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[1711] 経済の話し
日時: 2013/03/12 23:22:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:1363098145

最近、阿修羅掲示板に良く投稿される「あっしら」のサイトへ行ってみました。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/index-as.htm

HNは「あっしら」と名乗られているが経歴は解りませんが、資本主義経済のシステムが持っている色々な矛盾を説く解す能力豊かな、経済に強い確かな方と見受けしました。
その一部を転載します。



「供給=需要」の向こう側 <想像力から創造力へ> S子
         
「利潤なき経済社会」を興味深く、また、意義深く読ませていただ
いております。資本主義経済において、結局、私たちが見誤ったも
のは、マネーにおける「目的」と「手段」をはき違えたことにある
のは間違いないだろう。経済活動における潤滑油とはマネーであり
、そのマネーが滞ることなく流通し、循環してこそ経済の活性化を
見ることができ、個々人としての生きる活動も活発化してくる。

それはまるで私たちのからだを流れる血液のようなもので、血液が
さらさらの状態であれば私たちは健康で日々を無事に過ごすことが
できる。が、血液がどろどろ状態になり、この流れが悪くなり脳で
詰まれば脳梗塞が起き、その部分の脳組織が壊死してしまい、私た
ちは失語症になったり、半身不随になったりする。

資本主義も当初はマネーがモノを交換するための「手段」として流
通していたが、資本主義が成熟してゆくにつれて、いつの間にか「目
的」と化した。マネーの目的化はつまるところ全てを目的化させてし
まい、私たちにあらゆるものの「本質」を見る目を喪失させた。
これは事実である。

そして、それが「供給=需要」という経済活動を必然的に生じさせ
、モノに溢れた社会が誕生した。「供給=需要」という経済活動は
よくよく考えてみれば、「与えられた人生」を送ることになり、
そこには自主性や主体性はなくても私たちは「与えられたモノ」を
購入し、そこそこ無難な人生を送ることができる。

私たちが無難だと錯覚し、安心してしまうのは、周囲が皆「与えら
れたモノ」である「同じモノ」を持っているからである。つまり私
たちは「与えられた、同じモノ」を持つことによって人生の安定や
幸福の尺度をはかっていた可能性がある。「供給=需要」という経
済活動では、人間の欲求すらも本質から遠ざけてしまうということ
である。

本当に自分が欲しいモノだったのか、他人が持っているから欲しい
のか、テレビコマーシャルで見たから欲しくなったのか、売り込み
にきたから購入したのか、ないと困るほどではないがあって困るほ
どでもないので購入したのか等、心から欲しているものではなく、
供給されたから需要したという構図が自然と生まれる。それを自分
の欲求があったから買ったと、私たちは錯覚しているにすぎない。

こうして私たちは「与えられた人生」を無難に安定して生きること
で、「危機感」を抱くことなく日々を過ごし、人生を終える。人間の
三大欲求であり生きる基本の「食・性・寝」も既にこの「供給=需
要」という経済活動に組み込まれ、マネーの目的化とともに人間と
しての本能を私たちは喪失しかけている。現代人はこの自覚すらも
ないという悲しい状況におかれているのである。

しかし、マネーの目的化による「供給=需要」という経済活動では
経済成長が持続できないどころか、経済の空洞化を生み失業者を増
加させ、個人としての生きる活動が阻害されてしまう。そのことに
気づいたのが、今回の欧州連合憲法批准拒否の仏国民である。拡大
EUの存続に待ったをかけた格好となったが、「危機感」を抱いた彼
らの人間的本能はまだ廃れていないどころか、十分に健在である。


(中略)

ひるがえって日本を見れば、「供給=需要」人生が非常に行き届い
ており、大人も子供も主体性をなくし、自信喪失し、想像力にも欠
け生きる気力も無い状態に置かれている。だから米国の言いなりに
しか生きることができないのである。「供給=需要」という「与え
られた人生」を送ることは確かに楽ではある。が、そこには「自分
」というものがない。この人生を生きる「自分」がないのである。

だから真の喜びや真の悲しみを味わうことはまずないだろうし、
そこそこ無難で安定した人生を送ることで「危機感」を覚えること
もまずないだろう。実はそれこそが問題なのである。「危機感」を抱
くこともなければ、正直な話がまともに「自分」とは向き合えない。
「自分」という人間のこともわからずして終える自分の人生って一
体何??ということになる。

マネーが目的化されることで「供給=需要」という経済活動が必然
的に生じ、「与えられた人生」を送ることで私たちは主体性を失い
、自信を失い、生きる源泉ともいえる想像力までも失った。また、
そういう場所さえも失った。想像力を失えばこの世で実現する創造
物さえもなくなるのである。つまり来るべき未来が描けない。

「利潤なき経済社会」ではマネーを手段に転落させることで、資本主
義の論理が大きく揺らぐだけではなく、世界の構造が大きく転換し
てしまう。これまで築き上げてきたもろもろが崩壊に直面している
と言っても過言ではない。それは日本が明治維新以降追求してきた
西洋文明であるかもしれないし、合理化の名のもとに推進されてき
た科学万能主義であるかもしれないし、それを基点とした物質文明
であるかもしれない。

「供給=需要」人生で「危機感」を抱くこともなくなった私たちが
、価値観の転換をはかることは容易にできそうもないのは明白だ。
しかし、マネーの目的化による「供給=需要」経済活動では世界は
やがて行き詰まる。価値観の転換は時間も要するだろうが、案外石
油の枯渇がその契機になりはしないかと、私は密かに思っている。
その「危機感」が「自分」と真剣に向きあうことになり、それが男
女双方への理解へと向かわせる。そこから男女双方の想像力が生ま
れ、それが創造力へとつながり実現化し、新しい未来が描けるとい
うものである。

(引用終わり)
メンテ

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Re: 経済の話し ( No.61 )
日時: 2013/10/14 12:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:VWDW7M7A

UP
メンテ
公共事業とケインズ 1 ( No.62 )
日時: 2013/10/17 01:16
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:GVdAGM1Q

公共事業とケインズ経済学について検証しよう。
結論から入る事にし、まずケインズの穴掘り理論を見てみよう。

ケインズは、資本主義の制度では、供給可能な財の量を下回る需要しか存在しない、という形での不完全均衡が生じやすいので、何もしないでいると慢性的な不況に陥る、と考えた。ケインズの理論の特徴は、ただそれを指摘するだけに終わらず、対処の仕方も提案している、ということである。

ケインズは、経済が不完全均衡による「供給能力の余剰」という不況に陥ってしまった場合、政府が公共事業を執り行うことによって、その不況から脱出できる、と論じている。その原理は簡単だ。つまり、「需要不足」によって、意欲も能力もあるのに失業している労働者がいて、遊休している設備や機械があるなら、政府がそれらの生み出すことの可能な生産物の使い手になればいい、ということなのである。政府が公共事業を行って、失業者を雇用し、遊休している設備・機械を使って、生産を追加させるのである。これを専門のことばで「財政政策」という。

もちろん、公共事業をするには資金が必要だから、その資金は国民から調達しなければならない。方法としては、徴収した税金を財源
とする手と、国債を発行して国民から借金してまかなう手があるのだが、国債を発行したとしても結局は将来に税金で償還せねばならないから、ここでは、はなっから税金を財源にするものとして話を進めよう。

前に解説した通り、ケインズのいう不況の真因とは、「有効需要の不足」である。企業の投資需要と家計の消費需要の合計が、生産能力をフルに活かすだけの水準に届かない、ということだ。だから、ケインズは、政府の需要をそれらに加えることによって、「有効需要を底上げ」すればいい、そういっているわけである。もっと、乱暴ないいかたをするなら、私的部門の財に対する欲求が乏しく財布の紐が堅くて不況が起きているのだから、政府が国民の財布をこじあけて、その中の金を勝手に使って、もっと生産できるはずの商品の買い手になってしまえばいい、そういうことなのである。

ケインズは、このような理屈によって、政府による財政政策で財の生産量を上増しする方策を提案した。そして、生産量が増えるということは、国民の所得も増えることであり、すなわち景気が回復することである、としたのだ。例えば、政府が2兆円の税金を徴収して、2兆円分の公共事業を行えば、国民の所得はちょうど2兆円増加し、景気にそれだけのインパクトを与える、と説く。これを専門のことばで「乗数効果」という。驚くべきことに、このときケインズは、公共事業の中身は問題にしていない。「穴を掘って、また埋めるような仕事でも、失業手当を払うよりずっと景気対策に有効だ」というようなことまでいっている。

伝統的な経済学では、生産活動は民間がやっても政府がやってもマクロな効果は同じなので、民間に任せ、政府は経済活動や競争が公正に行われるように監視する役割をすればいい、と考えられてきた。それに対してケインズの理論では、政府にずっと大きな役割を担わせている。すなわち、経済活動に積極的に介入し、経済パフォーマンスを達成可能ないっぱいいっぱいの水準にコントロールする資格を与えているわけである。

「次にケインズの理論の経済学的評価を見てみよう」

ケインズ経済学の根幹を成しているのは有効需要の原理である。この原理は古典派経済学のセイの法則と相対するもので、「供給量が需要量(投資および消費)によって制約される」というものである。これは、有効需要によって決まる現実のGDPは古典派が唯一可能とした完全雇用における均衡GDPを下回って均衡する不完全雇用を伴う均衡の可能性を認めたものである[注釈 1]。このような原理から有効需要の政策的なコントロールによって、完全雇用GDPを達成し『豊富の中の貧困』という逆説を克服することを目的とした、総需要管理政策(ケインズ政策)が生まれた。これは「ケインズ革命」といわれている。

ケインズ経済学では貨幣的な要因が重視されている。このことは、セイの法則の下で実物的な交換を想定とした古典派とは、対照的である。不完全雇用の原因について、ケインズの『一般理論』では「人々が月を欲するために失業が発生する」と言われている。これは歴史的な時間の流れにおける不確実性の本質的な介在によって、価値保蔵手段としての貨幣に対する過大な需要[注釈 3]が発生し、これが不完全雇用をもたらすとするケインズの洞察を示すものとして知られている[注釈 4]。

「人々が月を欲するために失業が発生する」とは

人々が「月すなわち貨幣」を需要するために利子率が上昇し投資が妨げられたり,あるいは消費需要が減少したりして有効需要が少なくなり失業が生じる,ということです。

 また彼は,こんな言葉も残しています。「貨幣は本質的かつ独特の仕方で経済機構の中に入り込む」と。ここに,ケインズの「貨幣観」が現れているように思います。
 貨幣というものは,単に世の中を流通しているだけではなく,その流通量が変化することによって,ときにはインフレーションをもたらしたり失業を起こしたりするのです。

 『一般理論』はマクロ経済を分析した書物ですが,しかし今日,貨幣の研究はマクロ経済学からのアプローチだけではなく,ミクロ的なアプローチ(マクロ経済学のミクロ的基礎)も盛んに行われています。
 「貨幣」を人体にたとえると,それは生き物にとって最も大切な「血液」だと言えるでしょう。血液の流れが悪くなると,様々な病気を起こします。血液それ自体の研究だけではなく,血液の循環についての研究も重要だと思います。


このように、通貨の流通(循環)から経済を見た場合の認識です。
そうしてケインズに関わらず、大抵の経済学の理論と言うのは新自由主義経済論に至るまで変わりません。
私は、すでにここに資本主義経済の行き詰まりを見ています。

さて、

ケインズ以前に主流であった古典派の経済学では、セイの法則を中心として自由放任主義を展開していた。セイの法則は「供給は需要を生む」と要約される理論で、どのような供給規模であっても価格が柔軟に変動するなら、かならず需給は一致しすべてが需要される(販路法則)という考え方に立つ。経済は突きつめればすべては物々交換であり、貨幣はその仲介のために仮の穴埋めをしているにすぎない。それゆえ追加的な生産物のみが新たな交換と支払い(需要)をうみ出す事が出来る、とする。ピグーら新古典派経済学は、このような均衡は財の価格が十分に調整しうるほどの長期において成立すると解釈する。一方、ケインズは「長期的にはわれわれはすべて死んでいる」と呼び、このような長期的均衡は実現しないと批判した。

またまた「長期的にはわれわれは全て死んでいる」などと、判らないことを言いました。
これは、冒頭に紹介した「穴掘り」理論に続き、セイの法則により様な経済の考え方では「長期的には死んでいる」と言う意味で、現実の政策を変えねばならないと言うことでしょう。

具体的には摘みどころのない話しですが、最近の話しとして次のように使われているようです。

先に登場した「経済学者」の皆様は、職種のミスマッチの解消努力や雇用の流動性強化(解雇規制緩和、撤廃)を実施すると、失業率が「さらに高騰する」現実を目の前にして、いかに考えているのでしょうか。きっと、
「いやいや、長期的に考えれば失業率は下がるよ」
 と言うのかも知れませんが、それこそケインズ式に言えば、
「長期的には、我々はみんな死んでしまう」
 という話でございます。
メンテ
公共事業とケインズ 2 ( No.63 )
日時: 2013/10/17 01:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:GVdAGM1Q

セイの法則をもう少し判りやすく解説すれば、

あらゆる経済活動は物々交換にすぎず、需要と供給が一致しないときは価格調整が行われ、仮に従来より供給が増えても価格が下がるので、ほとんどの場合需要が増え需要と供給は一致する。それゆえ、需要(あるいはその合計としての国の購買力・国富)を増やすには、供給を増やせばよいとする。

セイの法則については、現代では好況等で十分に潜在需要がある場合や、戦争等で市場供給が過小な場合に成り立つ限定的なものと考えられており、また一般に多数の耐久財 ・資本財 がある経済を想定していないことが指摘されている(耐久財のディレンマ)。またセイの法則そのものは後世の研究者により現代においても成熟されつづけているものであり、たとえば技術革新による供給能力の変化と生産調整による供給能力の変化の違いなどの現実のディテールなどは想定していない。また生産されたものがつねにあらゆる状況でgo・dsであることが暗黙の前提となっており、生産され供給されつづけるgo・dsが累積的に人への効用を拡大させることを前提としている。この点がのちにオーストリア学派により批判された(限界効用理論、限界効用逓減の法則)。

次にケインズの主題、総需要管理政策について見てみましょう。

政府による有効需要の調整は総需要管理政策と呼ばれるもので、財政政策と金融政策とに分けられる。また、財政政策と金融政策を併用することをポリシーミックスという。

「財政政策」

均衡GDPが完全雇用の下で達成されるGDPの水準(完全雇用GDP)を下回ることを不完全雇用均衡(デフレ・ギャップ)というが、この場合には有効需要の不足に基づく非自発的失業が発生する。このとき、政府が公共事業あるいは減税を通じて有効需要を発生させ、完全雇用GDPを達成することが考えられる。このような政策を財政政策と呼ぶ。このさい、政府支出の増加分よりも多くGDPが増加する現象を乗数効果と呼ぶ。不完全雇用の下で、意図的に需要を発生させて雇用を改善させる考え方はケインズ経済学(ケインジアン)の大きな主張点であり、世界恐慌に悩むアメリカで行われたニューディール政策はこの考え方に沿うものである。有効需要の理論は、レッセフェール(自由放任主義)で経済が行き詰っても、意図的に政府が経済に介入することで改善を図ることができる可能性を示すことになった。

インフレ・ギャップがある場合、これを解消するためには、公共サービスの削減あるいは増税などの黒字財政によって有効需要を削減することが必要となるが、これは政治的に不人気な政策となることが、ハーベイロードの前提(賢明な政府という仮説)との関わりで問題とされている。

「金融政策」

金融政策により金利を操作することで、民間投資を誘導し有効需要を調整することができる。例えば貯蓄を上回るほどの投資がある場合は、金利を引き上げることで貯蓄の増加と投資の減少を誘導し、有効需要(国民所得)を調整する。
投資は、追加投資によって得ることが期待できる利潤率(資本の限界効率)が利子率と一致するまで行なわれる(ケインズによる)。そこで投資を増加させるためには、金融緩和政策によって利子率を引き下げればよい。しかし、債券よりも現金を選好する流動性選好(価値保蔵手段としての貨幣に対する需要)次第では、貨幣量を増やしても利子率を下げることができない[9]。また景気の見通しが暗い時期には期待利潤率がマイナスになる場合もある。このような場合には、金融政策の有効性が失われる。

現代では、財政政策の弊害への反省などから、金融政策により有効需要を調整することが多い。しかしグローバル化(開放経済化)が進展した現在では、金利の操作は投資よりも経常収支に早く変化をもたらすため、貯蓄・投資の均衡が達成されない場合もある。
以上、ケインズの総需要管理政策であり、冒頭の文章につながるのですが、其れに対する批判も出ています。
ケインズ自身は公共投資を誘い水としてのみ唱導したのであり、経済問題に対する万能薬として総需要の管理に過度に訴えたものではなかった。ポーランドのドナルド・トゥスク首相およびヤン・ヴィンツェント=ロストフスキ財務相は総需要管理政策はその有効性が希薄であることを強く主張している。


1.ケインズの功罪
 不景気になれば減税や公共事業をやり、金融緩和によって民間の投資活動を刺激する。ケインズの有効需要管理政策により、第二次世界大戦後、世界から恐慌が消えた。その意味ではケインズ政策は大成功を収めたといってよい。
 しかし、どんな良薬にも副作用があるように、ケインズ政策にもいくつかの副作用があった。

 第一に、ケインズ政策にはインフレーションという副作用があった。
一般に、好景気の時は需要圧力が大きく、物価は上昇傾向を持つ。一方、不景気のときにはデフレギャップが発生し物価は下落傾向を持つ。しかし、もし、不景気のときに経済に有効需要を注入す れば、下がるべき物価が下がらなくなる。つまり、不況期の有効需要創出政策は経済をインフレ体質にしてしまうのだ。

 一般に、インフレと失業はトレードオフ関係にあるといわれる。つまり、インフレという病気と失業という病気の両方ともを一度に は治療できない関係にある。もし、インフレと失業のどちらか一方しか選べないとしたら、人々はどちらを選択するだろうか。
 もちろん人々はインフレを選択する。経験してみれば分かるが、人生にとって失業ほど残酷なものはない。だから、人々は多少のインフレは我慢してでも、何とか不景気にだけはならないで欲しいと願う。資本主義にとってインフレは失業を回避するための必要悪である。かくして、ケインズ政策を採る資本主義国は例外なくインフレ体質に陥るのである。

2.ケインズ先生、見落とす

 ケインズ政策の第二の副作用は財政赤字という問題である。不況期に国債を発行し、借金をして公共事業をする。借金は返さなければならない。いつ返すか?当然、景気がよくなったときである。 
 しかし、景気がよくなって本当に不景気の時にした借金が返せるのか?
答えはノーである。好景気による自然増収だけでは足りない。返済のためには増税が必要だ。しかし、国民は減税には賛成しても増税には反対する。増税を公約に掲げる立候補者は選挙で勝てないのだ。かくして、不景気のときに借金を重ね、景気がよくなっても返さない。その繰り返しが40年以上も続けられてきたのである。特にバブルが崩壊した1991年以降、借金総額は雪だるま式にふくらんでいった。

 では、当のケインズ自身はどう考えていたのか。
もちろんケインズは馬鹿ではない。借金は返さなければならないことくらい当然分かっていた。ではいつ返すのか?答えは「景気がよくなったとき」以外にはない。ケインズは人間を理性的な存在だと考えていた。だから、景気がよくなったら選挙民は理性を働かせて、増税に賛成してくれるはずだと考えていた(と私は理解している)。ところが、そうはならなかった。
大衆が政治をリードする民主主義社会において、大衆は遠い将来のことより、目先の利益のことしか考えない。かくして、ケインズ政策が民主主義という制度と結びついた瞬間にうまく機能しなくなってしまった。
マルクスが「人間とは自分の利益にならなくても一生懸命働く存在」だと誤解したのと同じように、ケインズもまた人間を理性的な存在として買いかぶりすぎたといえる。



以上、ウィキペディアを中心に引用し構成した文章ですが、


ケインズが登場した時代は1930年代の大恐慌時代であり、アメリカの失業者が1000万人を超えていた時代でした。其処での、ケインズの公共企業論は、景気を向上させるための対策であり、当座の間の対症療法でありました。
しかしながら、現代社会が直面している状況は、そんな対症療法では何ともならない構造的な問題です。
ですので、ケインズにしろ、反ケインズにしろ、彼等が最終的(目標)に描いていた、好景気が来る、それまでの対症療法という条件は当てはまらないのです。

現代社会は、有り余る生産力を持っていますし、結果の商品も消費しきれないほど市場に出回っています。
通貨は、需要、供給の仲介の領域を超えて、部分的にではあるが、氾濫しています。
金融政策は、市場の物質経済のためではなく通貨のための金融政策となっています。
表面的、統計的には好景気を示していても、それとは関係ない失業者があふれていることは、すでに従来の経済理論では対応できないことは明らかであります。
其処では

ケインズの「供給可能な財の量を下回る需要しか存在しない、という形での不完全均衡が生じやすいので、何もしないでいると慢性的な不況に陥る」と言う前提も成立しないし、
セイが言う

「あらゆる経済活動は物々交換にすぎず、需要と供給が一致しないときは価格調整が行われ、仮に従来より供給が増えても価格が下がるので、ほとんどの場合需要が増え需要と供給は一致する。それゆえ、需要(あるいはその合計としての国の購買力・国富)を増やすには、供給を増やせばよいとする」も成立しないのです。
これらの前提条件が異なるのに、いまさらセイもケインズもないでしょう。
ケインズが公共事業の財源として税金を考えたこと自体、すでに破綻しているのです。

この様なことを前提の上で、公共事業論を考えたいと思います。
我が国を例にとって検証しますと、戦後10〜20年は、まさに復興のための公共投資がケインズ的な効果を生み、否、ケインズ的と言わなくても、そうなる事は自然の理でありました。
ケインズを意識して公共事業政策を考えたのは、1960〜70年代でありましたが、日本全体の経済としては、必要もないほど好景気でありましたが、都市部と地方の格差をちじめると言う意味では効果もあったでしょう。しかしながら、バブル期を迎えるようになると、すでに民間でも過剰投資が始まり、強いてケインズを意識することもありませんでした。
こうした中で、我が国の財政専門家の間では、ケインズをそんなに評価する風潮はありません。

http://www.clb.mita.keio.ac.jp/law/aso-seminar/koukyoujigyou2004.pdf#search='%E5%85%AC%E5%85%B1%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB'

しかしながら、グローバル化で疲弊した現実を認識すれば、従来の意味でのケインズ政策を論じても仕方がありません。
と、言うよりも、ケインズを超えるケインズ的政策を考えねばならないと思います。
以上、随分と長くなりましたが、公共事業論とケインズを終わります。
メンテ
資本主義経済とは 1 ( No.64 )
日時: 2013/10/17 14:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:GVdAGM1Q

資本主義とは、経済の仕組みの一種で、資本の運動が社会のあらゆる基本原理となり、利潤や余剰価値を生む体制である。「資本制」とも言う。
社会に貨幣を投下し、投下された貨幣が社会を運動してより大きな貨幣となって回収される場合、この貨幣が「資本」とよばれる。
カール・マルクスは著書『資本論』の中で「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」として「資本主義」と定義した。

資本主義が成立するためには、商品生産と商品交換が一般化しており、自己の労働力を商品化する賃金労働者の存在が必要である。ひとくちに「資本主義」といっても時代や国によって体制には差があるが、一般的に以下のような特徴を持つものであるとされる。
• 私有財産制(民法体系による司法による財産権の法的保護、経済的自由権)
• 私企業による生産
• 労働市場を通じた雇用、労働
• 市場における競争を通じた需要、供給、取り引き価格の調整、契約の自由

但し、以上のうち、どの特徴が資本主義にとって本質的なものであるか、どの特徴が偶有的なものであるか、については必ずしも意見が一致しない。
基本原理としては生産手段を持つ資本家が、生産手段を持たない賃金労働者を使用して利潤を追求する社会システムである。
経済学とは、この世において有限な資源から、いかに価値を生産し分配していくかを研究する学問のことである。総じて社会全般の経済活動が研究の対象である。

マックス・ヴェーバーは最初に経済学と社会学の関係について言及した一人である
ヴェーバーは社会学という学問の黎明期にあって、さまざまな方法論の整備にも大きな業績を残した。特に人間の内面から人間の社会的行為を理解しようとする「理解社会学」の提唱が挙げられる。さらには、純理論的にある類型的なモデルを設定し、現実のものとそれとの差異を比較するという「理念型(Idealtypus)」も挙げられる。また、政治的価値判断を含む、あらゆる価値判断を学問的研究から分離しようとする「価値自由(Wertfreiheit)」の提唱も、大きな論争を引き起こした。
ヴェーバーのそうした研究の流れは、「経済と社会」という形で論文集としてまとめられている。

(近代経済学の流れ)

経済学の最も古い定義は、アダム・スミスの『諸国民の富の性質と原因の研究』(いわゆる『国富論』)によるものである。
政治家や議員にとっての科学分野と看做されている経済学は、2つのちがったものを提示する。1つは、人々に豊富な利益ないしは製品を供給し、更には利益や必需品がキチンと人々に益を齎すようにする方法を。あと一つは、そうした収益を国ないしは社会にサービスとして提供し、結果として人々と統治者を豊かにする手立てである。

フリードリヒ・エンゲルスは、1878年ごろ経済学について次のように述べている。

経済学は、最も広い意味では、人間社会における物質的な生活資料の生産と交換とを支配する諸法則についての科学である。経済学は、本質上一つの歴史的科学である。それは、歴史的な素材、すなわち、たえず変化してゆく素材を取り扱う。[1]
その後、経済学の定義について、ライオネル・ロビンズが1932年に『経済学の本質と意義』で最初に問題提起した。
他の用途を持つ希少性ある経済資源と目的について人間の行動を研究する科学が、経済学である。

言い換えるなら、希少性のある資源をいかに効率的・合理的に配分するかを扱い、そこに道徳や価値判断は一切入らないというのがロビンズの論旨である。しかし、こうした定義にはジョン・メイナード・ケインズやロナルド・コースらからの批判もある。経済問題は性質上、価値判断や道徳・心理といった概念と分離する事は不可能であり、経済学は本質的に価値判断を伴う倫理学であって、科学ではないというものである。

一方で、とりわけゲーム理論の経済学への浸透を受けて、経済学の定義は変化しつつある。例えばノーベル賞受賞者ロジャー・マイヤーソンは、今日の経済学者は自らの研究分野を以前より広く、全ての社会的な制度における個人のインセンティブの分析と定義できると述べている。[2]このように現在では、資本主義・貨幣経済における人や組織の行動を研究するものが中心となっている。広義においては、交換、取引、贈与や負債など必ずしも貨幣を媒介としない、価値をめぐる人間関係や社会の諸側面を研究する。このような分野は人類学(経済人類学)、社会学(交換理論)、政治学(公共選択論・合理的選択理論)、心理学(行動経済学)と隣接する学際領域である。また労働、貨幣、贈与などはしばしば哲学・思想的考察の対象となっている。但し、経済システムの働きに深く関わる部分については経済思想と呼ばれ、経済学の一分野として考えられることも多い。

(政治と経済)

経済学は、その誕生・分析対象が社会・政治・経済問題と不可分であったことから政策への提言として社会へ関わる機会が非常に多い。19世紀以降は、社会的な判断において経済学が不可欠となった。社会問題を対象としている性質からか、社会的不幸を予測する理論も多々生まれ「陰鬱な学問」とも呼ばれた。先駆的政策(事実上の実験)の過程と結果から新たな学問的問題を提起したソビエト連邦による社会主義建設は失敗し「壮大な社会実験」として総括されているが、この社会主義的政策が、第二次世界大戦後日本で採られた傾斜生産方式のように社会に有益な影響を与えたのも事実である。ちなみに、近代経済学では傾斜生産方式の有用性について疑問符を投げかけている。

古典派経済学はイギリス帝国や20世紀初頭のアメリカの繁栄などで実証されたかにみえたが、世界恐慌や植民地帝国の解体によって軌道修正を余儀なくされる場面もあった。19世紀後半に古典派経済学の批判的研究からマルクス主義経済学が生まれ、その後の政治に大きな影響を与えた。他方、理論と結果への当てはめという試行錯誤が長く繰り返される中で経済学は発展し、近代経済学が成立した。現代の発達した資本主義国においては、一般的に経済学=近代経済学と考える人が多いが、近代経済学もいまだ多くの問題を抱えている。

最後にハイエクについて述べよう

フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク(独: Friedrich August von Hayek、1899年5月8日 - 1992年3月23日)は、オーストリア・ウィーン生まれの経済学者、哲学者。オーストリア学派の代表的学者の一人であり、経済学、政治哲学、法哲学、さらに心理学にまで渡る多岐な業績を残した。20世紀を代表するリバタリアニズム思想家。
ハイエクの初期の業績は景気循環に対する貨幣の影響を分析する貨幣的景気循環理論への貢献としてよく知られている。これはミーゼスなどのオーストリア学派の伝統を受け継ぐだけでなく、クヌート・ヴィクセルの累積過程のアイディアにも刺激を受けたものであった。生産財と消費財の価格比率の中から現れる財市場の均衡をもたらす水準としての自然利子率と、実際の利子率との関係により産出量と雇用量が決定されるというのがその理論の骨子である。具体的には利子率が自然利子率に比して低い場合に過剰な投資が生じバブルを発生させるが、やがて産出水準が投資と消費財への需要の双方に見合わなくなり生産財が不足してバブルが崩壊するというものである。1931年のPrices and Productionはこの方面での彼の代表作である。なお1930年にはジョン・メイナード・ケインズが同じ分野でTreatise of Money(『貨幣論』という邦訳で知られる)を刊行しており、この後両者は景気循環を巡る論争へと突入することになる。この論争はハイエクの当時所属していたLSEとケインズを擁するケンブリッジ大学とのより大規模な論争の一局面であった。

リバタリアニズムとは、

個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する、自由主義上の政治思想[1][2]。リバタリアニズムは、他者の権利を侵害しない限り各人は自由であり、政府が干渉すべきでなく、最大限尊重すべきであるとする。日本語においてもそのまま「リバタリアニズム」と表現される場合が多いが、本来の思想から語意が変遷している「リベラリズム」と区別する意味で、単に「自由主義」と訳されることはあまりなく、完全自由主義、自由至上主義、自由意志主義など多数の邦訳が存在する。また、リバタリアニズムを主張する者をリバタリアンと呼ぶ。


「経済計算論争と市場メカニズムの特性→新自由主義の誕生」

ハイエクは1920年代から40年代にかけて盛んになった経済計画論争、或いは経済計算論争と呼ばれる論争に積極的に関わった。この論争は社会主義経済の実行可能性を巡るものであり、生産手段の私有(私有財産)を認めない社会主義経済の下では生産財に価格をつけることが出来ず、価格の存在しないところでは効率的な資源配分は達成されえないとするミーゼスの主張[1]に端を発している。

これに対してオスカー・ランゲやラーナーは、潜在的な交換の可能性があればシャドウ・プライスという形で擬似的、便宜的に価格をつけることが可能であると主張した[2]。その上でランゲはワルラス流の一般均衡理論の枠組みに則って多財の需給の連立方程式の解を求めることで、効率的な価格付けと資源配分を達成することが出来ると考えた[3]。

一方ハイエクの立場はたとえそのような計算が技術的に可能であるとしても、この計算を実施する中央計画当局は計算に必要な需給に関する膨大な情報を収集せねばならず、そのような情報の収集は不可能であるというものであった。

これはその情報量の膨大さもさることながら、計算に必要な情報は主として経済主体にとって自身しか知らない私的情報であり、現代流の言い方をすれば個々の経済主体が情報を正しく伝達するインセンティヴを持つとは限らないからである。

ハイエクは必要な情報の収集に成功し効率的な価格付けと資源配分を行えるのは分権的なメカニズムとしての市場メカニズムだけであるという展望を示したのである[4]。この経済計算論争や論争におけるハイエクの情報に着目するアプローチは後にレオニード・ハーヴィッツを刺激し、メカニズムデザインと呼ばれる分野の1つの源流となった。

ハーヴィッツは1960年の論文[5]で任意の経済主体がその主体の情報のみを用いて意思決定を下すことが可能であり(情報分権性)、最小限度の情報の交換だけで済み、かつ資源配分の効率性を満たす性質を情報効率性と定義した。そして1972年の論文[6]で競争的市場メカニズムが情報効率性を満たすことを示した(情報効率性に関する厚生経済学の第一基本定理)。

さらにジェイムズ・ジョーダンが1982年[7]に情報効率性を満たす資源配分のメカニズムは競争的市場だけであることを証明した。(情報効率性に関する厚生経済学の第二基本定理)ハーヴィッツらのこの結果はある意味ではハイエクの主張を定式化し立証したものであると言える。

(つづく)
メンテ
資本主義経済とは 2 ( No.65 )
日時: 2013/10/17 14:39
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:GVdAGM1Q

後先になったが、ここで近代経済学以前の経済思想について付記しておきます。
民主主義国家の誕生以前の話しなので、経済思想の背景というものに違和感があります。

(重商主義とは)

貿易などを通じて貴金属や貨幣を蓄積することにより、国富を増大させることを目指す経済思想および経済政策の総称。
大航海時代、アメリカ大陸やインド・東南アジアへの西欧の到達と直接交易の開始が貴金属や香辛料など稀少商品の価格革命をもたらし、商業革命のパトロン(援助者・免許者)としての王権に莫大な富をもたらした。オランダ、イギリス、フランスの各東インド会社は植民地政策の重要な尖兵となっただけでなく、有限責任方式の開発など市民社会形成に重要な足跡を残し、のちの産業革命をもたらした。また、その是非を通じて経済政策や思想における活発な議論がなされるようになり、これが後にケネーやアダム・スミスが登場する素地となった

15世紀半ばから18世紀にかけてヨーロッパで絶対主義を標榜する諸国家がとった政策である。資本主義が産業革命によって確立する以前、王権が絶対主義体制(常備軍・官僚制度)を維持するため、国富増大を目指して行われた。初期の重金主義と後期の貿易差額主義に分けることができる。チャイルド、クロムウェルやコルベールらが代表者。
いずれにも共通しているのは、「富とは金(や銀、貨幣)であり、国力の増大とはそれらの蓄積である」と言う認識であった。植民地からの搾取、他国との植民地争い、保護貿易などを加熱させたが、植民地維持のコストの増大や、国内で政権と結びついた特権商人の増加などが問題となり、自由経済思想(現代では古典派経済学と呼ばれるもの)の発達を促すもとになった。現在では「国力=貴金属」とする重金主義思想がとられることはないが、「国力=貿易黒字」という貿易差額主義的な思考は経済学者以外の議論としてはよくみられる。

18世紀には既にアダム・スミスによって間違いが指摘された考え方であり、『国富論』で繰り返し批判されている。そのため、過去の遺物のように考えられがちだが、今日でも貿易問題が論ぜられる際には重商主義的な誤解がしばしばなされる。

ある国にとって「貿易の黒字は利益で赤字は損失だ」といった見方は重商主義的な誤解の典型である。貿易の黒字・赤字は、他国に売った額と他国から買った額とを比べて、売った額>買った額なら黒字、売った額<買った額なら赤字と呼んでいるに過ぎず、利益や損失という概念には本質的に符合しない。例えば、商店が顧客に商品を販売した場合、売る一方の商店は黒字で買う一方の顧客は赤字であるが、それを「商店が得をして顧客は損をした」と評論することには意味がない。まして、赤字を無くすべしとして顧客が売買をやめると、お互いに不利益となるだけである。それと同じく、貿易に関する政策においても貿易黒字の増減をもってして、その政策が望ましいか否かを判断することは誤りであり国民の不利益となる。

『国富論』によると人々が豊かになるのはあくまで輸入品を消費することによってであり、輸出によってではない。輸出は、欲しいものを輸入するために必要な外貨の獲得のためのものであって、輸出それ自体が貿易の目的ではない。輸入業者が支払い請求に応じるのに必要な負担をまかなうために、輸出が必要となるにすぎない[5]。またこのことから、交易条件の改善によって、より少ない輸出でより多くの輸入が出来るようになることは国民を豊かにするが、自国通貨高は輸入価格と輸出価格の両方を変化させるので、より少ない輸出でより多くの輸入が出来るようになるわけではなく、そのためより多くの輸入品の購買や消費が可能になって国民が豊かになるわけでもないことがわかる。

たとえば、輸出によって得られる外貨は国内では決済完了性を持たない(使えない)。輸出業者が銀行に外貨を持ち込んで国内通貨と両替してもらえるのは、輸入や海外への投資のために外貨を必要とする人々がいるからである。しかし、輸入や海外への投資が禁じられているとすれば、輸出によって得られた外貨を必要とする人々はおらず、外貨の使い途は全くなくなる。使えもしない外貨と有用な製品とを交換することで国民が豊かになれるとは考えられない。

貿易黒字とは、国内で生産された財が流出超過で、資本が流入超過である状態である。特に、金本位制が崩れた現代においては資本とは信用貨幣のことであるので、現代において貿易差額主義的な外貨獲得は、国家の貴金属保有量の増大に寄与せず、恒常的な貿易黒字は一方的な財の流出となるので注意が必要である。
輸出で獲得した外貨を対外投資などで増大させ、投資による十分な外貨収入を確保した上で輸入制限を解禁するといった手段がよく採られていた。


(重農主義とは)

18世紀後半、フランスのケネーなどによって主張された経済思想およびそれに基づく政策である。
ケネーは『経済表』を作成してその自然が形成する秩序の姿を明らかにしようとした。彼は社会は神によって創造された自然秩序に基づいて形成されるものとして人為的な社会契約説には批判的であった。自然秩序は物理・道徳の両法則によって形成され、自然法と実定法はこれを制御するために生み出されたものである。人間は自然法則によって自己の欲望を満たしたいとする欲求を実現する権利を持っており、その実現を保障するのが自由権と財産権であり、国家は実定法を用いてこれを保障する義務を持つと唱えた。

また、同時に彼は農業によって生み出された剰余価値(純生産物)が農業資本の拡大再生産をもたらす。一方、商工業は農業がもたらす原材料がなければ何も生産出来ず、生産者としての価値は存在しない。農業生産の拡大再生産による恩恵が原材料などの形で商工業に流れることで初めて商工業が発展すると唱えた。彼は社会を地主(貴族・僧侶)・生産者(農民)・非生産者(商工業)に分類し、絶対王政国家の重商主義政策や家産国家的財政観、強力な領主(地主階層)権力による経済統制・支配こそが経済発展を阻害する最大の原因と考えた。それを克服するためには、

• 交易(とりわけ穀物などの農産物)の自由化
• 「地租単税」論(関税などの商工業への課税を廃して土地のみを課税の対象とする)
• 国家収入からの公共投資(道路・河川・運河などの整備による農業・商工業基盤の活性化)

などによって経済活動を自由化して、国家財政はその基盤整備のために用いられるべきであるとした。

彼の思想はジャック・テュルゴー、デュ・ポン・ド・ヌムール、メルシエ・ド・ラ・リヴィエールらに継承される。特にケネーの直弟子であるテュルゴーは実際に政府閣僚として重農主義政策を推進してギルドの廃止や囲い込みの禁止、流通の自由化などが図られたが、穀物流通の自由化や土地課税は王宮や地主階層の抵抗を受けて失敗に終わっている。また、産業革命が先行したイギリスとの関税の廃止はイギリス商品の大量流入を招いた。その結果、地主と農民の対立、都市ギルドと農村マニュファクチュアの対立、国家財政を基盤整備に用いず贅沢とそれが生んだ借金の穴埋めにしか用いないブルボン朝への批判へと発展し、フランス革命の遠因となった。

また、経済学においてはイギリスのアダム・スミスらの古典学派経済学の発展やカール・マルクスの社会主義経済学への批判的継承などに影響を与えた。その一方で、地主による資本主義的農業経営の中で既存の封建主義的システムが継続され、生産者階層である農民の土地所有を前提としていないことに注意が必要である。

(つづく)
メンテ
資本主義経済とは 3 ( No.66 )
日時: 2013/10/17 19:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:GVdAGM1Q

さて、近代経済学と言うものは、当初から社会学的見地からも省みられています。

「経済問題は性質上、価値判断や道徳・心理といった概念と分離する事は不可能であり、経済学は本質的に価値判断を伴う倫理学であって、科学ではないというものである」と言うような認識も取り入れられていた。
経済の停滞期(不況)の折、それを抜け出す為の方策が経済学の中心であったことは、即ち社会の人々の安寧を目的としていた事につながることで証明されている。

アダムスミスの神の手の発想も、ケインズの冨の再配分も、そうした見地から考えられている。
そのケインズが前項で「長期的にはわれわれは全て死んでいる」と言っているように、資本主義の経済システムが、生のままで放置されれば、やがて、それは行き詰まる事を看過していたのでしょう。
ハイエク以降の新自由主義経済の考え方は、こうした機能を軽んじてきた結果、現在の資本主義経済のシステムが、アチコチの国家、社会を破綻させようとしています。

そうかと言って、経済活動において「倫理」を持ち込んでも意味がないと言うことは、古典経済学の時代でも証明されていることであります。

その上に現代経済界の問題は、生産手段の発達による需要、供給のバランス、貿易の広域化、数的多量化がもたらす通貨の地域的バランスに齟齬をきたしているという現実が経済の理念に取り入れられていないと言う事です。
その結果として、世界中に多くの失業者を出していますが、経済の統計上では、需要、供給は滞りなくなされ、経済の規模も上向きで、好景気と言われている状態であっても貧困の問題を解決できないと言う事です。

これを「経済と社会」と言う関係で見れば、経済はその使命を果たしていないことになり、経済学、そのものの死滅を意味するのです。
世界中の多くの人々が「経済」と言う魔物に組み敷かれ悲鳴を上げているのが現代の様相と言えましょう。

これを解決する為には、古典経済学から連綿と続いている需要と供給のバランスと言う見地から経済を捉えることを辞めねばなりません。
辞めると言っても、人間性の本質から、実際に、これに変わる方途がないことも事実です。
人間の利己心を限りなく制限し、人間の経済活動を一定の法則に閉じ込める事が出来れば別ですが、それは、また別の意味の悲劇をもたらします。
こうした条件で、最終的な方法(共産主義のシステム)によらず、経済のシステムを考えられないかと言う事に立ち入ることも必要でしょう。

それは具体的には失業者を出さないという事です。
「社会と経済」と言う認識において、経済の分野の瑕疵を何らかの方法により(社会的=政治的)補完する方策を必要とする事です。
失業者が出る事が防げれば、古典経済学から続いている需要と供給のバランスを考えることによる資本主義経済のシステムを維持する事が出来るのです。

それは、国家が経済の領域に介入すること以外にありません。
ここで冒頭に掲げた資本主義である条件を再掲しましょう。
資本主義とか下記の条件が満たされている経済のシステムです。

• 私有財産制(民法体系による司法による財産権の法的保護、経済的自由権)
• 私企業による生産
• 労働市場を通じた雇用、労働
• 市場における競争を通じた需要、供給、取り引き価格の調整、契約の自由

この中で瑕疵が出ているのは、労働市場を通じた雇用、労働です。
生産手段の発達や経済のグローバル化ではじき出され、労働の機会(市場)がない多くの人たちがいるということであり、その人たちを福祉と言う領域で救済できなくなってしまい、彼等は市場主義経済圏から排除されていると言う事です。

人口の1/3くらいの人が参加できない資本主義経済体制は、もはや社会性を持っていないと言う事です。
それでも経済が自立していれば良いという認識であれば、それでもよいでしょう。
ですが、飽くまでも社会と経済は切り離すことは出来ません。
社会の破綻は、暴動と言う形で、必ず経済の破綻も、もたらすでしょう。

上記の資本主義経済のシステムを維持する為に国家が介入しなければならないと言いましたが、具体的にどのような方法が考えられるのでしょう。

一つはベーシック・インカムにより、労働市場からはみ出した人々に生活費を支給する事です。
彼等は、其れによって再び需要という領域で経済のシステムに参加できます。
供給側に回れない片手落ちの参加ではありますが、国家が生活費支給と言う役割でこれを保証し資本主義経済のシステムは続ける事ができます。
もう一つは、国家が事業主(雇用主=企業)となって、失業者を雇用する事です。

ケインズの公共事業論は、冨の再配分と言う見地から、それをする事によって経済の停滞(不況)を乗り切り、良好な経済活動を維持することを目的とするもので、必要が無くなれば撤回すると言うものでした。
ですが、今日の経済界の状況は、好景気となれば、殆んどの失業者を再雇用できると言うような状況にはありません。
多くの失業者を再吸収できるほど、新しい産業の興隆も望めません。
かつて大恐慌を乗り切った経験は、その後の自動車、家電製品の普及と言う、現在に見られるような物流の大転換があったからです。
その物流の大展開が出来たのは、人間の毎日の生活に即した、所謂、衣食住の分野の充実であったからです。
同じ事をサービス産業の分野に期待する事は出来ません。

ベーシック・インカムにしろ、政府による雇用にしろ、生きるための生活に疲れた人たちにとっては、この上もない救いですが、これには別の問題も出てきます。
ベーシック・インカムでは、人々は生きるための苦労から開放され、不断の努力、勤勉さを失い、強いては精神の謙虚さもなくし、弛緩した精神は人間として我がままになり、結果、社会の頽廃をきたらし犯罪を多発させます。

国家が雇用主となる場合は、財源の問題が大きく立ちはだかります。

通貨の無条件な増刷(所謂、ヘリマネ政策)が必要になり、金融面で現行の資本主義経済のシステムに大きな影響を与える事になるという問題です。
ですが、ほうっておけば、どのみち行き詰まる資本主義のシステムです。
領分を策定すれば、大いに妥協することは出来ると思います。
少なくとも、そうしたことを真剣で検証しなければならない時代であるのではないでしょうか。

マックス・ヴェーバーが最初に指摘したにも関わらず、その後の殆んどの経済専門家は現実の経済の後追いをするだけで、とりわけ金融政策を経済の問題の主軸と決めつけ、ユダ菌の言いなりになって来ました。
そんな学者共にノーベル経済学賞は全く必要はなかったのです。
彼等の報償などユダ菌から出してもらえば良かったのです。
他の領域の科学は時代と共に人間の幸せに寄与してきましたが、経済学だけは人間社会の終末を早める為に活動して来たのです。
ここに、全ての経済学説を否定すると共に新しい経済を模索することを勧めます。

(終わり)
メンテ
読後感:セーの法則とケインズ一般理論 ( No.67 )
日時: 2013/10/17 20:27
名前: 満天下有人 ID:n9E9WhEs

供給が需要を産み出すと言うセーの法則をケインズは、「貨幣が存在しないような物々交換の経済を想定して初めて妥当する」と批判しながら、貨幣、利子、雇用の一般理論を構築しました。

そして需要を産み出す消費も、その性向は人々の嗜好、習慣、社会的文化的諸条件によって左右されるとも言っています。現代の画一化されたグローバリゼイションの弊害を既に暗示していたと思われます。

現在の経済学の停滞は、人間経済行為が持つ長短相交わる過去の遺産と、将来への転換への歴史的時間の狭間に入って、断層を作ってしまっている様相を感じます。

ケンインズ自身も、資本主義経済の構造を、生産、供給、需要、消費性向、貯蓄性向、それに影響する貨幣の利子率、それも短期的には解明できるが、長期については分からない、歴史的な取扱いでしか予測できない(一般理論P306)と言ってます。

その線上で雇用、そこから生じる所得、資本の投資に関連する利子率=資本の限界効率は、全て(当時の)現在の経験的知識に基づいて導き出されたものであって、「変えることが出来ない不可避的な必然的な法則ではない」と言っています。

第24章・社会哲学に関する結論的覚書(P372)では、一般理論着手の思想的背景について、「われわれの住んでいる社会は、その顕著な欠陥として完全雇用を実現出来ず、富と所得の分配が恣意的で不平等であると言うことが出来る。・・・・・・・・経済学、哲学に携わる者たちの考えは、正しい時でも誤っている時でも、実はこれらが世界にとって最も重要な思想であって(その意味で、しかし)これに携わる人々が、既に陳腐化した経済学の奴隷になっている事が多い。(P387)

橋立さんが挑戦されている所は正に、ここにあるものと思います。ケインズは若干ですが税についても触れていますね、それもまた橋立さんが立てられた「税法改正の為のスレッド」の意図にも関係して来ることでしょう。

私なりのスレッド読後感でした・・・。


メンテ
経済の話し<歴史の狭間 ( No.68 )
日時: 2013/10/17 20:55
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:GVdAGM1Q

満天下さん、早速有難うございました。

私の意見は、ネットでの資料に頼り十分な検証が出来ていない事ですが、何時もの通り、それを補完して証明していただきありがたく思います。

少しは自信を得て、理論を続ける事ができます。

ケインズについてもネットで得られる表層の資料では判りませんが、現代経済学の瑕疵を当時、すでに洞察していたことをしり、マルクスのそれも、トインビーのそれも合わせて、さすがに大巨人を思わせます。

>現在の経済学の停滞は、人間経済行為が持つ長短相交わる過去の遺産と、将来への転換への歴史的時間の狭間に入って、断層を作ってしまっている様相を感じます。

上記の文章は、満天下さんの思いと思いますが、
「将来への転換の歴史的時間の狭間」と言う現代の認識について、いたく考えさせられます。

狭間を乗り越えた時の経済とは、私が言っているようなものとは思いません。
それは、かつてのケインズが言ったように、責任を持って言える事ではないでしょう。

が、おそらく、SF映画に出てくるような、物資の生産は、殆んど中央管理により、コンピューターとロボットが行い人間は、ただそれを管理しているだけの社会と思われます。
その時代の経済とは、現在とは似ても似つかないものであると思います。
問題は、その様な社会になった時、人々は、どうして毎日を過ごせるかと言う事です。

まあ、これは2〜300年先のことでしょう。
文明史的に観れば、確かに狭間ですが、容易な狭間とはならないようですね。

メンテ
Re: 経済の話し<歴史の狭間 ( No.69 )
日時: 2013/10/17 23:29
名前: 満天下有人 ID:n9E9WhEs

ケインズ自らが自分の理論も長期では適合するか分からないと言ってることから、ただ今ではその理論が当てはまらない現象に覆われ、だが新たなものがまだ出て来ない・・・長いスパンで見ると、いわば狭間に入っている、いや落ち込んでしまっている光景に見えたものですから、歴史の狭間なる言葉を使ってみました。

そして、ケインズが更に指摘したように、「現在の経験値からしか判断できない要素もある」ことから、当時の経済構造の中に居た彼としては、将来の要因予測にまでは触れていなかった所に、やや物足りなさも感じますね。

それが正に橋立さんが言われるロボット時代では、どうなるかと言う命題になって来ます。

もう10年も経ったでしょうか、思い出したのがあのヤフー時代に、トキメキとか言う変なお姉さんによく絡まれましたね(笑)。あの時、橋立さんは既に、ロボット時代になったら賃金はどうなるのだろうとの命題を出されておりました。
私がロボットと人間の労働価値についてほんの冗談で触れたら、取り巻き連中が、ロボットに給料を払うなどと荒唐無稽なことを言うなと、噛みついて来たことがありました(笑)。私のユーモアを勘違いしたのでしょう。

ロボットが生産を行いだしたら、人間の労働はどうなるのだろう・・・あれ以来、折に触れて労働価値説に基づき、新たな人間労働価値説の理屈が構築できないものかと考えてはみましたが、取り上げねばならない与件が多すぎて、まだまだ入口をウロウロしています(笑)。

労働価値説を軸にロボットによる生産を考えて見る時、順序として、ロボットを先ず創らねばなりません。その第一次ロボット生産に、労働の価値=対価が入る。そしてそのロボットが次の生産を行うとして、第二次ロボットにも第一ロボットに含まれた労働の価値が、第二段階では「死せる労働価値」であっても、そこにも含まれている筈だと言う理屈は成り立つと思うのです。つまり、労働価値の分配をどう理論化し計算するかによります。

現在のGDPが、各分野における労働価値も含めた付加価値計算の集合で成り立っている訳で、そこをロボット時代に当てはめてみて、理論化出来ないかと言う事です。

ただし、生産分野ではかなり理屈化の可能性はあっても、サービス産業分野では、どのように理屈化できるかが難題になります。
マルクスの労働価値説は、生産なるものは資本、それとて過去の労働の産物であるから(過去の死せる労働)には、全て労働がないと成立しないということに着眼し、そして経済なるものが人間の社会的平均的生活の維持で成り立っているからには、労働の価値は、労働の再生産に繋がるものである筈だし、またそうであらねばならないと言うのが、その理論でした。

私はそれをもじって、労働価値とは、人間の労働の再生産を可能にし、それによって計算されるべきものでないとだめだと、一貫してそのように考えて来ました。そう考えると、技術の発達によって人間労働が排除されるのは、実におかしい・・・省力化によって生産物の価値が維持されるのなら、その付加価値から、一般的に言うところの労働に対しての還元がなければならない。

ところが資本主義的生産関係では、そうはならない、させない。そこをどうするかとなると、現在の理論以上のものが出ないと実現不可能なことになる。いや理論だけではとてもじゃないが、出来ない話だ・・・となると社会体制が変革しない限り、利潤概念に新たな価値観が加わらない限り、妄想に終わってしまう。資本側だけでなく一般人間とて、概念を変え得るものなのか(橋立さんが言われる利己心というやつです)。

現行体制の中でとなると、ロボットの登場は恐らく、資本の蓄積にしか向かわない筈です。ただでさえ資本利潤と株主利潤が基準におかれているのですから・・・敢えて現行体制の中でとなると、前にも申しましたように、社会政策面で労働価値の再分配を規定するしか方法が無いことでしょう。その為には国を挙げて、いや世界を挙げて喧々諤々の議論を要することでしょう。でも革命でしか解決できないことでしょう。

ケインズも、労働価値の現実形を賃金と捉えて、貨幣賃金と労働賃金について考察しておりますが、あくまでも利子率概念からの考察で、もっと根本的な命題から労働の対価には触れていないようです。その点では、労働の価値を根本哲学から考察したマルクスに、一日の長があるやに感じます。

ロボット時代における人間労働の位置付を考える時、やはりケインズの賃金論よりマルクスの労働価値論の方が、基本命題を構築してかからないとロボット生産に対抗できない時、色々と考えるヒントを与えてくれます。ロボットとて、人間による産物ではないのか、私の場合はそこを起点に考えることにしています。でないと人間社会が成り立たなくなると思うのです。

・・・ではロボットがロボットを生産し、そのロボットが全ての経済行為に関わってくれば、どうなるか・・・となると、もう橋立さんか後世の方が考えてください(笑)。

メンテ
経済の話し<歴史の狭間の入り口にたたずんで! ( No.70 )
日時: 2013/10/17 23:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:GVdAGM1Q

アッハッハ

ロボットの労働価値説。

確かに狭間においては、それを確立する必要も出てくるでしょうね。
私は、狭間の前半を受け持ちます(新しい公共事業論で)。
その後は、次の時代が開くまで、満天下さんに任せましょう。

メンテ

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