ホームに戻る > スレッド一覧 > 記事閲覧
[1711] 経済の話し
日時: 2013/03/12 23:22:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:1363098145

最近、阿修羅掲示板に良く投稿される「あっしら」のサイトへ行ってみました。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/index-as.htm

HNは「あっしら」と名乗られているが経歴は解りませんが、資本主義経済のシステムが持っている色々な矛盾を説く解す能力豊かな、経済に強い確かな方と見受けしました。
その一部を転載します。



「供給=需要」の向こう側 <想像力から創造力へ> S子
         
「利潤なき経済社会」を興味深く、また、意義深く読ませていただ
いております。資本主義経済において、結局、私たちが見誤ったも
のは、マネーにおける「目的」と「手段」をはき違えたことにある
のは間違いないだろう。経済活動における潤滑油とはマネーであり
、そのマネーが滞ることなく流通し、循環してこそ経済の活性化を
見ることができ、個々人としての生きる活動も活発化してくる。

それはまるで私たちのからだを流れる血液のようなもので、血液が
さらさらの状態であれば私たちは健康で日々を無事に過ごすことが
できる。が、血液がどろどろ状態になり、この流れが悪くなり脳で
詰まれば脳梗塞が起き、その部分の脳組織が壊死してしまい、私た
ちは失語症になったり、半身不随になったりする。

資本主義も当初はマネーがモノを交換するための「手段」として流
通していたが、資本主義が成熟してゆくにつれて、いつの間にか「目
的」と化した。マネーの目的化はつまるところ全てを目的化させてし
まい、私たちにあらゆるものの「本質」を見る目を喪失させた。
これは事実である。

そして、それが「供給=需要」という経済活動を必然的に生じさせ
、モノに溢れた社会が誕生した。「供給=需要」という経済活動は
よくよく考えてみれば、「与えられた人生」を送ることになり、
そこには自主性や主体性はなくても私たちは「与えられたモノ」を
購入し、そこそこ無難な人生を送ることができる。

私たちが無難だと錯覚し、安心してしまうのは、周囲が皆「与えら
れたモノ」である「同じモノ」を持っているからである。つまり私
たちは「与えられた、同じモノ」を持つことによって人生の安定や
幸福の尺度をはかっていた可能性がある。「供給=需要」という経
済活動では、人間の欲求すらも本質から遠ざけてしまうということ
である。

本当に自分が欲しいモノだったのか、他人が持っているから欲しい
のか、テレビコマーシャルで見たから欲しくなったのか、売り込み
にきたから購入したのか、ないと困るほどではないがあって困るほ
どでもないので購入したのか等、心から欲しているものではなく、
供給されたから需要したという構図が自然と生まれる。それを自分
の欲求があったから買ったと、私たちは錯覚しているにすぎない。

こうして私たちは「与えられた人生」を無難に安定して生きること
で、「危機感」を抱くことなく日々を過ごし、人生を終える。人間の
三大欲求であり生きる基本の「食・性・寝」も既にこの「供給=需
要」という経済活動に組み込まれ、マネーの目的化とともに人間と
しての本能を私たちは喪失しかけている。現代人はこの自覚すらも
ないという悲しい状況におかれているのである。

しかし、マネーの目的化による「供給=需要」という経済活動では
経済成長が持続できないどころか、経済の空洞化を生み失業者を増
加させ、個人としての生きる活動が阻害されてしまう。そのことに
気づいたのが、今回の欧州連合憲法批准拒否の仏国民である。拡大
EUの存続に待ったをかけた格好となったが、「危機感」を抱いた彼
らの人間的本能はまだ廃れていないどころか、十分に健在である。


(中略)

ひるがえって日本を見れば、「供給=需要」人生が非常に行き届い
ており、大人も子供も主体性をなくし、自信喪失し、想像力にも欠
け生きる気力も無い状態に置かれている。だから米国の言いなりに
しか生きることができないのである。「供給=需要」という「与え
られた人生」を送ることは確かに楽ではある。が、そこには「自分
」というものがない。この人生を生きる「自分」がないのである。

だから真の喜びや真の悲しみを味わうことはまずないだろうし、
そこそこ無難で安定した人生を送ることで「危機感」を覚えること
もまずないだろう。実はそれこそが問題なのである。「危機感」を抱
くこともなければ、正直な話がまともに「自分」とは向き合えない。
「自分」という人間のこともわからずして終える自分の人生って一
体何??ということになる。

マネーが目的化されることで「供給=需要」という経済活動が必然
的に生じ、「与えられた人生」を送ることで私たちは主体性を失い
、自信を失い、生きる源泉ともいえる想像力までも失った。また、
そういう場所さえも失った。想像力を失えばこの世で実現する創造
物さえもなくなるのである。つまり来るべき未来が描けない。

「利潤なき経済社会」ではマネーを手段に転落させることで、資本主
義の論理が大きく揺らぐだけではなく、世界の構造が大きく転換し
てしまう。これまで築き上げてきたもろもろが崩壊に直面している
と言っても過言ではない。それは日本が明治維新以降追求してきた
西洋文明であるかもしれないし、合理化の名のもとに推進されてき
た科学万能主義であるかもしれないし、それを基点とした物質文明
であるかもしれない。

「供給=需要」人生で「危機感」を抱くこともなくなった私たちが
、価値観の転換をはかることは容易にできそうもないのは明白だ。
しかし、マネーの目的化による「供給=需要」経済活動では世界は
やがて行き詰まる。価値観の転換は時間も要するだろうが、案外石
油の枯渇がその契機になりはしないかと、私は密かに思っている。
その「危機感」が「自分」と真剣に向きあうことになり、それが男
女双方への理解へと向かわせる。そこから男女双方の想像力が生ま
れ、それが創造力へとつながり実現化し、新しい未来が描けるとい
うものである。

(引用終わり)
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

経済の歴史 1 ( No.242 )
日時: 2017/12/08 13:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:o9Sfcpck

経済とは辞書的に言えば、

㋐人間の生活に必要な財貨・サービスを生産・分配・消費する活動。また、それらを通じて形成される社会関係。
㋑金銭のやりくり。
という事になる。

先ず、明らかにしなければならないのは、経済とは何かである。
現在の多くの人は、経済と言う事の意味もわからずに、経済について語っている。
それが根本的な間違いなのである。

経済というのは、生きる為の活動である。
経済は、貨幣的事象ではない。
貨幣は、生きる為の活動に必要な二義的な手段である。
貨幣は、本来、一義的な手段ではない。
経済の一義的な手段は、生産、貯蔵、分配、消費、労働である。

重要な要点は、貨幣経済は数値的経済だという点である。
対象に単価を掛け合わせる事で価値を貨幣価値に統一した体制が貨幣経済である。
価値は、定量的情報に還元される。即ち価値は数値として表現される事を前提としている。

経済を構成する要素には、人の要素、物の要素、金の要素がある。
人は、人数、物は数量、金は価格によって数値化される。
貨幣価値は、人数と価格、数量と価格の積として表現できる。

経済の歴史を次の4段階に分けて考えてみよう。

>原始経済

貨幣が本格的に登場するまでの物々交換の時代。

>伝統経済(古代を含む)

貨幣の流通と共に生産や分配などの主要な経済活動が慣習や文化によって大きく規定された経済である。集落や村落などの比較的に小規模な集団の経済にしばしば見られる形態であり、生産活動が個人の家柄や集団の文化によって定められているために予測可能性が高く、継続的かつ安定的な供給が維持される。
ここでは中世までを伝統経済とする。

>市場経済

近世以降、生産力の発達とともに、商圏も広がり企業や個人が自己利益を最優先して物財を生産し、市場の仕組みによって分配する形態の経済である。規範や指令もなく、市場における消費の動向によって生産活動が規定される特徴があり、個人の自由度が高く、意思決定が分散的であり、また希少性の変化に柔軟に反応できる長所がある。ただし経済理論が保証する市場経済の効率性は、財産権、取引の自由、企業参入退出の自由、完全情報などの条件が必要であり、これらの条件が満たされない場合には市場の失敗が生じる。

>計画経済

一部に取り入れられているが、全体として実施されたのは旧共産主義国家においてのみ。
計画経済とは中央当局によってあらゆる経済活動が運営されている形態の経済である。指令経済とも言う。産業への必要物資、生産目標、生産割り当てなどが定められ、その計画に基づいて経済活動が遂行される。経済資源や労働力を計画的に運用することができるためにiii特定の産業を集中的に発展できるとされる。一方で、計画経済の下では労働者のインセンティブが欠如しやすいという欠点がある。


「原始経済」

当時の社会を原始共同体と呼ぶ。
定着経済(牧畜・農耕)以前の人間集団は基本的に血縁的団体で、この集団は狩猟・漁労などの生産チームであり、かつ消費団体でもある。労働用具(弓矢、銛(もり)、槍(やり)など)は個人的使用に適しているのでおそらく初めから個々人の所有であったが、主要な生産手段である大地や漁場は共同体が、他の団体の利用を排除するという意味で領有する。居住用建物は共同体成員全体を収容する長大なものであるか、分散式の場合は簡単なものであったから、建造物も私有の対象として取るに足らない。消費物資は個人に分配されるよりも集団によって直接消費される(共同炊事)。生産の指導者は経済的搾取をなすに至らない。狩猟・漁労であっても居住の安定性が増大するにつれて原始共同体は地縁的性格を帯びるが、牧畜・農耕の開始とともに定住性は飛躍する。農耕そのものが共同体的に行われるか、そうでなくとも水利など農業の前提に共同労働がなされる所では、古い共同体は農耕共同体に変形し、この種の共同体は必要な分業のほとんどすべてをその内部に組織しているのできわめて安定性が高く、解体は緩慢で、長く社会全体に共同体的特徴を刻印づける。政治的支配者は経済的に個々の、また全体としての共同体を指導するため、搾取はイデオロギー的に隠蔽(いんぺい)される(アジア)。牧畜的農業の行われる所では、古い共同体は土地占取の前提になっており、共同体の土地も存在するが、農業は小規模な家を単位とするため、家畜と耕地は個別家族の所有となる。このため古い共同体は解体され、経済的に自給的な自由な小土地所有農民が、軍事的防衛のために都市に結集し(ギリシア、ローマ)、あるいは相互の利害調整のために集会をもち(ゲルマン)、新しい共同体を構成する。
この時代の経済の主な法則は、獲物、収穫物の分配が問題であった。
貨幣は存在しても、単なる交換の媒体として形式的に存在していた。
メンテ
経済の歴史 2  伝統経済(古代を含む) ( No.243 )
日時: 2017/12/09 00:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:T.r4d7mc

伝統経済とは、

貨幣の流通と共に生産や分配などの主要な経済活動が慣習や文化によって大きく規定された経済である。集落や村落などの比較的に小規模な集団の経済にしばしば見られる形態であり、生産活動が個人の家柄や集団の文化によって定められているために予測可能性が高く、継続的かつ安定的な供給が維持される。
伝統経済の守備範囲は、エジプトなどに文明が興ってかた、中世の終わりに、商業が盛んになるまでをここでは中世までを取り上げたい。

それでも実際は文献が残っているギリシャ時代から取り上げることになる。

経済学とは何であるのか?このことを考えるために、ヨーロッパの思想的源流とされている紀元前3,4世紀ごろのギリシャにまで遡って、経済への問いの起源を探ってみたい。とはいえ、ここで登場する「経済学」は、今日の経済学とはかなり異質なものである。今日の経済学の特質を理解するために、経済学ならざる「経済学」を考察するのが、ここでの目的である。

ポリス社会アテネの衰退
古代ギリシャはいくつかのポリス(都市国家)からなっていた。 代表的なポリスがアテネとスパルタである。

古代ギリシャの中心であるアテネが最も栄えた時期は紀元前5世紀ごろであった。 そのころの人口は、自由民が20万人ぐらい、奴隷が10万人ぐらいであったと推定されている。ポリスの中心である都市と呼びうる部分は小さいが、アテネは全部で現在の佐賀県ぐらいの面積であった。 市民の多くは土地を所有していた。 労働は卑しいものと見なされ、労働にたずさわるのは奴隷と下層市民であった。 労働をしない市民は、政治や思索を行っていた。

奴隷といってもアメリカ南部の黒人奴隷とはだいぶ様相が異なる。 今日で言えば、農地や作業場で働く奉公人や女中などのイメージに近い。 政治に参加する権利や裁判に訴える権利などの市民権がないために「奴隷」と称されてきたが、大きな農園の管理を任されていた奴隷さえ存在していた。
紀元前5世紀末から4世紀にかけて(B.C.431-404)、古代ギリシャの2大ポリスであるアテネとスパルタは2大勢力に分かれてペロポネソス戦争を戦った。 この戦争でスパルタが勝利し、アテネの衰退がはじまる。
ペロポネソス戦争は表向きはアテネとスパルタとの戦争である。 スパルタはペルシャと同盟を組んで戦っており、戦争の実態はペルシャとアテネとの戦争であった。言い換えれば、ギリシャとオリエントの戦いである。そのために戦後、ギリシャ全体が衰退へと向かっていくことになる。
戦争の結果、アテネには貨幣経済が浸透し、外国人による土地の購入が許されたこともあって、 土地を失う市民が増え(→奴隷身分への転落)、市民間での貧富の格差が増大した。 また、食糧供給地である植民地を失ったことにより、食糧供給の制約が問題となった。

プラトンやアリストテレスは衰退期のアテネに登場したことになる。 彼らの課題は、アテネ社会の解体をいかに食いとめるか、というところにあった。 これが重要なポイント。

不必要な欲望

欲望の拡大とそれにともなう消費の拡大こそが、今日の資本主義社会が発展するための原動力と言ってもよいだろう。これに対してプラトンは欲望が展開されていくことを批判した。プラトンは「必要な欲望」と「不必要な欲望」とが分類できるとする。後者は抑え込むべき有害な欲望とされる。例えば、パンのような栄養摂取の観点から不可欠な食事に対する欲望は「必要な欲望」、これに対して栄養としては不必要な「調味されたおかず」に対する欲望は「不必要な欲望」としている。その区分は次のようにして行っている。

「どうしても払いのけることのできない欲望は、正当に必要な欲望と呼ばれるだろう。...若いときから訓練すれば取り除くことのできるような欲望、さらにわれわれの内にあって何一つ為にならず、場合によっては害をなすことさえあるような欲望、これら全ての欲望を不必要な欲望と言うならば、正しい呼び方である。」(下巻p.208)

貨幣の使用禁止

哲学者と軍人の階級においては、私有財産や貨幣の使用が禁止された。一種の共産主義社会と言える(奴隷は貨幣の使用が容認されている)。それは土地を失ったことによる供給制約下で、社会秩序を維持する方法であったと言えよう。供給制約(ゼロサム社会)があれば、あるものが豊かになれば、必然的に他のものが没落する。それを防止する方法がプラトンの共産社会ということになる。

「神的な金銀の所有をこの世の金銀の所有によって混ぜ汚すのは神意にもとる。なぜなら、数多くの不敬虔な罪が、多くの人々の間に流通している貨幣をめぐって為されてきたのである。...国民のうちで彼らだけは金や銀の取り扱い触れることを許されない...。彼らが自ら私有の土地や、家屋や、貨幣を所有するようになるときは、...彼ら自身も他の国民も、すでに滅びの寸前にまでひた走っているのである。」(上巻p.258)
「多くの人々から幸せだと羨ましがられることに惑わされて、財貨の山を際限なく積み上げることにより、これまた際限のない災いを抱え込むようなことはしないだろう。...財産の多寡によっていささかでも国制を乱さないように、財産を増やしたり消費したりするだろう」。

婦女子の共有と人口管理

財産の共有制は婦女子の共有までも含んでいた。今日的には異様に思われるかもしれないが、家族制度を否定的に見ていたスパルタでは、親子は引き離され、子供は社会的に育てられていた。プラトンもスパルタをモデルにしているのである。

「これら女たちのすべては、これら男たちすべての共有であり、誰か一人の女が一人の男と私的に同棲することは、いかなる者もこれをしてはならないこと。さらに、子供たちもまた共有されるべきであり、親が自分の子を知ることも、子が親を知ることも許されない。」。

婦女子の共有のねらいは人口管理にあった。供給制約のある社会では人口増大の余裕はない。そのために、一定数の人口を維持せざるをえないからである。
「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。」。

「守護者たちが戦争や病気やすべてそれに類することを考慮しながら、これらの人々の数を可能な限り一定に保つように、そしてわれわれの国家ができるだけ大きくも小さくもならないようにするために。」(上巻p.368)
まとめ:敗戦による農地の喪失がもたらした供給制約下での社会の維持が、プラトンの理想国家には投影されている。プラトンの思想をまとめれば、社会(=ポリス)のために個人が生きなければならず、欲望の展開など許されないことになる。

アリストテレス

アリストテレスはプラトンの共有制を批判した。
「財産はある意味では共有でなければならないが、しかし一般的に言って、それは私有でなければならない。というのは、財産への配慮が各個人の間に分けられていれば、お互いに不平を言い合わない上に、各個人は自分自身のものに身を入れているように思うので、その配慮は一層増すことになるだろう。」(p.47)

必要に応じた交換
アリストテレスにおいてもプラトン同様に、欲望の有限性(必要な消費)という発想がある。

「善き生活に必要とされる財の分量は無限ではないからである。」(p.22)
必要を満たすための財の交換は許容される。
「最初の共同体(すなわち家)において、明らかに交換の術が働く余地はない。むしろその働きは共同体がすでに一層拡大してのことである。なぜなら、前者の共同体に属する人々は何でも同じものを共同で持っていたのであるが、後者の共同体の人々はいくつかの独立な家に分かれていたので、それぞれ多くの異なったものを持っていた。そしてそれらの異なったものを必要とするところに従って、今日なお野蛮な民族の多くがやっているように、物々交換によって自分のものと交換しなければならなくなったからである。...このような交換の術は自然に反したものではない。なぜならば、それは自然的な生活の自立自足にとって足らないものを充たすためにのみ成立したからである。」(p.2

続く
メンテ
経済の歴史 3  伝統経済(古代を含む) ( No.244 )
日時: 2017/12/09 15:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:T.r4d7mc

「クレマティスティケ(取財術)」の禁止

クレマティスティケ(=金儲けを目的とした交換活動)は必要に応じた交換ではないから禁止される。それは人々を殖財のために生きるようにさせてしまうからである。
「貨幣が考案されると、やがて必要やむを得ない交換とは別の種類の取財術が生じてきた。すなわち、商人的なものがそれである。」(

「ある人は殖財が家政術の仕事と思われるようになる。そして貨幣からなる財産を失わぬようにしなければならないとか、無限に殖やさなければならない、と絶えず思うようになる。そしてこの気持ちの原因は善く生きることではなくて、ただ生きることに熱中するところにある。この欲望は無限であるから、それを満足させる手段をもまた無限に欲することになる。」(p.26)
普通の財に対する欲望には限度があるにしても、貨幣に対する欲望は無限のものになるとアリストテレスは考えている。したがって、貨幣を増殖させるための交換を批判することになる。

「自然にかなった取財術、自然にかなった富は別のものであり、それは家政術に属する。しかるに、商人の術は財を作る仕方によってではなく、ただ財の交換によるだけのものだからである。そしてこれは、貨幣に関係するものだと思われている。なぜならば、貨幣は交換の出発点であり、目的点でもあるからである。さらに、この種の取財術から生じる富には限りがない。」(p.25)
アリストテレスの議論に従えば、貨幣は交換の手段としてのみ容認され、利潤を得る手段としては否定されることになる。つまり、G−W−G’(資本の一般的定式)は否定されていることになる。

利子の禁止

商品を媒介せずに利子をとる貨幣の貸し付けは、最も否定されるべきものであった。 利子の禁止はキリスト教圏で長く継承されていくことになる。

「憎んで最も当然なのは高利貸しである。 なぜならば、貨幣は交換のために作られたものであるが、 利子は貨幣を一層多くするものだからである。 したがって、これはクレマティスティケのうちで実は最も自然に反したものである。」(p.29)

分配的正義と応報的正義

正義の観点から、アリストテレスの考えを整理しておく。 アリストテレスは分配的正義と応報的正義の他に、是正的正義や比例的正義等々何種類もの正義をあげており、諸正義間の関係はやや複雑である。ここでは彼の主著『ニコマコス倫理学』に即して、分配的正義と応報的正義だけを単純化して整理しておく。
各人の価値に応じて土地や穀物などの物資が分配されることを「分配的正義」とアリストテレスは呼ぶ。

「分配における正しさは何らかの[人の]値打ちに従って定められなければならない、というのは誰もが承認する原則である。」(『倫理』152頁)
ポリス社会においては人は平等の価値を持つものではない、とアリストテレスは考えている。だから分配的正義は「平等な」分配を実現するものではない。物の生産や交換に先立ってすでに決まっている各人の価値に応じた物(正確には名誉なども含まれる)の分配が問題なのである。その要点はポリスを維持するのに必要な物の分配と言えるであろう。分配的正義を現代風に説明すれば、各人の必要に応じて土地や穀物などの物資が分配されている状態ということになる。
もう一つの正義が「応報的正義」である。これは物資の交換と結びついた正義である。

「交換による人と人との結びつきにおいてはこの種の正しさ、つまり比例により、均等にはよらない応報の理が人を結びつける。」(『倫理』
アリストテレスは農夫と靴職人を取り上げて、両者の製品を交換するときに「相互間の応報が実現されるのは、双方の間に平等が実現される」場合であると説明し、次のようにも表現している。
「正しさとは何らかの意味における利得と損失の中間であり、[交換の]前と後も等しいだけのものを持つことである」(『倫理』157頁)
交換前後で等しいのものを持つということから、ここでは一種の等価交換が含意されていると理解できる。『政治学』の議論と重ねあわせるならば、次のように解釈することが可能である。

○必要に応じた交換:W−G−W(等価交換=応報的正義の実現)
×クレマティスティケの交換:G−W−G’

最後のものは、マルクスの「資本の一般的定式」と一致する。 つまり、アリストテレスは貨幣の資本への転化を防ごうとしたことになる。
不等価交換が生み出す貧富の格差の増大や市民の没落の原因を、アリストテレスはクレマティスティケに求めたことになる。それゆえポリス維持のために、クレマティスティケは否定されることになる。だが問題となるのは、応報的正義は必ずしも分配的正義を実現しないということである。このことをアリストテレスは認識しており、分配的正義が優先されるべきものと考えている。

分配的正義:ポリス維持に必要な物の分配(交換以前に決っている)
応報的正義:互いに「応報的」となる交換(等価交換)→利益が生まれない

(引用終わり)



まあ、この様な調子で、現代人が考える経済の理念とは、そうとうかけ離れている。
実際には、このような倫理、道徳規範など意識はされていなかったであろうが、逆にアリストテレスが、マルクスが言った様な貨幣の資本への転嫁を防ごうとしていたなど、現代の問題は人間の本性であり、始めから作用していたことの証明である。
利子の禁止など、興味深い施策もこうじられていた。

そうかと言って現代の様な自我丸出しの競争をしていた訳でもないであろう。
古き良き時代の経済は、その経済圏が可視的な領域であったために、きめの細かい対応策がこうじられていたのでしょう。

グローバル化した現代において、過去への復帰は求める事は出来ないが、人々は、本当はこのような経済を営んで来たことくらいは認識を新たにすべきである。

我が国においても、戦国時代の頃までは、経済圏もそんなに大きくなく、需要と供給と言う経済の大きな要素は把握できていて、自然の流れの中で消化で来ていた。

西欧の中世も経済活動は活発で経済圏も東洋にまで広がるなどしていたが、飽くまでも、それは地域に必要な物資を交換すると言った原始的な流通を引き継いでいた。
金融に関しては、金貸し業が卑しいものとされ、現代の様な金融の為の経済と言う観念は未発達であった。

総体として、ここまでは身の丈にあった経済のシステムであったと言えよう。


メンテ
経済の歴史 4  市場主義経済 ( No.245 )
日時: 2017/12/09 15:31
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:T.r4d7mc

>市場主義経済

市場経済とは、市場機能(需要と供給)を通じて需給調節と価格調節が行われる経済のことです。
説明するまでもなく、皆さんが真っただ中にいる経済のシステムですが、改めて見ることによって、矛盾の思われることが解るでしょう。
対立概念は、計画経済です。また、市場機能を重視する経済のことを、特に市場主義経済や自由主義経済と呼びます。

市場経済とは、市場機能(需要と供給)を通じて需給調節と価格調節が行われる経済のことである。
産業革命以来、飛躍的に伸びた生産力によって大量の商品が生み出されるようになった。

それまでの経済は、必要に応じた物々交換が主体であったが、意志的に商品をつくり売りさばく事によって利益を追求することが目的になった。

科学の発達も伴い、人々は思いもよらない商品を安価で手にすることが出来、物質的文明は飛躍的に展開した。
経済が経済を生み、育て人々の生活も従来の土地にしがみついた生産から解放された。

その仕組みについて、最初の市場主義経済学者、アダム・スミスは次の様に説いた。
競争市場では、需要と供給が一致することにより市場価格と取引数量が決定される。

需要曲線と供給曲線の交点で決まる価格が「安定的」であるということは、価格や数量が偶発的に均衡点を逸脱しても市場メカニズムの力学により均衡点に自動的に引き戻されるということである。このような均衡を「安定的均衡」という。
逆に「不安定」であるという場合は、均衡点を逸脱したとき、価格と数量が均衡点から離れていってしまうメカニズムが働くことであり、このような均衡を「不安定的均衡」という。

生産量を市場メカニズムに託した受給の均衡は、経済の安定にとって必要不可欠である。
アダム・スミスは、この関係を「神の見えざる手」と言う表現で現した。

(神の見えざる手)
個々人の私益追求のエネルギーが結果的に社会全体の利益増進に役立つことを示すのに,アダム・スミスは著書《国富論》第4編第2章,および《道徳感情論》第1編第4部において,〈見えざる手に導かれて〉という表現を用いた。19世紀になると〈見えざる神のみ手〉と誇張して,独占利潤を含めた無法な私益追求までも正当化しようとする傾向を生じたが,スミスの本意では,私益追求に伴う弊害が市場での主体間競争によって除去され浄化されることを大前提としているのである。

アダム・スミスが『国富論』で唱えたように、見えざる手によって個人の利潤の最大化が後押しされる。人々が自由に競争し経済活動を営むことが国の富を最大化するといった。
そうして国の富みが最大化されると、政府がやることは少なくなり、結果、「夜警国家論」を唱え、国家は「安価な政府」に徹し、軍事、司法、警察、公共事業などの限定された事業のみを行うべきと主張した。

これは現代の新自由主義経済の理論と同じであるが、実際は、人々の間の格差が広まり、国として富み、夜警国家で良いと言う様な状況にはなっていない。

自由主義の立場からの理想的な市場は自由放任主義による完全競争だが、概要冒頭で述べた前提が満たされず、市場がその本来の機能を十分発揮できずに最適な状況が達成されなくなる「市場の失敗」と呼ばれる問題も存在するため、現代の大半の国や地域ではこれらの問題を緩和または調整するために限定的ながら政府の援助が行われている。

では、市場主義経済の仕組みにどのような問題が起きたのか。
需要(消費)と供給(生産)の均衡が保てられているならば、消費に必要な通貨を生産に従事する事によって均衡が保たれる。
人間社会は産業革命以来、このようにして発展してきた。
しかしながら現代社会は、表面的な需要と供給の均衡は保たれていても、消費と生産に関わる人間の立場でみれば、消費に必要な通貨=生産で得られる通貨にはなっていないのである。

勿論、価格的には均衡が保たれていても、生産行為で人々に還元されるべき通貨は、富裕層に大量に集まっていたり、資本として蓄積されている。
これでは200年前に始まった市場主義経済の論理の前提条件が成り立たない。
行き過ぎたグローバル化によって、表面的な需要、供給の関係で始まった市場主義の終焉と言われている状況になっている。
メンテ
経済の歴史 5  市場主義経済 ( No.246 )
日時: 2017/12/09 16:00
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:T.r4d7mc

将来、この矛盾を、どうして解決するかに先立ち、市場主義経済の特徴を検証しておこう。

(特徴)

市場経済を特徴づけるものとしては、次のものをあげることができる。

私有財産制
それぞれの私的経済主体は、財産権(所有権)が認められた財産を有する。これにより、財産を効率的に利用しようとするインセンティブが与えられる。

分権化された経済主体
個人・私企業などの私的経済主体は、政府の指示を極力抑え自らの自己責任で行う。

価格システム
財・サービスの価格および取引量は、市場機能と呼ばれる需給を均衡させるしくみで決定される。

(利点)

市場経済は、何をどれだけ生産し、誰にどれだけ配分するかという経済の根本機能においては他の経済システムより優れていると考えられる。ただし、前述したように、また、「市場経済自体の欠点」で後述するように、不適切な市場参加者の排除等が前提となる。

市場経済においては必要で不足している商品は価格が上がり、利益水準が高まるため、生産が増加する。このため、経済的需要に応えやすいメカニズムになっている。また、より利益の出せる効率のいい生産体制を持つ企業がより強い資源購買力を持つため、効率的な生産を行える者へ自然と資源配分されるシステムになっている。このため、商品生産において過剰や過少が温存されることなく、効率的な経済となる。もっとも、ここでの「効率的」は、財務的に効率的なのであって、本来の意味での経済的に効率的でもあるとは限らない。

(欠点)

市場経済の考え方は、一見間違った判断をしていても、あくまで個人の自主性を尊重しようというものである。市場経済はショックに対して迅速に適応する一方で不安定さを内包している。また、不安定と並び、市場経済の問題として分配の不平等がある[17]。何が公正・平等な分配であるかは価値判断の問題であるため、市場は所得・資産を公正・平等に分配することが出来ない。
外部経済(技術的外部性)と呼ばれる市場を通じない影響が存在する取引においては、市場による資源配分は最適とはならない(例:排気ガスや工業排水などによる汚染)。その他の市場の失敗が存在する場合にも、最適な資源配分を保証しない。
効率的な資源配分が達成されるが、それが公平なものであるとは限らない。効率的であることは望ましい社会の必要条件ではあるが十分条件とは言えず、このため再分配政策が必要となる可能性がある(→パレート効率性)。

貨幣によって取引が媒介される場合が多いが、貨幣が交換だけでなく蓄蔵の機能を持っているために、市場経済に需給ギャップが発生する場合がある。
生産工程が複雑化し定価取引が普及するなど価格による需給調整が行われにくい場合は、数量による調整が行なわれ、失業や在庫が発生する。
倫理的価値を包含しない(穀物価格上昇による餓死者発生、防衛産業の肥大化等)。
野口旭、田中秀臣は「現実は理論そのものではない。現実の経済は、市場の理想的な働きを妨げる様々な要素が存在している」と指摘している。

経済学者の伊藤修は、市場経済が解決できない問題として、景観の維持、景気変動・バブルによる被害、所得分配、格差の問題を挙げている。伊藤は「市場経済を放置しておけば、貧富の差は雪だるま式に拡大する法則を持っている」と指摘している。

野口旭は「市場経済の宿命といえる問題点の一つは『所得分配の不平等性』である。市場経済では、人々の所得は、自身の労働が市場でどう評価されるかによって決まる。そのため、必ず所得の不平等が生じる。さらにこうした所得の不平等の結果として『所有の不平等』がもたらされる」と指摘している。



前のレスで書いた、次の文章の説明をします。

>しかしながら現代社会は、表面的な需要と供給の均衡は保たれていても、消費と生産に関わる人間の立場でみれば、

 消費に必要な通貨=生産で得られる通貨にはなっていないのである。

たとえばあるメーカーのテレビを取り上げましょう。

従来は、テレビの生産工場で、日本人の労働者が働き、その材料の運搬も日本の運送会社がやっていました。
関係者は、それで得た収入を消費に使うことが出来ました。

ところが、現在はテレビの生産は中国など外国でやっていて、生産の為の人権費は中国に落ちます。
日本では、その電気メーカーに働く従業員の給料としてのみ金が落ちません。

メーカの利益は内部留保であったり、新たな投資に回ります。
それも中国など海外に。

このような事が、他の産業の分野でも起きています。
これでは、ものがあっても、欲しくても買えない状況になるのではないですか。

まあ、日本の場合、貿易は対GDPで10%くらいです。
10%でも、10%分は、

>消費に必要な通貨=生産で得られる通貨にはなっていないのである。

このようになっています。

また、これは海外と日本との関係だけではなく、国内においても、都市部、地方の関係に起きています。
都市部への富の集中が起きていて、

都市部の有力な企業に努める人には富が集まりますが、生産手段を持たない地方の人々は、消費につかうお金を手に入れることが出来ないのです。

このような状況であるのに、政治、経済の専門家は、格差は景気のせいだなどとし、金融政策で片づけようとしています。
デフレの原因は、ここにあるのに、給料を値上げさせてインフレを起こすなど、全く無責任極まる政策をとっています。

それでは、ますます金の集まるところへ(富裕層)金が集まるだけの事です。



メンテ
経済の歴史 6 まとめ 計画経済 ( No.247 )
日時: 2017/12/09 22:04
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:T.r4d7mc

経済の歴史を見てきて、市場主義経済(資本主義)の時代が如何に経済の発展をもたらせたかが解ります。
それは経済の問題だけでなく、産業革命と同時に興った資本主義、民主主義の理念が相互に干渉し合い今日の発展を見たのです。

高々、200年の歴史で、人々が自動車をもちインターネットを楽しむような時代が来るとは、誰も予想できなかったでしょう。
しかしながら、その様になった現在でも、70億と言われる世界の人口の中には、その日の暮らしもできず餓死する人も沢山います。

経済的格差は、昔の王侯貴族と奴隷の様な広がりがあります。
経済の発展が必ずしも人類の救済にはなっていないのです。


経済とは辞書的に言えば、

㋐人間の生活に必要な財貨・サービスを生産・分配・消費する活動。また、それらを通じて形成される社会関係。
㋑金銭のやりくり。
という事になる。

先ず、明らかにしなければならないのは、経済とは何かである。
現在の多くの人は、経済と言う事の意味もわからずに、経済について語っている。
それが根本的な間違いなのである。

経済の歴史の初めに、

経済というのは、生きる為の活動である。
経済は、貨幣的事象ではない。
貨幣は、生きる為の活動に必要な二義的な手段である。
貨幣は、本来、一義的な手段ではない。
経済の一義的な手段は、生産、貯蔵、分配、消費、労働である。

上の様な事を語りました。
経済は万民の為の生きる活動であるはずであるが、余りにもグローバル化した結果、生きるための経済活動から取り残される人々が出てきているのです。
経済全体の数値的な発展は、疑う余地も無いのですが、万人の為の経済と言う面からは、その使命を十分に果たせているとは言えません。

ところが、現状の経済を論じる専門家、政治家などは、通貨の管理ばかり目にして、通貨の増殖(利潤を上げること)の狂奔しています。
最初に取り上げられていた基本的な命題を忘れて(無視)いるのです。
一時、それと共に歩んだ、市場主義経済の恩恵を未だに信じて、多くの人は仕方がないことと(自己責任として)甘んじて、制度そのものを疑いません。

現在の新自由主義と言われる市場主義経済の有り様は、ここまで進んできています。
そうして人間、一人一人の欲望は、とどまるところを知らず、自分だけは救われると言う気持ちで困難に立ち向かいます。
ところが、困難に立ち向かって救われる人は、そんなに多くはなく、ほとんどの人は破滅に向かいます。

もう、市場主義の理論には限界が来ているのです。
現代は、その市場主義経済の真っただ中にありますが、既にそのシステムから外され、伝統的経済にも後戻りできない多くの人は、生きる糧さえ無くしているのです。
この人たちには、経済と言う環境はありません。

それでも市場主義経済は進み続けています。
それが現代なのです。

ところで、経済のかたちに、計画経済があると言っていました。


>計画経済

計画経済とは

国が作成する長期計画に基づいて生産と消費の釣合のとれた発展を達成する目的で運営される国民経済。社会主義経済は常に計画経済であり,中央計画機関が資財,資金,労働力の配置計画を立てて,その計画に基づいて財・サービスの生産・流通・分配が,各生産主体の活動を通して実現される。

と言われています。
市場主義経済が、自然の需要供給のバランスの下で行われる事に対して、上の様に国家が介入して生産と消費の釣り合いをとると言うことです。
ですが、市場主義経済の下で起きた、消費と生産の不均衡は、物質的な面の話しではありません。
国家が介入しても、市場主義経済のそれと、大きな変化はないでしょう。

計画経済のシステムは、既に旧共産主義国で実践され、上手く機能しませんでした。
その上に、現代の様に生産技術が発達していては、国家が管理するだけで、需要、供給の関係において通貨が全員に配分できるシステムを構築することは、さらに困難となるでしょう。

しかしながら、市場主義経済の問題点を克服するために計画経済を取り入れる事は出来ます。
ずっと将来(200年くらい先)は、ほとんどを計画経済に頼らねばならない時代も来るでしょうが、人間は、それまでに出来ることがあるのです。

その一節を、以前に書いた「人類の環」のスレッドから取り上げて説明しましょう。

(人類の環より)

>現状分析

自給自足で生計を営む根源的な生き方は、現在でも大災害に見舞われた地域などでは一時的にせよ脳裏に浮かぶように、生物としての人類はこれを忘れてはならない。 幸いに我々の社会での現実は進歩した社会システムの恩恵により手厚く守られている。

経済における資本主義の考え方は物質面における生産・流通を飛躍的に発展させ、現在の豊かな社会を形成するにいたった。 その原動力は我々自身の本能に基づいた物質的欲望を各自が競って取得することを肯定し、またその環境を整備したことである。

永い間続いた封建領主のための生産から、自らのための生産に移行できた時代(後述の民主主義の思想とも相まって実現した)から約300年の間、人類はガムシャラに現代まで行き着いた。 そして、その結果をただ喜んでばかりいてよいのだろうか、現在及び将来について考えてみよう。 地球上ではまだまだここまで至っていない地域のあるのも事実だが、先進工業国と言われている国々においては共通に次のような事態が現出している。

1 生産手段の発達により、地域で消費する必要以上の物質が大量に生産され、そのはけ口を必要としている。

2 生産手段の機械化・ロボット化により、余剰労働力が大量に発生しているはずである。 ただし現在は余剰生産品を他の地域でさばくことで、かつ発展途上国を中心にそれを受け入れられる状況にあるので表面上は重大視されていない。

3 生産手段の高質化に伴い、生産は大組織及びそれに関係する組織が中心となり、健全な労働意欲を持っているだけでは生産に従事できない多数の人々を生み出している。

4 企業は自らの利益追求のため、従来の衣食住に基づく主生産品以外の多種多様の商品の開発生産をせざるを得なくなっている。 これ自体は豊かな生活のため悪いことではないが、新しい商品の氾濫がやがて引き起こすだろう人間の精神面の荒廃を予想したとき手放しで期待してよいものだろうか。

5 膨大な商品生産がもたらす、資源・エネルギーの消費は地球環境を考えなければならない段階に来てしまっている。

6 先進工業国と発展途上国の生産手段の格差は広まるばかりで、人口の多くをしめる途上国との調整の問題は今後増大する。

過ぎ去った時代の状況を思い出してください。 各家庭の子供の目には、近所の左官屋さん・米屋さん・うどん屋さん等々、身近にはたらく人々が映っておりました。 子供にとって、おとなになることはそれらの何かになることと、ごく自然に体得しておりました。 また人々は働くきっかけは自身で手軽に見つけられました。

現在はどうでしょう、安定した生活手段を得るためには、どこかの組織に入り込むことが必要です。 組織の窓口はあちこちにあるわけではありません、また、その職業の多くはサービス産業・IT産業など形態としては把握しづらいものが多くなってきている。 沢山の子供達は就労の根源的意味すら希薄にしか意識できておりません。 このような状況がだんだんと蔓延してきております。

資本主義経済の理論的長所は、人々が誰でも能力・努力に応じて報酬を得ることが出来、各自がその欲望に基づき行動することにより、より豊かな社会を現出することでした。 現在ではその原点の思想に限界があることを現しております。 今や資本主義の経済体制は組織から外れた人々・余剰の人々を除外して進もうとしております。

また大量の余剰商品をさばくための競争は、人間社会での自然で必要な需要供給の関係を逸脱して進んでいます。 巨大組織による強引な物資の押し付け、システムの押し付けは地域の正常な社会基盤の発達を歪なものとしております。 企業はそのために開発した商品を出来るだけ沢山売り込むことで、より巨大化しようと懸命です。

多量の物資への妄想が我々の社会の全能の神となっています。 現在、我々は大量の商品と情報の中で狂喜して生活しております。 迫り来る危機を見つめようとはしておりません。 野生のライオンもその狩猟に当たっては必要以上の狩はしません、北海道のヒグマは必要以上の鮭は取りません。

資本主義経済体制も科学も我々自身が作ってきたものです。 享楽に任してシステムをコントロールする事が出来なければ、それが最後まで人類に幸運をもたらすとは限らないのではないでしょうか。

>将来の経済に求めること

グローバル化を合言葉のように現在の企業はどの分野においても巨大化を目指している、目指さねばならない状況に陥っているが、それが完結したところで良い結末が待っているとは限らない。 究極の巨大化は大変な閉塞状況を導いてしまう。 大なる事が経営を解決すると言った迷信から企業は目を覚ますべきである。

むしろ各企業は適正規模がどのくらいかを策定すべきである。 また現在では各企業による生産物資の内容は全て企業の選択に任せている、一部の医薬品等を除き、生産の内容に国家が介入することはない。 一方で人々の生活は経済システムに翻弄され、就業の面でも消費の面でもまた社会施設の整備の面でもアンバランスなところが多々見られる。

これらのことの根本を考え直してみればどうか。 我が国の国土開発の状況をみても、従来は産業育成・生産性向上が中心テーマであった。 発想を転換して、人々の生活様式・環境の整備の面から企画すればどうなるのか。 豊かな社会であることが前提だが、大都会に集中する居住形式を、せめて老後を送る人々が地方の自然の中で生活できるようにする事も出来るはずです。

人々の生活のあり方そのものに関心を向ければ、多様な企画が浮かんでくるはず。 その方向を主体に考えるなら、いままでとは異なる社会整備の形態が浮かぶはずです。 IT技術の発展により、生産拠点の分散もできるはず。

生産と消費のサークルも、より身近な範囲のシステムと認識できるものが構築できるはずです。 ただ現在のように自国の企業が世界で有数なものに成長する事が一番大切に考えているようでは政策の転換はできない。 けれども国全体がまんべんなく潤うことの方が、結局より豊かな生産を喚起することに気づかねばなりません。

このように世界が、国連・各国家・地域単位で地域にあった社会の整備を目指し、地域にあった物資生産の企画を持つ事、企業による積極的な新製品の開発意欲は大切な要素ではあるが、物資生産計画を地域ごとに策定することも今後必要になると思われる。 各企業による巨大化競争は、もはや企業自身では止められない。

政治権力(民衆)が介入して、ある程度の計画経済の考えを取り入れることが、結果として企業にとっても、我々にとっても良いのではないか。 そのためには同時に社会のあり方を変えねばならない。 我々は究極の企業の巨大化・システムのグローバル化が最終的に資本主義体制の墓場となることを理解しなくてはならない。 またこの事は地球的規模で進行する必要があり、その実現には途方もない労力が必要と思われるがいかがでしょうか。

(引用終わり)


市場主義経済の現状は、
生産の工程に機械化(ロボット化)が進み、生産に従事する人間が少なくなった。
生産技術の高度化に伴い、大きな資本を持つものより生産が出来なくなった。
流通の発達は、生産地と消費地を随分と遠くすることを可能にし、生活の為の通貨の流通圏が成立しなくなった。
これが国内だけの問題であれば、生産地へ移住して仕事にありつく事もできた。

それに対して我が国でも

地方再生運動、
付加価値を高めた商品の開発
等を通して仕事の確保の努力をしてきた。
また東南アジアでは文化的に露店商が多く、地方の経済圏を守る結果となっている。

要するに、今、必要とされているのは、身近な経済圏を確立し、その中で必要な通貨を流通させることである。
伝統的経済の下では、ほとんどが、このような環境であった。
これを身の丈に合った経済環境と言いたい。

しかしながら、全てをこのように後戻りさせるのが良いことではない。
必要最小限において、身の丈に合った経済圏を確立させる努力が必要となると言うことである。

身の丈にあった経済圏と言っても、その中で行われる経済行為は飽くまでも市場主義の理念の通り、需要と供給から価格が決められると言う原則は守るべきである。

その他、次の施策も計画経済でなければ出来ないことと思う。

公共事業を増やし雇用の機会を増やす。
基礎年金や介護事業の人権費を公費で賄い消費を促進させる。



(おしまい)


メンテ
経済のおさらい 1 ( No.248 )
日時: 2017/12/10 16:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:re6qSOeU

このスレッドを始めて随分と経ちます。
始めの頃は経済学、そのものについて話していました。
その頃を思い出すために、過去の記事をまとめてみます。

個人的な問題ではなく国家の単位でみた経済とは具体的にどのように把握すれば良いかと言うことです。

最初に国家としての経済の総体、総生産について説明しましょう。

【総生産:】

産業分類によって農林水産、鉱業、製造業・・・サービス業が生み出した付加価値合計です。それぞれの分野における仕入分は差引かれて、差額だけを累積したものがGDPです。
総生産には、政府サービス生産も加算されます。警察、学校、国立病院とか・・・

【(A)分配面からの所得=】

雇用者所得(消費+貯蓄+税)
企業所得(消費+貯蓄(企業の場合は内部留保・営業余剰+税)

(註1)この税は=政府所得になります。
(註2)固定資本減耗=所謂減価償却費は、企業内部留保とみなし、営業余剰に含ませて、項目省略によってすっきりさせます。 

【(B)所得の支出=次のように分解されます。】

民間最終消費
企業最終消費
政府最終消費
総固定資本形成(民間投資+政府投資(所謂公共事業費)
在庫品

(A)=(B)ですから、両辺から消費を相殺しますと、
(S)貯蓄+税=(I)民間投資+政府公共事業となります。

この(I)投資=(S)貯蓄が、ハロッド・ドーマー定理のミソで、これをISバランス
と言います。S>Iの場合はまだ投資出来る、S<Iの場合は、投資不足で国内での
財源が不足を意味し、海外からの投資を要請するケースとなります。

我が国現状ではまだ(S)>(I)の状況にあり、投資の余裕はありますが、これが財政赤字に消費され投資国債になっていない。

しかしながら、ここに一つの問題があります。

収入のない失業者、または支援なくして生活できない人間も、生活の為の消費は必要です。
そのために生活保護などの支援がなされていますが、その財源は税であり、Aに入っている所得(税)Bの政府最終消費において支給されます。
という事は、この分の金額は別途Aに加えなくてはなりません。
Bの中の政府最終消費に入れて帳尻をあわさねばならないのですが、収入である税、そのものは増えません。
という事は、政府最終消費を実質下げるか、その財源を別途都合してAにいれるかである。
現在のところ、その比率は小さいものの、将来はGDPが同じでも実質経済は縮小することになる。
少なくとも
(A)=(B)の方程式は実体経済の把握には瑕疵があるという事です。
それなのに、こんな数式をバイブルのように取り扱っている現状の経済専門家に疑問を呈します。

上の数値について、毎年政府は発表しているようですが、探すのが大変で省略します。

>雇用者所得(消費+貯蓄+税)
>企業所得(消費+貯蓄(企業の場合は内部留保・営業余剰+税)

これは税金の関係で比較的的確にわかりますが、

>民間最終消費
>企業最終消費
>政府最終消費
>総固定資本形成(民間投資+政府投資(所謂公共事業費)
>在庫品

これなどは消費税の面から追えるものは良いですが、他の物はどこまで正確に捉えているか解りません。
いずれにしても、この数式の根源は、会計学上野損益計算書にちかいものと考えられます。
損益計算書とは、一定期間の収益と費用を明らかにし、企業の経営成績を報告するものです。
おなじ会計学上の考え方には貸借対照表があります。

貸借対照表は一定時点における企業の資産、負債及び資本の状態(財政状態)を示ものです。
ところで、一般企業の経営の場合でも、これらの数値のバランスを欠くようになると、特に負債部分が膨らむと、増資と言う手段でバランスを取ります。
国家としての、このような経済指数においても、通貨の増刷と言う手段を取る事によって、当面の数値のバランスは変えられるはずです。
実際には国債発行と言う手段で世界中、どこの国でもやっているのですが(財政おパイを大きくしている)、論理的にはタブーとされています。

この後で出てくる、通貨管理政策も、大きくは、この法則の中で運用されています。
勿論、基本的な考えは守るとしても、どこまで、この法則を守るべきかについては問題があるのではないかと思います。

この後で紹介する、国の貸借対照表を見ても、負債として通貨の増刷をしても、その運用によって資材が構成出来ればバランス(数値上)は問題はないはずですが、何故かタブーとなっています。
勿論、それには理由があります。
その理由の検討も条件次第では問題が無いことにもなるでしょう。
通貨管理政策を語るにおいて、常のこの問題を(既成の規制が本当に妥当であるか否か)頭において考えて行きたいと思います。
メンテ
経済のおさらい 2  我が国の貸借対照表 ( No.249 )
日時: 2017/12/10 16:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:re6qSOeU

国民総資産と言うのは、一国の,ある限定された一時点における保有財産。
この数値を出す意味は、企業会計における貸借対照表の作成と同じ意味を持ちます。
平成22年度の国民総資産は8500兆円と言われています。

この内訳を見てみましょう。

<資産の部(国民総資産)>
(非金融資産の内の生産資産)
在庫                 69.0
住宅                 350
住宅以外の固定資産         1129
無形固定資産             29
(非金融資産の内の有形非生産資産)
土地           1205
土地以外の有形非生産資産   2
(金融資産)
株式以外の金融資産    5302
株式            413

合計       8500兆円

<負債の部>
(負債)
その他の負債            490
保険・年金準備金          419
金融派生商品             63
株式・出資金      610
株式以外の金融商品    1267
借入れ金      1295

現金・預金      1330
正味資産      3036

 合計     8500兆円

まあ、このような数値はどこまで信頼できるか解りませんし、出す必要があるかも解りません。





ついでにGDP

H23年度の数値、GDP473兆円です。

参考までに全産業別GDP:H23年度(単位は10億円)、カッコ内は主たるもの。

〇農林水産業: 5,449(内農業・4,602/林業・159/水産業・688)  
〇鉱業:298 (殆ど輸入の為)
〇製造業:87,086 (内食料品13,428/輸送用機械(自動車など)11,975/一般機械、電気機械・21,641/鉄鋼、非鉄金属12,163/化学、          石油製品12,160)
〇建設業:26,448
〇電気ガス水道業:8,609
〇卸、小売業:66,922
〇金融保険業:22,854
〇不動産業:56,727(内不動産賃貸49,620)
〇運輸業:22,779
〇情通信業:25,551
〇サービス業:90,993・・・・・中間合計413,716

〇政府サービス生産:59,566
(何のことかと言いますと、警察とか学校への政府支出のことで、 パトカー代や学校修理、教科書代などは、上記製造業生産に算入されておりますので、これを中間投入として差引し、でも政府業務行為は一種のサービスを生産していると言う訳で、産業生産と同列に算入(笑)。防衛費も算入されておりますが、武器などは軍事産業製造業に含まず、あたかも政府が生産したような形を取っているとして、GDPに算入。要するに政府サービスとは、公務員人件費が主たるものと思えば良いのです。)

【生産活動面からのGDP総計: 473,282】・・・この分野での就業者数・6,433万人。

PS:林業、鉱物の付加価値は、市場価格から光熱費や、伐採用機器などの中間投入額を差し引いた額が、付加価値額とされております。鉱物などは殆どが輸入ですから、GNP計算において、経常収支の輸出―輸入の、その輸入の額に含まれますから、輸入代全額が第一次付加価値として参入されているようです。



最後になりましたが、GDPと言っても、実はなかなか概要がつかめません。

GDPとは、一定期間内に国内で産み出された付加価値の総額のことっとなっていますが、これが解りません。

原則として国内総生産には市場で取引された財やサービスの生産のみが計上される。市場で取引されない活動は、GDPには含まれない。このため、家事労働やボランティア活動などは国内総生産には計上されない。この点は、国民総生産でも同じである。こうした取り扱いの例外として、持ち家の家賃など帰属計算が行われるものがある(国民経済計算の帰属家賃の説明を参照)。また、今期新たに生産されたのでない財(例:古美術品)の取引、最終財の原材料となる中間財の取引は算入されない。地下経済なども計上されないことが一般的であったが、2014年以降、EU圏内では麻薬取引や売春サービスも計上し始めている。

これでも解らないでしょう。

民需:消費と投資
消費=生活者が行った支出
投資=企業が行った支出
政府支出:政府が使うお金
貿易収支:「輸出額-輸入額」

メンテ
経済学のおさらい 3  通過管理 ( No.250 )
日時: 2017/12/11 14:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:RufVXKqE

次に、国家と経済の関係について、国家がどの様に経済問題と取り組んでいるかと言うことについて、
卑近な例として、アベノミクスについて説明しましょう。
アベノミクスは、下記の3つを基本方針としており、安倍首相はそれを「三本の矢」と表現している。

A 大胆な金融政策
B 機動的な財政政策
C 民間投資を喚起する成長戦略

大胆な金融政策とは
公定金利を引き下げて、金が市中に出回りやすいようにすること。
具体的には、貸出金利を下げることによって企業の投資を促す事により経済効果を上げようとするもの。
住宅ローンのその一つで、我々にも関係がある。

機動的な財政政策
国家戦略特区などを指定して、強引に経済を拡大させようとする試み。
公共事業なども、出来るだけ増やし経済効果をあげる。

民間投資を喚起する成長戦略
新らしいエネルギー開発、ベンチャー企業の発掘などに対して補助金を出すなどして新規事業を増やそうとする試み。
限られた税金による補助金で最大の経済効果を狙ったもので、これも金の問題。

一方でTPP参加など、貿易の範囲を拡大し経済の量的発展を求める政策。

これらが政府が行っている経済への取り組みである。
ところが、機動的な財政政策以外は、民間の金の流れを促進させる以外に実施できない。
結局は通貨の問題となる。
そこで通貨管理をする日銀当局との連携が必要になる。

その日銀(中央銀行)の姿勢について取り上げよう。

管理通貨制度

管理通貨制度とは、通貨の発行量を通貨当局が調節することで、物価の安定、経済成長、雇用の改善、国際収支の安定などを図る制度。本位制度に対していう。

金を貨幣価値の裏付けとする金本位制においては、銀行券発行量は正貨準備高に拘束されるのに対し、管理通貨制度では行政府の通貨政策次第であり、貨幣の価値は政府または中央銀行の政策によって裏付けされるためその価値は不安定となりやすい。よって通貨当局は金融政策により貨幣価値の安定化を図ることを重視する。銀行学派の考え方によれば、中央銀行はプライマリバンク(中央銀行と直接取引の口座を開設している市中銀行)の担保の差出の対等物として通貨を発行するのが原則であり、この場合通貨の価値は市中の信用力に依存している。

管理通貨制度では、発行量が本位の備蓄量に拘束されることがないので、景気や物価調整のために柔軟な通貨量調整をすることができるメリットがある。一方で通貨当局と行政府の関係(独立性と協調性)がつねに問われ、通貨当局が行政府の影響下にある場合、景気対策のための恒常的な金融緩和がインフレを招く場合がある。また独立性が極端に保護されている場合、通貨当局の失策が国家に破滅的な混乱をもたらす場合がある。

次には、実際の通貨の流れ(通貨管理の実態)を見てみましょう。

マネタリーベース(ベースマネー)とマネーストック(マネーサプライ)について

マネタリーベースは、マネーストック(世の中に出回っているお金の総額)の基となる通貨という意味で、ベースマネーとも呼んでいます。また、この通貨が大きな預金通貨を生み出す強い力を持っているという意味で、ハイパワードマネー(強権貨幣)と呼ぶ場合もあります。
マネタリーベースは、現金通貨(日銀券、補助貨幣)と、民間金融機関の法定準備預金(日銀当座預金)を合計して求めます。

マネーストックは、これまでマネーサプライ(通貨供給量、貨幣供給量)として統計が公表されてきました。
(M1) 
現金通貨と預金通貨を合計し、そこから調査対象金融機関保有の小切手・手形を差し引いたもの。対象金融機関は日本銀行(代理店預け金等)、国内銀行(ゆうちょ銀行を含む)、外国銀行在日支店、信金中央金庫、信用金庫、農林中央金庫、商工組合中央金庫、その他金融機関(全国信用協同組合連合会、信用組合、労働金庫連合会、労働金庫、信用農業協同組合連合会、農業協同組合、信用漁業協同組合連合会、漁業協同組合)。※現金通貨 = 銀行券発行高 + 貨幣流通高※預金通貨 = 要求払預金(当座、普通、貯蓄、通知、別段、納税準備) - 調査対象金融機関の保有小切手・手形

(M2)
現金通貨と国内銀行等に預けられた預金を合計したもの。対象金融機関は日本銀行、ゆうちょ銀行以外の国内銀行、外国銀行在日支店、信金中央金庫、信用金庫、農林中央金庫、商工組合中央金庫。
(M3)
M1 + 準通貨 + CD(譲渡性預金)。対象金融機関はM1と同じ。

※ これらのうち日銀はM3を最も代表的な統計と見なしている。

具体的に表すと次の様になります。

平成26年度のベースマネーは 209兆円
平成26年度のマネーストックは 863兆円
実際に市中で流通している日銀券は 98兆円

通貨の価値を維持しながら、どれくらいの通貨の発行が適正かと言えば、何かの数値を基準に、それを決められる様なデータなどありません。
結局は通貨当局(日銀)が気にかけているのはインフレを起こさない事に尽きると思います。
なを、ここに言う通貨とは直接は法定通貨の事ですが、実際には信用通貨と言うものがあり、経済における流通通貨の総額は、日銀が関与できるものを相当上回っているのが現状です。

尚、管理通貨制度を統括する日銀の通貨の流れに対する指標として、日銀の貸借対照表がある(平成23年度)

(資産の部)に
金地金       0.4兆円
現金        0.3兆円
国債        87兆円
貸し出し金     
などがある
         合計 139兆円
(負債の部)には
日銀券          約81兆円
預金(これが市中銀行から入ってくる当座預金) 約 36兆円
政府預かり金
などがある。
            合計 136兆円

これで言うと市中に出回っている日銀券は81兆円分。
だが実際に動いている金は、準備率を10%にすると、36兆円×100前後=3600兆円前後が活動している事になる。
所謂、信用創造による通貨の範囲を3600兆円の何処までとするか、これも詳しく検証する必要があります。まあ概ね信用創造の結果と言えるのではないでしょうか。

日銀券が負債と言うのは、民間企業である日銀の会計上の分類にすきなく、負債と言う一般的な概念と同じように受け取るものではないと思います。

結局のところ、最初に言った国民総生産での次の方程式と通貨管理の関係は、そんなにないものと思います。
形式的には関連つけられても、実際には経済に影響を及ぼす要素とはならないでしょう。


【(A)分配面からの所得=】

雇用者所得(消費+貯蓄+税)
企業所得(消費+貯蓄(企業の場合は内部留保・営業余剰+税)

(註1)この税は=政府所得になります。
(註2)固定資本減耗=所謂減価償却費は、企業内部留保とみなし、営業余剰に含ませて、項目省略によってすっきりさせます。 

【(B)所得の支出=次のように分解されます。】

民間最終消費
企業最終消費
政府最終消費
総固定資本形成(民間投資+政府投資(所謂公共事業費)
在庫品

(A)=(B)ですから、両辺から消費を相殺しますと、
(S)貯蓄+税=(I)民間投資+政府公共事業となります。

この(I)投資=(S)貯蓄が、ハロッド・ドーマー定理のミソで、これをISバランス
と言います。S>Iの場合はまだ投資出来る、S<Iの場合は、投資不足で国内での
財源が不足を意味し、海外からの投資を要請するケースとなります。
メンテ
経済のおさらい 4  通貨管理の理論 ( No.251 )
日時: 2017/12/11 19:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:RufVXKqE

ここまでは経済の理論の中でも大元の問題でした。
具体的には通貨管理の理論によって経済の施策が取られていました。
その流れを検証したいと思いますが、これからは、少しの間、専門的になるので興味のない方は、読み飛ばしていただけばと思います。

結局は、どの理論も実態の経済の流れを把握したものではなく、数値的に経済を追認して来ただけです。
経済、そのものの使命、人々の生きる道筋を保証すると言った観念が欠如しているのです。
現代の問題、市場主義の限界と言う課題は、まさにここにあります。
ですが、これに対抗しようと言う萌芽もなくはありません。
この事は最終的に新しい経済の仕組みで考えてみたいと思います。


(通貨管理理論の流れ)

貨幣量の増減は物価にだけ影響を与え、生産活動や雇用の増減などには影響を与えないとする説。古典派経済学の中心的な命題のひとつであり、中立説によれば、貨幣は社会的な分業や効率性をもたらす以上の役割はない。経済活動の本質は物々交換であり貨幣はその仲介を行っているにすぎず、貨幣量の増減は貨幣錯覚による混乱をもたらすが国富・国民経済の観点では中立的であり、国富の増大には貨幣量の拡大ではなく生産・供給能力の増強によるべきとした。

数量説は貨幣の中立性を前提にしており、物価の乱高下は流通貨幣量の管理によって押さえ込むことができるとする。管理通貨制度が定着する以前は、社会に存在する貨幣の総量は誰にも計測できず、金塊が採掘されるなり、難破などの事故により貴金属が喪失するといった確率現象や、貯蓄のために金塊を退蔵するといった個々人の経済行動は、物価に対して深刻な影響を与える要素であった。

貨幣中立説は、歴史的には大航海時代以後にスペインなどが重金主義を採用したことによる反動ともいえる。後の絶対王政以後のフランスでは重商主義が唱えられ、貿易黒字による差額があれば、金銀は自然と自国に蓄積されるという考え方であった[4]。

フリードリヒ・ハイエクは、貨幣は相対価格を動かすことによって生産量に影響を及ぼすと考え、貨幣中立説を否定している[5][6]。

長期的には貨幣の中立性は成立し、金融政策は実体経済に影響を与えず、ただ名目変数を動かすだけであるという点では、新古典派経済学、マネタリスト、ニュー・ケインジアンの見解は一致している[7]。ただし、短期的には実体経済に影響を及ぼすかどうか、急激な経済の変動に対して金融政策は有効かどうかという点では、新古典派とケインジアンは対立している。

>フィッシャーの交換方程式

現実の統計値から貨幣量と物価の相関関係を分析するためのツールとして、アーヴィング・フィッシャーの交換方程式がある。これは貨幣量と物価の関係を、貨幣の流通速度あるいは取引水準といった概念を導入することで記述するもので、貨幣数量説の代表的なアイデアである。
M\cdot V = P\cdot Q
ここで
M はある期間中の任意の時点tにおける流通貨幣(通貨)の総量
V は貨幣の"流通速度"(特定期間内に人々のあいだで受け渡しされる回数:貨幣の回転率のようなもの)売買契約の約定回数
P はある期間中の任意の時点tにおける物価水準(通常は基準年度を1としたデフレータ)
Q は"取引量" (特定期間内に人々のあいだで行われる取引量(quantity)の合計)
である。

交換方程式は逐一個別の取引(単価p の商品をq 個だけ取引するため、貨幣m を1回支払う)をマクロ経済全体で合計(牌 = 1 → V )したものとされる。これは数学上非常に明晰な記述であるが、現実にはマクロ経済全体における流通速度V (= P Q /M )や取引量Q といった経済統計としては非常に観測・推計しにくい概念を導入しなければならない困難がある。

>現金残高方程式(ケンブリッジ方程式)とマーシャルのk

アーヴィング・フィッシャーとほぼ同時代のイギリスの経済学者アルフレッド・マーシャルも、独自に貨幣量と経済水準の相関関係に着目していた。1871年頃には着想を得ていたとされ、1923年に文章化、完全な定式化は弟子のアーサー・セシル・ピグーによって公刊された。貨幣数量説を批判的にとらえる論拠とされるアイデアである。
M = k\cdot P\cdot Y
ここで
M はある期間中の任意の時点t における現金残高(=ストック)
k は比例定数で、マーシャルのkと呼ばれる
P はある期間中の任意の時点t における物価水準(通常は基準年度を1としたデフレータ)
Y は実質GDP
である。

P Y は名目GDPであり、ケンブリッジ方程式の要諦は「現金として保有される残高は名目GDPに比例している」というものである。人はある年間所得(P Y)の水準に比例する程度に、つねに手元に投資や貸付、消費に回してしまわない資金量を一定(M )確保していることが予測できる。その割合比率(k )は貨幣選好であるが、マクロ経済全体で合計した場合にも同様の傾向があるはずである。そこで経済全体をおしなべた結果としての貨幣選好をk とすれば前述の方程式で記述される。なお、このマーシャルのkの逆数(P Y /M )は、貨幣の所得 流通速度と呼ばれる。フィッシャーの交換方程式とは異なり、特定時点での現金残高Mや、期中での名目GDP(名目総生産=名目総所得)は直接の統計や推計により比較的容易に計測することができる。また、k やP が変化しないという仮定の下では、M を増加させることでY を増加させることができるという関係を表している。

フィッシャーの交換方程式は明瞭で、一見するとMとPに極めて強い相関関係が予想される。しかしその根拠としてVとQが硬直的であることが前提となる。VやQが柔軟に動くものであれば、実際Mが増減してそれがPの変動をもたらしたとしても、なぜそうなるのかはフィッシャーの交換方程式では説明されていない。MV=PQは恒等式であり常に成立するが、あるMの水準に対してVやQがなぜか相応な値をとって、結果Pが相応な水準になっている、としか言えない。

新古典派経済学の考え方によると、労働供給が飽和する水準で実質GDPは均衡するので((セイの法則))、実質GDPは貨幣量や物価とは関係なく決定される。そこで貨幣量Mが一意的に物価水準Pを決めることになり、物価を安定させるには貨幣量Mの水準にのみ関心を払えばよい。フィッシャーのMが増加すればPも増加するという説明は、昔からある貨幣の中立性を数学的に洗練して叙述したものである。

ミルトン・フリードマンに代表されるマネタリストは、Q/Vの構造に長期的な安定傾向を見いだし、短期的には貨幣の中立性が満たされないことはあるが、長期的には満たされるとする。このため貨幣量が増加すると一時的に実質GDPまで拡大することはありうるが、長期的には実質GDPは完全雇用できまる水準に低下し、物価Pの上昇をもたらすだけだと考える。Q/Vは一回あたりの発注ロット数の平均値をあらわすが、フリードマンは経済の期待成長力や期待収益率の多寡によって、1回あたりの受発注量が増減することは短期的に観察できる事実であるが、長期の統計においては安定した関係にあると実証した(この功績でノーベル賞を受賞)。

交換方程式は取引経済の実態そのものの数式化であり、かならず両辺が一致する。限定された期中における交換のみに着目した恒等式には、来期以降の不確実性に対する予測やそれに対する準備という概念を一見必要としない明瞭さがある。一方でケンブリッジ方程式は貨幣選好kにもとづいて現金残高は特定の水準PYに対しても変動する。マーシャルのkは経済全体がどの程度の含み資産をもっているか、経済成長力(自然利子率)がどの程度か、投資収益率(名目利子率)がどの程度か、などといった状況にも左右されるかもしれない。

フィッシャーの交換方程式と、マーシャルのケンブリッジ方程式は、本来まったく別のアプローチから通貨量と物価の関わりを記述したものである。流通速度(PQ/M)の逆数が貨幣選好であると読み換えることの根拠はない。しかしQとは相殺取引等を前提とせず、不動産や債券など金融資産の売買を考慮せず、中間生産物の売買を除去すれば国富・国民経済計算の観点からは実質的な価値(実質GDP=Y)そのものであり、また統計的にはMやPは共通した統計量であり、二つの方程式を統合した分析は信用サイクルの分析などに重要な示唆をあたえている。

現実にはマーシャルの現金残高方程式の過程、すなわち貨幣量(流動性)が増減することで実体経済Yが深く影響を受ける効果があることは無視できない。

>有効需要

詳細は「有効需要」を参照

貨幣量の増加は、実質金利の低下へつながる。この結果、設備投資の増加へつながり乗数効果で有効需要が増加する。有効需要の増大は生産の増大、あるいは物価の上昇へ結びつく。

>貨幣錯覚

「貨幣錯覚」も参照

流通貨幣量の増減は、事前に約束され容易に変更されることのない数値である金利や賃金、社会保障、税、および資産価格などに対する評価の修正を通じて経済活動全般に影響を与える。
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

題名 スレッドをトップへソート
名前  「名前#任意の文字列」でトリップ生成
E-Mail 入力すると メールを送信する からメールを受け取れます(アドレス非表示)
URL
パスワード ご自分の投稿文の編集、削除の際必要です。面倒でしょうが入力をお勧めします。
投稿キー (投稿時 投稿キー を入力してください)
コメント

   クッキー保存