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[2721] 日本のマスメディアについて!
日時: 2017/06/30 16:13
名前: イントィッション ID:ae3a9DBU

最近、日本のマスメディアがどうも安倍政権寄りばかりであるのが不思議でたまりません。。。

アメリカでは、現在、トランプ大統領のツイッターで、CNNは嘘ばかり! と叩いていました。。。ついでにCNNでトランプ大統領の悪口を言う女性アナウンサーが整形手術をした〜〜〜など、トランプ大統領が発言しているので、政府の中では波紋を呼んでいる。。。

日本では、色々な局の記者は常に安倍政権側の味方を基本にした内容の質問を投げかけている。。。

その中で東京新聞の望月記者の鋭い質問。。。官邸側には絶対に立たずに真実を追求している。。。

そんな望月記者に何かあったら、すぐに安倍政権のやったことだとネットに大騒ぎになるでしょう。。。

そして、何か大きな力がマスメディアに動いているのではないか??? デンツウとも言われていますが。。。

安倍首相はマスメディアに50億円も支払っていることも耳にしました。。。

マスメディアというのは、必ず真実を突き止めて、真実を報道しなければならない。。。 それなのに最近も嘘報道ばかり!!!

NHKなどは国民のためにある国民が皆で支払って国民に雇われている局なのに、なぜか、国民の頭脳を支配してしまうような報道である!!!

さて、皆さんのご意見をぜひお聞かせください。。。
メンテ

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現代の日本のメディアに、このような経済の哲学について番組をやってほしい (1) ( No.8 )
日時: 2017/07/08 17:08
名前: イントィッション ID:IcNtRvM.

天橋立さんのこの投稿内容の番組をやっていただきたい!!!
  ↓
日時: 2013/02/21 13:45:05名前: 天橋立の愚痴人間

文化文明論の次に哲学を持って来まして恐縮ですが、これも避けては通れない領域と思いますので、とりあえず資料を添付します。ネットと言いますのは本当に便利なものですね。私などもすぐに一介の哲学者になれるようです。

下記の内容は、それこそ斜め読み程度にしてください(熱心に読んでいただくほどの値打ちはありません・大衆の概念を再確認していただく事が目的で引用しました)。
私もそのようにして、過去の哲学が大衆をどのような観点から見ていたかを知るくらいです。
ざっと目を通したところ、誰もが自分の理屈の中に大衆を押し込めようとしているだけで、本当に大衆を認識していることにはならないのではと思います。

キリスト教で言うところの悪魔とは、実は大衆のことであると言うくらいの認識が必要でしょう。


大衆社会論の行方
――近代的理性の危機――
ttp://www.res.otemon.ac.jp/~yamamoto/works/Abhl89.htm

一、 大衆社会状況とその批判


大衆社会

 現代社会は、一九世紀の社会形態との対比において、しばしば大衆社会と称される。それが意味するところは、必ずしも一義的ではないが、およそ以下のような社会状況が存在している社会であると一般に解されている。
(1)自然科学・技術の高度の発達を基盤とする大量生産(mass production)方式の進展によって、資本の集中化・独占化が進み、生産労働が質的に変化すると共に、大量生産方式の進展に伴って生じた大量のプロレタリアートが、新中間層に転化した状況。
(2)人口の都市集中が進み、大量生産に対応する大量消費(mass consumption)が拡大し、またそれに伴って生活様式が平均化・画一化した状況。
(3)大量生産・大量消費を可能にする物理的交通手段や精神的交通手段、特にマスメディア(mass media)の発達により、それまでの局限されていた環境世界が時間的にも空間的にも飛躍的に拡大すると共に、マスメディアによって伝達されるシンボルの領域が疑似環境として重きをなし、大衆操作(mass manipulation)が容易に行われうる状況。
(4)大規模化・複雑化した組織を合目的的かつ効率的に管理運営する手段的機構として官僚制が発達し、人間および人間関係の非人格化あるいは疎外感が問題化する状況。
(5)人口の都市集中化と新中間層の拡大などによって、かつての共同体が崩壊し、その結果、個人および個人的な第一次集団が、多元的で独立した中間集団の中で直接相互に関係することがなく、したがって社会的絆を欠く孤立化・原子化した存在となる状況。

大衆社会状況下の人間

 フォード・システムに、典型的に見られるような大量生産方式が普及し官僚制化が進展すればするほど、個人は、チャールズ・チャッブリンが『モダン・タイムズ』で描いたように、高度に合理化された大規模組織の中で全体の見通しもなくただただ特定の機能を果たすだけの非人格的な「歯車」となる。しかも、中間集団の弱さあるいは欠如のためにそこで自己充実感を得ることもできないため、組織に属しながらも孤独感・不安感にさいなまれる。このような日常的な疎外状況を前にして、大衆人(mass man)は一時的な慰安や幸福を求めてさまざまの「気晴らし(divertissement)」をする。マスメディアによって送られてくる画一的な一時的な刺激、ありとあらゆるものを話題にするおしゃべり、アルコールや賭事やスポーツや観光。大衆人はこういった「気晴らし」をする(これらの大半は、没個性的な大量消費されるべき商品であるにすぎない。たとえこれらの商品が差別化されていようとも、差別化をするということ自体が平均化するのだから、没個性的な商品であることには変わりはない。このため、平均化の傾向はさらに促進されることになる)。
そして、中間集団の弱さあるいは欠如のために、大衆人は政治的・社会的な出来事に対して無関心あるいは無知でありがちである。また、たとえそれに対する関心や知識を持っていたとしても、関心の対象が遠く隔たっているために現実感を伴うことがなく、そのため大衆人は無責任な傍観者となる傾向が強い。
また大衆人は、他人志向型の同調様式(リースマン)をとるばかりか、社会的な順応と差別化への欲望(ジンメル)、あるいは懸隔性(ハイデッガー)に起因する流行・ファッド・クレイズといった集団行動あるいは集合行動を成立させつつ、それに巻き込まれて行く。

大衆社会状況に対する予感的警告

 ところで、一九世紀の哲学者S・キルケゴールは、このような大衆社会状況が本格的に到来しつつあることをいち早く予感し、『現代の批判』(一八四六年)において、以下のような時代批判および大衆批判を行っている。
 キルケゴールは、みずからもその中で生きた時代(現代)を、「革命時代」「情熱的な時代」「行動の時代」に対して、「分別の時代」「反省の時代」「情熱のない時代」であると規定する。そこにおいては、「妬み」が個々人の消極的な統一原理として定着しており、そのために水平化の現象が生じていると指摘する。しかし、この水平化が成立し得るためには「一切のものを包括しはするが実体は無である」「公衆」が存在している必要があるが、公衆は、それ自体が抽象物である「新聞」によって作り出されると、キルケゴールは言う。個々人の営む共同生活が「充実した内容」を持たない非現実的なものとなり、また個々人が「同じ時代の、ある状況あるいは組織の中に統一される」ことが決してあり得ないほどまでに原子化されたために、新聞が、「一つの全体」を形成しているという「蜃気楼」を生み出すというのである。この意味において、キルケゴールは、公衆が新聞という一瞬だけ感情をくすぐる「官能の刺激剤」に支配され、その虜になっている現代を、「広告の時代」「宣伝の時代」であると批判するのである。そしてまた、個々人が「あれかこれかのどちらかを選ぶという絶対的な情熱」を喪失し、非自律的に、非主体的に傍観者としてのみ生き、「気晴らし」を求めてただただ「おしゃべり」だけをしている時代であると批判するのである。キルケゴールのこのような時代批判および実存主義的大衆批判には、さまざまな問題点が含まれてはいるが、水平化の現象・共同体の喪失と原子化・マスメディアと大衆操作の可能性・大衆人の心理的特性などを、一九世紀半ばにしていち早く指摘した点は、大いに評価されるべきであろう。


二 大衆社会論の系譜


疎外の問題とマルクスの階級社会論

 へーゲルは、『法哲学』(一八二一年)の中で、市民社会においては、個々人が自己の特殊な欲求を満足させるためには他者の労働に依存せざるを得ず、それ故にまた自己も労働をすることによって他者の特殊な欲求を充足せざるを得ないという相互依存関係の普遍性が、「欲求の体系」を形成することを指摘する。ところで、個々人の欲求および欲求充足の手段の種別化は、生産をも種別化し、「労働の分割」(=分業)を生ぜしめることになる。そしてその結果、分割され抽象化した個々人の労働は単純化し、労働における個々人の技能も彼の生産量も増大する(したがって国富も増大する)。しかし他方では、労働の価値が下落するばかりか、労働そのものが「機械的」なものとなり、労働者は機械にとって代わられることになる。そして、さらにはまた、個々人の資産・技能・教養などによって「身分の区別」が形成されることになる。このことをへーゲルは指摘した。へーゲルは、産業革命を経た市民社会においては、労働者の疎外が必然的であることを、また身分的な区別を有する有機的全体が編成されることが必然的であることをしっかりと見抜いていたのである。

 この点においてはへーゲルの継承者であるマルクスは、『経済学・哲学草稿』(一八四四年)において、以下のごとく、資本主義社会における労働を「疎外された労働」であると分析する。すなわち、資本主義社会における労働者は、みずからの労働を外化・対象化したものである労働生産物から疎外され(物象の疎外)、それ故、自己活動であるはずの労働そのものが労働者にとって外在的となり、労働者は労働そのものから疎外される(自己疎外)。ところで人間は、知的にも現実的にも、自己を個体としての自己と類的存在としての自己とに二重化する存在であり、したがって、労働は本来個体的な活動であるのと同時に類的な活動であるのだから、疎外された労働は人間から生産の対象(非有機的身体としての自然・自己自身・人間の生命活動)を奪うことによって、人間から類を疎外する。つまり、物象の疎外と自己疎外とは類からの疎外を意味するのである。だが、このことはただちに人間からの人間の疎外を意味している、と。

 そしてマルクスは、私有財産が、疎外された労働の産物であると同時に労働が疎外される原因であることを指摘し、それと共に賃労働と資本、プロレタリアートとブルジョアジーとの階級対立を導き出す。そして、産業革命および私有財産という制度のために人為的に作り出された階級、人間性を完全に喪失した階級による社会主義革命を主張する。しかしそれは、プロレタリアートの解放という政治的な解放のみを意味するのでは決してなく、「一般的人間的な解放」、人間の「全隷属的状態」からの解放を意味しているのである。というのも、マルクスは、資本主義社会における労働そのもののうちに人間の自己疎外を見いだし、大衆社会状況をこの疎外の諸々の現象形態であると考えるからである。
 だが、大衆社会状況(とりわけ疎外状況)や大衆社会を階級社会としての資本主義社会と不可分のものとするマルクスのこのような議論には、問題があると言わざるを得ない。というのも、大衆社会状況(とりわけ疎外状況)は、資本主義とか社会主義とかといった社会体制とは無関係に存在しているとも考えられるからである。
大衆社会に対する実存主義的批判

 マルクスが疎外状況を人類史における一つの過渡的な社会体制である資本主義社会にとって必然的なものであると考えるのに対して、実存主義者たちはそれを社会体制の問題ではなくて、人間存在そのもののあり方の問題、「自己が自己自身に対して態度をとる(sich zu sich selbst verhalten)」その態度のとり方の問題、すなわち、自己態度あるいは自己関係の問題であると考える。また、マルクスが人間の本質を類的存在に見いだし、疎外状況を類からの疎外であるという形で類の問題と捉えるのに対して、実存主義者は、それをあくまでも主体的個体の自己関係の問題であると捉える。

(続く)
メンテ

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