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[2164] 日本人は昔から今に至るまで、空気や水と同じように国が存在してると思い違いしてる。ハワイ人や沖縄人と違う。
日時: 2015/01/07 00:29
名前: 青トマト ID:4xl7w34Q メールを送信する

海に囲まれていて大きい島国なので、日本人は、

日本と言う国がここに存在していて当たり前と思っている。

海岸線が自然の国境をなしているのだから、そう思っても無理はないのだが…。

しかし、英国と比較すれば判るのだが、英国はノルマン人の侵略を受けて今の英国が成り立っている。

日本は、幾種もの渡来人に因って成りたってはいるのだが、

完全な侵略と完全な支配を受けたのは、今回の米国の支配が初めてであると考えられる。

古代においての朝鮮半島からの渡来人による密かな日本支配乗っ取り計画は上手く行かずに挫折したと考えられる。

律令制と渡来仏教のイデオロギーにより支配を達成しようとしたのであろうが、日本社会が中国のように戦国動乱を経過した混乱社会ではなかったのであり挫折したと考えられる。

続きはあとで…。
メンテ

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聖徳太子 ( No.11 )
日時: 2017/09/22 16:26
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ljtXeShA

青トマトさんは、今はおられません。
代わって議論を進めます。
聖徳太子についてはウィキペディアでは次の様に紹介されています。


敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母のキョウダイ婚によって生まれた子供とされている。
幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。

用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御(死去)した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。
戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。


「和を持って尊しとする」、17条の憲法などから思い浮かべる聖人の様なイメージとは遠い存在の様な気もします。
その聖徳太子には暗殺されたと言う陰謀説もあるようです。

言いたいのは青トマトさんも指摘しておられるように、日本も決して昔から、

>日本人は昔から今に至るまで、空気や水と同じように国が存在してると思い違いしてる。

このようなものではなかったはずであると言う事と言いたいのです。

同じ様に、民主主義と言う概念も、いまや、空気や水の様に思われていて、故に民主主義が危機である、言い換えれば民主主義の何たるかが軽んじられていると言えます。

人間は一つの欲望を手に入れると、それが当たり前になり、次の欲望へ向かう。
欲望には限度がない。
それが人間。
ついでに申し上げよう。
不孝、地獄も底がない。
俺は不孝だ、地獄だと叫んでいても、開き直っていても、さらなる地獄が待ち受けている事が解らない。
それも人間。

人間とは良くも悪くも厄介極まる種族である。
幸せ感に浮かれた人間に、国のかたちなど解らない。
空気や水の様に思ってはばからない。

空気や水は自然界の無機質。
国は人間社会の入れ物。
所詮は、空気や水と同じではない。

話は変わり、意味もないことですが、聖徳太子の生母「穴穂部間人皇女」は丹後半島出身と、当地丹後半島の人々が言って祀っている。
なぜならば「間人(たいざ)」と言う地名があるからだ。
間人を「たいざ」とはなかなか読めないだろう。
丹後半島は奈良時代より遡る、丹後王国があったと言う関係では、「穴穂部間人皇女」という名前は、この地名に因んだとも言える。
また丹後半島の「間人」が、穴穂部間人皇女の名を使ったまも知れない。
丹後地方が蘇我氏の支配下であった形跡は確認されていない。



さらにおまけ「17条の憲法」
17条の憲法は、官僚や貴族に対する道徳的な規範が示している。


一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下靡(なび)く。故に詔を承りては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。
四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。
五に曰く、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁(さだ)めよ。(略)
六に曰く、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。(略)
七に曰く、人各(おのおの)任(よさ)有り。(略)
八に曰く、群卿百寮、早朝晏(おそく)退でよ。(略)
九に曰く、信は是義の本なり。(略)
十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(略)
十一に曰く、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ。(略)
十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂することなかれ。国に二君非(な)く、民に両主無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以て主と為す。(略)
十三に曰く、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ。(略)
十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。(略)
十五に曰く、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。(略)
十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。(略)
十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)

(引用終わり)

憲法とは、古代も現代も官僚、政治家の指針。
国民が守るものではなく、守らせるもの。

それが安倍自民党には解らない!
メンテ

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