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[1696] 日本共産党は庶民の味方か!(敵か)
日時: 2013/02/20 17:30:05
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:1361349005

ttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2013-02-20/2013022001_02_1.html

日本共産党の志位和夫委員長は19日、国会内で菅義偉(すがよしひで)官房長官と会談し、党が先に発表したアピール「賃上げと安定した雇用の拡大で、暮らしと経済を立て直そう」を手渡し、「政府として本腰を入れて賃上げ政策をとるべきだ」と提起しました。これは、アピールに基づく政界・経済界・労働界への働きかけの第1弾で、穀田恵二国対委員長、笠井亮衆院議員が同席しました。


志位氏は、賃上げと安定した雇用は労働者の当然の願いであるとともに、デフレ不況打開のために待ったなしの課題になっていると強調しました。

 そのうえで、デフレ不況打開のアプローチについては政府と日本共産党で立場の根本的違いがあるが、この間の国会論戦を通じて、▽賃上げの必要性▽その条件は内部留保のことを考えれば存在する―という2点では認識が一致していると指摘し、「政府として『賃上げターゲット(目標)』を持ち、本腰を入れて賃上げ促進策に取り組むべきです」と述べました。

 このなかで志位氏は、具体的に二つの取り組みを提起しました。

 一つは、政府として経済界にたいし賃上げの働きかけを本腰を入れておこなうことです。経済界が賃上げはおろか、定期昇給の拒否など「デフレ促進策」を公然と唱えている点にふれ、「政府が正面から企業の社会的責任として賃上げの要請をするべきです」と強調しました。

 二つ目は、政府としてワンパッケージ(一括)で「賃上げ促進政策」を実行することです。▽非正規社員の正社員化▽最低賃金の抜本的引き上げ▽中小企業と大企業との公正な取引のルール▽公務員給与削減や生活保護の切り下げなど「賃下げ促進策」をやめる―ことを主張しました。

 菅官房長官は経済界への賃上げの働きかけについて、先に安倍晋三首相が経済団体に要請したことにふれ、「引き続き働きかけていく」との考えを示しました。最低賃金については「もっと上げたかった」とのべつつ、中小企業に及ぼす影響を懸念しました。

 これに対し志位氏は、経済界にたいする政府の要請は「報酬の引き上げ」にとどまっていることに言及し、「『報酬』というと賞与や一時金です。これまでも財界は、一方でベースアップを拒否しながら、利益に応じて賞与・一時金の増減で対応し、結局、賃金は下がり続けてきました。賃金の引き上げを正面から要請することが必要です。賃金が下がり続けている国は世界でも日本だけであり、政治が正面から問題にし、要請するのは当たり前です」と強調しました。

 最低賃金については、米国が5年で8800億円、フランスが3年で2・2兆円を投じて、中小企業を支援しながら最低賃金を引き上げているのに対し、日本は年間50億円にすぎない点にふれて、「政府は真剣に取り組むべきです」と主張しました。

 菅氏は、志位氏の提起に、「ご趣旨は承りました。総理に伝えます」と応じました


(引用終わり)


とても、味方とは思えない!

理由は、ボチボチと・・・
メンテ

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Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.36 )
日時: 2013/08/01 02:00:25
名前: 天橋立の愚痴人間

ロムやん さんこんばんわ、

何時も真摯に見ていただいている貴方には正直なところを申し上げましょう。

まず、國井さんと一国民さんとが同一人物であるか、否かの問題ですが、私は管理人ではないので確認はしていません。
ただ、私に対する攻撃が同じようであったので、解りながら勝手に纏めた(張ったり)だけのことで、結果がどのように推移しても良いと思っていましたが、貴方に言われたので正直に言います。

国井氏や一国民氏などがこの掲示板にこられて始めてレスしたのは私と思います。
その後、特に諍いを生じていた訳ではなく、両人の意見はそれぞれに尊重して交流してきたつもりです。

それが何故か、最近は、かつて八百長と言われた人と同じような絡み方をされるようになりました。
一国民さんが私に対して仕切りと小山の大将を決め込むな、と誹謗していたでしょう。
国井氏は私の考えを上目目線ど批難していました(私は批難とは思っていませんが本人は批難しているつもりです)。
両人の言い分のうち、その様な事を言われても、通常は特には反応はしません。

しかしながら、最近になって、あらゆる場面で、それを強調されると言うことは、もう意見の食い違いの問題ではなく、私自身のありように不満を示しているものと解釈しました。
それも個人的には構わないのですが、そういうことを繰り返し、この掲示板を醜くされることは、捨てておく事は出来ません。
それで、ある時点(そんなに前ではないはずです)から、私も腰を据えて攻撃に出ていました。

ご両人とも(国井氏とは随分と長く)友好的にやってきたつもりですが、どうして急にこの様になったか解りません。

マーフィー氏についてですが、私は経済に強いマーフィー氏を買っていまして、教えを請うていたと思います。
マーフィー氏とあのような関係になったのは、確か、当時不埒な人物が、この掲示板を撹乱していて私が、そのものと対峙していたことに絡んでいると思います。
マーフィーが私が追求している相手と手を組むようなことをされ、私のトバッチリがマーフィー氏に向かってしまいました。

どのような人物が出てきて、この掲示板をどのように使おうが、それも自由といえば自由なのですが、元々、ヤフーや阿修羅で、その様な連中と渡り合う事に嫌気がさしていましたので、この掲示板くらいは、そうした連中を排斥する事に心を砕いていました。
幸いに管理人さんも、そのような風潮を嫌われていますので、投稿文の削除や投稿禁止処置で支援していただいた事があります。

グッキー氏の場合も、グッキー氏本人とは、特に意見があう事が多く、期待して付き合っていた人です。
この場合も、阿修羅掲示板の騒動(グッキー氏以外の人間)も巻き込んでの乱戦になってしまいました。

>ページ一枚違えば別世界
と書きましたように、当時の連中(阿修羅の)とは、殆んど仲直りしています。

大体において掲示板の騒動といえば、私が絡んでいるようです。
一つは、私が遠慮会釈なくものを言うからですし、掲示板のありようについて潔癖症気味であることもいえます。

この点は指摘されても仕方ありませんが、数ある掲示板の中で互いに罵り合っているのは2チャンネル、阿修羅、ヤフーくらいのものです。
老人党や、るいネットなどは掲示板の管理がしっかりとなされているので、こうしたことは殆んどないようです。

結局は、この掲示板では、ルール的には、私が管理しているようなかたちになっていますが、私自身の投稿も多く、管理だけではなく掲示板を私物化していると思われる人がいて、私に不快感を示していると思っています。

今回の騒動はいままでにはなかったタイプと思っています。
国井氏、一国民氏とも、このレスの私の述懐を理解願えたら、機嫌をなおされ、掲示板に参加していただくことを御願いします。

メンテ
Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.37 )
日時: 2013/08/01 04:22:28
名前: グッキー

共産党は末端は良く動いてくれる。
昔、トラブルの解決を友達から頼まれたが、自民党も社会党も共産党も
知っていたが、民商が良く動いて繰れるので頼んだ記憶がある。

中央は教条主義でぜんぜん駄目。
市場経済やってるのに、市場原理に逆らって賃上げだーなんて言ってるのでは
話に成らない。
市場原理で賃金が上がるような環境を創らなければいけないという
簡単なことが理解できない。
ーーーーーーーーーーーー

何かが立っている傍には必ず何かが立っている。
正しいことは一つでは無いというアフリカの諺です。

人はみんな自分が正しいと思っている。
まずこれを理解しなければ成らないと思います。

そして正しいことと正しいことがぶつかれば争いに成る。
怒っても怒鳴ってもこの溝は埋めようが無い。

論理性だけがこの溝を埋められるのだと思います。
メンテ
Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.38 )
日時: 2013/08/01 08:27:09
名前: 糾弾板の存在価値 遂犯無罪

山口連続殺人事件の背景は深く考えさせるものがある、都市の空気は自由にさせるというが、地方の集落などでは異端者というほどの無い者まで排除排斥される。

しかし都会に在っても定住する以上は近隣の問題を抱え込む場合が多い、いまこの問題を掘り起こして訴訟提起準備しているが、忘れていたこのフレーズを検索したところ、旧糾弾掲示板に残っていた。


権力の威を仮りた住民が地域社会に君臨し、そうした住民の恣意的な価値基準に拠って、”不審者”が特定=作出されてゆく。
そうしたとき地域コミュニティが警察・検察の思惑を超えて暴走して、極めて抑圧的な役割を果たす。

ttp://www.kyudan.com/cgi-bin/mb/mb.cgi?mode=res&namber=5822&page=80&RES=1-5&H=tp&no=0&P=R

このスレの「やたらに110番通報するな」で思い出したが、裁判監視委員会総裁の北詰は、検察からの書留に動転して110番通報した。
このサイコパスも成敗すべく来月4日にその判決がある。
ttp://www.suihanmuzai.com/130404.jpg.html
メンテ
Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.39 )
日時: 2013/08/01 10:50:33
名前: 天橋立の愚痴人間

遂犯無罪 さん

今回は、何時もと違い反応しやすい記事を出されました。

地域の閉鎖性についてです。

>権力の威を仮りた住民が地域社会に君臨し、そうした住民の恣意的な価値基準に拠って、”不審者”が特定=作出されてゆく。

地域に住むものとして、現代では、地域の閉鎖性が上記に基づくものばかりとは言えないと思います。
地域と言っても江戸時代のように庄屋など有力者を中心とした保守性が残っているものではありません。

しかしながら、其れに変わって、世帯同士が互いに干渉しすぎるところがあります。
地域には、都会に比べて自治会活動や青年会、婦人会など各種の任意の団体が活発に活動しています(それも昔よりは随分と停滞してますが)。
それぞれが親睦と言う言葉を良く使います。
確かに親睦と言う面もありますが、同時に他人の様相に御節介も始めます。
結局、それが高じて不和になったり、誰かが不満を持ち続け、住みにくい状況となることも多々あります。
都会のように互いに付き合わない方がよい面もありますが、総体としては、地域性はあった方がよいとも思っています。

このような環境で、都会から戻ってきた人が、何かのひけ目などを感じていたら。ますます孤立感を大きくしていったのでしょうね。

学校の虐めの問題でも、仲良しグループと言うものは、一面的に捉えていると全く違う弊害を引き起こすものです。
メンテ
Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.40 )
日時: 2013/08/01 13:03:33
名前: 日本共産党・・天橋立の愚痴人間

グッキー さん

小沢と民主党に期待していましたが、ここに至って、日本の政治改革は日本共産党のありようにかかっていると思います。

グッキーさんも指摘されているように、末端の党員、議員は話しの解る人間が多く、政治の話しもマルクス論を除けば情熱を持って話し合えます。

組織も全国にまたがって、しっかりとしていて小選挙区全てに候補者を立てられる実力があります。
問題は中枢部でして、もはややる気もないはずのマルクス主義に固執しています。
一党独裁の体質もあります。
党員に対して極端な中央集権を敷いています。

これらの問題さえ、クリアー出来れば、日本共産党は直ちに政権を担う事が可能な政党です。
現状の野党を長年かねていじくっている暇はありません。

日本共産党の改革こそが、日本の政治改革の早道ではないでしょうか。
メンテ
Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.41 )
日時: 2017/01/21 14:23
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:CD9xonSs

阿修羅掲示板で日本共産党に関するやり取りがあった。

(私のマルクス主義を誹謗する文章に対して)

 マルクス主義というのは、新薬を臨床検査なしにいきなり投与したようなもの。
 副作用が強すぎて、現代社会ではお蔵入りの新薬に過ぎなかった。

(次のような反論が続いた)

 旧ソ連、東欧での失敗はマルクス主義のせいではなく、マルクス主義を実践できなかったレーニン・スターリンの責任である。
レーニン・スターリンがやったのは本当のマルクス主義ではなかった。
 マルクスは、もともと共産主義国家と言う言葉など使ってなかった。
 挙句の果ては、生産手段の国有化にも触れてなかったという。
 そうしてマルクス共産主義を肯定する。


(未来のTOW氏のコメント)

共産党という名前であるにも関わらず、マルクスやエンゲルス、レーニンの考え方を否定する支持者が多いのは恐れ入った。
もはや、マルクス・レーニン主義(日本では科学的社会主義と呼ばれる)について、否定的な考えが主流なのだろうか。
しかし、社会主義や共産主義といった概念を作り出したのは、マルクス、エンゲルス、レーニンであることは間違いないのだから、
共産党と名乗る以上、その人たちを無視することはできないだろう。
そもそも、日本共産党自体が、コミンテルン日本支部を目指して発足し、そのあと正式に認められたのだから。

日本共産党の歴史を見れば、時代が新しくなるごとに、より穏健的な(日和見主義的な)活動となっているのは否定できないだろう。
武装闘争路線の放棄(レーニン式革命論の放棄)、中ソ批判(プロレタリア国際主義の否定)、
プロレタリアート独裁条項の削除(一党独裁制の否定)、天皇制の容認(封建制度の放置)などなど、かつての主張を次々に転換してきている。

正直これは、社会主義でも共産主義でもない。
そもそも、憲法29条には私有財産権の保障が書かれている。なぜ、「護憲」の立場を崩さないのかイマイチ不明だ。生産手段の公有を害するものだろう。

日本共産党も、世論の動向をみてより現実的に(新左翼に言わせれば、右翼的)になってきている。
だが、それにも限度があるだろう。共産党である以上、越えられない一線というものはないのか。
もはや、日本「共産党」と名乗ることは、不可能だ。共産主義でもないし社会主義でもない。見た目ばかり整えようとして、中身が失われてはいないか?

引用終わり。

日本共産党の現在は、まさにこの議論の延長にあり、マルクス主義を一方では棚上げしているように見せかけて、一方では至上主義経済も否定する。
根拠は、旧共産主義国の現状から、マルクス主義を絶対視できなくなっている、
それでも共産党という名前は捨てられない。
ジレンマの中に立っているというよりも、どちらへも動けない政党なのである。

要するに口先だけに終わらざるを得ない政党なのです。
このスレッドの標題に庶民と言う言葉を書いていますが、マルクス主義では庶民以外の存在は認めないので、本当は庶民の味方は!という設定すらできないのです。

ともかく、ややこしい政党で、究極のところ信用できないのです。
日本共産党が、その出処進退を明確にしない限りは。
メンテ
資本論の世界 ( No.42 )
日時: 2017/01/22 14:50
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:QfP4oAKg

概念ばかり言っていても始まらないので、資本論の原文の極一部を紹介します。
マルクスが言う労働価値、剰余価値の概念を説明する内容であり、下記のような文章が連綿と続く。

商品の要素は二つ。使用価値と
価値(価値の実体と価値の大きさ)である。

 (1)資本主義的生産を行う社会では、その富は、商品の巨大な蓄積のようなものとして現われる。その最小単位は一商品ということになる。従って、我々の資本主義的生産様式の考察は、一商品の分析を以て始めねばならぬ。

 (2)一商品は、とにもかくにも我々の面前に存在して、その特質をもって、人間の様々な欲求を満足させて呉れる。 その欲求が、例え胃からであろうと、幻想からであろうとかまわない。
 ただこの商品要素の考察という段階においては、一商品が、直接的に生存のための欲求にであれ、間接的に生産に用いるための欲求にであれ、どのようにこれらの欲求を満足させるかについては、特に知る必要はない。  

 (3)鉄や紙などの有用物を、その質と数量という視点から見て行くことにしょう。 これらのものは、 様々な特質の集合体であり、様々な用途に使える。 これらの用途の発見は 歴史的な所産である。
 また、これらの有用物の数量を計る標準的な方法も、社会的に確立されてきたものである。様々な計量方法があり、計られる物の性状の違いによるものもあれば、習慣的に用いられてきた方法もある。

 (4)ある物の有用性が、その物の使用価値である。物の有用性は空中に浮かんでいるものではなく、あくまでもその商品の物質的な特質の内に限られ、その商品の外に存在してはいない。 つまりは、一商品、鉄とかトウモロコシとかダイヤモンドとかは、一現物であり、使用価値であり、有用物なのである。
 この一商品の使用価値という特質は、その有用さの質のために必要とされた労働の量からは独立している。 我々が使用価値を論じる場合は、常に、その数量の確認が大切である。1ダースの時計とか1ヤードのリネンとか1トンの鉄とかのように。  しかしながら、商品群の各使用価値の諸々については、それしか知識を要さない商品学に任せておけばいい。
 使用価値は、使用や消費においてのみ、実現する。また、富の実体となる。それがいかなる社会的な富であろうともである。現資本主義社会においては、その富がさらに加えて、交換価値の保管物であるということが、我々の資本主義的生産様式の考察への手がかりなのである。     

  (5)交換価値は、ちょっと見た限りでは、数量的な関係に見える。あるものの有用さと他のものの有用さの比例的な関係に見える。しかもその関係は時や場所によって常に変化する関係に見える。このため、交換価値は偶然的で全く相対的なものであるように見える。しかしながら、一方では、商品とは切り離せない固有の価値にも見える。この相対性と固有という関係には言葉の矛盾を感じるだろう。これらの内容をもう少し細かく考えて行くことにしょう。

  (6 )与えられた一商品、例えば、1クオーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々と交換される。これらの商品はそれぞれ全く違う特質を有しているにも関わらず、交換される。小麦という一つの交換価値は、従って、様々な交換価値を持つことになる。
 しかし、交換した結果から見れば、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々の交換価値は、1クオーターの小麦の交換価値ということになるので、さらに、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々それぞれの商品は、相互に交換価値があり、交換することができることになる。
 これらの事を踏まえれば、第一に、様々な量の商品達の交換価値は同一の何かを表しているということになる。第二に、交換価値とは、一般的に、商品に含まれ、識別できる何んらかのものの、一つの表現形式・現象形式だということになる。  
(中略)

第三章 貨幣、または 商品の流通
第一節
価値の尺度

(18 ) 価格は、商品に実現された労働の貨幣名である。だから、商品の等価を、その価格を構成する貨幣総数で表すことは、同語反復である。ちょうど、一般的に、一商品の相対的価値の表現が、二つの商品の等価と云うみたいなものである。しかし、商品の価値の大きさを示す価格が、貨幣との交換比率を説明しているとはいえ、交換比率の説明が、商品価値の大きさの説明に必要であるわけではない。二つのそれぞれ同量の社会的必要労働で表されるもの、1クオーターの小麦と2ポンド(約1/2オンスの金)を考えてみよう。2ポンドは、その小麦の価値の大きさを貨幣で表したものである。またはその価格である。今、状況が、この価格を3ポンドに上昇させることを許したとしよう、または、1ポンドに引き下げるよう強いられたとしよう、そうなれば、1ポンドと3ポンドとは、小麦の価値の大きさを表すには、小さ過ぎたり、大き過ぎたりするかも知れないが、それにも係わらず、それらがその価格である。まず第一に、それが、それによってその価値が現われる形式、すなわち貨幣だからである。第二に、貨幣によるその交換比率の説明だからである。もし、生産の条件、別の言葉で云えば、労働の生産力が一定に留まるとするならば、同量の社会的労働時間が、価格が変わる以前・以後とも、1クオーターの小麦の再生産に支出されねばならない。この状況は、小麦生産者の意志にも、他の商品の所有者の意志にも依存しない。

(19 ) 価値の大きさは、社会的生産関係を表す。ある品物とそれを作るために必要となる社会的総労働時間の割合との間に必要的に存在する諸関連を表す。価値の大きさが価格に変換されるやいなや、上記の必要な関係が、一商品と他の商品、すなわち貨幣商品である、との間の交換比率として、多少偶然的ではあるが、姿を現わす。しかし、この交換比率は、商品価値の実際の大きさと、それとは別に、状況にもよるが、その価値から逸脱した金の量をも表す。だから、価格と価値の大きさとの間にある量的な不適合の可能性、また前者と後者の乖離は、価格形式自身の起因的特質なのである。これは欠陥ではない、いやそれどころか、ある生産様式によく適合している価格形式なのである。その生産様式に起因する慣例が、互いを釣り合わせるが、明らかに、無法・違法な、ただ一つの手段としての役割を、それらに賦課している。

(以上)

資本論の内容は、こんなものですが、おそらく読まれる人は退屈この上ないでしょう。
問題は、こうした説明をいくらしても、人間の経済活動の全容などは把握できないことです。
把握できないことを切り捨ててなっているのが資本論。
そこのところの致命的な欠陥をマルクス主義者はみようとしません。

簡単なたとえで言えば

労働価値ないし余剰価値という概念で労働者に価値(富でも金でもよい)を配分するばあい、
単なる労働時間に比例して与えるのか
出来高に対して与えるのか。

人間は権利として平等を言えても能力は平等ではない。
そのようなものを、どのように基準化するのか。
仮に、一人一人の能力を調査し、Aクラス、Bクラス、Cクラスなどと順位を決めても、その人の能力自身も変化するもの。
要するに出来高算定より方法はないだろう。

出来高算定と言っても。生産手段による区別、労働環境の差異なども考慮して出来高を設定するのか。
またある商品の生産においてはできるとしても、知的職業の分野ではどうする。
理論的には言えても実践は不可能と言うか、意味のないことなのである。
もちろん資本主義のシステムでも能力給と言って、それは取り入れられてはいるが、現代の社会では、完全に能力給制度にはなってはいない。

これが問題であり、書かれていることを読んでいるだけではだめでしょう。
ところがマルクスの経済論を実際に施行するためには、人間活動の原資たる労働価値の基準を国家が人為的に決めねばならず、そのために強力な中央権力が必要です。

要するに、市場主義経済の世界で社会の関係、人間関係でそれぞれ決められる人間活動の価値基準を国家が統一して決めるということですが、そのこと自体があらゆる領域を換算して正しいか、可能かという問題があるのです。
好ましいと判断して、強権をもって実践しえも、それが公正となるのは、人間性の面から不可能なことです。
その不可能性を無視して成り立っているのが資本論の世界なのです。

また、経済活動、社会活動において完全に能力主義になればよいのか、
国家が決めた自分の能力で全人生を左右されることになる。そうして人間自身が逃げ場を失う。

それに対して現状では
あいつは運がよいので出世できたとか、
コネを使って出世したとか、
偶然による満足が得られ、反対に言えば、自分が困窮しているのか、学歴のせいとか運がなかったとして、自らを納得させることができる。

これが完全に個人の能力の評価で決まるならば、強者は良いとしても弱者はたまらなく閉塞感に陥る以外にない。
そういう絶望感を国家により押し付けられるくらいなら、たとえ不合理ではあっても自由競争の結果とされる方が、精神的に救われる。

一見、不合理ではあるが、能力以外の要素も勘案して年功序列による報酬をしている面もある。
マルクスは、こうした人間の心理的な要素を無視しているのである。
一部ではあっても、人間社会からこの偶然性を取り上げれば大変な閉塞社会ができるであろう。

国家により判定された自分の能力によりすべてが決まる。
このようなマルクス主義社会こそ、人間の差別社会であるのだ。
マルクス主義によると公平、平等な社会が作れると勘違いしている人が多すぎる。
少々の金銭的格差の問題よりも、深刻な問題であろう。

要するに、人間の生活のうち経済の分野のために国家(人生のすべて)を想定しなければならなくなるのです。
繰り返すが 人生=経済のシステム=国家の体制となるのです。

ここにマルクス主義の思い上がり、人間社会に対する逸脱がある。
そのようなマルクス主義、共産主義が言う庶民の権利とは、もともと我々が思う庶民を名指したものではないのである。

現代社会も経済が政治を牛耳るようになっていて、これが大きな問題ですが、マルクス主義は、どっぷりと国家=経済となるのです。

唯物史観というものは、論理的には有効でも、それを実施に移す場合、上意下達の独裁国家の様相を帯びることになります。
かつての共産主義国家の有り様を見れば明らかでしょう。
メンテ
Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.43 )
日時: 2017/01/22 19:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:h9jkXYc6

標題に「共産党は庶民の味方か」と謳ったが、

そもそも共産党にとって庶民とはどのように定義づけされるのであろう。

マスクス主義は労働者(庶民)と資本家という設定で労働者のために資本家を駆逐し、資本家の役割を国家、公共としたのではないか。

であれば

労働者VS資本家の構図は
労働者VS国家ということになろう。

以前は国家(統治者)資本家、労働者の関係が
労働者、国家(統治者)に集約されたということであり。

もはや、この世は統治者と庶民となる。
あれ
封建時代の権力者VS庶民(奴隷)ではないか。
書き換えれば共産党VS庶民
封建時代の権力者と共産党は違うと言いたいのであろうが、

その共産党が、永久に善政を敷いて庶民を守れるかということになる。
まるで、すべては共産党のたなごころにある状況を、信頼できるのか。

それで共産党が何をしてくれる。
庶民派生かさず、殺さずにして共産党員だけが栄華をむさぼる国作りをしても、庶民は命を掛けて革命を起こす以外に手がなくなる。

市民革命をして市民権を確立し民主政治を造ったのは何のため。
全く歴史の逆転なのであるが、

要するに民主主義の社会で言うような、敵か味方かという論理にはならないのである。

それなのに「共産党は庶民の味方」などと言う概念ばかりが先行する。


メンテ
「共産主義とは」・・・共産主義と共産党 ( No.44 )
日時: 2017/01/24 15:13
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YQHJRCOI

「共産主義とは」・・・共産主義と共産党

共産主義思想とは、

資本の私的所有を廃し社会的共有とする事で、万人に平等な協同社会(共産的社会)が実現すると考える思想である。ここで言う私的所有とは、資本家に権力を与え労働者を隷属せさしめる、機械などの生産手段(資本)の私的所有の事を指すのであって、共産主義は個人の労働の産物であるところの私的所有を禁止するものではない。

共産主義という言葉は,共有財産を意味するラテン語のcommuneに由来している。共産主義とは,私有財産を否定して財産の共有の状態と,共有財産にもとづく社会・政治体制を実現しようとする思想と運動である。

>思想の系譜

共産主義の思想は,人類の歴史と同じように古い。私有財産,貧富の差,支配者と被支配者の対立が発生するとともに,古代ではプラトンの国家論とキリスト教の教義に,中世では修道院の生活と農民一揆の運動の中に,共産主義は多様な形式のもとで出現した。

マルクス、エンゲルスの共産主義目次を見る
当時はさまざまな共産主義、社会主義の思想があったが、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』(1848)は、封建的社会主義、小ブルジョア社会主義、「真正」社会主義、保守的社会主義またはブルジョア社会主義、批判的・ユートピア的社会主義または共産主義を批判している。資本主義を観念的に否定する初期の共産主義、社会主義と違い、マルクスとエンゲルスは、資本主義の発展法則を解明し、生産力の発展と生産関係の矛盾の結果として、資本主義から共産主義への移行を予測するとともに、共産主義は労働者階級の革命により実現されるという理論を創造し、これにより共産主義の思想を国際的な共産主義運動と結び付けた。

マルクスとエンゲルスは社会体制としての共産主義を二つの段階に分けた。共産主義の第一段階(現在の用語では社会主義)では、生産手段は国家の手に集中され、したがってその私的所有は廃止されるが、個人への所得の分配は各人の労働に応じて行われ、そのため人々の所得の差は残る。資本主義から共産主義の第一段階への移行期は、労働者階級の政治的支配を意味するプロレタリアート独裁を必要とする。第二段階は、もっと高度な、完全な共産主義である。それは、生産力と人々の道徳が高度に発展し、個人が完全に解放される社会であり、国家にかわる自主管理の組織が社会を管理し、個人への生産物の分配は、各人の必要に応じて行われ、したがって生活における平等が実現する。

※ 個人への所得の分配は各人の労働に応じて行われ(注記)

労働価値説、剰余価値説によって具体的な配分方法を現す事により共産主義社会を実践しようと試み(資本論の内容)、それを科学的共産主義と言った。
しかし、その手法自体が矛盾であり、経済のシステムとして機能しなかった。
要するに、人間性を共産主義の経済のシステムの中に閉じ込めようとしたのが間違いであった。

※ 資本主義から共産主義の第一段階への移行期は、労働者階級の政治的支配を意味するプロレタリアート独裁を必要とする(注記)。

独裁と言う言葉の意味を検証しなくてはならない。
資本家、ブルジョアジーと言われる権力者を排する意味で、プロレタリア―トが権力を持たねばならないと言う意味もあるであろうが、同時にプロレタリアート政権の判断に絶対的に従わねばならないと言う独裁の意味もある。

※ 国家にかわる自主管理の組織が社会を管理し(注記)

これは言葉の上の表現にしかすぎず、国民の自主管理とは一体どのような事を想定しているのか。
すなわち、それが国家(民主)であり、その民主国家自体が複雑な矛盾を含むもの。
飽くまでも理想論にすぎないのである。

>共産党

共産主義社会を実現することを目標とする政党。マルクス・エンゲルス・レーニンらの学説を理論的基礎とする。

>日本共産党
マルクス‐レーニン主義を指導理論とする日本の共産主義政党。大正11年(1922)コミンテルン日本支部として結成。非合法組織として激しい弾圧の下に地下運動を続けたが、昭和20年(1945)合法政党として再建された。


(参考資料)
>原始共産制

主として理論的に人類の原始時代に想定されている共産主義。政治的抑圧と経済的不平等のない、したがって国家と私有財産のない理想郷は、啓蒙(けいもう)思想によって、自由で孤立した原始人の世界として描かれた(ルソー『人間不平等起源論』1753)。19世紀なかばを過ぎると、ロシアやドイツの土地を共有する村落共同体が研究され、それらはスラブ人、ゲルマン人の原始共産制の遺制と考えられた。またインドの村落共同体も当時の素朴な進化論的歴史観によって、ヨーロッパ諸国民が歴史発展の出発点にもっていた社会と同一視された。こうして人類史は、孤立人ではなく土地共有の共産主義的共同体をもって始まると考えられるようになった。当初この共同体は家父長制的家族の拡大した種族団体で、したがって平等といっても家長たちの間のことで、婦人の隷属と奴隷制が付随するものとされていたが、ルイス・モーガン『古代社会』(1877)によって、種族は家族より早く現れ、しかも血統はむしろ母系を本源的なものとすると主張され、かくて原始制は婦人の隷属も奴隷制も知らないまったく自由で平等な社会とされた。それは生産手段の共有、生産物の平等な分配、能力に応じて働き必要に応じて受け取る原則をもち、だれも他人に隷属していない点で共産主義的であるが、マルクス主義が未来に展望する共産主義が大工業の発展によるあり余る生産力を前提するのに対し、ここでは搾取の可能性さえない生産力の低さを基礎とし、また未来では自由な諸個人がその力を自覚的に結合する連合であるのに対し、ここでは個人格は未成立で共同体へ埋没している点で原始的である。この理論の実証上の基礎となった事実認識の多くは今日では疑われている。しかし人類はなんらかの群・社会をもって歴史を始めたこと、絶対的貧困には搾取が成立しないことから、原始共産制の理論はなお有効である。


>プラトンの原始共産制的階級社会

プラトンの理想とした国家像は原始共産制的階級社会というべきものであった。原始的とはいえ、共産主義と階級社会とは相容れないもののように考えられがちであるが、プラトンはこれらを融合させて、究極の超国家主義的な社会のありかたを理想のものとして夢見たのであった。 プラトンの考えによれば、すべての人間が平等ということはありえなかった。人間には能力や資質において歴然とした差がある。だから国家社会は、人間のこの差を前提にして運営されなければならない。思慮に欠けた人間たちは、統治に与らせるべきではなく、国を守るべきものは、それに相応しい勇気を持たねばならない。 プラトンがこのような考えを抱くに至った背景には、貴族の生まれであるという彼自身の出自と、当時のアテナイに行われていた民主政治への反発があった。彼の師匠ソクラテスを死に追いやったのは、ほかならぬアテナイの民主政治であった。民主政治は衆愚政治をもたらす。その結果高貴なものは排除されて、俗悪なものがはびこる。こうプラトンは考えたのである。


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Re: 日本共産党は庶民の味方か!(敵か) ( No.45 )
日時: 2017/05/02 14:01
名前: Buffie ID:s7H2ybNk メールを送信する
参照: http://ibvfwakxjo.com

Your post captures the issue petclfrey!
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