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[1163] 中華思想
日時: 2011/08/08 12:10
名前: 天橋立の愚痴人間

資本主義システムの覇者、アメリカが財政赤字の為に覇者として存亡の危機に陥る一方、中国が米ドルを大量に保有し、アメリカの覇権にNOを突きつけられるようになってきた。
アングロサクソン文明と中華文明の衝突が起きようとしている。
中国とは何であろうか、「中華思想」とは何であろうか、検証してみたい。


ウィキペディアによると「中華思想」とは下記のように説明されています。

中華思想(ちゅうかしそう、英語: Sinocentrism)とは、中国大陸を制した朝廷が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値のあるものとし、朝廷に帰順しない異民族の独自文化の価値を認めず、「化外の民」として教化・征伐の対象とみなす、中国大陸に存在する伝統的な思考法。「華夷思想」「華夷秩序」などともいう。

元の時代モンゴル人が中国大陸を征服し、南宋の漢人を南蛮と呼んでいたり、清の皇帝がイギリスなどとの対等外交を拒否したりしていたように、中華思想は漢民族に限定したものではなく、東アジアの朝廷文化から生み出した一種の世界観である。

人間、国、物事の関係を水平ではなく上下関係で見るのが、中華文化の特徴である。その為、名前の前に敬称の「老」または蔑称の「小」を付けることが多く、反日デモにおいて度々用いられる「小日本」という呼称はその一例である[1]。

(引用終わり)

これは中華思想の衣だけであり、中国を理解することは出来ない。
中国という国は昔からその国内ですら統一して治世を行なえた時代は少ない。
秦、漢、隋、唐、宋、明、清と歴代の王朝はあっても、内情はとても統一国家のそれではなかった。
さらに周辺の国への侵略行為も時折されてきたが、全てその国を植民地化して支配することは出来なかった。

それでも彼らが示す驚くべき尊大さ、身勝手さ、狡猾さを劣等意識の裏返しと評する見方もあるようだ。
事実として、先の大戦後の蒋介石による我が国からの賠償放棄などは、その尊大さ故であろう。
中国にとって、日本はもともと対等の国ではなく、庇護下の小国に過ぎなかったのである。
これも中華思想の現われと認識しなければならない。

また「中華思想」と言っているが、それは冒頭の意味のことで、具体的な理念、精神には触れられてはいない。
アングロサクソン流は、その理念にキリスト教を伴っているが、中華思想には、浸透させるべき宗教も思想もないのである。
故に貢物さえ得られれば、また中国に服従の意思さえ示せば、それで侵略は終わったことになり実質的な支配はなかった。

これが「中華思想」の一側面である。
また、華僑、客家と言う言葉がある。

中国人は、家族、親族、同族的結束は強く、それ故に統一国家の概念に乏しい傾向がある。
中国共産党による国家建設がなければ、中国国民に公と言う概念は育たなかったであろうし、現在でもかなり希薄なものである事は、世界の特許権、著作権を重要視しない姿勢にも現れている。

こうしたことは、広大な国土と多民族を擁する中国が、結局、いづれの宗教とも縁が薄い営みを続けてきた結果、独特の国家観が生まれたのであろう。

ある意味で「中華思想」が中国国家のよりどころであるとも言える。

その「中華思想」をどのように捉えるべきか、今後、注目するところであろう。
メンテ

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中華思想研究 ( No.1 )
日時: 2011/08/08 14:04
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xlgVngco

「隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 倭國」


倭國は百濟・新羅の東南に在り、水陸三千里。大海の中に於いて山に依りて居す。魏の時、譯の中國に通ずるもの三十餘國。皆、自ら王を稱す。

 夷人は里數を知らず、但だ日を以って計る。其の國境は東西五月行、南北三月行、各々海に至る。其の地勢は東に高く西に下る。邪靡堆に都す。則ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也。

 古に云う、樂浪郡境及び帯方郡を去ること並びに一萬二千里。會稽の東に在りて、耳に相い近し、と。

 漢の光武の時、使を遣して入朝す。自ら大夫と稱す。

 安帝の時、又、使を遣して朝貢す。之を奴國と謂う。

 桓靈の間、其の國大いに亂れ、遞(たが)いに相攻伐して歴年主無し。女子有り、名を彌呼という。能く道を以って衆を惑わす。是に於いて國人共に立てて王と爲す。男弟有り、彌を佐(たす)け國を理(おさ)む。其の王に侍婢千人有り。其の面を見る者罕(まれ)に有り。唯だ男子二人有りて王に飲食を給し、言語を通傳す。其の王に宮室・樓觀・城柵有り。皆な兵を持して守衛す。法を爲すこと甚だ嚴なり。魏より齊・梁に至り代々中國に相通ず。

 開皇二十年、王、姓は阿毎、字は多利思比孤、號は阿輩彌、使を遣して闕に詣る。上、所司に其の風俗を訪わしむ。

 使者言う「王は天を以って兄と爲し、日を以って弟と爲す。天未だ明けざる時、出でて政を聽き、跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停め、云う、我弟に委ねん」と。

 高祖曰く「これ太いに義理無し」と。是に於て訓して之を改めしむ。

 王の妻、號は彌。後宮に女六、七百人有り。太子は名を利歌彌多弗利と爲す。

 城郭無し。

 内官に十二等有り。一に曰く大コ、次を小コ、次を大仁、次を小仁、次を大義、次を小義、次を大禮、次を小禮、次を大智、次を小智、次を大信、次を小信。員に定數無し。

 一百二十人の軍尼有り。猶お中國の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置く。今の里長の如き也。十伊尼翼は一軍尼に屬す。

 其の服飾、男子の衣は襦(くんじゅ)にして、其の袖は微小、履は形の如く、其の上に漆り、之を脚に繋く。人庶、多くは跣足。金銀を用いて飾と爲すを得ず。

 故時、衣は横幅にして、結束して相連ね縫うこと無し。頭には亦た冠無く、但だ髪を兩耳の上に垂らす。

 隋に至り、其の王、始めて冠を制す。錦綵(きんさい)を以って之を爲し、金銀を以って花を鏤(ちりば)め飾りと爲す。

 婦人は髪を後ろに束ね、亦た衣は襦(くんじゅ)、裳。皆な(ちんせん)有り。竹を梳と爲す。

 草を編んで薦と爲す。雜皮を表と爲し、縁を文皮を以ってす。

 弓・矢・刀・(さく)・弩・(さん)・斧有り。皮を漆りて甲と爲し、骨を矢鏑と爲す。兵有りと雖も征戦無し。

 其の王、朝會に必ず儀杖を陳設し、其の國の樂を奏す。

 戸は十萬可り。 

 其の俗、殺人・強盗・姦は皆な死し、盗む者は贓(ぞう)を計り物を酬いしめ、財無き者は身を没し奴と爲す。自餘は輕重もて或は流し、或は杖す。獄訟を訊究する毎に、承引せざる者は木を以って膝を壓し、或は強弓を張り、弦を以って其の項を鋸す。或は小石を沸湯の中に置き、競う所の者に之を探らしめ、云う、理、曲なる者は即ち手爛(ただ)ると。或は蛇を中(おうちゅう)に置き、之を取らしむ。云う、曲なる者は即ち手螫(ささ)ると。

 人、頗(すこぶ)る恬静(てんせい)にして、争訟罕(まれ)に、盗賊少し。

 樂に五弦の琴・笛有り。

 男女多く臂に黥し、面に點し、身に文す。水に没し魚を捕う。

 文字は無く、唯だ木を刻み繩を結ぶ。佛法を敬し、百濟に於いて佛經を求め得て、始めて文字有り。

 卜筮を知り、尤も巫覡を信ず。

 正月一日に至る毎に、必ず射戲・飲酒す。其の餘の節は、ほぼ華と同じ。

 博・握槊・樗蒲の戲を好くす。

 氣候は温暖にして、草木は冬も青し。土地は膏腴にして水多く陸少し。

 小環を以っての項に挂け、水に入りて魚を捕えしめ、日に百餘頭を得。

 俗、盤爼無く、藉くに葉を以ってし、食するに手を用いて之を餔う。

 性質は直にして、雅風有り。

 女多く男少し。

 婚嫁に同姓を取らず。男女相悦ぶ者は即ち婚を爲す。婦、夫家に入るに必ず先ず犬を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ。婦人は婬妬せず。

 死者は棺槨を以って斂め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を製す。貴人は三年外に殯し、庶人は日を卜して(うず)む。葬に及び屍を船上に置き、陸地之を牽くに、或は小を以ってす。

 阿蘇山有り。其の石は故無くて火起り天に接する者、俗以って異と爲し、因って祭を行う。

 如意寶珠有り。其の色青く、大いなること卵の如し。夜に則ち光有り、云う、魚の眼精也、と。

 新羅・百濟は皆を以って大國にして珎物多しと爲す。並びに之を敬仰して、恒に使を通じて往來す。

 大業三年、其の王、多利思北孤、使を遣し朝貢す。

 使者曰う、「海西の菩薩天子、重ねて佛法を興すと聞く。故に遣して朝拜せしめ、兼ねて沙門數十人、來りて佛法を學ぶ」と。其の國書に曰く、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」と。帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く、「蠻夷の書無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ」と。

 明年、上、文林郎裴清を遣し國に使せしむ。百濟を度り、行きて竹に至り、南に羅國を望み、都斯麻國を經て、迥かに大海の中に在り。又、東に一支國に至り、又、竹斯國に至り、又、東に秦王國に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と爲すも、疑うらくは明らかにする能わざる也。又、十餘國を經て、海岸に達す。竹斯國より以東は、皆なに附庸す。

 王、小コ阿輩臺を遣し、數百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らし來りて迎えしむ。後十日、又、大禮哥多を遣し、二百余騎を従え郊を勞せしむ。既に彼の都に至る。

 其の王、清と相見(まみ)え、大いに悦びて曰く、「我、海西に大隋禮義の國有りと聞く。故に遣して朝貢す。我は夷人にして海隅に僻在し、禮義を聞かず。是を以って境内に稽留し、即ち相見(まみ)えず。今、故(ことさら)に道を清め館を飾り、以って大使を待つ。冀(ねがわく)は大國惟新の化を聞かん」と。
 清、答えて曰く、「皇帝のコは二儀に並び、澤は四海に流る。王、化を慕うを以って、故に行人を遣して來りて此に宣諭す」と。

 既に清を引きて館に就(つ)かしむ。其の後、清、人を遣して其王に謂いて曰く、「朝命既に達す。請う、即ち塗(みち)を戒めよ」と。

 是において宴享(えんきょう)を設け以って清を遣し、復た使者を清に隨いて來らしめ方物を貢ず。此の後、遂に絶えたり。




「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」

倭王から隋皇帝煬帝(ようだい)に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」と命じたという。無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな、というのである(「帝覽之不ス 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)。

なお、煬帝が立腹したのは俀王が「天子」を名乗ったことについてであり、「日出處」「日沒處」との記述にではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。ただし、仏教用語を用いたことで中華的冊封体制からの離脱を表明する表現であったとも考えられている。

小野妹子は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の家臣である裴世清を連れて帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している(「臣參還之時 唐帝以書授臣 然經過百濟國之日 百濟人探以掠取 是以不得上」『日本書紀』)。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている。

斐世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』にある。

「皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭王は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」

「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘コ化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』

これは倭皇となっており、倭王として臣下扱いする物ではない。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しも「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とある。これをもって天皇号の始まりとする説もある。

なお、斐世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。 小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、特に処罰を受けた形跡もなく再度遣隋使に任命された史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される。 (「隋書倭国伝と日本書紀推古紀の記述をめぐって」(川本芳昭,九州大学 史淵 141, 53-77, 2004-03-10))

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF
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Re: 中華思想 ( No.3 )
日時: 2013/09/04 12:58
名前: ryu


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Re: 中華思想 ( No.4 )
日時: 2013/09/04 17:58
名前: 天橋立の愚痴人間

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