ホームに戻る > スレッド一覧 > 記事閲覧
[2716] 満天下有人さんの名言と重要内容
日時: 2017/06/17 17:04
名前: イントィッション ID:Mkk4J4kE

2011/07/27 18:02名前: 満天下有人 ID:Ekdjbk.w

・・・やはりこちらに場所を移しますね・・・

・・・サブローン破綻から生じた累積額(損失)は、野村資本市場調査では6京円とも報告されていました・・・

この債権債務者の構図がどうなっているのか、真相は誰にも掴めないようです、それぞれの多岐に亘るデリバテイブ取引残高を累積すると、ほぼさような数値になるということでしょう・・・大元が例えば米年金基金であっても、その先にはA、B、C、D、Eと紙切れの上に紙切れが重なっていることでしょう・・・

無数の欧米金融機関や企業が重なっている筈で、欧州では未だにストレステストをやっても主な所だけで、しかしその連鎖は途方もない錯綜となっていることでしょう・・・ECBは未だに自己資本不足の金融機関が相当あると言っていますね、ギリシャ、スペインなどの国債中心の財政破綻とは別にです・・・

・・・処方箋としては、信用連鎖の大元を防御しておくしか手が無い・・・所謂裏書回し手形を想像すれば理解出来ると思います・・・

・・・まあ邪推すれば損失を巨大に見せかけて、資金を引っ張り込む作戦も無いとは言えない・・・我が国の例では、野村HDがリーマンのアジア部門買収、三菱UFJがモルガンスタンレーに約1兆円出資、みずほがメリルリンチに出資、三井住友はゴールドマンサックスへ・・・と、出資の形でそれぞれの自己資本不足をカバーしてやりながら、彼らの牙城であった金融市場への足掛かりをつくる・・・

・・・しかし、それで根本にある不良債権の方がついたということにはなりません・・・結果として円高ドル、ユーロ安で、彼らの損失を埋めてやっているという構図でもありますね・・・。







メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60 | 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

「スラム化の理論を排除せよ」E ( No.247 )
日時: 2017/07/04 14:34
名前: イントィッション ID:EtUtqUtQ

日時: 2009/11/15 09:36名前: 満天下有人

「スラム化の理論を排除せよ」E

・・・結論を言うなら、結局のところ新古典派は、人間にとっての基礎的な経済関係、つまり供給と需要の関係は個々人の主観的価値観が規定し、商品価値及び価格も市場を通じ(市場主義)、人間の限界原理で決定されるものとした・・・

・・・この理屈に一貫して大きく欠落しているものは何かと言えば、生産側の主観的価値基準がどのようなものであり、それに基づいて商品価値がどのように創出され、それを通じ価格がどのように決定されるか、それを「総」社会的な器の中で追求する形跡が全く無いことである・・・

端的に言うなら、商品の価格なるものは供給側の生産性が向上すれば低下するし、あるいは私的資本の生産形態では、彼らが帳簿的原価計算上で「人件費」として処理する部分を低減すれば供給側が提供する価格は下がるということである・・・

そこを無視して、商品の最終段階である価格なるものが需要側個々人の効用によって決定されるという均衡論は、云って見れば、市場におけるセリ市的価格決定論である・・・築地魚市場でのセリ市と同じような価格決定論に過ぎない・・・

売り手と買い手がセリ合うその過程で決定される価格によって「総」社会的な供給と需要の関係が均衡し充足されると言うのは、幻想でありまやかしである・・・くどいように総社会的という用語を繰り返している理由は、生産と需要の関係は全体として社会全体の再生産を可能にするものでなければいけないということである、生産に携わる者は同時に需要者、消費者でもある、だから再生産が可能になっているのである、可能であるから社会が存続出来ているのではないか・・・そこを見落とす論は形而上的である・・・

価格と言うものも、繰り返し行なわれる再生産の過程を通じて形成される一つの標識にしか過ぎない・・・経済関係において生産される価値というものは、供給側の主観的価値基準と、それを受けて立つ側・需要側の「効用」度だけによって決定されるものではないはずなのだが、それを強調するのは、何かを隠蔽しようとしているからである・・・

それは供給側の論理が利潤を求めてその蓄積を第一義とする主観的価値判断を基礎に経済社会を支配しようとすることにある・・・そこには社会全体の再生産を維持せねばという正義はもともと存在していないということである・・・

ここにも新自由主義者、新古典派たちの奇妙で矛盾した論理が伺える・・・何故矛盾した論理になるかといえば、彼らの主張の第一が個々人の自由、平等、主体的価値観といういわば形而上の世界に属する概念を、再生産という純粋に経済関係の問題に持ち込んでいるからである・・・

形而上的概念での自由、平等、価値観なるものは、支配されない、隷属されないという希求の裏返しでもある・・・それを言う論者がでは何故、資本の支配、資本への隷属を否定しないのであろうか、正義を唱えながら一方でこの支配、隷属関係は不正義ではないとでも言うのであろうか・・・いやそれを言うと自らの論理が破綻するから、隠蔽しているのであろう・・・
彼らが主張する市場主義も、何かを隠蔽しているものである・・・先にセリ市的価格決定論を批判しておいたが、彼らの価格決定論は、人間の生産的手が加わっていない天産物資源取引のことを言っているだけではないのか・・・

それとて現実には価値の形成でもなく単に思惑から生じている投機に過ぎなくなっているし、細工された需給情報によって価格が決定されているに過ぎない・・・単なるセリ市「市場」であり、出てくる価格はセリ市価格にしか過ぎない・・・そんなもので市場主義を唱えられると、再生産が出来なくなる・・・
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60 | 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

題名 スレッドをトップへソート
名前  「名前#任意の文字列」でトリップ生成
E-Mail 入力すると メールを送信する からメールを受け取れます(アドレス非表示)
URL
パスワード ご自分の投稿文の編集、削除の際必要です。面倒でしょうが入力をお勧めします。
投稿キー (投稿時 投稿キー を入力してください)
コメント

   クッキー保存