「スラム化の理論を排除せよ」A ( No.243 ) |
- 日時: 2017/07/04 14:09
- 名前: イントィッション ID:EtUtqUtQ
- 日時: 2009/11/12 18:36名前: 満天下有人
「スラム化の理論を排除せよ」A
・・・彼らの理屈はおおまかに言って三つの柱で成り立っている・・・
生産(供給)も需要(消費)も、そして交換の過程で形成される価格も全て、自由な個人の主観的価値判断によって形成される・・・GDPに現れる国家による財政出動を除く部分も全て、個人の合理的主観的価値基準の表れである・・・合理的価値基準の選択は、「限界効用」によって行なわれ、そこで合理的な均衡が成立すると言うのが、彼らのマクロ理論である・・・
ざっくり概観すると、以上のような理屈が柱となっており、その消費者行動の限界効用と限界代替によって、市場が成立し価格も決定されるというものだ・・・三本柱とはどういうものなのか・・・
@個人の主観的価値判断の重視 経済の根底を形作るものは、自由をベースにした個々人の主観的価値判断である、経済の絶対的本質はそこにある・・・(これがハイエク一派の基本思想である、要するに人間には、そもそも理性などというものを期待できない、本能に従ってしか行動できない生きものだから、好きに自由に行動させれば良い、その個々人の主観的価値基準で社会を成立させれば良い、経済面でも市場を通じての主観的価値基準のシャッフルで以って、均衡点は成立するものだ・・・)
・・・貨幣からも人間は自由であるべきである・・・よって規制的な金融政策を行なう中央銀行は不要である・・・
ここで大きく欠落している論理は、“諸個人の”自由な主観的価値基準という箇所にある・・・私的資本も法人格を持った個人であるという所を見落としている・・・ それが一般個人の価値基準をゆがめてしまっていることを見過ごしている・・・いや多数の者は彼らが持つ主観的価値なるものから疎外されてしまっているという現実を、である・・・
貨幣に関する中央銀行不要説も、個人的価値基準論に立脚したものである・・・ もう消えてしまった別スレッドでも書いたが、そもそもFRBは客観的基準に基づいて運営されるべき中央銀行ではない、ユダ金融資本の「価値観」によって、擬人格を与えられた私的資本の一つの個人格としての主観的価値観が認められたものとしての存在である・・・事実、米政府は1株も所有していない・・・
このことはハイエク一派の、政府などによって規制されることを最も嫌う理論と、正に合致する存在なのである・・・だが同時に、新古典派理論の随所に見られる矛盾というか形而上的な仮定がFRBにも象徴されている・・・大多数の主観的価値基準を持つ個々人は、別の少数の主観的価値観を持つ存在に翻弄されて来たのである・・・その現実のどこにまっとうな均衡が成立するというのであろうか・・・
これは形而上的な一種のまやかしではないのか・・・私はその意味でも新自由主義あるいは、基底にその思想を置く新古典派などという存在は、現代における形而上学に過ぎないと言いたいのだ・・・
このことは以下の二つの柱にも通じるものである、それは彼らが言うところの限界理論と均衡論にも見られる・・・形而上的御伽噺の実践は、ユメもあって楽しいかも知れないが、子供相手のヒョッコリヒョウタン島とは訳が違うのである、現実は・・・
竹中平蔵なども、個人の主観的価値観に社会を任せるべきである、そのためには真なる完全競争実現のために規制を撤廃すべしという論者であった、それが構造改革であると・・・彼もまた、ハイエク一派と同じまやかし論者であった・・・
構造改革論者たちは、この国に根付いてしまった構造を変えるというより,実は、新古典派が言うところの理屈を導入し,正にハイエク一派が矛盾したように、擬人化された個人格をもった主観的価値観を導入し、彼らだけの間で成立する均衡を導入したかっただけのことである・・・そこのどこに理想とする「完全競争」があるのだ・・・
・・・大多数の個々人の主観的価値観を疎外するような理屈・・・いわば社会をスラム化させるような論は、排除せねばならない・・・いや、くたばってしまへだ・・・。
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