
そのこと自体、現代資本主義社会は、ひたすら破滅に向かっていると言える。

その従来の資本主義の金融理論では、傘下の通過以外は認めようとしない。
己たちの理念に反する通貨の形態を認めようとはしない。

インフレーションが起きるとか為替が成立しないとか、自分たちの勝手な理屈によって。
だが、生産力がこれほど向上した現代社会で、昔のような通貨管理をしなくても、生活に必要な商品の配分は可能なのである。

通貨の増刷の適正な管理があれば、大きなインフレーションなど起きないのである。
為替の変動など、国内の経済の安定を考えれば、第二次、三次の問題である。

グローバル化など抑制し、地域、地域で必要な経済が循環する様に心がけることである。

現在の巨大金融資本と、その配下である金融当局、専門家を追放し、国民の為の通貨の発行を国家に求めるべきであり、それができる時代でもある。

GDPが増えれば、国民経済の底上げができるとか、マクロ(世界全体)で考えれば需要と供給の機能は働いているなど、身勝手な理論など

クソ、喰らえである。


メンテ

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