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[1711] 経済の話し
日時: 2013/03/12 23:22:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:1363098145

最近、阿修羅掲示板に良く投稿される「あっしら」のサイトへ行ってみました。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/index-as.htm

HNは「あっしら」と名乗られているが経歴は解りませんが、資本主義経済のシステムが持っている色々な矛盾を説く解す能力豊かな、経済に強い確かな方と見受けしました。
その一部を転載します。



「供給=需要」の向こう側 <想像力から創造力へ> S子
         
「利潤なき経済社会」を興味深く、また、意義深く読ませていただ
いております。資本主義経済において、結局、私たちが見誤ったも
のは、マネーにおける「目的」と「手段」をはき違えたことにある
のは間違いないだろう。経済活動における潤滑油とはマネーであり
、そのマネーが滞ることなく流通し、循環してこそ経済の活性化を
見ることができ、個々人としての生きる活動も活発化してくる。

それはまるで私たちのからだを流れる血液のようなもので、血液が
さらさらの状態であれば私たちは健康で日々を無事に過ごすことが
できる。が、血液がどろどろ状態になり、この流れが悪くなり脳で
詰まれば脳梗塞が起き、その部分の脳組織が壊死してしまい、私た
ちは失語症になったり、半身不随になったりする。

資本主義も当初はマネーがモノを交換するための「手段」として流
通していたが、資本主義が成熟してゆくにつれて、いつの間にか「目
的」と化した。マネーの目的化はつまるところ全てを目的化させてし
まい、私たちにあらゆるものの「本質」を見る目を喪失させた。
これは事実である。

そして、それが「供給=需要」という経済活動を必然的に生じさせ
、モノに溢れた社会が誕生した。「供給=需要」という経済活動は
よくよく考えてみれば、「与えられた人生」を送ることになり、
そこには自主性や主体性はなくても私たちは「与えられたモノ」を
購入し、そこそこ無難な人生を送ることができる。

私たちが無難だと錯覚し、安心してしまうのは、周囲が皆「与えら
れたモノ」である「同じモノ」を持っているからである。つまり私
たちは「与えられた、同じモノ」を持つことによって人生の安定や
幸福の尺度をはかっていた可能性がある。「供給=需要」という経
済活動では、人間の欲求すらも本質から遠ざけてしまうということ
である。

本当に自分が欲しいモノだったのか、他人が持っているから欲しい
のか、テレビコマーシャルで見たから欲しくなったのか、売り込み
にきたから購入したのか、ないと困るほどではないがあって困るほ
どでもないので購入したのか等、心から欲しているものではなく、
供給されたから需要したという構図が自然と生まれる。それを自分
の欲求があったから買ったと、私たちは錯覚しているにすぎない。

こうして私たちは「与えられた人生」を無難に安定して生きること
で、「危機感」を抱くことなく日々を過ごし、人生を終える。人間の
三大欲求であり生きる基本の「食・性・寝」も既にこの「供給=需
要」という経済活動に組み込まれ、マネーの目的化とともに人間と
しての本能を私たちは喪失しかけている。現代人はこの自覚すらも
ないという悲しい状況におかれているのである。

しかし、マネーの目的化による「供給=需要」という経済活動では
経済成長が持続できないどころか、経済の空洞化を生み失業者を増
加させ、個人としての生きる活動が阻害されてしまう。そのことに
気づいたのが、今回の欧州連合憲法批准拒否の仏国民である。拡大
EUの存続に待ったをかけた格好となったが、「危機感」を抱いた彼
らの人間的本能はまだ廃れていないどころか、十分に健在である。


(中略)

ひるがえって日本を見れば、「供給=需要」人生が非常に行き届い
ており、大人も子供も主体性をなくし、自信喪失し、想像力にも欠
け生きる気力も無い状態に置かれている。だから米国の言いなりに
しか生きることができないのである。「供給=需要」という「与え
られた人生」を送ることは確かに楽ではある。が、そこには「自分
」というものがない。この人生を生きる「自分」がないのである。

だから真の喜びや真の悲しみを味わうことはまずないだろうし、
そこそこ無難で安定した人生を送ることで「危機感」を覚えること
もまずないだろう。実はそれこそが問題なのである。「危機感」を抱
くこともなければ、正直な話がまともに「自分」とは向き合えない。
「自分」という人間のこともわからずして終える自分の人生って一
体何??ということになる。

マネーが目的化されることで「供給=需要」という経済活動が必然
的に生じ、「与えられた人生」を送ることで私たちは主体性を失い
、自信を失い、生きる源泉ともいえる想像力までも失った。また、
そういう場所さえも失った。想像力を失えばこの世で実現する創造
物さえもなくなるのである。つまり来るべき未来が描けない。

「利潤なき経済社会」ではマネーを手段に転落させることで、資本主
義の論理が大きく揺らぐだけではなく、世界の構造が大きく転換し
てしまう。これまで築き上げてきたもろもろが崩壊に直面している
と言っても過言ではない。それは日本が明治維新以降追求してきた
西洋文明であるかもしれないし、合理化の名のもとに推進されてき
た科学万能主義であるかもしれないし、それを基点とした物質文明
であるかもしれない。

「供給=需要」人生で「危機感」を抱くこともなくなった私たちが
、価値観の転換をはかることは容易にできそうもないのは明白だ。
しかし、マネーの目的化による「供給=需要」経済活動では世界は
やがて行き詰まる。価値観の転換は時間も要するだろうが、案外石
油の枯渇がその契機になりはしないかと、私は密かに思っている。
その「危機感」が「自分」と真剣に向きあうことになり、それが男
女双方への理解へと向かわせる。そこから男女双方の想像力が生ま
れ、それが創造力へとつながり実現化し、新しい未来が描けるとい
うものである。

(引用終わり)
メンテ

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通貨の話し 1 ( No.101 )
日時: 2013/11/22 17:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:TZHRkkZI

通貨(つうか)とは、流通貨幣の略称で、国家などによって価値を保証された、決済のための価値交換媒体。政府は租税の算定にあたって通貨を利用する。現金通貨は、一般に「お金(おかね)・金(かね)」と呼ばれる(但し、「お金持ち」などのように資産全体を指す用法も存在する)。しばしば「貨幣」と同義で用いられる。

狭義には中央銀行などが発行する現金通貨のみを意味する。広義では、現金通貨に加えて、銀行などに預けられている普通預金・当座預金(手形・小切手)などの流動性の高い預金通貨、流動性がやや落ちる定期預金や外貨預金などの準通貨をも含む概念である。
「貨幣の歴史」に示されるように、経済の仲介物としては、それを欲しがる他者が多数存在すれば通貨となりえ、おとぎ話「わらしべ長者」では、様々なモノが交換の仲介物とされる様子が描かれている。また、日本での貨幣の歴史に示されるように、江戸幕府が通貨を統一し始めたものの、実際の生活では身分制度とあわせて年貢としての米による租税制度が維持されてきた。近代・現代では通貨偽造の罪や利息制限法を設けて、政府が通貨の信用を維持している。

(信用創造)

信用創造とは、銀行が預金と貸し出しを連鎖的に繰り返すことで、お金(預金通貨)が増えていくしくみをいいます。 ≪信用創造のしくみ≫ 銀行は、預金という形で大勢の預金者からお金を預かり、預金者がいつでも預金を払い戻せるように、現金を用意しています。預金者の中には、預金をすぐに払い戻す人もいれば、長期間預けておく人もいます。預金者全員がすぐに預金を払い戻すことはまずないので、銀行は預金の全額を現金で用意しておく必要はありません。預金の一部を支払準備として現金で手元に置いておき、残りの預金を企業への貸付...
実際に資本主義経済と言うものは、この、銀行の信用創造に拠って展開してきた。
そうして、信用貨幣(しんようかへい)とは、信用の存在を前提として流通する名目貨幣の一種。銀行券・預金通貨などを指す。

信用創造と景気循環

資設備投資による借り入れなどが増加する景気のよい時期には、自然と貨幣が増加する。一方、設備投資が一巡し、新たな借入よりも返済が多くなれば、景気は落ち着き、貨幣は減少する。
このように信用創造は、貨幣需要(資金需要)にあわせて変動し、景気(名目GDP)と正の相関をもつことが想定される。マネーサプライ(現金+預金)と名目GDP(物価×実質GDP)の比をあらわすものには貨幣の所得速度がある。

尚、このようなプロセスで発生した信用貨幣の価値は、期限に借り手が遅滞なく返済や利子支払いをおこなうことを前提としており、恒常的な業績不振などにより借り手側の信用が急速に失われたり、経理上の不具合で十分な担保価値や引当金が計上されていないことなどが判明すれば信用不安が生じる。これが金融機関の健全性や預金の支払能力に対する不安にまで波及したとき、大規模な金融危機が発生する。新たな借入よりも返済が多くなったり、信用創造が収縮すると経済全体の取引が低調となる(いわゆる不況)。

金融機関は、決済手段(貨幣)の貸し付けの見返りとして貸出金利、決済手数料などを徴収するわけであるが、借り手はその費用を支払って余りある清算利得が期待できるため決済手段の貸し出しを要請する。信用経済は借り手の与信担保力をもとに成立しており、通常は商品取引などが円滑にすすみ決済がすべて終了し、貸付金が金融機関に返済されることで完結する。信用創造は貸付金の返済を前提として成立している。

さて、決済に使用されている貨幣は、受取人(賃金労働者等)が貯蓄などの目的で金融機関に持ち込み預金証書に変換することがあるが、その過程で金融機関の提供した信用貨幣は借り手の返済を待たずに金融機関に還流する。この預かり金はそもそも預金主(ここでは賃金労働者等)のものであって、金融機関はその保管業務を受託しているだけであるため、本来は預金証書の額面分の貨幣は全額を当該金融機関が金庫などで保管するべきであって、これを勝手に流用することは不法行為にあたる。しかし長い商慣行や立法により、預金利息の給付と厳格な元本保証を担保に金融機関での流用は法的に許認可されている(貯蓄銀行業務)。そこで金融機関は、預金者を貸し手として借り手との金融仲介機能をおこない、さらなる信用の創造をおこなう。

信用創造と準備預金制度

銀行などの金融機関は準備預金制度によって、顧客から預かっている預金額の一定割合(準備率)を日本銀行の当座預金に積み立てることを義務付けられている。
日本銀行など中央銀行が、市中の銀行に資金を供給すると信用創造によってマネーサプライが増加するが、どこまで増加しうるかの上限は準備率に依存している。以下では準備率が10%であった場合を例に説明する。
• 中央銀行がA銀行に100万円の資金を供給する。
• A銀行はこの資金をX社に融資し、X社がB銀行に保有している預金口座に振り込む。
• B銀行が預かる預金が100万円となり、B銀行はこの10%にあたる10万円を日銀の当座預金に預け入れる。
• B銀行は残りの90万円をY社に融資し、Y社がC銀行に保有している預金口座に振り込む。
• C銀行が預かる預金が90万円となり、C銀行はこの10%にあたる9万円を日銀の当座預金に預け入れる。
• C銀行は残りの81万円をZ社に融資し、Z社がD銀行に保有している預金口座に振り込む。
• D銀行が預かる預金が81万円となり、D銀行はこの10%にあたる8.1万円を日銀の当座預金に預け入れる。
• D銀行は……
という連鎖が起こり、結局A銀行、B銀行、C銀行、D銀行、……という銀行が預かっている預金額の合計は、中央銀行が供給した資金100万円の1/0.1=10倍となる。 準備率を1%にすれば、銀行部門全体が預かっている預金額の合計と中央銀行が供給した資金の倍率は100倍になる。

日本銀行など中央銀行が準備率を変更して市中にある資金量の調節を試みることは、準備率操作と呼ばれる。
別の説明[編集]
たとえば100万円の現金が預金されたものとする。準備率が10%であれば、この100万円の現金を日銀当座預金に回した上、借り手の口座に預金900万円を創設することにより、900万円を融資することができる。この結果、預金額は1000万円となる。尚、バランスシートの上では、負債の側では預金された現金100万円+創設された預金900万円、資産の側では日銀当座預金100万円+融資残高900万円となる。

管理通貨制度へ続く
メンテ
通貨の話し 2 ( No.102 )
日時: 2013/11/22 18:04
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:TZHRkkZI

管理通貨制度

管理通貨制度(かんりつうかせいど)とは、通貨の発行量を通貨当局が調節することで、物価の安定、経済成長、雇用の改善、国際収支の安定などを図る制度。本位制度に対していう。

金を貨幣価値の裏付けとする金本位制においては、銀行券発行量は正貨準備高に拘束されるのに対し、管理通貨制度では行政府の通貨政策次第であり、貨幣の価値は政府または中央銀行の政策によって裏付けされるためその価値は不安定となりやすい。よって通貨当局は金融政策により貨幣価値の安定化を図ることを重視する。銀行学派の考え方によれば、中央銀行はプライマリバンク(中央銀行と直接取引の口座を開設している市中銀行)の担保の差出の対等物として通貨を発行するのが原則であり[1]、この場合通貨の価値は市中の信用力に依存している。一方で議会や行政府が国債を発行して中央銀行に引き受けさせている場合、その通貨の価値は行政府の信用

(徴税権や国庫財産など)を担保としている。よくある誤解は「紙幣は政府が刷っており、紙幣の価値は政府次第である」との解釈であるが正確ではない。歴史上で紙幣が初めて登場した元や宋の時代から、紙幣は年貢や塩など現物資産の対等物、あるいは銅銭の預かり証など実際の資産物の手形として使用されてきたものであり、管理通貨制度においても通貨は市中あるいは政府の信用の対等物として取り扱われるのが原則である[要出典]。この原則に政策上の事情あるいは恣意性が加わるとインフレやデフレの原因となる。

管理通貨制度では、発行量が本位の備蓄量に拘束されることがないので、景気や物価調整のために柔軟な通貨量調整をすることができるメリットがある。一方で通貨当局と行政府の関係(独立性と協調性)がつねに問われ、通貨当局が行政府の影響下にある場合、景気対策のための恒常的な金融緩和がインフレを招く場合がある。また独立性が極端に保護されている場合、通貨当局の失策が国家に破滅的な混乱をもたらす場合がある


尚、管理通貨制度を統括する日銀の通貨の流れに対する指標として、日銀の貸借対照表がある(平成23年度)

(資産の部)に
金地金       0.4兆円
現金        0.3兆円
国債        87兆円
貸し出し金     
などがある
         合計 139兆円
(負債の部)には
日銀券          約81兆円
預金(これが市中銀行から入ってくる当座預金) 約 36兆円
政府預かり金
などがある。
            合計 136兆円

これで言うと市中に出回っている日銀券は81兆円分。
だが実際に動いている金は、準備率を10%にすると、36兆円×100前後=3600兆円前後が活動している事になる。
所謂、信用創造による通貨の範囲を3600兆円の何処までとするか、これも詳しく検証する必要があります。まあ概ね信用創造の結果と言えるのではないでしょうか。

日銀券が負債と言うのは、民間企業である日銀の会計上の分類にすきなく、負債と言う一般的な概念と同じように受け取るものではないと思います。

グッキーさんが、盛んに説明されているのは、概ね以上の内容の事であり、
種を明かせば、金融制度(管理通貨制度)の常識のことです。
その当たり前のことを言う為に、なぜ、相手を無知、無能と否定しなければならない。
当たり前の事が判っていないからと言うことでしょうが、そりゃ、貴方の勝手な思い込み、否、押し付け。
当たり前のことを確認しあって、何が議論だ。
その当り前のことも、貴方は十分に咀嚼された意見でもない。

信用通貨を不公正なものと言い、偽金などと言う言葉で信用通貨を否定されている。
その結果は、3000兆円を超える日銀券を市中にばら撒かねばならない。
大きな取引になると、もうトラックで現金を運びあう凄い光景を見る事になる。
満天下さんが、言われていることは、このことだ。

また信用創造を公平、不公平に分けるのは、そりゃ大変な作業であり、して見ても意味がありません。
また、法定準備金の率を左右して金融市場をコントロールすると言っても、思うほど効果を上げられないことも事実ですし、通貨発行の責任を国民としても、国民の債務としても、そういう理論はありますが、飽くまでも理論上のことであり、実質の金融行政には全くと言ってよいほど、関係はありません。
そういう不毛の論理の展開は、意味がないとは思うのですが。
マネーサプライとか、ベースマネー、回転率の概念は、これはこれで複雑な定義があり、此処では割愛します(忘れてしまいましたが、最近、何処かのスレッドで書いたと思います)
メンテ
Re: 経済の話し ( No.103 )
日時: 2013/11/22 19:31
名前: 満天下有人 ID:QvYLG6tY

どうも有難うございます。私が言いたいことも、正にそのことで、分かり切ったことから一々説明されるので弱っておりました。今回だけのことではなく、いかなる対論においてもです。

そんな当たり前の事を一々前提にするから、話が噛み合わなくなってしまうのです。分かり切ったことの上に立って、ならば現実性としてどうなのかと、二階からスタートしているのに、一階の土間の事から始まり、ではその土間の傾き具合はどうかと尋ねると、自分で調べろですからね(笑)。

一階のことばかりに執着、しかもそれが分かっていないと決めつけては、思いこむ。本人が他人には思い込みが激しいと言いながら、本人が人を決めつけてしまっている(笑)。ああ疲れる(笑)。
メンテ
Re: 経済の話し ( No.104 )
日時: 2013/11/26 12:23
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:eeE.TRMM

UP
メンテ
Re: 経済の話し ( No.105 )
日時: 2013/11/27 19:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:gpydwSqE

UPします
メンテ
Re: 経済の話し ( No.106 )
日時: 2016/02/03 15:03
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:UK7Ssb.I

久しぶりにUPします。

アベノミクスの成否が重大事項のような論調が経済界の話題の中心ですが、そのこと自体が誤魔化しに過ぎない。
なぜならば、アベノミクスを批判する前に、これと言った対案など、誰もが示すことができません。

資本主義のシステム、特に金融システムが、人類全体を救ううものではなくなっているのです。
にも関わらず、相変わらず既成の金融理論が世界の平安の為に機能するかの様に論じています。

現代社会の特徴は、世界の一部に貧困はあっても、既に物質的には世界の需要を担える生産力を持っています。
あとは流通の問題だけなのです。

十分な物資を持ちながら、それができないのは金融システムが規制しているからです。
強欲すぎる巨大資本が、金融のシステムを使い収益を挙げることに必死です。
更には、貨幣と言うものを、物資の交換手段ではなく、貨幣の増殖の為に貨幣を使っている有様です。

何京円と言う通貨は、現実的には必要ではなく、通貨が物資との交換手段であると言う概念も、必ずしも頑なに守らなくてもやっていける現代社会であると思います。
金融システムで通貨の信用と言う言葉がよく出てきますが、余計な通貨など信用を無くして無くなれば良いのです。
それで新しい通貨のシステムを作らねば成りません。

具体的には、通貨の増刷で雇用を確保する政策ですが、
その通貨は、国民が国民の為に発行する通貨と考えれば良いでしょう。
それによってユダ菌が支配する現代の通貨のシステムをコントロールすることができるでしょう。

これが出来ない理由はありません。
通貨の既成概念を打破し、みんなが、それを求めなければ、ここまで進んだ現代の金融システムを変えることはできません。

ところがユダ菌と言われている集団を筆頭に既成のシステムで利権を持っている連中は、決してそれを手放そうとはしません。
民主主義を逆手にとって、自分たちが如何に大衆の為に腐心しているかを見せることで誤魔化しています。

経済の報道に騙されないようにしましょう。
もちろん、既に、多くの皆様は、株価や為替の高下、GDPの報道などを、そのまま理解してはおられないことでしょうが。

メンテ
:経済の話し  通貨の概念 ( No.107 )
日時: 2016/02/07 19:28
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:pXMaHKy6

資本主義理論の大原則は、需要と供給の関係を指すものである。

この場合、需要は消費、供給は商品である。

消費するために商品を作り、商品を作ることによって消費の為の収入が得られる。

これで全世界を抱合することが出来ていた。

一時的な景気、不景気、天災などで、この流れが停滞することはあったが、いずれの場合でもやがてバランスが取れていたものである。

ところが現代社会は生産技術の発達で、少数の人間で大量の商品を作ることが出来るようになった。

実際に、現在は、強いて生産調整をするほどに生産力が有り余っている。

企業の利益の量に関わらず、もはや生産の世界で大量の人間を必要としなくなっている。

第一次、二次産業と言われる生産産業の分野に変わり第三次産業の分野で雇用を創出すると言われているが、先進国では、既にその比率は75パーセント以上に達している。

第三次産業の特徴は、商品を介在しないこいとであり、既に本来の通貨の意味は変質している上に、それが人々の生活の上に必ずしも必要なものではないので、地域の特性、時代の特性、景気、不景気に大きく作用される

本来の通貨の意味の変質と言うことは、現在世界に出回っている通貨が何京円と言われているように、ほとんどが信用創造にとって発行されているものである。
かつ、その信用創造と言われるものは、資本家にとって実に身勝手な論理であり、それを受け入れる必要はないのである。

また第三次産業の多くは経済的に余裕があってこそ繁栄できるものであり、最初に金がなくては、第三次産業の需要は消極的になり、かつ、一旦需要が低迷すれば、それは生活に不可欠なものではないので、多くの人は諦める。

そのような不安定な産業に頼っているので社会は安定することはない。

翻って大衆の経済に関する観念は、資本主義当初の需要供給の原理で上手く回る様に勘違いしている。

現代の資本主義の論理は、こういう事を無視し、ひたすら通貨の流通、獲得のためにのみ機能しているに過ぎない。

実体経済の問題と、経済の理論の乖離を埋めなくては、現代の経済的問題の根本的解決ができないことを認識するべきであり、もちろん、そのようなことは経済の専門家にはわかりきったことである。

ところが経済の専門家と言う輩は、現代のシステムの恩恵で糧を得ているものであり、経済的にも恵まれた部類で強いて問題を提起し仲間、及び資本主義の主体(権力)から仲間はずれされることが怖くて出来ない。

このシステム、権力のシステムを打ち倒すには、やはり大衆の覚醒、蜂起が必要となるであろう。

具体的に言えば、国家による通貨の増刷であるが、それはタブーとされている。

量的な問題はあるが、例えば我が国で年間50兆円の通貨の増刷で社会がどのように変わるかやって見ればよい。

考えて見ればよい。

現在の税収は40兆円あまり、とても国家財政には足りない。

不足分を通貨の増刷で賄えばよい。

1000兆円の債務も消去すればよい。

そうすれば、もっともっと手厚い政策ができる。

年金も保証できる。

老人介護産業も発展する。

雇用もある程度は確保される。

安価な給料で外国人労働者を入れることもない。

労働力が不足しているなら、それに見合う生産をすればよい。

それだけで生活に必要な商品の生産は十分にできる。

輸出に頼る大企業などなくなっても良いのである。

我々は大資本の奴隷になって生活しなくても良いのである。


それが国作りではないか。

新しい日本のかたちではないか。


メンテ
変更・変化・変革、改革と革命、そして維新・改新の話 ( No.108 )
日時: 2016/02/08 14:53
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:txvZFzw.

http://kumacom.jp/blog/blog.php?key=16562

<変更・変化・変革、改革と革命、そして維新・改新>

変化に対応しよう」「変えよう」…何度となく言い続けてきた。が、恥ずかしい話だが、つい最近、「変える」という行動に対し、日本語には多くの言葉があるに気が付いた。
正しく使っていたか、今回は反省の、雑学コラムである。

まず、「変更」「変化」「変革」の違いである。
変更とは、「今までの考え方、やり方を変えないで新しいことだけ、できることだけをつけ加えること」。これでは、結果はほとんど変わらない。しかし、痛みも伴わない。いわゆる、「ノープレイ・ノーエラー」の延長みたいなもの。でも、この「変更」レベルの企業や店舗は多い。
変化とは、「字の如く“化ける”ということ。化けるまで変えるということ」。ということは、今までの考え方ややり方を“化ける”まで変えるということである。しかし、これはえてして痛みを伴う。だから、あまりやりたがらない。「変化しろ!」とは、みんな言う。でも「変更レベル」を変化と言ってしまう。“化ける”までやる。これが変化である。
そして変革とは、「過去の成功体験を100%否定し、今までの成功体験を破壊し、新しく創りあげていくこと」。これは「トップ」しかできない。過去の成功体験を捨てることはすごく怖い。そして、「否定から入る」ことって抵抗がある。特に過去の歴史をつくってきた人達だから…。だから、この「変革」は難しい。しかし・・・今はこれぐらいのことをやらなければいけない時だと思う。「破壊し、新しく創りだすこと=変革」であると・・・このように、「変わる」ということにもレベルがある。

次に「改革」と「革命」。この両者の違いの原点は、基準を今までに置くか、未来に置くかの問題。それと、改革は「変化が必ずしも良いことだとは思わない」、革命は「変化は必ず良い結果を生む」という、変化に対する考え方の違いという見方もある。
改革とは、現在施行されている制度を見直し、改めてより優れた制度にする事。現状を変えていくことにより、より良い未来を目指すのが改革である。基盤は維持しつつ、社会制度や機構・組織などをあらため変えること。
革命とは、被支配者階級が支配者階級を倒し政治・経済や社会制度を根本的に変える事。革命は今までのすべてを否定する。理想の未来の実現の為に現状を変えていくことであり、既成の制度や価値を根本的に変革することだ。

では、「維新」、「改新」の違いは何か?
維新、辞書には・・・「維(これ)新なり」の意。すべてのことが改められて、すっかり新しくなること。明治維新のこと。御一新。・・・とある。
改新とは、古いものを改めて新しくすること。「制度を改新する」という使い方をする。

変えることに、こんな色々な意味がある。自分自身、果して正しい表現をしてきただろうか。ついその時の雰囲気によって、使ってきたに違いない。反省を込めて、日本語を正確に話せる日本人になりたいと思う、還暦過ぎのコラムであった。

(引用終わり)

NO 103のレスでは、随分と誤解されているようです。

私は経済のシステムを改革、革命をすることを願っているものです。

そのために、一連の文章で、現行のシステムの、何処を潰さねばならないかを探求しています。

資本主義の行き詰まりと言うことが言われている現在、見直すべきは、基礎、土台の部分です。

それについては、私たちは当たり前の事と思い込んでいます。

でも、それは現代社会に当てはめて良いものでしょうか。

見直しは不必要なものでしょうか。

ここが改革の第一歩であると思います。

また、同じような思いで、果敢に現行制度の根幹の見直しを主張されている方が、目立ちはしませんが結構おられることも紹介しておきます。

読者にも誤解されないように、改めて断っておきます。

メンテ
変更・変化・変革、改革と革命、そして維新・改新の話 2 ( No.109 )
日時: 2016/02/09 20:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:L/O/VDXE

何処を変えるか!

そもそも通貨の概念、そのものを変えるべき。

従来は物々交換の媒体として登場した通貨が、その内(急激に)富の蓄積の手段となった。
それは通貨を持っていれば、何時でも商品を買えるという安心感、安定感である。

また続いて、利潤と言う概念が出来、通貨の流通をさせることで富を蓄えられると言うことに気がついた。
資本主義経済のシステムは、この時期に起こり、経済(通貨の流通)を、需要、供給という図式で現した。

人類の生活において、商品(物資)は常に不足していて、それを手に入れること大変であり、当時は商品の生産はほとんど人間の手で行われていた。
だから、商品を望む人間(消費=需要)がある限り、生産は続き、それに寄って人々は生活手段を確保できた。

この頃になると自給自足の社会はほとんどなくなり、通貨を手にすることが生活の唯一の手段となる。
通貨も、人々全員を対象に、何とか配分できていた(それを経済学的には富の配分という)。

現在までの資本主義の論理では、通貨は概ね手にすることができるという前提で成り立っている。
資本主義と言う経済のシステムは、全人口を抱合し、真面目に働けば生活の糧である通貨は手に入った。

ところが最近の半世紀は、生産技術の発達と流通過程のグローバル化で、商品の生産、流通における省力化が進み、需要、供給の場面が、途方もなくはなれ、需要(消費)したいが供給の施設がないので通貨が手に入らない地域が、アチコチに現出した。
昔はそうではなかった。通貨を手に入れることができる施設(生産拠点)が各地に散らばっていた。

更には生産技術の発達は、供給に必要な人力を必要としなくなり、需要と供給の関係が人件費的には量的に不釣り合いとなった。
そのことは、失業者の増加と言う形で現れ、工業先進国ほど失業率が高いという状況に陥った。
一部の最先進国は、流通の領域や第三次産業の発達で誤魔化してはいるが、力のない先進国は、軒並み経済的苦境に陥っている。

これが現実であり、要するに、現行資本主義のシステム下、もはや需要、供給という概念では人類を抱合した経済のシステムとは言えなくなっている。

株価の上下や為替の変動で影響を受けている人々は、まだ、その資本主義の論理のなかで生活できているが、資本主義のシステムから見放された多くの人々は、経済のシステムなど頼ることもできず、自給自足の生活に追い込まれつつある。

初めに返り、通貨とは何であろう。
通貨は万民のために、万民が手にすることが出来た生活の糧であった。
そういう物を通貨と考えていた。
それを保証してくれる、経済のシステムを信用していた。

ところが現在は、そんなものではない。
働きたくても働く場所がなく、通貨は廻り回っては来てくれない。

要するに、現行経済のシステムからはみ出したものは生きてはいけない。
そんな立場の人間は、死んでしまえ、と言うのが現行の経済の論理である。

だが、これを救済する手段はあるのである。
最低生活の為に必要な通貨を国家が配分することである。
ただし、大方の人間が働かなくて生活できると言うことは、倫理道徳と言う人間性が失われ、とんでもない社会となる。
だから国家は生活の糧を金ではなく仕事で与えるべきであるのである。

こんな場合でも、結局は通過自体が必要となり、それを豊かな人の税収で賄うには、はみ出した人間が多すぎる(福祉政策では救済できない)。
この場合に増刷する通貨は、既に従来の通貨の概念には入らない。
しかしながら、従来の通貨の概念自体、当初のそれとは随分と違ってきている。

信用創造とか、何とか言って、実態経済を何十倍も上回る通貨が発行されている。
その途方もない通貨は、通貨を蓄財する目的の為の流通であったり、経済のグローバル化を推し進めるために使われている。
要するに、資本主義経済圏で生活する人間を、どんどん追い出すために使われている。
そのこと自体、現代資本主義社会は、ひたすら破滅に向かっていると言える。

その従来の資本主義の金融理論では、傘下の通過以外は認めようとしない。
己たちの理念に反する通貨の形態を認めようとはしない。

インフレーションが起きるとか為替が成立しないとか、自分たちの勝手な理屈によって。
だが、生産力がこれほど向上した現代社会で、昔のような通貨管理をしなくても、生活に必要な商品の配分は可能なのである。

通貨の増刷の適正な管理があれば、大きなインフレーションなど起きないのである。
為替の変動など、国内の経済の安定を考えれば、第二次、三次の問題である。

グローバル化など抑制し、地域、地域で必要な経済が循環する様に心がけることである。

現在の巨大金融資本と、その配下である金融当局、専門家を追放し、国民の為の通貨の発行を国家に求めるべきであり、それができる時代でもある。

GDPが増えれば、国民経済の底上げができるとか、マクロ(世界全体)で考えれば需要と供給の機能は働いているなど、身勝手な理論など

クソ、喰らえである。


メンテ
地域循環型経済 1 ( No.110 )
日時: 2016/02/10 14:07
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:EdDCj55I

地域循環型経済について、現在言われている考え方のいくつかを紹介します。

その1 循環型地域経済システムの形成に関する調査研究
    特定非営利活動法人 超学際的研究機構

地域を発展させるためには生産者、流通業、消費者という縦の連携を強化するだけ
でなく、農業、商業、製造業、観光業、金融業などの横の連携を強化することが重要
です。
人材、技術、地場産品、金融など、県内の多様な資源を地域の中で有機的なつなが
りを持たせることによって、独自の競争力のある地産地消型の商品、サービスを創造
すること、地域内で新たな需給関係を構築することを通して、地域の自立と地域雇用
を生み出す循環型の地域経済の確立が求められています。

このため、本研究では昨年度実施した循環型地域経済の再構築に関する調査研究を
さらに深め、@地方都市の空洞化と農村、農業の衰退が密接に関連する事態と位置づ
けることにより、都市と農村の経済的連携の必要性や可能性を探ること。A飯坂、土
湯、高湯の三温泉地域及び磐梯吾妻スカイライン、花見山の三つの観光スポットの現
状や優れた点を明らかにし、相互に連携するためにブランド戦略の実現のための方策
を提言すること。B循環型地域経済システム形成の促進を図るため、県、市など地方
自治体と地元金融機関が中核とする「ふくしまバンクファンド」設立を提言すること。
以上三つの柱を研究目的に揚げ、それぞれの専門分野ことに調査研究を実施したも
のであります。循環型地域経済システムの構築の基礎資料として本報告書が少しでも
参考になれば幸いであります。


その2 日本共産党

「取引先の工務店が倒産した。仕事は、家の応急処置程度の修繕しかない」(建築板金業)、「公共
事業が激減して同業者が次々つぶれた。異業種転換といってもうまくいかない。豪雪の対応で即応でき
る体制がなかったが、懸念していたとおりになった」(土木建築業)、「価格競争が激化。大手はそれ
を利用してコストダウン。この国がどこへ向かおうとしているのか不安」(電気機器)などの声があち
こちで広がっています。地域からはお店が消え、シャッターを閉める店が増え、農協の支所がなくなり、
金融機関のATMが撤去され、お金がおろせないという地域も生まれています。いまや、「大企業を応
援すれば、経済が良くなり、やがて国民の暮らしも良くなる」という考え方は立ち行かなくなっていま
す。大企業や県外企業の誘致にかたよった外需頼みの経済政策から抜け出し、県経済の主役であり、地
域と文化、県土と環境の担い手である中小企業を根幹にすえ、地場の建設業を県産業の柱の一つにした
経済政策への転換が必要です。
鳥取県は、一般会計だけでも約3200億円を超える予算規模です。こうした予算の使い方を変える
ことで、新しい仕事と雇用をつくりだし、地域を元気に、くらしを豊かにしていく道をひらくことがで
きると私たちは考えています。
―地域経済の循環の輪を再生させるために、日本共産党は次の政策を提案します。

【地域循環型経済とは?】
@必要な仕事を生み出すきっかけをつくる。
A地域の中小企業・業者が中心になってその仕事をおこなう。
B地域に雇用と所得が生まれる。
C所得が地域で消費され税収も増える。
《現在、鳥取県の中小企業の多くが、赤字続きで法人税が払えない企業となっています。こうした状況
を改善することは、自治体財政を豊かにすることにつながります。》


その3

循環型社会づくり - 環境省

1 地域循環圏の構築
(1)地域循環圏の意義
 第1次循環型社会基本計画においては、マクロのフレームで循環型社会の形成に向けた進捗状況を捉える「物質フロー指標」と、各主体の努力の面からこれを捉える「取組指標」を設定し、それぞれについて数値目標を設定しました。計画策定後、進捗状況の点検を毎年度行ってきており、この点検結果等を踏まえ、新たな循環型社会基本計画においても、引き続き、物質フロー指標と取組指標を設定し、さらに補助指標や推移をモニターする指標を導入するなど充実を図っています。これらは国全体としての指標及び数値目標の設定により、循環型社会の形成に向けた取組に明確な動機を与え、その成果を把握するものとなっています。
 循環型社会基本計画では、地域の特性や循環資源の性質等に応じた最適な規模の循環を形成する「地域循環圏」の構築を新たに盛り込みました。これは、廃棄物の適正処理を前提に、温暖化対策や生物多様性の保全などの環境面や、希少性や有用性などの資源面、さらに輸送効率や処理コストなどの経済面の各観点から、循環資源ごとに地域の特性を踏まえて最適な範囲での循環を目指すものです。例えば、一定の地域のみで発生する又は腐敗しやすい等の特徴を持つバイオマス系循環資源はその地域において循環させる、また高度な処理技術を要するものはより広域的な地域で循環させるといったことが考えられます(図4−3−1)。

(2)地域循環圏のイメージ
 循環型社会基本計画では、第2章において、循環型社会形成の中長期的なイメージを示しています。これは、2025年頃までに、持続可能な社会の実現を見据えつつ循環型社会に至る具体的かつ中長期的イメージとして示したものであり、循環型社会形成に必要な各主体の連携・協働を図る上での基礎となるものです。中でもとりわけ重要なものが、地域の特性を活かした循環型社会の実現という視点であろうと考えます。
 この「地域循環圏」の基本的な考え方は、循環資源の性質と地域の特質に応じて、コミュニティ、地域、ブロック圏、全国規模、そして国際的なレベルに至る最適な規模の「地域循環圏」を構築していくことで、よりきめ細かく、効果的な循環型社会の形成を目指すものであり、地域の自立と共生を基本とした「地域再生」の原動力となることも期待されています。
 以下では、第2次循環型社会基本計画に盛り込まれた循環型社会形成の中長期的なイメージのうち、地域循環圏に関するものを紹介します。
 ア コミュニティ
 例えば、コミュニティ・レベルにおいては、不用になったものを近所で融通したりフリーマーケットを通じたりしてリユースし、また故障したものも修理してできるだけ長く使われます。リサイクルプラザ等におけるリユース、リサイクルに加え、住民啓発機能を有する市町村の資源化施設が拠点となって、市民やNGO/NPO等が参加したリサイクル活動が行われ、その活動が広がってコミュニティ・ビジネスの展開が進みます。移動に際しては、自転車が活用されるなど環境負荷の少ない地域社会の形成にも寄与しています。
 イ 農山漁村
 農山漁村においては、間伐材、家畜排せつ物、貝殻、分別収集された生ごみ等が循環資源となり、バイオマス系循環資源として肥飼料等に利用され、これらを利用して生産された農畜水産物等が地域内で消費される地産地消の循環が形成されます。このような地産地消の循環形成など持続的な農林水産業が営まれることなどにより、生物の生息の場としての里地里山などの保全にも寄与します(図4−3−2)。

(引用終わり)

政府系NPO、共産党、官庁が考えている地方循環型経済の有り様です。
共産党の場合は、内容は抽象的ではありますが、手法としては、より具体的に踏み込んでいます。

あとは机上の空論にすぎず、それくらいのことでは現実の問題解決には程遠いものです。
彼らが言っている内容など、どの地方でも、そこで生活している人たち、事業主は必死で挑戦してきなことに過ぎません。
グローバル化と言う外圧がなければ、それも少しは成果が上がったでしょう。

国の施策が、こんな空理空論であってはたまりません。
中高生の討論会で出てくる内容を、もっともらしく並べ立て、行政を行っているように思わせているのです。

では、本当に必要な地域循環型経済とは
次に論を進めることにしましょう。

メンテ

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