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[1711] 経済の話し
日時: 2013/03/12 23:22:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:1363098145

最近、阿修羅掲示板に良く投稿される「あっしら」のサイトへ行ってみました。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/index-as.htm

HNは「あっしら」と名乗られているが経歴は解りませんが、資本主義経済のシステムが持っている色々な矛盾を説く解す能力豊かな、経済に強い確かな方と見受けしました。
その一部を転載します。



「供給=需要」の向こう側 <想像力から創造力へ> S子
         
「利潤なき経済社会」を興味深く、また、意義深く読ませていただ
いております。資本主義経済において、結局、私たちが見誤ったも
のは、マネーにおける「目的」と「手段」をはき違えたことにある
のは間違いないだろう。経済活動における潤滑油とはマネーであり
、そのマネーが滞ることなく流通し、循環してこそ経済の活性化を
見ることができ、個々人としての生きる活動も活発化してくる。

それはまるで私たちのからだを流れる血液のようなもので、血液が
さらさらの状態であれば私たちは健康で日々を無事に過ごすことが
できる。が、血液がどろどろ状態になり、この流れが悪くなり脳で
詰まれば脳梗塞が起き、その部分の脳組織が壊死してしまい、私た
ちは失語症になったり、半身不随になったりする。

資本主義も当初はマネーがモノを交換するための「手段」として流
通していたが、資本主義が成熟してゆくにつれて、いつの間にか「目
的」と化した。マネーの目的化はつまるところ全てを目的化させてし
まい、私たちにあらゆるものの「本質」を見る目を喪失させた。
これは事実である。

そして、それが「供給=需要」という経済活動を必然的に生じさせ
、モノに溢れた社会が誕生した。「供給=需要」という経済活動は
よくよく考えてみれば、「与えられた人生」を送ることになり、
そこには自主性や主体性はなくても私たちは「与えられたモノ」を
購入し、そこそこ無難な人生を送ることができる。

私たちが無難だと錯覚し、安心してしまうのは、周囲が皆「与えら
れたモノ」である「同じモノ」を持っているからである。つまり私
たちは「与えられた、同じモノ」を持つことによって人生の安定や
幸福の尺度をはかっていた可能性がある。「供給=需要」という経
済活動では、人間の欲求すらも本質から遠ざけてしまうということ
である。

本当に自分が欲しいモノだったのか、他人が持っているから欲しい
のか、テレビコマーシャルで見たから欲しくなったのか、売り込み
にきたから購入したのか、ないと困るほどではないがあって困るほ
どでもないので購入したのか等、心から欲しているものではなく、
供給されたから需要したという構図が自然と生まれる。それを自分
の欲求があったから買ったと、私たちは錯覚しているにすぎない。

こうして私たちは「与えられた人生」を無難に安定して生きること
で、「危機感」を抱くことなく日々を過ごし、人生を終える。人間の
三大欲求であり生きる基本の「食・性・寝」も既にこの「供給=需
要」という経済活動に組み込まれ、マネーの目的化とともに人間と
しての本能を私たちは喪失しかけている。現代人はこの自覚すらも
ないという悲しい状況におかれているのである。

しかし、マネーの目的化による「供給=需要」という経済活動では
経済成長が持続できないどころか、経済の空洞化を生み失業者を増
加させ、個人としての生きる活動が阻害されてしまう。そのことに
気づいたのが、今回の欧州連合憲法批准拒否の仏国民である。拡大
EUの存続に待ったをかけた格好となったが、「危機感」を抱いた彼
らの人間的本能はまだ廃れていないどころか、十分に健在である。


(中略)

ひるがえって日本を見れば、「供給=需要」人生が非常に行き届い
ており、大人も子供も主体性をなくし、自信喪失し、想像力にも欠
け生きる気力も無い状態に置かれている。だから米国の言いなりに
しか生きることができないのである。「供給=需要」という「与え
られた人生」を送ることは確かに楽ではある。が、そこには「自分
」というものがない。この人生を生きる「自分」がないのである。

だから真の喜びや真の悲しみを味わうことはまずないだろうし、
そこそこ無難で安定した人生を送ることで「危機感」を覚えること
もまずないだろう。実はそれこそが問題なのである。「危機感」を抱
くこともなければ、正直な話がまともに「自分」とは向き合えない。
「自分」という人間のこともわからずして終える自分の人生って一
体何??ということになる。

マネーが目的化されることで「供給=需要」という経済活動が必然
的に生じ、「与えられた人生」を送ることで私たちは主体性を失い
、自信を失い、生きる源泉ともいえる想像力までも失った。また、
そういう場所さえも失った。想像力を失えばこの世で実現する創造
物さえもなくなるのである。つまり来るべき未来が描けない。

「利潤なき経済社会」ではマネーを手段に転落させることで、資本主
義の論理が大きく揺らぐだけではなく、世界の構造が大きく転換し
てしまう。これまで築き上げてきたもろもろが崩壊に直面している
と言っても過言ではない。それは日本が明治維新以降追求してきた
西洋文明であるかもしれないし、合理化の名のもとに推進されてき
た科学万能主義であるかもしれないし、それを基点とした物質文明
であるかもしれない。

「供給=需要」人生で「危機感」を抱くこともなくなった私たちが
、価値観の転換をはかることは容易にできそうもないのは明白だ。
しかし、マネーの目的化による「供給=需要」経済活動では世界は
やがて行き詰まる。価値観の転換は時間も要するだろうが、案外石
油の枯渇がその契機になりはしないかと、私は密かに思っている。
その「危機感」が「自分」と真剣に向きあうことになり、それが男
女双方への理解へと向かわせる。そこから男女双方の想像力が生ま
れ、それが創造力へとつながり実現化し、新しい未来が描けるとい
うものである。

(引用終わり)
メンテ

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Re: 経済の話し ( No.1 )
日時: 2013/03/12 23:30:53
名前: 天橋立の愚痴人間

同じサイトから別の話し。


「利潤なき経済社会」とは

【「利潤なき経済社会」を生きる】
「利潤なき経済社会」とは  (その2)     あっしら

「匿名希望」氏のレスに基づき、「利潤なき経済社会」がどういう
ものか再度説明したい。

>貴殿の言われる「利潤なき経済社会」と言うのは何となくイメー
>ジすることはできますが、誤解の余地なく明確に把握し議論する
>ためには、例えば次のような点をクリアに伝えるべきかも知れま
>せん。

>1.利潤の定義(通常は総収入−総支出。貴殿は違う意味で使って
>おられる。経常黒字との関連も指摘しておられるが、経常黒字は
>「通常の意味での」利潤とは直接結び付かない。例えば利潤を生
>まない輸出もありうる。)

>2.利潤が得られなくなる理由(今、ないし通常なら得られている
>、という含意。今と何が変わるのか。)


まず、「利潤なき経済社会」という表現のなかで使っている利潤は
、再資本化されない利潤を意味しており、間接的であれ再生産に向
けて投じられる利潤は、利潤ではなく資本化原資の拡大と捉えてい
る。
(不況期は利潤として保有され、好況期になれば資本化されるとい
うタイムラグ性ならこれまでもあった)

また、「利潤なき経済社会」でも、個別経済主体の利潤獲得可能性
は認めており、それに対立する国民経済としての利潤非存在を問題
視している。

「利潤なき経済社会」は、「匿名希望」氏の“総収入−総支出”を
援用するならば、国民経済が“総収入=総支出”になるということ
である。(総支出=総収入が的確な表現)
以前からセイの法則を持ち出しているが、「供給が需要を生み出す
」という考えに基づけば、「供給がそのまま需要となる経済状況」
であり、(供給=総支出)=(需要=総収入)となる均衡状態であ
る。
この均衡状態で前述した意味の利潤が発生すれば、国民経済は縮小
することになる。

国民経済内に“余剰通貨”が存在しない(もしくはそのまま放置さ
れる)とすれば、個別経済主体レベルではなく国民経済が
(供給=総支出)<(需要=総収入)という条件を満たすのは、
唯一、貿易収支が黒字のときだけであるから、国際取引(貿易)の
黒字は重要である。

具体的な説明としては、通貨ベースで(供給=総支出)=(需要=
総収入)であるのに、貿易黒字が財ベースの国内供給<総供給を生
みだすことで、通貨ベースの(供給=総支出)<(需要=総収入)
が実現されることになる。
これであれば、財ベースの供給−国内供給が通貨ベースの供給<需
要のかたちで利潤となり、国内収入=国内需要=供給=総支出が輸
出分を含む再生産のための資本化必要額になるので、獲得した利潤
をどう使おうと国民経済が縮小することはない。
別の表現を使えば、供給成果財の一部を国民経済の外に出すことで
財1単位の価格が高くなり、それにより国内需要で供給=総支出に
見合う通貨が回収でき、外部国民経済から支払われる通貨的“富”
を国民経済的利潤として獲得することができる。

究極的に国民経済的利潤が存在しなくなる理由は、偏に、貿易収支
の黒字がなくなることであるが、そこまで行き着かなくとも、近代
経済論理から生じる“余剰通貨”(利潤の非資本化)問題で国民経
済的利潤が存在しなくなる。

(供給=総支出)=<(需要=(国内収入+貿易黒字))もありえ
るから、貿易収支が黒字であっても、必ずしも国民経済的利潤が獲
得できるわけではない。
このような経済状況は、供給力>供給になり、(供給=国内需要)
+貿易黒字=<(総支出=非十全供給力)になることでも発生する。
供給力=供給であっても、投資されない貯蓄の増加や金融取引に滞
留する通貨の増加により生じる供給>需要のギャップが、貿易黒字
より大きければ同じであり、供給力>供給に陥る。

国民経済がデフレになるのは、国内需要+貿易黒字<(総支出=非
十全供給力)に陥ったときであり、供給力過剰をベースに、
供給>需要もしくは(かつ)貿易黒字不足に陥ったときと言える。


(供給=国内需要)+貿易黒字=<(総支出=非十全供給力)とい
う国民経済に利潤が存在しない状態で個別経済主体が利潤を獲得す
るとすれば、別の個別経済主体が、(供給=総支出)>(需要=総
収入)になることを意味する。
(供給と需要のズレによる“通貨の移転”である)

これが、現在的経済価値観に基づいて追求されれば災厄になるが、
最初に書いたように、利潤獲得者が何らかの方法で再資本化すれば
利潤ではなくなるのだから、需要動向に対応した産業構造の変動力
として作用することになる。


国民経済が経済成長を遂げる唯一の方法は、就業者人口が一定だと
すれば、「労働価値」の上昇のみである。そして、「労働価値」上
昇=経済成長が近代経済論理(“資本の論理”)に適合するかたち
でスムーズに持続できるのは、「労働価値」の上昇に連れて貿易収
支の黒字が増加する場合のみである。
貿易黒字の増加がなければ、「労働価値」の上昇は、同一量の財を
生産(供給)するために必要な労働力の減少を意味するので、デフ
レ要因(財供給量>需要=供給)及び失業者増加要因(デフレ要因
の供給サイドへのリアクション)となり、デフレスパイラルに陥る。
ベースに供給力>供給>需要という構造があるから、デフレスパイ
ラルは、供給力>供給のデフレギャップ部分をより拡大するため、
経済主体の破綻=不良債権の増加を招くことになる。

このような経済状況を解消する方法は、「労働価値」の上昇に応じ
て財の供給量の増加につながらないかたちで供給を増加させて、
財供給量=需要=供給を実現させるしかない。
端的には、給与の増大である。
(財の供給量減少による調整は、単にさらなる低レベルでの財供給
量>需要=供給にシフトさせるだけである)

財政出動による需要の増加でも対応可能だが、赤字財政の拡大がで
きないのであれば、それは増税で行わなければならない。その増税
も、資産税というストック課税ではなく、(黒字)法人税の増税で
なければ、持続的に対応することはできない。(単発という割り切
りで資産に課税することは容認できるが...)

(赤字)法人への課税強化は、破綻であれ自主的なものであれ供給
力の削減には寄与するが、供給力と同時に供給=需要の削減と先行
き不安感による需要削減をもたらすので、問題(デフレ不況)を解
決しない。
需要サイドで解決を図るのであれば、政府が“国内で資本化しない
”個別経済主体の利潤をできるだけ吸い上げる政策を採らなければ
、デフレスパイラルから脱することはできない。

“国内で資本化しない”利潤を保有している個別経済主体は、政府
に吸い上げられるか、自ら従業者の給与を上げるかしなければ、デ
フレスパイラルのなかで自らの経営基盤も劣化させていくことにな
る。

(続く)
メンテ
Re: 経済の話し ( No.2 )
日時: 2013/03/12 23:33:07
名前: 天橋立の愚痴人間

「利潤なき経済社会」は政策で好ましい経済条件を実現できるもの
であり、旧態依然とした経済価値観にしがみつくことで継続してい
る現在の「デフレ不況」は、「利潤なき経済社会」とは比べること
ができないほど酷い経済状況である。


>貴殿は新たな経済社会になった後も、官僚統制(visible hand)は
>必要ないとされる。
>即ち、invisible handだけで経済運営は可能と考えておられる。
>これはとても楽観的な見方だと感じました。
>貴殿の問題提起される、「余剰通貨」が実体経済に還流して行か
>ずそれが故にデフレ問題を起しているという指摘は大変重要です。

>この問題を全面的に官僚統制で乗り越えようとすると計画経済に
>なります。そしてそれがうまく行かない事は歴史的に証明されて
>います。私の考えでは、見える手と見えざる手の双方を相互補完
>的に機能させることが重要だと見ています。従って、政府の仕事
>としては、見えざる手が十分に機能するための環境整備(供給側の
>再構築の後押しや諸規制や法制面の見直し)、見える手の刷新(効
率性を重視した公共部門の改革と新たな公共サービス・プログラム
>の提供)を併せて打ち出すことが重要と考えます。


「マクロとして利潤が得られないという経済条件のなかで、経済主
体の経済的活動=財の生産と交換を活発に行いながら国民生活の充
実を図っていけるようにするかが、私のグランド・デザインのテー
マです。そして、そのような経済条件でも、官僚統制に依存するの
ではなく、市場=交換と競争を通じてそれらを実現する方法を構築
すべきだと考えています」という主張へのレスだが、近代経済論理
で利害対立的に動く経済主体を調整できるのは政府(=官僚)だけ
だと考えているので、「匿名希望」氏の考えと基本的に同じである。
(「官僚依存病」からの脱却を望んでいるだけである)


>別のところで貴殿と続けている減税是非論争もここにまとめてレ
>スします。2兆円の法人税減税(個人の可処分所得を増大させる目
>的に限定)が10兆円の消費増にどう結びつくのか、という根本的な
>疑問はさておき、概括的批判のみを提示します。90年代半>ばの
>所得税減税の結果明らかになったことは、それが恒久的な措置で
>ない限り(即ち、後から穴埋めの増税を行う事が予定されている時
>)、全く有効ではないということでした。そして、税率は下げても
>税収は景気が良くなれば増えるから問題ない、などと根拠のない
>無責任な財政運営などできないことは明らかです(ゆえに、恒久化
>措置などおいそれと出せません)。ラッファーの進言に基づいてこ
>れを行い失敗したのが初期のレーガン政権でした。

増加させた人件費の半分を所得から控除するという“詐欺”的な法
人税減税に優良企業が乗るのかというのが評価を巡る最大の対立点
だと思っている。
(「匿名希望」氏は、企業は“詐欺”には乗らないという観点から
、「根本的な疑問」を持たれていると推測する)

2兆円の減税は10兆円の人件費増加で行われるものであり(10
兆円/2*40%=2兆円)、それに「低中所得者減税」3兆円を
プラスした13兆円のうち77%が消費に回るという想定で10兆
円の消費増を提示したものである。
そして、給与増加や可処分所得による消費増が、所得税・消費税・
法人税の増収をもたらすが故に、恒久化も可能な減税策だと考えて
いる。(“詐欺”的法人税減税は経済論理の理解が得られたら廃止
しても構わない減税である)
所得税や消費税は理論値的な増収になるが、法人税は、損益分岐点
あたりで経営している企業が多いので、10兆円の消費増で大幅な
増収になる可能性がある。

逆に言うと、この政策で減税分2兆円を上回る税増収が得られなけ
れば、日本経済は再生力を失っていることになる。

前述した、「“国内で資本化しない”利潤を保有している個別経済
主体は、政府に吸い上げられるか、自ら給与を上げるかしなければ
、デフレスパイラルのなかで自らの経営基盤も劣化させていくこと
になる」ということを政府が税制で問いかけることが主たる目的で
、2兆円という“おまけ”まで付けようという“慈悲深い”政策で
ある。

利益を上げているフロー優良企業からしか持続的に税収は上げられ
ないのである。そうでない増税策は、「デフレ不況」をより悪化さ
せるものであり、増税にも関わらず税収を減少させる政策である。
(これも、「匿名希望」氏とのやり取りで最初から訴えかけている
論理で、98年から本格化した「デフレ不況」と税収減少の要因が
、97年に決定した税制変更(消費税率アップと低所得者負担増)
にあることをデータとしても明示している)


>戦後の復興期と成長期を経た日本経済は成熟を迎え、転換期にさ
>しかかりました。バブルの生成と崩壊はこの問題をさらに深刻化
>、先鋭化させました。あらゆる政策にも関わらず日本経済を建て
>直す事はできず、ケインズは死に、マネタリズムは有効性を失い
>、減税も持続的な刺激となりえないことが明らかになりました。

ケインズ主義やマネタリズムの“死”には同意するが、高所得者減
税が刺激となり得ないのは、レーガノミックス的サプライサイド政
策の“死”を意味するとしても、低中所得者減税の有効性が死んだ
わけではない。
89年の消費税導入と98年の消費税率アップにより、標準家庭年
収800万円以下の家計は、同一年収額でも可処分所得を減少させ
ている。


>この上は過ちを繰り返して国家財政をさらに悪化させる方向では
>なく、国家一丸となって再び活力のある仕組み作りに邁進すべき
>です。産業基盤がまだ磐石なうちに改革方向へ向かって漕ぎ出せ
>ば、万一デフレ・スパイラルが進行した場合でも徳政令的な手(政
>府紙幣など)が打てます(産業基盤さえ確保できていれば、ハイパ
>ーインフレにはなりません)。

ここ2、3年のうちに仕組み=構造を変えないと、徳政令がハイパ
ーインフレを誘発しかねない経済条件に移行しかねいと思っている。
給与増大による供給増加=需要増加策ではなく、政府主導で「構造
改革」をするとしても、給与増大に見合う優良企業からの増税
(+資産税)を原資にしなければ、デフレ不況が進むだけであり、
「構造改革」も達成できない。

政府紙幣は、ある意味で近代経済論理(とりわけ管理通貨制)を否
定する政策なので、覚悟を秘めた“国家一丸”が必要になる。(米
国が経済的に行き詰まって先行的に実施すれば問題ない。そのとき
には、対米徳政令も実施すべきである)


>その一方で既に成熟化した日本経済で持続的成長を確保するに十
>分な個人消費の成長は望みがたく、国民経済全体における支出構
>造を変換させる必要があります。そのためには政府部門支出比率
>の増大(実際の提供サービスは必ずしも官営である必要はない)と
>増税が不可欠で、国民が老後死ぬまで不安を感じないシステムを
>政府が明示しなければなりません。

低中所得者の可処分所得の増大は、今なお、個人消費の成長に寄与
するものである。それは、量的拡大ではなく質的向上というかたち
であり、住環境を重点にした公共投資と並行的に進めることで、日
本経済のそこそこの持続的成長に貢献することができる。

政府部門支出比率の増大のためには増税(税増収)が不可欠だが、
誰(何)をターゲットにするかで可否が決まる。政府税調的な増税
策は、「デフレ不況」を悪化させるものであり、税収も減少するこ
とになる。

国民が死ぬまで安心して生活できる国家構造を造るためには、まず
、「デフレ不況」から脱却しなければならないのである。(政府紙
幣は使わないとして...)


従来的経済価値観から抜け出し、経済論理をきちんと見直すという
過程がなければ、日本人の“近代化”は成し遂げられず、わけもわ
からないままうまく乗り切ったで終わってしまうことになると考え
ている。

もちろん、そんなことよりも、現実に生きている人たちの生活のほ
うがずっと重要な問題だから、合理的な解決策ならばそれを否定す
るものではない。
(政府が箸の上げ下ろしまで指図しなければならない国民がはびこ
ることになるが...)


(引用終わり)
メンテ
Re: 経済の話し ( No.3 )
日時: 2013/03/12 23:37:12
名前: 天橋立の愚痴人間

もう一つ、同サイトから転載。



自由主義経済の幻想を見抜いた仏国民     S子

 仏が欧州連合憲法批准拒否で、EUの存続に黄信号が灯った。その
要因の根底にあるのはどうやら低賃金労働力の波及にあるようだ。
低賃金労働力を求めて経済拠点が先進国から中・東欧に移動し、先
進国の労動力が奪われ、失業者を増加させ、経済の空洞化を生んで
いる。拡大EUに伴い単一通貨ユーロで自由主義経済をはかり、競争
促進による経済活性化をみたが、思わぬ落とし穴に陥ったといった
感は否めない。

この憲法では、EUの目的のひとつを「高度に競争力のある社会的な
市場経済」の実現と規定しているようだ。結局、仏国民は憲法拒否
で自由主義経済よりも高度福祉を選択、優先させたということだろ
う。自由主義経済の競争によるゆとりのない生活を送るよりも手厚
い福祉でのんびりとした生活を楽しみたいという仏の国民性が見て
取れるが、そこにはもちろん矛盾もある。経済が活性化しないこと
には高福祉も当然ながら受けられない。

F氏が指摘しているように「自由主義経済の幻想」は確かにあると私
は考える。そこにあるのは、「自由主義経済」という言葉によって
私たちが捉える印象、認識なりと、自由主義経済が実行されてそこ
に実際に起こる現象との相違性、または乖離性がある。つまり、心
で想像していたことと現実に創造されたことに「ズレ」が生じたの
である。

「自由」という言葉は私たちに何かしらスムーズに拡大して広がる
様を連想させる。それはまるで肉体に閉じ込められた魂が解放され
るような快感を私たちに覚えさせるものである。ところが、実際に
自由主義経済が行われてみて、私たちが実感したものは低賃金労働
力という競争だった。低コスト、低賃金で生産価格が少しでも安価
であるほうが自由主義経済では優先されていく。高コスト、高賃金
で高価な商品は敬遠されてゆき、先進国での失業者は増加し、私た
ちは自由に解放されるどころか、反対ににっちもさっちも行かなく
なって行き詰まってしまった。

拡大EUで低賃金労働力によってEUの中心的存在の仏が危機感を抱い
たことの意味は大きいだろう。自由主義経済における価格競争、マ
ネー戦争、それは換言すれば低賃金労働力の波及にすぎず、低収入
を意味する。つまり、この低価格競争に勝って経済の活性化を見る
こと自体が幻想でしかないということである。低収入になれば当然
生活の質のレベルは下がり、国民は追い込まれてゆく。が、生活の
レベルは下がっても手厚い福祉で生命の保障はきちんとしてもらい
たいのが、人間として生きるには当然の権利、主張だろう。

そして、その経済を担っているのは所詮人間でしかないのだから
そこをよく配慮せよと、仏国民は言っているのではないのか。自由
主義経済という言葉で国民を酔わせ、非人間的な生活を強いるので
はなく、血の通った暖かい人間的な生活を保障せよと訴えているの
ではないのか。




利潤なき経済社会2−まず必要な価値観の転換  あっしら

「利潤なき経済社会」と「利潤獲得を目的とした経済活動」は、ま
さに矛盾するものであり、一つの社会のなかでは両立し得ないもの
である。となれば、経済活動も終焉を迎えるのかと言えば、それは
国民あげて生存を放棄することを意味するからあり得ないことであ
る。

では、何を目的として経済活動を行えばいいのかという問いが生ま
れる。

今でも個々人の経済活動が経済学的目的ではなく様々な“目的”で
あるが、国家=共同体が基礎とするもしくは許容する目的は、それ
なりに統一されたものでなければならない。

問いの答えにはならないが、「経済活動が目的ではなく手段になる
」必要があると考えている。経済活動が国家の目的ともなり、その
経済活動が利潤獲得を目的としたものであるという現状から、「経
済活動は共同体=国家の成員ができるだけ快適に生きて死んでいく
ための手段である」との認識=価値観が共同体=国家の意志になら
なければならない。

そして、経済活動が残るように、市場も残る。
市場とは、個々人の活動力を交換する仕組みであり、家族や地理的
に狭い共同体が自給自足の経済活動を行っているのなら別だが、直
接的には目に見えない他者の活動力に依存しなければならないので
あれば不可欠のものである。(自給自足的な経済生活を否定するわ
けではない)
市場はそういう機能でしかなく、機能でしかない市場を崇拝する市
場主義的価値観は、インターネットという仕組みを崇拝するような
ものである。

利潤追求を目的とする経済活動が手段に“転落”することで、新し
い経済システムが生まれ出るのではないかと夢想している。



GNPよりGNH〜国民総生産より国民総幸福 (2003/03/10)
ttp://www.keicho.com/world/bhutan2003-3.html

 開発援助に携わる我々の間では、ブータンに関するちょっと有名
な話があります。それは、「ブータンは国家の目標として『GNH
(Gross National Happiness〜国民総幸福)』を追求する」と内外
に宣言していることです。「GNP(Gross National Product〜国民総
生産)」ではなくて、「GNH」です。要するに、国家の役割は経済一
辺倒の発展を達成することではなくて、国民の幸福を最大限に導く
ことだという素晴らしいコンセプトです。

 このブータンの国家コンセプトは、僕なんかが聞くと非常に共感
できて、正に国家の理想の姿のように思えますが、多くのエコノミ
ストにとっては、とてもユニークでどうも訳のわからないものなん
だそうです。そういったエコノミストの中には、「そもそも幸福の
定義は何なのか」とか、「GNHが国家目標なら、その達成を測る指標
はあるのか」といった質問をする人がやたらに多いです。特に、西
洋的価値観に基づいた教育を受けてきた人は、こういうことを言う
ような気がします。今回ブータンに来てからも、僕のチーム内で似
たような議論になりました。僕の個人的な意見を言わせていただけ
れば、幸福の定義なんて一人一人違うんですよ。僕が幸せと感じる
ことも、他人は幸せとは感じないかもしれないでしょ。あえて定義
を探せば、「幸せとは、欲求と現状のギャップが小さいこと」を言
うんでしょうね。欲が無く現状に満足していれば、貧しくとも幸せ
を感じることはできるでしょうし、逆に、いくらお金持ちで物質的
に恵まれていても、欲が深ければ幸福感は少ないかもしれません。
従って幸福感は精神的なものに大きく左右されるので、そんなもの
を測る指標なんてあるわけないのです。

 だからブータンを見習って、GNPなんていう指標で国家の発展度
を測るのは、もうやめにしませんか。そもそも、経済的豊かさと幸
福感の間に相関関係はあるのでしょうか。GNPが高い日本の国民は、
GNPが低いブータンの国民より幸せなのでしょうか。GNPよりGNH。
ヒマラヤの小国ブータンが、世界に大きな問いかけをしています。

(Fのコメント)
どうも経済の指標を幸福としたらというブータンの問いかけを見直
してみる価値がありそうですね。もう少し、あっしらさんの意見を
聞きましょう。



(引用終わり)
メンテ
Re: 経済の話し ( No.4 )
日時: 2013/03/12 23:58:47
名前: 天橋立の愚痴人間

さて、3つの記事を転載しました。

いずれも、資本主義のシステムを資本主義の理念の外に出て俯瞰したもので、問題点をより明確に指摘しています。

しかしながら、最初の「供給=需要 の向こう側」記事も、アダムスミス以来、経済学の中心となっていたこの概念を新たな見方にすり替えただけであります。
2番目の「利潤なき経済社会」も、実際にはありえないと言いますか、そう言う様に資本をコントロールすることは不可能(それが資本主義、民主主義の本質)と言う意味で絵に描いた餅であります。
三番目のフランス社会の分析は、まさにグローバル化した経済の現状を正視したものに過ぎません。

ブータンの国家像を参考に述べられていますが、最近、テレビの映像でブータンの生活を見たところ、全体に貧しく、昔の日本のように人々は助け合わねば生活は出来ません。
仮にブータンが物質的に豊かになった場合、今のブータンの国家つくりの方針が守られるか、または、国民が望むかは解りません。
そういう意味で、3番目の記述も、実際には役には立ちません。

ケチばかりつけているようですが「あっしら」氏が、本当の事をしっかりと言ってくれたことには、敬意を払っています。

さて、私の意見としては、下記の様な事に着目する必要があると思うのです。

需要と供給の関係で言うならば、

現在の社会には物資が有り余っていて、生産をしなくても当分の間はやって行けると言う事です。
ですので、それ自体で 需要=生産の方程式など成り立たなくなっているのです。
また、物資が有り余ってしまう理由に、生産手段の発達が、そのような状態を安易に引き起こしているのです。

物資が有り余っていても、人間は石油を飲む事はできず、自動車、家電製品を食べることも出来ません。
他の物資を調達する事については1ヶ月でも半年でも辛抱することは出きますが、1ヶ月も食事をしなければ大概は死んでしまいます。

新しい経済のシステムを考える場合、この問題を解決し無ければなりません。
現代経済学も、上記で紹介した意見も、此処までの深刻性を認識できてはいないのではないでしょうか。

それが、問題なのです。

では、どのようにすれば解決できるのか、

勿論、その方向性くらいは示す事が出来るでしょう。
今日は、ここまでとします。







メンテ
Re: 経済の話し ( No.5 )
日時: 2013/03/13 00:15:41
名前: 天橋立の愚痴人間

紹介した文章に基づき、さらに検証を進めます。

2番目の

>「利潤なき経済社会」という表現のなかで使っている利潤は
、再資本化されない利潤を意味しており、間接的であれ再生産に向
けて投じられる利潤は、利潤ではなく資本化原資の拡大と捉えてい
る。

これは言い変えると

利潤を求める経済社会(現代)は再資本、要するに貨幣の蓄積が目的となる経済の状態のことを指し示す事になるのでは、ないでしょうか。

1番目で、出てくる貨幣が本来の物資の流通のための「手段」としてあるのではなく「目的」となっていると言う指摘に合致します。

その理由は、アダムスミス以降、現れたあらゆる経済論の基礎となっている「需要と供給」の関係が、根底から変質している事に気がつかないか、無視をして、経済のシステムを維持しようとしている事による矛盾が噴出しているのであると思います。

メンテ
Re: 経済の話し ( No.6 )
日時: 2013/03/13 11:37:17
名前: 天橋立の愚痴人間

以下は7年前に投稿した「私の主張欄」の「人類の環」で言っている事です。
結局は、ここへ戻ってきます。

ttp://www.kyudan.com/toukou/amano04.htm


第2章 経済の事)

自給自足で生計を営む根源的な生き方は、現在でも大災害に見舞われた地域などでは一時的にせよ脳裏に浮かぶように、生物としての人類はこれを忘れてはならない。 幸いに我々の社会での現実は進歩した社会システムの恩恵により手厚く守られている。

経済における資本主義の考え方は物質面における生産・流通を飛躍的に発展させ、現在の豊かな社会を形成するにいたった。 その原動力は我々自身の本能に基づいた物質的欲望を各自が競って取得することを肯定し、またその環境を整備したことである。

永い間続いた封建領主のための生産から、自らのための生産に移行できた時代(後述の民主主義の思想とも相まって実現した)から約300年の間、人類はガムシャラに現代まで行き着いた。 そして、その結果をただ喜んでばかりいてよいのだろうか、現在及び将来について考えてみよう。 地球上ではまだまだここまで至っていない地域のあるのも事実だが、先進工業国と言われている国々においては共通に次のような事態が現出している。

1 生産手段の発達により、地域で消費する必要以上の物質が大量に生産され、そのはけ口を必要としている。

2 生産手段の機械化・ロボット化により、余剰労働力が大量に発生しているはずである。 ただし現在は余剰生産品を他の地域でさばくことで、かつ発展途上国を中心にそれを受け入れられる状況にあるので表面上は重大視されていない。

3 上記と関連する事ですが、安い労働力を求めて企業活動がなされた結果、その商品の需要地と供給地が、随分と離れてしまったことで、貨幣の流通と言う面で、そのサイクルは長いものとなってしまった。
故に、供給地にいない人たちには需要のための貨幣を稼ぐ事ができない(国家全体としてみれば、バランスが取れていても、人々はそれでは生きては行けない)。

4 生産手段の高質化に伴い、生産は大組織及びそれに関係する組織が中心となり、健全な労働意欲を持っているだけでは生産に従事できない多数の人々を生み出している。

5 企業は自らの利益追求のため、従来の衣食住に基づく主生産品以外の多種多様の商品の開発生産をせざるを得なくなっている。 これ自体は豊かな生活のため悪いことではないが、新しい商品の氾濫がやがて引き起こすだろう人間の精神面の荒廃を予想したとき手放しで期待してよいものだろうか。

6 膨大な商品生産がもたらす、資源・エネルギーの消費は地球環境を考えなければならない段階に来てしまっている。

7 先進工業国と発展途上国の生産手段の格差は広まるばかりで、人口の多くをしめる途上国との調整の問題は今後増大する。



過ぎ去った時代の状況を思い出してください。 各家庭の子供の目には、近所の左官屋さん・米屋さん・うどん屋さん等々、身近にはたらく人々が映っておりました。 子供にとって、おとなになることはそれらの何かになることと、ごく自然に体得しておりました。 また人々は働くきっかけは自身で手軽に見つけられました。

現在はどうでしょう、安定した生活手段を得るためには、どこかの組織に入り込むことが必要です。 組織の窓口はあちこちにあるわけではありません、また、その職業の多くはサービス産業・IT産業など形態としては把握しづらいものが多くなってきている。 沢山の子供達は就労の根源的意味すら希薄にしか意識できておりません。 このような状況がだんだんと蔓延してきております。

資本主義経済の理論的長所は、人々が誰でも能力・努力に応じて報酬を得ることが出来、各自がその欲望に基づき行動することにより、より豊かな社会を現出することでした。 現在ではその原点の思想に限界があることを現しております。 今や資本主義の経済体制は組織から外れた人々・余剰の人々を除外して進もうとしております。

また大量の余剰商品をさばくための競争は、人間社会での自然で必要な需要供給の関係を逸脱して進んでいます。 巨大組織による強引な物資の押し付け、システムの押し付けは地域の正常な社会基盤の発達を歪なものとしております。 企業はそのために開発した商品を出来るだけ沢山売り込むことで、より巨大化しようと懸命です。

多量の物資への妄想が我々の社会の全能の神となっています。 現在、我々は大量の商品と情報の中で狂喜して生活しております。 迫り来る危機を見つめようとはしておりません。 野生のライオンもその狩猟に当たっては必要以上の狩はしません、北海道のヒグマは必要以上の鮭は取りません。

資本主義経済体制も科学も我々自身が作ってきたものです。 享楽に任してシステムをコントロールする事が出来なければ、それが最後まで人類に幸運をもたらすとは限らないのではないでしょうか。




(第5章 二十一世紀の事)

イ 経済体制の事

グローバル化を合言葉のように現在の企業はどの分野においても巨大化を目指している、目指さねばならない状況に陥っているが、それが完結したところで良い結末が待っているとは限らない。 究極の巨大化は大変な閉塞状況を導いてしまう。 大なる事が経営を解決すると言った迷信から企業は目を覚ますべきである。

むしろ各企業は適正規模がどのくらいかを策定すべきである。 また現在では各企業による生産物資の内容は全て企業の選択に任せている、一部の医薬品等を除き、生産の内容に国家が介入することはない。 一方で人々の生活は経済システムに翻弄され、就業の面でも消費の面でもまた社会施設の整備の面でもアンバランスなところが多々見られる。

これらのことの根本を考え直してみればどうか。 我が国の国土開発の状況をみても、従来は産業育成・生産性向上が中心テーマであった。 発想を転換して、人々の生活様式・環境の整備の面から企画すればどうなるのか。 豊かな社会であることが前提だが、大都会に集中する居住形式を、せめて老後を送る人々が地方の自然の中で生活できるようにする事も出来るはずです。

人々の生活のあり方そのものに関心を向ければ、多様な企画が浮かんでくるはず。 その方向を主体に考えるなら、いままでとは異なる社会整備の形態が浮かぶはずです。 IT技術の発展により、生産拠点の分散もできるはず。

生産と消費のサークルも、より身近な範囲のシステムと認識できるものが構築できるはずです。 ただ現在のように自国の企業が世界で有数なものに成長する事が一番大切に考えているようでは政策の転換はできない。 けれども国全体がまんべんなく潤うことの方が、結局より豊かな生産を喚起することに気づかねばなりません。

このように世界が、国連・各国家・地域単位で地域にあった社会の整備を目指し、地域にあった物資生産の企画を持つ事、企業による積極的な新製品の開発意欲は大切な要素ではあるが、物資生産計画を地域ごとに策定することも今後必要になると思われる。 各企業による巨大化競争は、もはや企業自身では止められない。

政治権力(民衆)が介入して、ある程度の計画経済の考えを取り入れることが、結果として企業にとっても、我々にとっても良いのではないか。 そのためには同時に社会のあり方を変えねばならない。 我々は究極の企業の巨大化・システムのグローバル化が最終的に資本主義体制の墓場となることを理解しなくてはならない。 またこの事は地球的規模で進行する必要があり、その実現には途方もない労力が必要と思われるがいかがでしょうか。

(終わり)
メンテ
Re: 経済の話し ( No.7 )
日時: 2013/03/20 23:53:21
名前: 天橋立の愚痴人間

2009年以来、ギリシャ、アイルランド、ポルトガルとEU加盟国の財政破綻が続いている。
3日前には、これにキプロスが加わり、ともにEUの支援を要請している。
その前、2008年には、リーマンショックに伴い、アイスランドの財政も破綻している。
これに加え、イタリア、スペインの財政危機も言われて久しい。
なお、かつ、それら国の財政破綻がEU全体の問題に直結し、株式、為替などの大混乱を巻き起こしている。

3日前のキプロスの財政危機の発露は、総体の金額が1兆円少々と僅かであるにも関わらず、早速我が国の株価も大きな下げを記録している。
実態経済を離れた、こうした金融の動きは何であるかと言う、素朴な疑問をが語られることはあまり無い。

EUによる通貨統合は何であったのであろう。
統合される以前は、為替などを通して、1国の問題は1国の責任の範囲で、概ね処理できる調整機能が働いていた。
また、其れによって、国内の実質経済も、国内の事情に即して、賃金などのありようが確保でき、これも外国との関係の調整機能であった。

EUによる通貨だけでない経済的な標準化は、関税の撤廃は、物資の流れをEU圏内全体と歩調を合わさねばならず、経済的環境が整っている地域と、まともに対峙しなければならなくなった。

能力のあるものは、域内の好調な地域へ移り住み、その恩恵にあやかる事ができても、誰でも出来る事ではない。
結局、広域経済圏を構築し自由競争させると言うシステムは、域内の強者をますます強くし、弱者はますます困窮させるというシステムに過ぎない。

これを、国家単位で考えても同じ事である。
EEC発足から50年、EUとなって20年。
結局は、ドイツ、イギリス、フランスが統合の恩恵を享受し、他の多くの国は、統合の期待に反して追いやられているのみ。
当然の帰結として、それは自由競争の強者の理論に巻き込まれたのみである。
背伸びして付き合っていても、結局は力つきて強者の餌食になると言うことだ。

我が国でおきているTPPもまさしくEUに代わるものであり、世界中が資本の論理の前に反強制的に巻き込まれているのである。
国家としての体力が異なるものが不用意に参加しては、国家事態の破綻が目に見えているのである。
まだまだ、世界の国家は、あらゆる面で、オープンなグラウンドで戦えるようには発展していないのである。


一方、観点を変えて経済危機を、下記のように捉えている専門家氏がいる。

・・・そもそも今回の危機はなぜ起きたのだろうか。それは明らかに2008年に起きたリーマンショックと関係がある。 リーマンショックは二つの変化を世界にもたらした。一つは、経済危機からの脱出のために多くの国が大胆なケインズ政策をとったということだ。 巨額の財政赤字をいとわず景気刺激策に走った。もう一つは、グローバルマネーが国債のような安全な資産へ逃避を始めたということだ。
 残念ながら、こうした動きが結果的に国債のリスクを高める結果になっている。景気が早期に回復すれば問題なかったのだが、 そうした状況にはない。欧州の金融機関が大量の国債を保有しているということは、リーマンショックと無関係ではないはずだ。・・・

此処ではリーマンショック以来の多くの国の経済的施策(ケインズ政策)の失敗が、財政赤字を生んだとしていて、これに連動する様に、グローバルマネーがよりリスクの低い各国の国債へ向かった結果、世界に連動する経済不安を引き起こしているとしている。
この専門家氏も、大方のクソ学者と同じように、本当の事を隠している。
こうした論理を展開している限り、形を変えて、何時までも危機が続いて行くであろう。

「経済危機からの脱出のために」といっているが、経済危機の本質を見誤っているのである。




ここで、アイスランドが経済危機から立ち直ろうとしている方策の一部を紹介した文章がある。
ttp://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2012/07/post-2617.php

 08年の世界金融危機で折からの金融バブルが崩壊し、経済崩壊寸前の苦しみと屈辱を味わったアイスランドが、予想外の回復を遂げている。

 経済規模が1割も縮小するほどの深刻な景気悪化を経てきたにも関わらず、失業率は6%程度にとどまり、さらに改善する兆しを見せている。アイルランド失業率が約15%、スペインが25%近いのとは対照的だ。

 もちろん人口32万人のアイスランドを、より大きく複雑な欧州諸国と単純比較するわけにはいかない。だが7日付けのニューヨーク・タイムズ紙は、泥沼にはまったままのギリシャやスペインなどとは正反対の危機対策をアイスランドが打ってきたことに着目している。

 経済危機下の多くの問題のなかでも、高い失業率はとりわけ厄介だ。経済事情の変化のせいで突然借金返済が苦しくなったら、人々は今まで以上に働いて稼がなければならない。働く時間を増やすとか、副業を始めるとか、収入を増やすためなら何でもするはずだ。

 だが、同時に支出を減らすことも考える。ここで問題なのは、多くの人がいっぺんに支出を減らそうとすれば、企業の業績が悪化し、追加的な収入を得るために必要な仕事そのものが減ってしまいかねないということだ。

 アイルランドやスペインがまさにそうだ。人々は危機以前よりも収入を必要としているのに、仕事がない。これではめちゃくちゃだ。

バブル崩壊の損失を埋める魔法などない
 ユーロ離脱などで自国通貨の価値を切り下げても、経済危機の痛みを取り去ることはできない。誰もが貧乏になるだけだ。だが、痛みを国民と金融システム全体で広く薄く負担することで、高失業による危機悪化のスパイラルに歯止めをかけることはできる。

 アイスランドはそのために、同国で最大級の銀行も救済せずに破綻させ、預金支払いを保証し、借金で首が回らない家計や企業には債務免除を行った。とくに営業的には黒字の企業が借金返済に行き詰ってつぶれる黒字倒産を看過すれば、貴重な雇用主を殺すことにもなる。

 世界金融危機が起こったとき、アイスランドもアイルランドも海外資金によるバブルに沸いていた。バブル崩壊による巨大な穴を消し去る魔法などどこにも存在しない。

 アイスランドとアイルランドは共に高い教育水準を誇り、民主的で安定した政府を持ち、政治の腐敗も少ない。長期的には、どちらの経済も立ち直るだろう。

 だが今重要なのは、失業者の目線で政策を行うことだ。国を癒すことができるのは、高失業の長期化を回避できる政府。アイスランドはその点で既に実績を上げているといえそうだ。

(引用終わり)

「だが今重要なのは、失業者の目線で政策を行うことだ。国を癒すことができるのは、高失業の長期化を回避できる政府。アイスランドはその点で既に実績を上げているといえそうだ。」

最後の、この言葉、この目線を取る事が出来ない国家は、時間とともに、どんどん追い込まれて行く事にあんろう。


「アイスランドはそのために、同国で最大級の銀行も救済せずに破綻させ、預金支払いを保証し、借金で首が回らない家計や企業には債務免除を行った。とくに営業的には黒字の企業が借金返済に行き詰ってつぶれる黒字倒産を看過すれば、貴重な雇用主を殺すことにもなる。」

このことも、我が国の政策とは真逆のことである。

メンテ
Re: 経済の話し ( No.8 )
日時: 2013/04/07 13:45:34
名前: 北の国から

 愚痴人間さん。
 いろいろと勉強させていただいていますが、経済の話はいろいろと難しい分野だと思いますが、
それでも、いまの日本の労働者、国民のことを考えると、この問題は避けるわけにはいかないし、
たくさんのひとたちに「どうすれば、まじめに働いたら、まともな暮らしができるか」をわかり
やすく話していかなければならないと思っています。
 よろしくお願いいたします。

 まず、日本経済の現状の評価という問題ですが、分かりやすいところからみると、働いている
人たちのほとんどが「働いても食えない」。中小企業の経営者のかたたちも「がんばっても売り
上げは改善しない」。農業など一次産業のひとたちも生産価格は下がり、後継者もいない。こう
いう現実が進行しているわけで、この事実をもって「日本の経済は、他の資本主義諸国と比べて
も、きわめていびつな、きわめて異常な低レベル」と規定することから始めてみます。
 つまり、科学や技術が発達していようと、新幹線のスピードが速かろうと、それらは二次的な
問題であって、経済の本来の目標であるところの「国民の暮らしがたちゆかなくなっている」と
いうところが「一日にも早く改善しなければならない」課題です。

 この課題は、資本主義経済によるものなのか、あるいは新しい経済システムが必要なのかとい
うようなレベルの問題ではまだないような気がします。
他の資本主義国は、いろいろ困難はあっても、日本ほどいびつではないからです。

 いびつの要因は、たとえば日本の場合「他国に権力の重要部分をにぎられている」などあるの
は明瞭ではあるものの、日本の国民がそうした政府に一票いれてきているというところを、ここ
では問題にし、そこのところから経済の問題を考えてみようと思います。(つづく)
メンテ
Re: 経済の話し ( No.9 )
日時: 2013/04/07 14:29:20
名前: 北の国から

 有名な「アーミテイジレポート」で、このレポート作成にたずさわった研究者は、
日本人の気質(まあ、これが投票行動を左右しているのでしょうが)について「大
きな変化を望まない」と分析しました。
 これは、徳川300年、明治、大正、昭和と形成されてきたものでしょうが、こ
の「日本人の気質」をもっとも強烈にかたちずくったのは15年戦争後の昭和の雇
用の形態だったのではないでしょうか。
 中国など他国をみるまでもなく、支配者は「国民に食わせなければ」なりません。
 日本の場合は、戦後の「朝鮮戦争特需」などの右肩あがりの景気を背景に「終身
雇用」という形態をとってきました。(このことについても愚痴人間さんのスレッ
ドを読ませていただきました)
 
 この雇用形態は、日本人の企業における(労働者としての)家族的融和を一気に
増大させたのだと思います。(したがって当時の労働組合運動は、表面的にはどう
であれ、労使協調路線が主流でありました)
 この時代の欧米の労使関係をみてみると、労働者はもっと自立しており、労働組
合も企業別ではなく業種別です。つまり労働者は経営者と対等にものを言える可能
性があったのでしょう。

 さて、この数年、日本の終身雇用は(経営側から)否定されつつあります。
 このことがどういうことになるのかは難しいのですが、評論家などは「世の中が
ギスギスする」などと言っていますがほんとうでしょうか。
 経営者が労働者を解雇しやすくするなどは論外ですが、労働者が自立し、誇りを
もって働くために賃上げの闘いをする。経験的に言っても、このことは労働者自身
の能力を高めるし、経営者が緊張感をもって経営にあたる力量も高まることが多い
のです。
 こうした労働者の自立は、農業従事者や、中小企業経営者の質的な自立や、社会
制度への関わりにつながっていきます。
 しかし、問題は簡単ではありません。労働者の賃上げの闘いは、企業の収益増や、
利益獲得という労働者側からの提案とセットでおこなわれてこそ、社会的な説得力
があるのであって、ここでも労働者側のレベルの高さが問われるからです。

 たとえば、こういう議論があります。
「日本は資源がなく、それでいて労働力人口が多く、それでみんなで食ってゆくた
めには、日本的しくみが必要なんだ」。
 ほんとうでしょうか。(つづく)
メンテ
Re: 経済の話し ( No.10 )
日時: 2013/04/07 23:11:03
名前: 北の国から

 日本という国が、さまざまな失敗はあっても、今日まで発展してきたのは、たぶん
他国と比較しても(かなり昔から)、不十分ながらも教育を重視してきたことによる
ものだと言われています。そして、このことが農業をはじめとする一次産業をはじめ、
製造分野、サービス分野で高い生産性を維持してきたひとつの大きな要因であること
はまちがいありません。
 とりわけ米づくりの分野では、その技術レベルは群を抜いていて、狭い農耕地や、
北海道の寒冷地にいたるまで、農民の努力によって1千万トンの質の高い米の生産を
実現していました。
 ものを作る技術もすごいもので、たとえば大型の望遠鏡の大型レンズを1000分
の1ミリで、狂いのないようにみがくのはコンピュータで制御する機会よりも、大田
区の町工場の熟練工の手作業のほうが高い精度でやってのけます。

 つまり、資源は少なく、国土は狭くても、恵まれた気候や、働く人々の高い生産性
によって、さまざまな不利な要素を克服してきたのでしょう。

 しかし、そうした優れた国民性を持っている半面、国民や労働者、農民のガバナビ
リテイーが極めて低いままに置かれているというのが、労働者の自立や社会的抵抗や
農民の組織的抵抗を、今日まで困難にしてきています。

 外国の投機集団に、日本の国民の暮らしも社会保障制度も、重要な産業も、そして
独立国としての民族的誇りまでズタズタにされようと(されてきている)しているの
に、それにたいする大きな抵抗の運動はほとんどおきません。(これはいろいろなと
ころでみなさんが指摘しておられるとおりです)
 つまり、選挙がはじまれば「会社の関係」「労働組合からの依頼」「近くに駅をつ
くった人」などが投票行動のおおきな要因であり、その結果、依然として「経済の中
枢を他国に支配されている状況」がつづいてしまっており、いつまでたっても労働者、
農民、国民は「自分の国の将来を自分たちで選べない」という、まれにみるいびつな
独立国にあまんじさせられてしまうのではないでしょうか。

 そうしたら、どうすればいいのか。どうすれば少しづつでも自立した国民に進むこ
とができるのか。(つづく)
メンテ

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