[2308] 国家観とは
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- 日時: 2015/10/15 10:49
- 名前: 天橋立の愚痴人間
ID:.r223Az6
- 掲示板のトラブルが続いています。
今回のことで、管理人さんとメールを交換しました。 今回は随分と苦戦されていますが、糾弾サイトに対する想いは依然、衰えてはおられないようです。 気分直しに、新しい話題を立ち上げます。
「一体、日本人は自国をどの様に捉えているのだろうか」
これは糾弾トップの管理人さんの言葉です。 改めて、私たちは、どのような国家観をもっているのか検証して見たいと思います。 物理的に言えば、国家とは、国境線で区切られた領土に成立する政治組織で、地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである。 と言う事になり、形態として、独裁国家、民主主義国家、あるいは夜警国家、福祉国家と言う表現があります。 ところで、国家観と言った場合、その識別とは別の意味も生じてくるのではないでしょうか。 要するに、どのような国でありたいと希望する国民の総意と言うものでしょう。 もちろん、現代の日本の国の形が、国民が望んだ結果の民主主義福祉国家であることは間違いありません。 その国家観と言うものを別の方面から見てみましょう。 革命と言う言葉、事象があります。
その革命時において、国民は自ら選ぶ国家の形に強い要望をもっているものです。 ところが社会が落ち着くと、国民は国家の有り様にあまり関心を持たず、自然と希望が実現されていると思い込みます。 何時も、何時も革命時のような緊張はありえず、全体には、それで良いかと思いますが、時が過ぎると共に、各々の機構の中に退廃が生じ不正が横行するものです。
それは具体的には、官僚組織の腐敗、利権政治の横行、経済的強者の横暴などの形で現れてきます。 それも、ある程度は人間社会の宿命のようなものでしょう。 ですが、度が過ぎれば、国家は最初に国民が望んだ国家とは異なる展開をしてきます。 民主主義国家の場合、こうした場合は選挙によって国民の意思で矯正することになっています。 ところが、現代社会において、国民が望んだ国家の形を歪なものとしている原因に、官僚、政治屋、独占企業家の存在の上に、市場主義経済のシステムと言う妖怪が君臨している問題があります。 言い換えれば、国家をより意識しなければならないのですが、経済を中心とするグローバル化は、国家の概念・枠組をも、あやふやなものとしてしまっています。
国家は、国民の望み以外の要素によって展開しているのです。 民主主義の概念の大きな要素は、各人の権利の確保であり、国家の有り様は、個人の権利が保証されていれば問題はないのです。 また民主主義は多数決という要素も含んでいます。 多数決の意味は、過半数の人々が満足していれば、当面は国家の有り様に異議を持たないのです。 要するに、現実以外の要素を検証することはなく、将来を見越したり、国家自体の有り様についての検証はしないのです。 逆に言えば、官僚の腐敗、政治の堕落、市場主義の妖怪の暗躍も、民主主義的に過半数の国民が異議を唱えない限り容認されるのです。 それが民主主義国家の形であり、半分は悪を容認し、過半数の国民が異議を唱えないかぎり、現状維持で続いて行くのです。 それが民主主義で、我々が望む形でもあり、また、過去の独裁国家に比べて、遺棄すべき形態とも言えないでしょう。 ですが、何か腑に落ちないものがあります。 少なくとも現在の民主主義は、必ずしも理想の形ではないのです。
この認識の上に立って、国民は何を考えれば良いのでしょう。 民主主義国家となって半世紀以上、国民は現状に満足し、国家の有り様を深く考える事をしなくなりました。 国民の理想の追求を手控えするようになりました。 その分、国家の運営に従事する官僚、政治屋共は、己らの使命、国民のために国家は、どのようにあらねばならないかと言う事について怠惰を決め込む事になります。 特に、日本の様に善良な国民精神がある国では、言い換えれば、お上意識が強く国家を無条件で信頼する我が国では国家に対する批判意識が希薄であります。 国家観が希薄とも言えます。
国民に国家観が希薄なので、官僚、政治屋共は、それに便乗し、またTPPの交渉等に見られる様に、本当の国民の立場を省みることなく、一部の企業のために、グローバル化を目指す世界企業のために門戸を広げる結果となっています。 安全保障の問題でも、真に我が国の安全保障を論じることなくアメリカ従属の安全保障に走ります。 考えて見ますと、100億に近い人間が、異なった自然環境、宗教の下に均一の価値観でまとめられるはずはないのです。 未来社会の話は別にして、当面は、地域単位、言えば国家単位の考えかたを持たねば、その国民が望む国家の形を維持していけないのではありませんか。
このように言いますと、多くの人は民族主義、国粋主義を想定されるでしょう。 歴史には、確かに、そのようなものがあり、それは現代社会では必要ではないものとなっていると思います。 ですが、国民が国家という枠組みを重要視しないと、現実のような事が起きるのです。 繰り返し、言います。 国家と言う枠組みを重要視すると言うことは、民族主義に凝り固まれというのではありません。 安全保障の問題や、TPPの問題に具体的に意見を言えと言っている訳ではありません。 専門的な分野の決断は専門家に任せば良いのですが、そうかと言って、国家の有り様に無関心では駄目だと言うことです。
冒頭に掲げた、管理人さんの言葉、
>「一体、日本人は自国をどの様に捉えているのだろうか」
これは、この言葉通りに受け止めれば良いのではないかと思います。 民主主義の時代と言っても、国家は必要であり、国家の有り様が国民の有り様を支配しているのです。 国民が国家の必要性を認識し国家観を強く持つことが、政治を糾し、行政を糺す事につながる事になります。 現代社会は、欠落した民主主義の概念を余りにも強く持つために、国家観を希薄にしているのではないでしょうか。 そのために、国家の横暴を招き、官僚の腐敗、マスメディアの退廃を招いていると思います。
選挙があると言っても、それは形だけのこと。 選挙に対する無関心もあり、結局は制度的には整っているとしても、実際は邪悪な勢力に、過半数の原理を上手く利用される結果となっているのでしょう。 さて、国家観とは、如何なるものでしょうね。

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