Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.38 ) |
- 日時: 2013/08/01 08:27:09
- 名前: 糾弾板の存在価値 遂犯無罪
- 山口連続殺人事件の背景は深く考えさせるものがある、都市の空気は自由にさせるというが、地方の集落などでは異端者というほどの無い者まで排除排斥される。
しかし都会に在っても定住する以上は近隣の問題を抱え込む場合が多い、いまこの問題を掘り起こして訴訟提起準備しているが、忘れていたこのフレーズを検索したところ、旧糾弾掲示板に残っていた。
権力の威を仮りた住民が地域社会に君臨し、そうした住民の恣意的な価値基準に拠って、”不審者”が特定=作出されてゆく。 そうしたとき地域コミュニティが警察・検察の思惑を超えて暴走して、極めて抑圧的な役割を果たす。
ttp://www.kyudan.com/cgi-bin/mb/mb.cgi?mode=res&namber=5822&page=80&RES=1-5&H=tp&no=0&P=R
このスレの「やたらに110番通報するな」で思い出したが、裁判監視委員会総裁の北詰は、検察からの書留に動転して110番通報した。 このサイコパスも成敗すべく来月4日にその判決がある。 ttp://www.suihanmuzai.com/130404.jpg.html
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Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.39 ) |
- 日時: 2013/08/01 10:50:33
- 名前: 天橋立の愚痴人間
- 遂犯無罪 さん
今回は、何時もと違い反応しやすい記事を出されました。
地域の閉鎖性についてです。
>権力の威を仮りた住民が地域社会に君臨し、そうした住民の恣意的な価値基準に拠って、”不審者”が特定=作出されてゆく。
地域に住むものとして、現代では、地域の閉鎖性が上記に基づくものばかりとは言えないと思います。 地域と言っても江戸時代のように庄屋など有力者を中心とした保守性が残っているものではありません。
しかしながら、其れに変わって、世帯同士が互いに干渉しすぎるところがあります。 地域には、都会に比べて自治会活動や青年会、婦人会など各種の任意の団体が活発に活動しています(それも昔よりは随分と停滞してますが)。 それぞれが親睦と言う言葉を良く使います。 確かに親睦と言う面もありますが、同時に他人の様相に御節介も始めます。 結局、それが高じて不和になったり、誰かが不満を持ち続け、住みにくい状況となることも多々あります。 都会のように互いに付き合わない方がよい面もありますが、総体としては、地域性はあった方がよいとも思っています。
このような環境で、都会から戻ってきた人が、何かのひけ目などを感じていたら。ますます孤立感を大きくしていったのでしょうね。
学校の虐めの問題でも、仲良しグループと言うものは、一面的に捉えていると全く違う弊害を引き起こすものです。
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Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.40 ) |
- 日時: 2013/08/01 13:03:33
- 名前: 日本共産党・・天橋立の愚痴人間
- グッキー さん
小沢と民主党に期待していましたが、ここに至って、日本の政治改革は日本共産党のありようにかかっていると思います。
グッキーさんも指摘されているように、末端の党員、議員は話しの解る人間が多く、政治の話しもマルクス論を除けば情熱を持って話し合えます。
組織も全国にまたがって、しっかりとしていて小選挙区全てに候補者を立てられる実力があります。 問題は中枢部でして、もはややる気もないはずのマルクス主義に固執しています。 一党独裁の体質もあります。 党員に対して極端な中央集権を敷いています。
これらの問題さえ、クリアー出来れば、日本共産党は直ちに政権を担う事が可能な政党です。 現状の野党を長年かねていじくっている暇はありません。
日本共産党の改革こそが、日本の政治改革の早道ではないでしょうか。
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Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.41 ) |
- 日時: 2017/01/21 14:23
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:CD9xonSs
- 阿修羅掲示板で日本共産党に関するやり取りがあった。
(私のマルクス主義を誹謗する文章に対して)
マルクス主義というのは、新薬を臨床検査なしにいきなり投与したようなもの。 副作用が強すぎて、現代社会ではお蔵入りの新薬に過ぎなかった。
(次のような反論が続いた)
旧ソ連、東欧での失敗はマルクス主義のせいではなく、マルクス主義を実践できなかったレーニン・スターリンの責任である。 レーニン・スターリンがやったのは本当のマルクス主義ではなかった。 マルクスは、もともと共産主義国家と言う言葉など使ってなかった。 挙句の果ては、生産手段の国有化にも触れてなかったという。 そうしてマルクス共産主義を肯定する。
(未来のTOW氏のコメント)
共産党という名前であるにも関わらず、マルクスやエンゲルス、レーニンの考え方を否定する支持者が多いのは恐れ入った。 もはや、マルクス・レーニン主義(日本では科学的社会主義と呼ばれる)について、否定的な考えが主流なのだろうか。 しかし、社会主義や共産主義といった概念を作り出したのは、マルクス、エンゲルス、レーニンであることは間違いないのだから、 共産党と名乗る以上、その人たちを無視することはできないだろう。 そもそも、日本共産党自体が、コミンテルン日本支部を目指して発足し、そのあと正式に認められたのだから。
日本共産党の歴史を見れば、時代が新しくなるごとに、より穏健的な(日和見主義的な)活動となっているのは否定できないだろう。 武装闘争路線の放棄(レーニン式革命論の放棄)、中ソ批判(プロレタリア国際主義の否定)、 プロレタリアート独裁条項の削除(一党独裁制の否定)、天皇制の容認(封建制度の放置)などなど、かつての主張を次々に転換してきている。
正直これは、社会主義でも共産主義でもない。 そもそも、憲法29条には私有財産権の保障が書かれている。なぜ、「護憲」の立場を崩さないのかイマイチ不明だ。生産手段の公有を害するものだろう。
日本共産党も、世論の動向をみてより現実的に(新左翼に言わせれば、右翼的)になってきている。 だが、それにも限度があるだろう。共産党である以上、越えられない一線というものはないのか。 もはや、日本「共産党」と名乗ることは、不可能だ。共産主義でもないし社会主義でもない。見た目ばかり整えようとして、中身が失われてはいないか?
引用終わり。
日本共産党の現在は、まさにこの議論の延長にあり、マルクス主義を一方では棚上げしているように見せかけて、一方では至上主義経済も否定する。 根拠は、旧共産主義国の現状から、マルクス主義を絶対視できなくなっている、 それでも共産党という名前は捨てられない。 ジレンマの中に立っているというよりも、どちらへも動けない政党なのである。
要するに口先だけに終わらざるを得ない政党なのです。 このスレッドの標題に庶民と言う言葉を書いていますが、マルクス主義では庶民以外の存在は認めないので、本当は庶民の味方は!という設定すらできないのです。
ともかく、ややこしい政党で、究極のところ信用できないのです。 日本共産党が、その出処進退を明確にしない限りは。
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資本論の世界 ( No.42 ) |
- 日時: 2017/01/22 14:50
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:QfP4oAKg
- 概念ばかり言っていても始まらないので、資本論の原文の極一部を紹介します。
マルクスが言う労働価値、剰余価値の概念を説明する内容であり、下記のような文章が連綿と続く。
商品の要素は二つ。使用価値と 価値(価値の実体と価値の大きさ)である。
(1)資本主義的生産を行う社会では、その富は、商品の巨大な蓄積のようなものとして現われる。その最小単位は一商品ということになる。従って、我々の資本主義的生産様式の考察は、一商品の分析を以て始めねばならぬ。
(2)一商品は、とにもかくにも我々の面前に存在して、その特質をもって、人間の様々な欲求を満足させて呉れる。 その欲求が、例え胃からであろうと、幻想からであろうとかまわない。 ただこの商品要素の考察という段階においては、一商品が、直接的に生存のための欲求にであれ、間接的に生産に用いるための欲求にであれ、どのようにこれらの欲求を満足させるかについては、特に知る必要はない。
(3)鉄や紙などの有用物を、その質と数量という視点から見て行くことにしょう。 これらのものは、 様々な特質の集合体であり、様々な用途に使える。 これらの用途の発見は 歴史的な所産である。 また、これらの有用物の数量を計る標準的な方法も、社会的に確立されてきたものである。様々な計量方法があり、計られる物の性状の違いによるものもあれば、習慣的に用いられてきた方法もある。
(4)ある物の有用性が、その物の使用価値である。物の有用性は空中に浮かんでいるものではなく、あくまでもその商品の物質的な特質の内に限られ、その商品の外に存在してはいない。 つまりは、一商品、鉄とかトウモロコシとかダイヤモンドとかは、一現物であり、使用価値であり、有用物なのである。 この一商品の使用価値という特質は、その有用さの質のために必要とされた労働の量からは独立している。 我々が使用価値を論じる場合は、常に、その数量の確認が大切である。1ダースの時計とか1ヤードのリネンとか1トンの鉄とかのように。 しかしながら、商品群の各使用価値の諸々については、それしか知識を要さない商品学に任せておけばいい。 使用価値は、使用や消費においてのみ、実現する。また、富の実体となる。それがいかなる社会的な富であろうともである。現資本主義社会においては、その富がさらに加えて、交換価値の保管物であるということが、我々の資本主義的生産様式の考察への手がかりなのである。
(5)交換価値は、ちょっと見た限りでは、数量的な関係に見える。あるものの有用さと他のものの有用さの比例的な関係に見える。しかもその関係は時や場所によって常に変化する関係に見える。このため、交換価値は偶然的で全く相対的なものであるように見える。しかしながら、一方では、商品とは切り離せない固有の価値にも見える。この相対性と固有という関係には言葉の矛盾を感じるだろう。これらの内容をもう少し細かく考えて行くことにしょう。
(6 )与えられた一商品、例えば、1クオーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々と交換される。これらの商品はそれぞれ全く違う特質を有しているにも関わらず、交換される。小麦という一つの交換価値は、従って、様々な交換価値を持つことになる。 しかし、交換した結果から見れば、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々の交換価値は、1クオーターの小麦の交換価値ということになるので、さらに、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々それぞれの商品は、相互に交換価値があり、交換することができることになる。 これらの事を踏まえれば、第一に、様々な量の商品達の交換価値は同一の何かを表しているということになる。第二に、交換価値とは、一般的に、商品に含まれ、識別できる何んらかのものの、一つの表現形式・現象形式だということになる。 (中略)
第三章 貨幣、または 商品の流通 第一節 価値の尺度
(18 ) 価格は、商品に実現された労働の貨幣名である。だから、商品の等価を、その価格を構成する貨幣総数で表すことは、同語反復である。ちょうど、一般的に、一商品の相対的価値の表現が、二つの商品の等価と云うみたいなものである。しかし、商品の価値の大きさを示す価格が、貨幣との交換比率を説明しているとはいえ、交換比率の説明が、商品価値の大きさの説明に必要であるわけではない。二つのそれぞれ同量の社会的必要労働で表されるもの、1クオーターの小麦と2ポンド(約1/2オンスの金)を考えてみよう。2ポンドは、その小麦の価値の大きさを貨幣で表したものである。またはその価格である。今、状況が、この価格を3ポンドに上昇させることを許したとしよう、または、1ポンドに引き下げるよう強いられたとしよう、そうなれば、1ポンドと3ポンドとは、小麦の価値の大きさを表すには、小さ過ぎたり、大き過ぎたりするかも知れないが、それにも係わらず、それらがその価格である。まず第一に、それが、それによってその価値が現われる形式、すなわち貨幣だからである。第二に、貨幣によるその交換比率の説明だからである。もし、生産の条件、別の言葉で云えば、労働の生産力が一定に留まるとするならば、同量の社会的労働時間が、価格が変わる以前・以後とも、1クオーターの小麦の再生産に支出されねばならない。この状況は、小麦生産者の意志にも、他の商品の所有者の意志にも依存しない。
(19 ) 価値の大きさは、社会的生産関係を表す。ある品物とそれを作るために必要となる社会的総労働時間の割合との間に必要的に存在する諸関連を表す。価値の大きさが価格に変換されるやいなや、上記の必要な関係が、一商品と他の商品、すなわち貨幣商品である、との間の交換比率として、多少偶然的ではあるが、姿を現わす。しかし、この交換比率は、商品価値の実際の大きさと、それとは別に、状況にもよるが、その価値から逸脱した金の量をも表す。だから、価格と価値の大きさとの間にある量的な不適合の可能性、また前者と後者の乖離は、価格形式自身の起因的特質なのである。これは欠陥ではない、いやそれどころか、ある生産様式によく適合している価格形式なのである。その生産様式に起因する慣例が、互いを釣り合わせるが、明らかに、無法・違法な、ただ一つの手段としての役割を、それらに賦課している。
(以上)
資本論の内容は、こんなものですが、おそらく読まれる人は退屈この上ないでしょう。 問題は、こうした説明をいくらしても、人間の経済活動の全容などは把握できないことです。 把握できないことを切り捨ててなっているのが資本論。 そこのところの致命的な欠陥をマルクス主義者はみようとしません。
簡単なたとえで言えば
労働価値ないし余剰価値という概念で労働者に価値(富でも金でもよい)を配分するばあい、 単なる労働時間に比例して与えるのか 出来高に対して与えるのか。
人間は権利として平等を言えても能力は平等ではない。 そのようなものを、どのように基準化するのか。 仮に、一人一人の能力を調査し、Aクラス、Bクラス、Cクラスなどと順位を決めても、その人の能力自身も変化するもの。 要するに出来高算定より方法はないだろう。
出来高算定と言っても。生産手段による区別、労働環境の差異なども考慮して出来高を設定するのか。 またある商品の生産においてはできるとしても、知的職業の分野ではどうする。 理論的には言えても実践は不可能と言うか、意味のないことなのである。 もちろん資本主義のシステムでも能力給と言って、それは取り入れられてはいるが、現代の社会では、完全に能力給制度にはなってはいない。
これが問題であり、書かれていることを読んでいるだけではだめでしょう。 ところがマルクスの経済論を実際に施行するためには、人間活動の原資たる労働価値の基準を国家が人為的に決めねばならず、そのために強力な中央権力が必要です。
要するに、市場主義経済の世界で社会の関係、人間関係でそれぞれ決められる人間活動の価値基準を国家が統一して決めるということですが、そのこと自体があらゆる領域を換算して正しいか、可能かという問題があるのです。 好ましいと判断して、強権をもって実践しえも、それが公正となるのは、人間性の面から不可能なことです。 その不可能性を無視して成り立っているのが資本論の世界なのです。
また、経済活動、社会活動において完全に能力主義になればよいのか、 国家が決めた自分の能力で全人生を左右されることになる。そうして人間自身が逃げ場を失う。
それに対して現状では あいつは運がよいので出世できたとか、 コネを使って出世したとか、 偶然による満足が得られ、反対に言えば、自分が困窮しているのか、学歴のせいとか運がなかったとして、自らを納得させることができる。
これが完全に個人の能力の評価で決まるならば、強者は良いとしても弱者はたまらなく閉塞感に陥る以外にない。 そういう絶望感を国家により押し付けられるくらいなら、たとえ不合理ではあっても自由競争の結果とされる方が、精神的に救われる。
一見、不合理ではあるが、能力以外の要素も勘案して年功序列による報酬をしている面もある。 マルクスは、こうした人間の心理的な要素を無視しているのである。 一部ではあっても、人間社会からこの偶然性を取り上げれば大変な閉塞社会ができるであろう。
国家により判定された自分の能力によりすべてが決まる。 このようなマルクス主義社会こそ、人間の差別社会であるのだ。 マルクス主義によると公平、平等な社会が作れると勘違いしている人が多すぎる。 少々の金銭的格差の問題よりも、深刻な問題であろう。
要するに、人間の生活のうち経済の分野のために国家(人生のすべて)を想定しなければならなくなるのです。 繰り返すが 人生=経済のシステム=国家の体制となるのです。
ここにマルクス主義の思い上がり、人間社会に対する逸脱がある。 そのようなマルクス主義、共産主義が言う庶民の権利とは、もともと我々が思う庶民を名指したものではないのである。
現代社会も経済が政治を牛耳るようになっていて、これが大きな問題ですが、マルクス主義は、どっぷりと国家=経済となるのです。
唯物史観というものは、論理的には有効でも、それを実施に移す場合、上意下達の独裁国家の様相を帯びることになります。 かつての共産主義国家の有り様を見れば明らかでしょう。
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Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.43 ) |
- 日時: 2017/01/22 19:12
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:h9jkXYc6
- 標題に「共産党は庶民の味方か」と謳ったが、
そもそも共産党にとって庶民とはどのように定義づけされるのであろう。
マスクス主義は労働者(庶民)と資本家という設定で労働者のために資本家を駆逐し、資本家の役割を国家、公共としたのではないか。
であれば
労働者VS資本家の構図は 労働者VS国家ということになろう。
以前は国家(統治者)資本家、労働者の関係が 労働者、国家(統治者)に集約されたということであり。
もはや、この世は統治者と庶民となる。 あれ 封建時代の権力者VS庶民(奴隷)ではないか。 書き換えれば共産党VS庶民 封建時代の権力者と共産党は違うと言いたいのであろうが、
その共産党が、永久に善政を敷いて庶民を守れるかということになる。 まるで、すべては共産党のたなごころにある状況を、信頼できるのか。
それで共産党が何をしてくれる。 庶民派生かさず、殺さずにして共産党員だけが栄華をむさぼる国作りをしても、庶民は命を掛けて革命を起こす以外に手がなくなる。
市民革命をして市民権を確立し民主政治を造ったのは何のため。 全く歴史の逆転なのであるが、
要するに民主主義の社会で言うような、敵か味方かという論理にはならないのである。
それなのに「共産党は庶民の味方」などと言う概念ばかりが先行する。
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「共産主義とは」・・・共産主義と共産党 ( No.44 ) |
- 日時: 2017/01/24 15:13
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YQHJRCOI
- 「共産主義とは」・・・共産主義と共産党
共産主義思想とは、
資本の私的所有を廃し社会的共有とする事で、万人に平等な協同社会(共産的社会)が実現すると考える思想である。ここで言う私的所有とは、資本家に権力を与え労働者を隷属せさしめる、機械などの生産手段(資本)の私的所有の事を指すのであって、共産主義は個人の労働の産物であるところの私的所有を禁止するものではない。
共産主義という言葉は,共有財産を意味するラテン語のcommuneに由来している。共産主義とは,私有財産を否定して財産の共有の状態と,共有財産にもとづく社会・政治体制を実現しようとする思想と運動である。
>思想の系譜
共産主義の思想は,人類の歴史と同じように古い。私有財産,貧富の差,支配者と被支配者の対立が発生するとともに,古代ではプラトンの国家論とキリスト教の教義に,中世では修道院の生活と農民一揆の運動の中に,共産主義は多様な形式のもとで出現した。
マルクス、エンゲルスの共産主義目次を見る 当時はさまざまな共産主義、社会主義の思想があったが、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』(1848)は、封建的社会主義、小ブルジョア社会主義、「真正」社会主義、保守的社会主義またはブルジョア社会主義、批判的・ユートピア的社会主義または共産主義を批判している。資本主義を観念的に否定する初期の共産主義、社会主義と違い、マルクスとエンゲルスは、資本主義の発展法則を解明し、生産力の発展と生産関係の矛盾の結果として、資本主義から共産主義への移行を予測するとともに、共産主義は労働者階級の革命により実現されるという理論を創造し、これにより共産主義の思想を国際的な共産主義運動と結び付けた。
マルクスとエンゲルスは社会体制としての共産主義を二つの段階に分けた。共産主義の第一段階(現在の用語では社会主義)では、生産手段は国家の手に集中され、したがってその私的所有は廃止されるが、個人への所得の分配は各人の労働に応じて行われ、そのため人々の所得の差は残る。資本主義から共産主義の第一段階への移行期は、労働者階級の政治的支配を意味するプロレタリアート独裁を必要とする。第二段階は、もっと高度な、完全な共産主義である。それは、生産力と人々の道徳が高度に発展し、個人が完全に解放される社会であり、国家にかわる自主管理の組織が社会を管理し、個人への生産物の分配は、各人の必要に応じて行われ、したがって生活における平等が実現する。
※ 個人への所得の分配は各人の労働に応じて行われ(注記)
労働価値説、剰余価値説によって具体的な配分方法を現す事により共産主義社会を実践しようと試み(資本論の内容)、それを科学的共産主義と言った。 しかし、その手法自体が矛盾であり、経済のシステムとして機能しなかった。 要するに、人間性を共産主義の経済のシステムの中に閉じ込めようとしたのが間違いであった。
※ 資本主義から共産主義の第一段階への移行期は、労働者階級の政治的支配を意味するプロレタリアート独裁を必要とする(注記)。
独裁と言う言葉の意味を検証しなくてはならない。 資本家、ブルジョアジーと言われる権力者を排する意味で、プロレタリア―トが権力を持たねばならないと言う意味もあるであろうが、同時にプロレタリアート政権の判断に絶対的に従わねばならないと言う独裁の意味もある。
※ 国家にかわる自主管理の組織が社会を管理し(注記)
これは言葉の上の表現にしかすぎず、国民の自主管理とは一体どのような事を想定しているのか。 すなわち、それが国家(民主)であり、その民主国家自体が複雑な矛盾を含むもの。 飽くまでも理想論にすぎないのである。
>共産党
共産主義社会を実現することを目標とする政党。マルクス・エンゲルス・レーニンらの学説を理論的基礎とする。
>日本共産党 マルクス‐レーニン主義を指導理論とする日本の共産主義政党。大正11年(1922)コミンテルン日本支部として結成。非合法組織として激しい弾圧の下に地下運動を続けたが、昭和20年(1945)合法政党として再建された。
(参考資料) >原始共産制
主として理論的に人類の原始時代に想定されている共産主義。政治的抑圧と経済的不平等のない、したがって国家と私有財産のない理想郷は、啓蒙(けいもう)思想によって、自由で孤立した原始人の世界として描かれた(ルソー『人間不平等起源論』1753)。19世紀なかばを過ぎると、ロシアやドイツの土地を共有する村落共同体が研究され、それらはスラブ人、ゲルマン人の原始共産制の遺制と考えられた。またインドの村落共同体も当時の素朴な進化論的歴史観によって、ヨーロッパ諸国民が歴史発展の出発点にもっていた社会と同一視された。こうして人類史は、孤立人ではなく土地共有の共産主義的共同体をもって始まると考えられるようになった。当初この共同体は家父長制的家族の拡大した種族団体で、したがって平等といっても家長たちの間のことで、婦人の隷属と奴隷制が付随するものとされていたが、ルイス・モーガン『古代社会』(1877)によって、種族は家族より早く現れ、しかも血統はむしろ母系を本源的なものとすると主張され、かくて原始制は婦人の隷属も奴隷制も知らないまったく自由で平等な社会とされた。それは生産手段の共有、生産物の平等な分配、能力に応じて働き必要に応じて受け取る原則をもち、だれも他人に隷属していない点で共産主義的であるが、マルクス主義が未来に展望する共産主義が大工業の発展によるあり余る生産力を前提するのに対し、ここでは搾取の可能性さえない生産力の低さを基礎とし、また未来では自由な諸個人がその力を自覚的に結合する連合であるのに対し、ここでは個人格は未成立で共同体へ埋没している点で原始的である。この理論の実証上の基礎となった事実認識の多くは今日では疑われている。しかし人類はなんらかの群・社会をもって歴史を始めたこと、絶対的貧困には搾取が成立しないことから、原始共産制の理論はなお有効である。
>プラトンの原始共産制的階級社会
プラトンの理想とした国家像は原始共産制的階級社会というべきものであった。原始的とはいえ、共産主義と階級社会とは相容れないもののように考えられがちであるが、プラトンはこれらを融合させて、究極の超国家主義的な社会のありかたを理想のものとして夢見たのであった。 プラトンの考えによれば、すべての人間が平等ということはありえなかった。人間には能力や資質において歴然とした差がある。だから国家社会は、人間のこの差を前提にして運営されなければならない。思慮に欠けた人間たちは、統治に与らせるべきではなく、国を守るべきものは、それに相応しい勇気を持たねばならない。 プラトンがこのような考えを抱くに至った背景には、貴族の生まれであるという彼自身の出自と、当時のアテナイに行われていた民主政治への反発があった。彼の師匠ソクラテスを死に追いやったのは、ほかならぬアテナイの民主政治であった。民主政治は衆愚政治をもたらす。その結果高貴なものは排除されて、俗悪なものがはびこる。こうプラトンは考えたのである。
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Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.45 ) |
- 日時: 2017/05/02 14:01
- 名前: Buffie ID:s7H2ybNk
- 参照: http://ibvfwakxjo.com
- Your post captures the issue petclfrey!
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Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.46 ) |
- 日時: 2017/10/29 15:34
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vgkTi/JE
- 今回の衆院選で共産党は大敗した。
あれほど安倍自民党を非難しながら共産党への信頼はこの様なもの。
日本共産党の幹部は、どうしてこの様になったかを反省しなければならない。 共産党は究極のところで信頼されていないのである。
それは何かと言うとマルクス主義の思想である。 知識人が、如何に論理的にマルクスを擁護しようが、一般庶民のマスクス主義への観念を変えることは出来ないのである。 マスクス主義を掲げた旧共産主義諸国がやったこと。
大量粛清 個人の人権の迫害 経済の低迷 一党独裁の恐怖
大量粛清は40年ほど前にも文化大革命と言う名目でやられていた。 日本共産党が幾ら自分たちは違うと美辞麗句を連ねても、それを信用することは出来ない。
どうしてマルクス主義などに拘るのか。 資本主義経済のシステムも大きな問題を抱えているが、マスクスの経済学(資本論)には瑕疵がないと、どうして証明できる。 証明するまでもなく全ての共産主義国の姿が逆の問題を証明しているであろう。
同じマルクス主義を掲げて日本共産党だけが、どうして理想社会を築けるというのだ。 その様なものを信じさせられると思っている現在の共産党幹部の頭の中を疑う。 はっきりと言えば日本共産党は宗教と同じ、組織の存続だけが目的なのである。 委員長、中央委員等の幹部が信者を操作しているだけの団体なのである。 それはマルクス主義と言う本尊を崇めたてる事によってのみ存在できているのである。
以前から私は何回も書いている。 そんな、役にも立たない、マルクス経済学などを捨て去り、別の経済学、おそらく現状の資本主義の理論を大幅に変える修正資本主義理論の様なものになるだろう。
マルクスを捨てれば、国民が納得する修正資本主義の姿を見せれば、強引に国民を従わせる必要もなく民主主義は保たれるであろう。 党運営においても独裁は必要なくなるであろう。
またマルクスは飽くまでも労働者の立場に立って経済を考えた。 日本共産党も、労働者に立場に立って政治をやることである。
安倍自民党を非難する人は、その事を望んでいる。 資本主義経済の進め方も、労働者を基準に幾らでも修正の方法は見つかるであろう。
今回の衆院選で大敗したことの意味が解っているか。 解らないのであれば、民主党政権の失敗の原因を見つめることが出来なかった民主党、民進党と同じである。
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Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.47 ) |
- 日時: 2018/06/24 04:27
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:qFCfPJ4c
- 当地は市会議員選挙中である。
選挙になると各党がざわめきたち実に勝手な言い分をがなり立てる。 いい加減にしろと言いたい。
まあ、その中でも洗練された手法を取っているのが共産党。 だが、私は共産党に票はいれない。
共産党と言えば、共産党に興味をもち期待する人は相当いる事も事実、そういう意味では私もその一人。 与党を含めて愚劣な政党ばかりいる現在、何故、共産党が伸びないのか。 それを探って見ましょう。
日本共産党は頑としてマルクス主義を捨てず、旧共産主義国家のシステムとの違いを現すために「科学的社会主義」などと言っている。
実際にどのような違いがあるかと言えば、共産党自身の考えかたは以下の様です。
未来社会について、これまでは、生産物の分配の仕方を基準にして、「能力に応じて働き、労働に応じて受けとる第一段階」=社会主義と、「能力に応じて働き、必要に応じて受けとる」という「高い段階」=共産主義という区分でとらえることが国際的な“定説”でした。
しかしこれは、科学的社会主義の学説をつくりあげたマルクスやエンゲルスの考え方ではなく、レーニンが『国家と革命』のなかで展開したもので、のちにスターリンらによって、ソ連社会を美化する道具だてとして最大限に利用されました。
マルクスやエンゲルスが、未来社会の中心的問題としたのは、分配問題ではなく、生産様式の変革=「生産手段の社会化」にありました。
日本共産党は、今回の綱領改定にあたり、「レーニンのマルクス解釈の誤りを是正することを含め、従来からの国際的な“定説”を根本的に再検討」(「綱領改定についての不破議長報告」)し、「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である」「社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」と、明確に記しました。
マルクスやエンゲルスは、用語上も「社会主義」と「共産主義」を同じ意味で、状況に応じて使っていました。日本共産党も今後は、「社会主義」「共産主義」の二つの用語を同じ意味で使うことにし、未来社会をきちんと表現するときには「社会主義・共産主義社会」と表現することにしています。
(引用終わり)
良く読めば各所に言葉の解釈だけの違いであることが解ります。 結局は日本共産党の党是は旧共産主義国と全く同じと言う事です。 しかしながらヨーロッパ諸国では、共産党を名乗っていてもマルクス主義と決別したり、その解釈を是正したりしています。
それでは日本共産党が描く社会を検証してみましょう。
>政府
「独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人を結集した統一戦線と日本共産党が、国民多数の支持と国会の過半数を得て政府をつくる」(民主連合政府)
(最終的には) 「社会主義を支持する国民多数の合意と国会の過半数をもとに、社会主義をめざす権力をつくる」
※ 表現は曖昧であるが、社会主義を目指す権力、しかもマルクス主義に基づくとなると共産党1党独裁を想定しています。
>日本国憲法
「現行憲法の全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす」
※「日本における社会主義への道は、多くの新しい諸問題を、日本国民の英知と創意によって解決しながら進む新たな挑戦と開拓の過程となる」として、具体的な制度は記載なし
>天皇制
「一個人・特定一家が国民統合の象徴となる現制度は民主主義及び人間の平等と両立し得ない」「天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。」 共産党は天皇制の廃止(民主共和制)をめざす立場だが、「その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべき」としている。
※ 上と同じで具体的には踏み込んでいないが、本心を隠している事は明白である。
>自衛隊・軍備・日米安保
「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる。」(段階的縮小論)
「日米安保条約を廃棄し、対等平等の日米友好条約を結ぶ」アメリカ軍とその軍事基地を撤退させる。(非同盟・中立)
※ 非武装、中立論であるが、実際にその様な国は何処にもない。 第一、旧共産主義国家の様に強権で国民を抑える必要が生じたら警察権では飽き足らず強力な軍事体制を敷くことは明白。 強権なくして1党独裁はならず、1党独裁の強権なくして現在の資本主義のシステムは放逐出来ない。 女子供を騙すような言い分であり嘘八百を億面なく現している。
>国際情勢・外交・議会制民主主義
「すべての国と友好関係を結び、核兵器廃絶、軍縮、民主的な国際経済秩序の確立などの平和外交を展開する。」
「議会制民主主義、反対党を含む複数政党制、政権交代制は当然堅持する」
(最終的には)
共産主義社会が「高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、…抑圧も戦争もない…共同社会への本格的な展望が開かれる」としている。
「民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。」「さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。「社会主義」の名のもとに、特定の政党に「指導」政党としての特権を与えたり、特定の世界観を「国定の哲学」と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけられる。」としている。具体的な制度は記載なし。
※ 結果だけを言っているのであり、そういう意味ではソ連、中国など旧共産主義諸国もそれに至る前に崩壊したと言っているのと同じこと。 要するに人間社会が天国の様に展開しない限り強権政治は必要であり続くと言う事を白状している様なもの。
そこまでして、どうして実現しなければならないマルクス主義とは!
マルクス主義は、一言で言えば、 資本を社会の共有財産に変えることによって、労働者が資本を増殖するためだけに生きるという賃労働の悲惨な性質を廃止し、階級のない協同社会をめざすとしている。
そのマルクスの経済論は長年の経済学研究は『資本論』として結実した。
マルクスはアダム・スミスやリカードの労働価値説を発展させて剰余価値説をうちたて、これによって資本家による労働者の搾取を解明した。マルクスによれば、労働力の価値(労働者自身と家族を維持するのに必要な生活必需品の価値)と労働力が生み出すことができる価値とはまったく別物である。資本家は労働力を価値どおりに買ったとしても、支払う賃金を超えて価値を生み出すように労働者を働かせることによって、超過分を無償で取得する。この超過分(剰余価値)が資本の利潤の源泉である。土地所有者が資本家に貸した土地に対して得る地代、銀行が資本家に貸し付けた資金に対して得る利子などは、この剰余価値から支払われる。
剰余価値説に基づく資本主義経済の運動法則の解明は、労働者階級の解放、階級の廃止という共産主義運動の目標に理論的根拠を与えることになった。
(引用終わり)
ここでも言葉が躍っているばかり。 資本を社会共有にするだの、階級のない社会を実現するなど・・・
それは結果としての理想の形態。 人間社会は、それが出来ないから苦労しているのだ、それが人間であるのだ。 労働価値や剰余価値の言葉を使うだけで解決できるものではないのだ。
労働価値も余剰価値も言葉では規定できる。 だが、人間の活動において、それらの関係を方程式として解くことは不可能なのであるが、高等数学、応用数学も用いず算数のレベルで、それをいとも容易に解いて見せたのが資本論。 人間の本能的要素も加えて解こうとすれば現代のスーパーコンピューターでも解けなかったであろう。 だから結局は、その部分(民主的)で崩壊しなければならなかったのだ。 資本論は最大の欠陥論文であるのだ。 大学生の卒論程度のものに過ぎない。 それも大著ではあり努力は認めるが内容は×!。
以上の様に、日本共産党は未だに、この様なマスクス主義に基づく国づくりを党是としているのだ。 多くの人々は、理論的に、ないしは本能的にマスクス主義の欺瞞を日本共産党の欺瞞を感じているのである。
おしいかな! 日本共産党!
何故、マスクス主義を卒業出来ない。
マルクス主義と決別しないかぎり、日本共産党を信頼する事は出来ない。
それは多くの人の思いでもあるのだ。
何故、それが解らない!
共産主義社会は資本主義の競争社会に疲れ果てた者、または弱者の願望!
マルクス主義=共産主義ではないのであるが、そういう錯覚に乗っ取って日本共産党は存在する。
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