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[3074] マルクス主義について
日時: 2018/11/27 19:20
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:FMdlMn6w

マルクス主義について随分と語った様ですが、気がつけばマルクス主義を正面からとらえたスレッドがありませんでしたので、改めて立ち上げます。


「なぜ今、カール・マルクスの『資本論』に立ち返る必要があるのか?」

私はマルクス主義者ではない。思想ということならば、キリスト教(プロテスタンティズム)が私の物事を考える基本になっている。政治的には、私は保守陣営に属するという自己意識を持っている。しかし、私は、マルクスが『資本論』で展開した資本主義分析は基本的に正しいと一貫して考えている。それは、マルクスが資本主義の根本的な矛盾が、労働力の商品化にあることを解明したからだ。その具体的な内容と論理については、この対談でわかりやすく説明しているので、是非読んで欲しい。労働力の商品化ということの意味がわかると、世の中がまったく異なって見えてくる。そして、経済現象に関して、ほんとうに重要な事柄と、そうでない幻影との区別ができるようになる。現代の主流派経済学に慣れている読者には、難病を治療するにあたってのセカンド・オピニオンとしての意味を『資本論』は持つ。
(引用おわり)

そのマルクス資本論の世界はと言えば、資本論が大著なので容易には説明しがたいが大略すれば次のようになります。
資本論は3部構成となっておりマルクスは、その1部を書き下ろしただけであり、後の2部、3部は盟友エンゲルスによるものです。


第1部(資本の生産過程の研究)
『資本論』第1巻の資本の生産について述べた箇所だけを紹介する。授業で紹介したように,アダム・スミスは,資本と土地の私有制にもとづく経済では,
@ 商品交換では,その商品をつくりだすために必要な労苦が商品の価値になること,
A 労働生産物(商品)の価値は,賃金,資本,地代の3つに分かれること
を主張していた。しかし,スミスの議論では,商品の価値がどのようなしくみで3つの構成部分に分かれるのかはあきらかでなかった。マルクスは,労働がつくりだす商品の価値と労働力の価値とを区別することによって,資本が利潤(剰余価値)をつくりだすしくみを説明した。
これに対してマルクスは、
3-1 商品と貨幣
 W−W' 物々交換で手放した商品(たとえば20エレのリンネル)の価値と,交換でえた商品(たとえば一着の上着)の価値とは等しい(それぞれの商品をつくるのに必要な[社会的平均]労働量は等しい/Wは商品die Ware[商品]の略,Gはdas Geld[貨幣]の略)。
 W−G−W' この等価交換の原則は,交換の過程に一般的等価形態である貨幣が仲立ちになっても変わることはない。
 
 3-2 絶対的剰余価値の生産
 G−W−G'  もしすべての商品が等価交換されるのなら,資本家が原料(労働対象),設備(労働手段)を購入し,労働者を雇って(労働力を購入して),商品を生産・販売してえるもの(G')は,当初の元手(G)から増えも減りもしないだろう。ところが,資本家はこの過程で利潤をえる(G' はGより大きくなる)。このような自己増殖する貨幣であるという資本の特徴はどうして生じるのだろうか。
 労働力の価値(der Wert der Arbeitekraft) 労働力の再生産に必要な価値。すなわち,労働者とその家族が生活を維持するのに必要な費用=価値(労働力の価値は食っていくために必要最低限の費用という意味ではない。社会の生活水準が高くなれば,労働力の価値も増大する)
 剰余価値(der Mehrwert) (平均的な)労働者が10時間労働をすれば,その商品には(原料費や設備費に加えて)10時間分の価値が付加される。もし労働力の価値が5時間とする
と,残る5時間分の価値は利潤として資本家の手もとに残る。これを剰余価値という。
 不変資本と可変資本 資本家が生産手段(原料や機会・設備)を購入するために投下する資本は商品の価格に転嫁されるが,剰余価値をつくりだすことはない。これを不変資本という。一方,労働力商品の購入(労働者の雇用)に投下する資本は剰余価値をつくりだす。これを可変資本という。
 絶対的剰余価値の生産 利潤を増やすための最も単純な方策は,下の図のように,労働時間を延長することである(必要労働時間とは労働力の再生産に必要な価値をつくりだすのに必要な労働時間,剰余労働時間とは剰余価値をつくりだす時間のことである)。事実,産業革命の時期の労働者階級と資本家階級との闘争の焦点は,労働時間の短縮を求める労働者とできるだけ長時間労働を維持しようとする資本家たちとの闘争であった。このように,労働時間の延長によってえられる剰余価値を,マルクスは絶対的剰余価値という。

3-3 相対的剰余価値の生産
 1日の労働時間が一定とする。この場合に剰余価値が増大するのは,労働力の価値が低下したときである。生産技術の発展によって,生産できる衣料や食料などなど,労働力の再生産に必要なすべての商品がこれまでと同じ時間で2倍生産できるようになったとしよう。そうすると,それぞれの商品の価値(それぞれの商品に投下されている労働時間)は(不変資本は考慮しないなら)1/2になると考えられる*。それゆえ,労働力の再生産に必要な労働時間(労働力の価値)はこれまでの1/2になる。そうすると,下の例では剰余労働時間は4時間から6時間に増加する。このように,必要労働時間の短縮によってつくりだされる剰余価値を相対的剰余価値という。
相対的剰余価値は社会の全体で実現するものであって,個別の資本家の努力によって達成できるものではない。しかし,技術革新を追求し,結果的に相対的剰余価値をつくりだそうとする動機は,どの資本家にも存在する。それは特別剰余価値(Extramehrwert)を手に入れたいというそれぞれの資本家の欲求である。ある資本家が画期的な技術革新に成功すると,彼は特別剰余価値を獲得できる。その他の資本家も遅かれ早かれこの技術革新に追随するだろうから、 この特別利潤はいずれ喪失する。 しかし、 このような特別利潤を求める資本家間の技術革新の競争こそ資本主義の生産力を飛躍的に高めることになる。


第2部
第2部は資本の流通過程の研究、すなわち、資本制的生産様式の再生産に関する研究である。第1部がマルクス自身が構成や叙述の仕上げ、刊行まで関わったのに対し、第2部は、マルクスの死後、残されていたいくつかの草稿(第2部のエンゲルスによる序文を参照)をエンゲルスが編集、刊行したものである。

第1篇と第2篇は資本の循環や回転などを扱っており、個別資本の流通過程での運動を考察した。いわば資本家が経営の上で資本の動きを見る時と同じ視点である。実際、マルクスは、工場経営者であったエンゲルスにしばしば資本の回転率などについて照会の手紙を送り、経営のリアルな現実における実務を学び、この草稿に反映させている。

第3篇は社会全体における資本の流通過程の研究である。「再生産論」と呼ばれる理論分野で、社会的総資本の観点から、資本制的生産様式を維持・持続するために、資本の生産・流通・再投下が、どのような制約・条件の下でおこなわれているかを考察したものである。マルクスはフランソワ・ケネーの経済表に刺激を受けながら「再生産表式」とよばれるモデルをつくりあげ、マクロ的視点から資本の流通・循環を論じた。

第3部
第3部は、資本主義的生産の総過程の研究である。第3部も第2部と同様に、マルクス自身の手で刊行されたものではなく、マルクスの草稿をエンゲルスが編集(第3部のエンゲルスによる序文を参照)したものである。

第3部は第1部と第2部の研究をふまえ、資本主義経済の一般的・普遍的な諸現象である費用価格、利潤、平均利潤率、利潤率の傾向的低下の法則、利子、地代などを扱い、資本主義経済の全体像の再構成を試みた。

(引用おわり)

この文章でも何が言いたいか解りません。簡単にまとめてみましょう。

>そこでマルクスは考えました。世の中には、剰余価値を搾取する資本家と、搾取される労働者という二大階級が存在する!!

つまり、資本家は、労働者を低賃金で働かせて、そのぶんの剰余価値を搾取している。本来、社会的必要という観点から支払うべき賃金を支払わず、その分を自らの懐に入れているのだというわけです。
なぜ、そんなことができるのか。それは、資本家には貨幣・土地・工場などの生産手段があって、労働者を雇えば生産できるのに対して、労働者には自らの労働力を売ることでしか生きていけないからです。
この問題を解決するためには、生産手段の私有を排して、社会主義あるいは共産主義の社会にしなければだめだというのが、マルクスの主張でした。

だが、剰余価値の発生を否定するが、国家、行政を維持する費用は何処から出てくるか。
一般的には国民から税金を取らねばならない。
その税金の査定根拠は剰余価値説ではどのように説明できるのか。

また実際は、各生産を受け持つ組織(民間企業ではないが結局は企業のような組織が登場する)が必要経費として確保したものの中から上納金として国家へ治めるか、その企業単位で福祉政策などを行うかである。
どちらにしても、国家を維持する為の金が足らず、従来とおり国民から税金をとっていた様である。
剰余価値説の原則的な事は理解できても、税金や国家の維持の為の経費の出処については明確な説明はない。

この曖昧な税体系が、各組織の幹部(共産党幹部)の企業の私物化を生み資本主義国家の富裕層に代わる腐敗を生みだした。

また一般的な剰余価値の定義について、具体的に色々な事例で説明しているが、
人間活動のすべてを剰余価値と言う基準で数値を当てはめることが本当に出来るのであろうか。

この疑問に対して後で、マルクス経済学を批判する立場からの指摘がある。
この大前提に瑕疵があれば、後の2部、3部は意味をなさない。
後世マルクスが広く受け入れられた原因に、マルクスが指摘した資本主義経済のシステムの矛盾の事がある。
実際にはマルクスは次のように指摘した。
メンテ

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Re: マルクス主義について ( No.1 )
日時: 2019/01/10 21:07
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6IWb/QIw

実際にはマルクスは次のように指摘した。

> マルクスが捉えた資本主義の本質とは何か。それは「資本(capital)」が「無限に自己増殖する価値運動である」ということです。これをマルクスはG−W−G' という定式でもって表しています。ここでGは貨幣(ドイツ語でGeld)、Wは商品(ドイツ語でWare)を意味しています。この定式についてもう少し詳しく説明しましょう。

 一般的な商品交換は、W−G−Wという定式で表されます。例えば、小麦という商品(W)を有している農業者はこれを市場で売って貨幣(G)を手に入れ、その貨幣(G)でもって別の商品(W)、例えば上着を手に入れる。このような商品a→貨幣→商品bの交換を、W−G−Wという定式で表しているわけです。

 ではこの商品交換の定式をひっくり返した資本の一般定式、G−W−G' とは何を意味しているのか。資本家の行動を考えてみてください。資本家はまず投資の元手となる貨幣(G)を有しており、その貨幣を何らかの商品(W)に投資し、次にその商品を用いて何らかの事業(生産・流通・販売)を行うことによって、最終的に当初有していたよりも多くの貨幣(G')を獲得する。最後のG'の '(ダッシュ)が意味するのは、貨幣の増加分(+凵jを意味しています。通常の商品交換とは異なり、貨幣→商品→貨幣+αという順序でもって、手持ちの貨幣を増殖させていくのが資本家の行動になる。

 重要なのはこのような資本の価値増殖運動が果てしなく続くということです。つまり、G−W−G'−W−G''−W−G'''−…というかたちで資本家は飽くことなく価値(貨幣)の増殖を図っていく。そしてマルクスのいう「資本」とは、このような無限の価値増殖運動そのものです。増殖した剰余価値(+凵jをさらに次の事業へと投資することによって、資本家はますます資本の価値を増殖させていく、というわけです。マルクスは『資本論』第一巻・第四章「貨幣の資本への転化」のなかで次のように書いています。

資本家は、資本の価値増殖運動をやむことなく持続させ、より多くの剰余価値を獲得しようとする。そのためには、資本家は事業によって獲得した剰余価値(利潤)を自分の欲望のために使い果たしてはなりません。多少の贅沢は許されるにしても、剰余価値の大部分は次なる事業への投資に用いなければならない。実際に、資本主義のなかで成功している資本家・事業家のほとんどは、どこかの時点で「もういいや」と満足するのではなく、「もっともっと」とより大きな事業へ元手の資本を投下していきます。資本の無限運動は、資本家の「欲望の無限増殖」をももたらすのです。

(引用おわり)
まあ、これを読んでも何が何か解らない向きもあろう。
平たく言えば、資本主義経済のシステムは、資本が無限に剰余価値を取得するために一人歩きを始めると言う事です。
現代社会におけるグローバル化は、この予言の通りであります。
その結果、経済は国民全体に平穏を及ぼすものではなくなり格差が広まり2極化が進行する。

まあ、その資本主義の体質を見抜くところまでは称賛できますが、翻ってマルクスが対案としたマルクス経済学、つまり資本論の世界は問題がないかと言えば、これが問題なのです。

そのマルクス資本論を具体的に批判したのが次の文章です。

たとえば「等価交換」という考えです。マンガ版ではパン屋と八百屋が売れ残ったパンと野菜を交換し、その交換が成り立つのは互いの商品が同等の価値を持つからだと解説されます。

 何となく納得してしまうかもしれません。しかし人が物を交換するのは、相手の物が自分の物と同じ価値を持つからではありません。もしそうなら、多くの買い物客がスーパーやコンビニを出たとたん店に引き返し、不良品でもないのに、買ったばかりの商品を返し、お金を取り戻そうとするはずです。同等の価値を持つことが交換の理由なら、商品とお金の交換を何度繰り返しても、人は満足するはずだからです。

 しかし現実にはそんなことをする人はいません。買い物客は、払ったお金よりも買った商品の価値が大きいと思うからです。一方、店の主が商品を手放すのは、逆に商品よりもお金の価値が大きいと思うからです。

 つまり交換が成り立つのは、同じ物(お金も物の一種です)でも人によって価値の大小が違って見えるからなのです。
>「マルクス『資本論』は何を間違えた?〜商品の価値を決めるのは労働量ではない〜」
この2018年は、共産主義の父といわれる哲学者・経済学者、カール・マルクスの生誕200年にあたります。出生地であるドイツのトリーアで記念式典が開かれ、青年時代を描いた映画が各国で公開されるなど、話題を集めています。

 先月創刊した、古典・名著をマンガ化する新シリーズ「講談社まんが学術文庫」の初回刊行分にも、マルクスの主著『資本論』が入りました。近代資本主義が興隆する19世紀英国を舞台に物語が展開し、『資本論』のエッセンスを解説します。若い登場人物たちのドラマは楽しめます。

 けれども、原作である『資本論』が不朽の古典として扱われることには抵抗を感じます。今からみれば、経済について完全に誤った考えに基づいているからです。
 ここからわかるのは、物の価値とは、それを作るためにかかった労働量などの客観的な基準で決まるのではなく、人それぞれの主観によって決まるということです。この事実は1870年代、オーストリアの経済学者メンガーらによって明らかにされました。経済学の歴史上、革命的な発見といわれます。

 しかし、それ以前の世代に属するマルクスは旧来の考えにとらわれたままでした。1867年に全3巻のうち第1巻が出版された『資本論』は誤った古い考えによって書かれたため、つじつまの合わないおかしな主張が多いのです。「等価交換」はその一つです。

もっとおかしな主張は「剰余価値」です。マルクスは『資本論』第1巻でこう述べます。商品の価値はすべて労働によって生み出され、その価値どおりに市場で売買される。ところが資本家は商品を売って得た代金のうち、労働者には一部を賃金として支払うだけで、原材料費などを除いた残りは利潤として自分の懐に入れてしまう。いいかえれば、労働者が生んだ価値の一部には対価を払うが、残りの価値(剰余価値)には払わない。これは実質的な不払い労働であり、不当な搾取である、と。

 これは商品の価値は労働によって決まるという、誤った考えから出発しています。実際には、商品の市場価値を決めるのは労働者の働いた量ではありません。消費者の心に基づく選択です。私たちは買い物をするとき、商品の製造にかかった労働量を調べたりしません。

 もしマルクスのいうように商品の価値が労働量で決まるなら、大規模な設備を使い人手を省く資本集約型産業よりも、サービス業など人手を要する労働集約型産業のほうが利益率は高くなるはずです。しかし実際にはそのようなことはなく、長期ではあらゆる産業の利益率は均一化に向かいます。ある産業の利益率が他より高ければ、その産業に参入する企業が増え、価格競争が広がって利益率が低下するからです。

 マルクス自身、『資本論』第1巻でこの矛盾を認め、あとの巻で解決を示すと約束しました。ところが第1巻を出版した後、なかなか続きを出さないまま、16年後の1883年に死んでしまいます。

 あとを引き継いだのは盟友フリードリヒ・エンゲルスです。エンゲルスはマルクスの遺した草稿をもとに、第2巻を1885年に出版します。しかし矛盾の解決は示されませんでした。読者が不審に感じることを警戒してか、エンゲルスは序文で、解決は次の第3巻で示されると予告し、経済学者たちにこんな「挑戦状」を叩きつけます。この矛盾をどう解決するかわかる者がいたら、第3巻が出版されるまでに見せてもらいたい、と。

 そこから9年後の1894年、残りの草稿やメモを取りまとめ、ついに第3巻が出版されます。エンゲルスはまた序文を書き、前巻での「挑戦状」に応えて多数の論者が矛盾について論考を発表したが、どれも的外れだった――と勝ち誇ります。それでは第1巻の刊行から27年もたってようやく出版された最終巻で、マルクスは矛盾をどのように解決したのでしょうか。実は、解決できなかったのです。

 第3巻でマルクスは、商品の価値は投じられた労働で決まるという理論と、異なる産業で利益率は均一化するという現実は「一致しないかのように見える」と改めて述べますが、その矛盾の解決は示しません。その代わり、資本主義が発達した国ほど利益率の均等化が迅速に進むという現実を認めるだけです。これは結局、商品の価値は労働で決まるという第1巻の理論を放棄したものです。

 メンガーと同じオーストリアの経済学者、ベームバベルクは1896年に出版した著書『マルクス体系の終結』で「マルクスの第3巻は、その第1巻を否認している」と指摘し、マルクスは解決でなくごまかしを示したという他の経済学者の厳しい意見に同意します。第1巻で述べた剰余価値の理論が間違っているなら、それに基づき展開された、資本家は労働者を搾取するという主張は根拠を失います。ベームバベルクは『資本論』を「カルタ札で組み立てられた家」、すなわち砂上の楼閣だと切り捨てました。

 マルクスが第2巻以降を生前出版しなかったのは、この破綻が修復不能だと気づいたからともいわれます。そうだとすれば、学者としてかろうじて誠実だったといえるでしょう。

今の世界ではこうした経緯を無視し、マルクスを見直そうと無責任な声が高まっています。欧州連合(EU)のユンケル欧州委員長は記念式典に出席し「平等の実現のために力を尽くした」と功績をたたえました。

 しかし20世紀の社会主義諸国崩壊が示すように、破綻した論理を土台に未来を築くことはできません。マルクスが話題となる今、それこそがかみしめるべき教訓のはずです。

(引用おわり)

そうなのです、マルクスは人間社会の存立、そのものを経済行為に置き換えようとしているのです。
旧約聖書のアダムとイブの話ではありませんが、人間の性と言うものは神様でも予測できないものです。
その人間性をいとも簡単に剰余価値論でまとめる事など出来ないのです。
マルクス自身は、そこまで意図していなくても、結果、マルクス主義を実現するためにソビエト共産党はじめ、毛沢東、チャウセスク、ポルポトが何をしたかを見れば明らかでしょう。
それらの国において民主主義が無視されたのです。
もちろん、無視して人間社会が成り立てば、それも良いでしょうが、それでは主客転倒で何の為の政治システムか、何の為の経済か解らない事になります。

資本主義社会の矛盾を解く事の必要性は、その真っただ中にいる我々は十分に認知しています。
しかしながら、それがマルクス主義によって得られるとは間違いであります。

マルクスの資本主義批判とマルクス主義は全く別のものなのですが、資本主義批判の部分をマルクス主義と受け取っている人が沢山いるのです。


メンテ

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