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[1908] 新しい日本のかたち
日時: 2013/12/01(Sun) 07:31
名前: 天橋立の愚痴人間

以前にも同じ名前のスレッドを立てていましたが、古いものは名前をかえて(国のかたち)、ここに新たに書き起こします。

「新しい」と言う言葉に何を想っているかにつきまして、それは現代社会が民主主義と言う面でも、資本主義と言う面でも、知らず知らずの内に、想っていたよりも矛盾が噴出し、ただ、それを信奉しているだけでは、その言葉で期待していた成果を得られないようになって来ている事を鑑み、反省し、その認識の上に、我々は何かをするべきではないかと言うことを問うものであります。

民主主義と言う面では、個人の権利、自由の希求が、共生(助け合いながら生きている)と言う認識を希薄にし、結果、場合によっては、個人の精神を蝕むことも起きるようになって来ています。

また資本主義経済のありようは、ヒューマンスケールを飛び越えて展開し、生産手段の発達は、多くの人々から就労の機会を奪い始めています。
このような事は、人類の歴史数万年の中で理想と想っていた社会のありようが、理想を超えてしまい、人類として戸惑っているようにも見えます。

また、現代社会は、情報、物資の交流において、民族、国家と言うものの枠を超え、人々は容易に世界中の情報、物資を得る事が出来るようになって来ています。
国家の概念も従来の、それでは捉えられなくなって来ています。

これらの事が何を意味するか。
それは、まさしく新しい文化、文明の始まりと想います。
飽くまでも、人間そのものの本質は変わらないとしても、こうした環境に適合する智恵を、人間は文化、文明として展開して来ました。

このような視点にたち、これからの社会つくりに、我々は何を考えて行かねばならないかを自問自答して行きたいと想います。
それが、新しい国の形であります。

具体的には、如何に生きると言うこと、どうすれば生きられるかと言うこと、即ち、経済の事が中心になりますが、その為にも、我々は我々自身の生き様まで思案しなければなりません。
また、それは決して従来のそれを否定するものでもなく、突飛な展開を想定するものでもありません。
人類の歴史に立って、次に何を成すべきかを問うことであります。

今まで掲示板にいろいろと書き込んで着ましたが、その総集編としてまとめて見たいと思います。
かつ、掲示板での、いろいろな方との交流で多くのヒントを頂き、ようやく、ここらで一度、纏めたいと思うようになったことを付け加えさせていただきます。
メンテ

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現状分析 ( No.1 )
日時: 2013/12/01(Sun) 15:29
名前: 現状分析  天橋立の愚痴人間

(現状分析)

始めに、人間にとって経済と言うものは何であったかについて見てみる事にしましょう。
狩猟採集によって生きていた時代は、獲物が多く取れる場所を占有することでした。
農耕などが始まり、集落を作り生活するようになると、為政者と言う階層が現れ、集団の維持の為の費用を集める必要があり、税と言う概念が生まれました。

通貨と言うものが現れてからは、財を蓄えられる事が判り、本格的な経済の観念も生まれました。
爾来、1万年あまり、人間社会は経済を通して展開してきました。

通貨は生活の糧を得るための必需品であり、年貢、税として為政者、国家へ納めねばならないものであり、かつ、余力として貯えれば人々の栄華と安定をもたらすものでした。
この様な時代となると、人間社会はいろいろな分野で分業化が進み、通貨(経済の概念)なくして個人の生活も集団の生活もありえないものとなりました。
同時に、人間社会に大きな格差も生まれました。

一般的には、殆んどの人々にとって経済とは、まさしく生きて行く手段でありました。
時代が遡り、近代といわれる時代も、おおよその枠組みは変わりません。
殆んどの人々は生きるための糧を得る為に、一生懸命に働き、通貨を手にしてそれで生活を維持して来ました。

中世と言われている時代までの経済は、一般的な国民にとって、衣食住と言う生きる為の環境を得る事と同じでした。
それすら満足に手に入れられない多くの人がいました。
近世に入って科学技術が発達し産業革命と言われているものと通して、人間はあらゆる領域の物資の生産を大量にすることが出来るようになりました。
それまでは、生産といえば自然界にある物質を手仕事で加工することであり、そんなに大量に作ることは出来ず、それを手に入れられる人の数は少数の者に限られていました。
産業革命、要するに生産技術は、近世以降年々発達し現在では、人が欲する殆んどのものは誰でも手に入れられるようになりました。
勿論、贅沢品、高価なものは別ですが、取り合えず生きるための物資の調達は満遍なく行き渡っていると思います。

また、この過程において、多くの商品を作る為に、多くの人手も必要とし、人々は給料という形で通貨を得て、必要なものを購買すると言う循環が滞りなく効率的に働き人々の生活レベルの向上を招いてきました。

過去、300〜400年の生産技術の発達は、それ以前の数千年と比べようもないすさまじいものでした。
特に、ここ100年、いや、50年の生産技術の発達は、とんでもない勢いで、生産に携わるべき人間の手を余り必要としていません。

その昔、1億人が必要とする商品を作る為に数万人の人間が必要であり、その1億人が必要とする多くの商品を作り為には累計で何千万の人手が必要でした。
ですが、現在は、その何千万の人が一千万でも可能となっているのです。
携帯電話などの新商品も開発されましたが、其れにしても今や数箇所の工場があれば生産できます。
こうして、発達しすぎた生産技術は、人々から働く場所を奪っているのです。
このような機械化は物資の生産現場だけではなく、オフイスの機械やヤービス業の世界でも著しく雇用の機会が機械にとって代られているのです。

いきなり結論の様なことを言いましたが、このことを真摯に、厳格に受け止めていただく必要があります。
50〜100年まえ、私たちが若かったころ、仕事をすると言うことは何であったでしょう。

農地を持っている人は百姓に励み、山に入って木を切り出す職業の人もアチコチいました。
家を作るための大工、左官、屋根屋、板金屋も多く、身の廻りの多くの人が従事していました。
酒、醤油、こんにゃく、豆腐などを作る食品加工場も各地にありました。
町工場も多様で、学校を出て働くと言う事は、都会の工業地域へ就職するか、地元でそれらの会社へ就職するかで、自然と働く先が決まっていました。
現在は、それぞれの企業が集約化され、アチコチに点在している訳ではないでしょう。
要するに就職しようと思えば広い範囲で探さねばならないのです。

この様な現状に対して、それは産業構造が、第一次産業から、第二次産業、それから第三次産業へ移り変わっているのであり、人材を必要としている産業で就職先を得れば良いと言う考え方があります。
確かに第三次産業は、現在、全就労者の75%を占めるようになって来ています。

それでも失業率が高くなっているということは、第三次産業でも雇用を必要とする人々を収容しきれなくなっていることを証明しています。
我が国の失業率は、4%と言われていますが、非正規雇用の存在、ワーキングプアーの存在などから、実質は10%以上の人に対して仕事がないとも言えるのです。
スペイン、ギリシャの例を挙げるまでもなく、先進国と言われている国の実質失業者が15〜20%になっている状況が、このことを証明しています。

私は、かと、言いまして、生産技術の発達が悪いとか、今までのことを否定するつもりではありません。
このような状況を正しく認識する事が必要であるという事を言いたいのです。

昔は、失業しても、自給自足の生活に入るとか、身近な知り合いに頼んで何らかの仕事にありつける機会がありました。
また、しばらくしのいでいれば、景気が回復し復職が期待できることもありました。
現代は、そういう術もなくした多くの人が困窮しています。




ありきたりの話しになりましたが

とりあえずは、今晩は、これまでとします。
メンテ
経済のグローバル化とは ( No.2 )
日時: 2013/12/02(Mon) 03:15
名前: 経済のグローバル化とは

前回、失業者が多く発生していると言いました。
現代の失業者、困窮者は、社会保障による救済はあるものの、それがなければ大昔、飢饉があれば生死を彷徨わねばならないほどの過酷な状態にあるのです。
自給自足の道も、転職の道も殆んど閉ざされているのです。社会の仕組みとしての失業であるからです。

世界的な、この様な状況を説明するのに、生産技術の発達と言うことと、経済のグローバル化の影響と言う事があります。
次にグローバリゼーションについての認識を確認したいと思います。

グローバリゼーションとは「国際化。特に、経済活動やものの考え方などを世界的規模に広げる事とあります。

経済のグローバル化は、世界の潮流となっているが、その背景としては、

(1)輸送・通信分野の技術進歩による時間的・空間的距離の短縮、
(2)規制緩和や市場開放など自由化の進展、
(3)旧社会主義圏の崩壊と新興工業国の台頭により市場が世界的規模で拡大 (市場経済規模は27億人から55億人に一気に倍増) したこと、が挙げられる。また、今後は、
(4)インターネットを代表とする情報通信ネットワークの拡大、
(5)NGOの国際的な活動の活発化等が世界経済の一体化を促進していると考えられています。

また企業活動のグローバル化には、大きく分けて5つの段階があるといいます。

第1段階は輸出、
第2段階は海外販売網の整備、
第3段階は天然資源、低廉な労働力、海外マーケットを目的とする生産や技術開発拠点の海外移転、
第4段階は事業推進のために必要な経営資源の移転、
第5段階は世界的規模での経営戦略の展開となる。企業が現地生産等の海外直接投資を増やし、多国籍化していくにつれ、モノ、カネ、ヒトの国境を越えた移動が活発化し、国境の制約が相対的に薄れ、相互依存関係が深化していく。

現在は第5段階に進みつつあり、世界を一つの市場として各国の企業が激しい競争を繰り広げるメガ・コンペティション(大競争)が始まり、提携や買収など競争力強化を目的とした世界的規模での企業の再編成が進んでいる。国境を越えたM&A(企業の合併・買収)の急増、大型化している。一企業内でも、部品供給と完成品組み立てを複数の国で分業する企業内貿易が、国際貿易に大きな割合を占めるようになっている。
また、貿易の拡大、金融取引に関する規制緩和の推進、情報通信ネットワークの拡大により、世界の金融市場の一体化が急速に進展している。

我が国の現状に当てはめてみると、第一第二段階は30〜40年前に経験したように思います。
各種商品の増産に継ぐ増産のために日本各地に工場が進出しました。

第三段階は、20〜30年前の状況を省みれば納得が行くと思います。
輸出が好調で日本各地に展開していた大企業の地方の工場は、安価な労働力を求めて生産のシフトが海外に移ったため、次々と閉鎖されて行きました。
同時に、国内向けの商品の生産も海外で行う流れも始まりました。
これも、国内におけるグローバル化の一連の様相です。

第四段階は、各企業の企業活動の本格的な海外移転が始まりました。
生産拠点の移転だけでなく、企業そのものが海外へ移ったのです。
ここ20年の企業のすさましい海外進出です。
企業は輸出の概念から開放されて、真に多国籍企業となって行きました。

第五段階は現在進行中との事ですが、文字通り企業は国境をものとも思いません。
巨大資本は、関係するそれぞれの国家の意志を凌駕して展開しています。
本来、国家が拠って立とうとする基本的な社会の生産システムも企業の論理の中で昇華されてゆきます。
国家の国つくりの構想も、資本の力の前に蹂躙されてしまいます。
巨大化した資本の動向を無視して国家の戦略も立てられなくなってしまっています。
全てがこのような極端に走っているとは言いませんが、十年くらい前からはこのような傾向が強まっているのが現代の特徴といえます。

今まで述べてきた事が、不都合と決め付ける事も出来ません。
経済のグローバル化が進んだ御蔭で、我々は安価で豊富な物資を手に入れられるようになりました。
発展途上国と言われていた国が、思わぬ繁栄を遂げられるようにもなりました。
世界経済の規模も飛躍的に膨れ上がったといえます。

かつ、この傾向は資本主義経済体制の究極の流れに沿っているのです。
その中で、我々は手放しで喜んでいるだけでは済まされない事態にも遭遇しているのです。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.3 )
日時: 2013/12/02(Mon) 03:28
名前: 古典経済学

いきなり生々しい現実を突きつける事になりましたが、それではグローバル化と言うものが必然であったか、否かについて見てみましょう。

佐伯啓思氏の「アダムスミスの誤算−幻想のグローバル資本主義」と言う著作があります。

 グローバル資本主義の祖(と思われている)アダム・スミスが実は(今日で言うところの)グローバル資本主義に批判的であったのではないか、と主張する本。政府の規制の象徴である重商主義を批判し、自由放任経済を主張した、といわれているアダム・スミス。しかし、これは貨幣に対する不信感から出てきた主張であり、彼自身は「土地と労働への投資」が自然な姿である、と主張していた、とこの本では主張する。

 「土地と労働への投資」と聞くとなんだか、日本的経営論でよく言われたの「土地神話」「従業員主権」何かをイメージしてしまうけれども、(この本で力点が置かれている)アダム・スミスはそんなバブルの勧めをしているわけではもちろんない。貨幣という「信用」の上にのみ成り立つ虚構のものよりも、確実なものとしての土地や労働に対する投資の方が自然の姿であり、望ましいと考えられていたと言うことである。この観点からすると、日本のバブルは「土地」を不確かなものとして扱ったが故の産物であるといえよう。そして「土地」に対する信用が崩れた後がまさしく現在の日本の姿だといえるのだろう。

 貨幣が信用によって成り立っているのは、確かにその通りであり、それが時として猛威を振るうのは、アジア通貨危機などをみても明らかである。ただ「信用」がないと、取引の際の費用や情報探索コストがかかって仕方ないだろう。つまり、信用はありすぎても、なさすぎても困るものなんだろうと思う。今(2000年冒頭)の株式市場を見ていると、IT関連は信用が集まりすぎ、逆に重厚長大型は信用がなさ過ぎのような気がする。まあ、ぱっとみの感想にしかすぎないけれど。

(引用終わり)

アダムスミス以降展開されてきた経済学は、これから紹介しますが、セイの法則」や「限界効用説」を根拠に「古典派経済学」、「新古典派経済学」と言われるものに大きく分かれて行きました。

その過程で問題となっている事に、普通、我々一般人が「需要」と「供給」と言う単純な概念、それに「神の見えざる手」と言う単純な思い込みによる経済の有様とは随分と異なるものがあります。
表記の著作は、アダムスミス自身も予想してない要素があったということであり、我々が簡単に把握できるものでもないのでしょう。
その一端を「重商主義」と言うキーワードで見てみたいと思います。


松田広島大学助教授

「古典派の経済学」

 古典派の主張の中心点は、貨幣が経済の実体面に影響を持たないということである。古典派の経済学は、貨幣の不足による需要の不足を否定した。それをもっとも簡潔に示したのが「セイの法則」である。すなわち、「供給はそれ自らの需要を生み出す」という命題である。セイは需要を経済循環の視点から見た。供給をした人は何かが欲しいから供給をしたという理解が基礎となっている。生産がなされればそれと同額だけの所得が生まれているはずだとすれば、供給があればそれと同額の需要があるはずだという考え方である。

 もし貯蓄がなければそれは正しいが、現実には貯蓄がある。しかし、その代わりに投資というものもある。貯蓄されたために消費されなかった分だけ需要が少ないが、その分だけ投資需要があれば作った分だけ売れることになる。セイはそこまで議論している。

 古典派は供給だけの需要が生まれると主張したが、その根拠は利子率による貯蓄と投資の一致である。縦に利子率、横に貯蓄と投資をとって図を描いてみよう。古典派は利子率が上がると貯蓄が増えると考える。将来多く消費できるのなら現在の消費をがまんするだろうという考え方である。また古典派は投資は利子が下がれば増加すると考える。返す金利分が少なくなれば、採算に合う投資が増えて来るという考え方に基づく。その貯蓄と投資が等しくなるようなところで利子率が決定されると主張するのである。

 その結果、作ったものは必ず売れるということになる。需要不足による不景気は起こりえない。では古典派の経済学では生産量を決めるのは、いったい何か。古典派は、労働市場において労働の需給が一致するところで生産がなされると考えるのである。常に完全雇用が成立し、失業は自発的失業と摩擦的失業のみ存在することになる。

 労働市場で、雇用量と実質所得が決まるこのような経済では、貨幣は経済の実体面に影響を持たない。貨幣と実物経済とは別に考えることが可能である。これを貨幣と実物の2分法という。古典派は、貨幣を経済の実物面をわかりにくくするベールであると考えた。これを古典派の貨幣ベール観という。古典派の経済学では、貨幣は物価を決める働きしかしていない。

 古典派の物価理論を貨幣数量説という。貨幣量が2倍になれば、物価が2倍になるという考え方であるが、これにはフィッシャー型とケンブリッジ型の2つのタイプがある。
 まずフィッシャー型から説明する。貨幣数量説的な考え方は非常に古くからある。フィッシャーの議論は、その歴史の最初ではなく、むしろ最後の方に現れたいわば集大成である。フィッシャーは取引の二面性に目を向ける。

 すべての取引には片一方には財・サービスが、もう一方には貨幣がある。取り引きされた財・サービスの総額=手渡された貨幣の総額という式が成立する。取り引きされた財・サービスの総額は取引量×物価水準である。貨幣の流通速度を貨幣が一年間に平均して人手をわたる回数と定義すれば、取引に使われた貨幣総額は貨幣量×貨幣の流通速度となる。
 古典派の考えでは、取引量は経済の実体面から決まってくる。貨幣の流通速度は取引慣行が変わらなければ一定と考える。そうすれば、結論として、貨幣量が2倍になれば物価は2倍になると考えられる。

 ケンブリッジ型では、そのような取引慣行ではなく、貨幣需要を考える。人々が所得に応じて、その一定割合の貨幣を保有すると考える。その割合を示す記号kを、ケンブリッジの教授の名を冠して、マーシャルのkと呼ぶ。kは一定で、生産量は経済の実物面から決まってくる。ここでも貨幣が2倍になれば物価が2倍になると結論できる。
 取引慣行が一定なら、取引量と生産量とは比例関係にあるだろう。フィッシャー型で取引量の変わりに生産量を使う型もある。そのとき貨幣の流通速度を所得流通速度という(取引量を使った場合、その流通速度を取引流通速度という)。マーシャルのkは、所得流通速度の逆数となる。

 この2つの型の貨幣数量説は、式の上ではあまり違わないように見える。しかし、ケンブリッジ型では、需要という個人の意志が表面に出ている。その点がフィッシャー型の単にそのような傾向があるという主張と違っていることに注意が必要である。

「新古典派経済学」

現在米英で主流派といわれる考え方。この学派はその根源をアダムスミスにまでさかのぼることができる。競争によるパレート最適、およびそれに付随するウェルフェアマキシマムを強調する。市場原理に基づいた競争が、諸要素の適正配分を促し、かつ技術の発展をもたらすというもの。現在の世界銀行及びIMFもおおよそこの考え方に乗っている。イギリスではこの考え方が、サッチャリズム=新保守主義のもとでの規制撤廃・民営化をバックアップした。
開発経済にあてはめた場合、途上国の政府はその介入範囲の狭小化を迫られることになる。つまり、国家的支援や国営企業、地場産業育成のための各種補助金などを切り捨て、自由競争・自由市場をモットーとする「小さな政府」となることが要請されるのである。もちろん国際経済の中にあっては、輸出・輸入ともに開かれたものとなる。経済的側面において政府に与えられた役割は、Market Failure、いわゆる「市場機能の欠落」部分に関しての修正のみである。市場機能が欠落する分野というのは、教育・福祉などの公共財や、市場原理を取りこめない自然独占状態についてである。(独占という状態は基本的に許されないが。)また、市場原理が望ましくない結果をもたらす場合(下記郵政行為を参照)や市場原理とは関係のない外部要因(環境汚染など)について管理・規制することが認められるのみである。
ここで想定される開発経路は、外資企業による直接海外投資によってである。安い労働力はそのまま比較優位となって、外資企業を誘致する。直接海外投資は資金のみならず、技術やR&D施設、ノウハウなども包括するので、これにしたがって開発がすすむ。ただし、これは企業行為の現地化が必要事項となる。現地経済と切り離された外資企業の経済活動は、ローカル企業に技術の移転を及ぼさず、現地経済を刺激することもないからである。
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マクロ経済学の登場 ( No.4 )
日時: 2013/12/02(Mon) 03:35
名前: マクロ経済学の登場

さて、前回の続きですが「るいネット」のサイトに、下記の文章が書かれています。

スミスの批判する重商主義とは、つまり富とは貨幣であるという考え方です。そして、当時、外貨(金銀)をいかに獲得するかが重要な国家のテーマであったわけです。スミスは、国富の基盤をこうした貨幣という不確かなものに据えることを批判したかったわけです。そして、確かな富とは、土地に根ざした労働生産物であるべきだと考えたのでした。土地を所有するということは、その土地に責任を持つことを意味します。そして、そこから貴族に特有の徳、すなわち、勇気、知恵、深慮、寛容が成立していたのでした。つまり、スミスが求めたものは、市場経済の確かな基礎であったのです。

 さらに、スミスは、人はもっとも確実で安全なところにまず投資し、その順序は、農業、製造業、そして最後に外国貿易の順序になると述べています。つまり、これが自由な経済活動の帰結であり、要は、スミスは、国内経済を重視するがゆえに重商主義を批判したわけです。ここで、「神の見えざる手」のくだりについて考えてみると、つまり、スミスは、自由にすれば当然国内に投資をするだろうということを述べたかったのではないかという帰結に至るわけです。スミスにとって、貿易とは、余剰生産物の交換にすぎなかったのです。

 アダムスミスの述べた「神の見えざる手」が、当時の時代背景や思想的背景を無視して、現代において一人歩きをしているという点です。当時スミスがもっとも言いたかったのは、地に足のついた経済基盤によるべきだという点です。しかし、現代の市場は、株式市場を始めとして、ますます投機的な要素が増大し、人々の感情によって大きく変動するものとなっており、正にスミスがもっとも批判したかったものそのものとなっているわけです。現代においてスミスがいたら、まさかこんな市場に経済をゆだねるべきだとは絶対に言わないでしょう。
 近年のアメリカの好景気は、金融業やIT産業に対する過剰な期待によって支えられています。いずれの産業も不確実な要素の大きい産業です。また、経済活動においては、市場のおける自由競争の原理が強調されており、そのとき引き合いに出されるのがアダムスミスの「神の見えざる手」です。実は、不確実なものを経済の基盤に置くことを批判していたアダムスミスのの言葉が、彼の批判した経済活動のありかたを助長するための引き合いに出されているということになります。
 
 日本ではアメリカの成功(?)にならい、アメリカの後を追う形で、IT産業に活路を見出そうとしています。その期待は過剰ともいえます。また、日本では90年代に起きたバブル経済の崩壊の教訓を生かせと言われています。しかし、IT産業によせる人々の過剰な期待は、まさにあれだけ痛い目を見たバブルの再来を期待しているようにみえます。

 このような状況をみれば、アダムスミスは、おそらく「もっと地に足をつけた経済活動をしなさい。」と批判するに違いありません。

(引用終わり)

これは先に紹介した、佐伯啓思 「アダムスミスの誤算−幻想のグローバル資本主義(上)」 に関連する記事である。
言われているように、スミスが考えた重商主義批判というのは、当時の経済活動が帰結として国家の富の増加に重きが置かれているのに対して、万民による万民のための経済活動の開放を目指したものである。
それも確かな「富」とは土地に根ざした労働生産物であるべきだと言ったように、経済活動を人間社会がそれまでやってきたように始原的な「需要」と「供給」を想定していた。
勿論、それは科学技術の進歩による生産性、運搬手段の発達により、想定外の現象が生まれることは予想できなかったことは認めなければならない。
その矛盾を突いてと言うか、補って展開したのが「新古典派経済学」ぼ流れである。
しかしながら、もともと曖昧な認識である「見えざる神の手」の部分については何の検証もしてないところに「新古典派経済学」の末裔の身勝手さがある。
結果、アダムスミスが目指した経済活動の主役を国家(少数の支配者)から一般の民衆に移そうとした本来の意義をないがしろにして、経済の主役を巨大資本にすり替えたのである。
アダムスミスの頃は、自由と思われる国民の経済活動の成果が行き着くところ国家(支配者)へ集まっていた。
現在は同じように一般民衆は、それ(資本主義)を信じて経済活動に勤しんでいるが、その富の多くは、結局一部の資本家へ集まっている。
これは社会科学としての近代経済学の大きな瑕疵である。

ところで、先に紹介した広島大学助教授は下記のようにも言われている。

「マクロ経済学の発生」

 国民所得決定の理論はマクロ経済学の中心問題である。1930年代には大不況の時代があった。映画「モダンタイムズ」などでその頃のムードを知ることができる。マクロ経済学はそのような状況を背景に生まれてきた。

 1936年に出版されたケインズの『一般理論』がその契機となった。第2次世界大戦後、ケインズ経済学が学界で一般に広く普及した。1950年代、60年代は、ケインズ経済学の時代であった。

 その後、1970年代に新古典派経済学が支配的になって、状況は変化した。この2つの学派で失業問題に関する意見の相違がある。

 失業を3種類に分業しよう。自発的失業、摩擦的失業、非自発的失業の3つである。自発的失業とは賃金が低いから、それで働かないという失業である。そのような失業は別に問題ではない。摩擦的失業とはリクルートのための失業である。これは転職する先が十分にあるのなら問題にする必要がない。政治的に問題になるのは非自発的失業である、すなわち現行の賃金で働きたいと思っているのに職が無くて失業している状態をさす。

 非自発的失業が存在するのならば、政治的に対応が必要である。新古典派経済学は非自発的失業の存在を認めない。現在は、1990年代の不況で、ケインズ経済学が少し見直されつつある。マクロ経済学の教科書では、短期にはケインズ経済学、長期では新古典派があてはまると整理しているものが多い。この講義では、この2つの立場の両方を説明する。
 景気の変動はかなり古くから知られていた。そのような景気変動の説明として、貨幣の不足説がある。つまり、貨幣が少ないから不景気で、貨幣を増やせば景気が良くなるとい
う説である。経済学はそのような説を否定するところから始まった。

 ケインズ経済学が批判の対象とした理論を古典派の経済学という(経済学史の用語法から言えば、これも新古典派経済学である。マクロ経済学では、新古典派という場合、ケインズ以後の精緻化されたものだけを指すことが多い)。
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ハイエクの登場<新自由主義経済 ( No.5 )
日時: 2013/12/02(Mon) 04:14
名前: ハイエクの登場<新自由主義経済

フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクは、オーストリア・ウィーン生まれの経済学者、哲学者。オーストリア学派の代表的学者の一人であり、経済学、政治哲学、法哲学、さらに心理学にまで渡る多岐な業績を残した。20世紀を代表するリバタリアニズム思想家。
ハイエクは経済学者である前に、哲学者であった。

ハイエクは,国家の役割を増やすこと自体を自由への脅威であり,社会主義的だというようなことを主張している。こうした考えは,徴税や軍隊をも自由への侵害だとする極端なリバタリアンにも通ずるが,しかしハイエク自身は国家の役割を否定しているわけではないし,自らの自由主義は自由放任主義ではないことを強調している。また,かれは,国際関係においては,カント主義的な超国家的な国際機関の役割を認めている。
 かれの思想の源流は,オーストリー学派的な個人主義,自由主義,功利主義,主観主義,主観的心理的価値論や論理実証主義にある。そこから,社会主義・共産主義を個人主義・自由主義と相容れない集産主義・全体主義として批判するのである。

 かれは,個人は絶対であり,個人の自由は不可侵であり,競争は個人の主観的で心理的な努力を最大限に引き出すのが競争であり,その結果については,各個人が背負う偶然であり,それを運命として享受するという心理的な態度が必要だと主張する。かれの競争や市場の概念はまったく具体性がない抽象的な一般論であり,価格機構の役割についての論も同様の一般論である。かれによれば,競争は,「個人の努力を統合する手段」である。しかし,商品価格をめぐる資本主義的競争は,「各部面における生産価格が,これらの中位組成の部面における生産価格,すなわちk+kp'(費用価格プラス平均利潤率と費用価格との積)にならって形成されるように,社会資本を,相異なる諸生産部門のあいだに分配する」(『資本論』岩波文庫(6) 270頁)のである。

ハイエクは,経済諸関係や生産諸関係を,市場一般や競争一般から説いて,主観的自由主義・個人主義という心理的立場からする社会主義批判を,より正確には,集産主義・全体主義批判を展開するのである。かれは,カント主義者らしく折衷主義的に,社会主義の終局目的を完全否定しないし,国家の役割をも否定しないし,消極的には政府の介入行動の必要性をも主張している。かれにとっては自由ですら積極的なものではなく,何かからの自由というふうに消極的に定義されるものでしかない。だが同時にかれは,自由それ自体が目的であるとも言う。

「ヨーロッパ近代史を通じて,社会発展の一般的方向は,慣習または法規によって日常の行動を拘束されていた個人を解放することにあった」(22頁)。かれは,「法の支配は自由主義時代に初めて意識的に発展したものであり,単に安全保障としてのみでなく,また自由の法的表現として,最大の成果の一つである」(105頁)として,カントの言葉を引いている。すなわち,「人間に服従するのではなくて,ただ法に服従することを要するときに,人々は自由である」(105頁)。しかし法の支配についてのハイエクのご都合主義は,「度量衡制度を取り締まる国家(または他の仕方での詐欺や欺瞞を防止する国家)は,たしかに行動的であるが,たとえば,ピケによる暴力行使を許す国家は行動的ではない。国家は第一の場合においては自由主義原則を遵守しているが,第二の場合においては遵守していないからである」(104頁)と述べているところなどに現れている。

ちょうど,10月8日,9月27日夜に始まったアメリカ西海岸での港湾封鎖にいたった使用者側が仕掛けたロックアウトとそれに抗議する港湾労働者の対立に対して,ブッシュ大統領は,タフトーハートレー法に基づく指揮権を発動し,港湾封鎖解除を命令した。これは80日間の業務期間内に労使の合意による解決を目指すことを国家が強制するものである。もちろんその期間内に解決するとは限らない。10日間の封鎖期間中の損失は,194億ドル(約2兆4000億円)にのぼるとみられている。この場合について,ハイエクの考えでは,労働者諸個人が生活のために行うピケなどの闘いを鎮圧する国家行動は,自由主義原則に適っていることになる。しかしこの場合,使用者側の一方的な合理化による失業の危機に対して港湾封鎖に立ち上がった諸個人は生活を他の個人(資本家)から妨害されているのだ!

 さらにかれは,「法の支配は,立法を形式化された法として知られている一般規則の種類のものに限定し,直接に個々の人々をめざす立法,またはかかる差別のために,だれかに国家の強制権を行使させることを目指す立法を排除する。法の支配は,すべてのことが法律によって規制されるということを意味しているのではなくて,法律によって前もって決められた場合にのみ,国家の強制権が行使されうること,したがって国家の強制権がどのようにして行使されるかが予見されうるということを意味している」(107〜8頁)と言う。

このような法の支配の立派な理想が,実際の階級独裁を覆い隠すベールにすぎないことは言うまでもない。国家が余計な干渉をしない限り,ブルジョアジーは自由に搾取する。あらかじめ国家の強制権の発動が予見されるので,ブルジョアジーの中には,それをあらかじめ計算に入れ,法の網をかいくぐって企業不正や脱税や不法行為を自由に行なうものもでる。支配階級は,法の支配を社会に押しつけながら,自らはその制約をできるだけ免れようとする。特定の個人を対象にしない形式的な法の支配は,どの階級が本当に支配しているのかをできるだけ見えないようにする幻想形態なのである。経済諸関係が法律諸関係を生み出すのだ。

 また,ハイエクは,価格機構による限られた情報によって生産活動が調整されることが望ましいとして,それ以上の情報は不可知でよいとしている。かれは企業秘密を,個人のプライバシーと同じようなものとして扱っているのである。それがかれの個人主義・主観主義から来ていることは明白である。企業の主体は,個人であり,一人格(法人)であり,個人に擬せられた主体として扱われているのである。これは,かれの思想が,カント同様の独立生産者としての思想的特徴をもっていることを物語るものである。かれにとって独占は悪であるが,資本主義的独占はたいした悪ではなく,競争の確保によって抑制できる程度の小悪であるにすぎない。ところが,国家社会主義や共産主義的な独占は,それ自体目的とされる自由とは両立できない。それらは,集産主義・全体主義の一種であるからというのである。かれは,資本主義的独占が歴史的必然であることを認めないし,それが,競争を排除せず,国際独占体となって激しく競争していることを見ない。というよりもそういう現実は望ましいとして肯定しているのである。かれはこうした競争から戦争が発生することを認めない。かれの思想からは,戦争は,集産主義・全体主義が自由主義に対して起こすものだという結論が導き出される。

結果、生まれた新自由主義経済は下記の様なものです。

新自由主義(ネオリベラリズム)とは、市場原理主義の経済思想に基づく、均衡財政・福祉および公共サービスの縮小・公営企業民営化・経済の対外開放・規制緩和による競争促進・情報公開・労働者保護廃止などをパッケージとした経済政策の体系、競争志向の合理的経済人の人間像、これらを正統化するための市場原理主義からなる、資本主義経済のレジームをいう。
フォーディズムに続く資本主義経済のレジームであり、フォーディズムを支えた、国家による富の再分配を主張する社会民主主義、国家が資本主義経済を直接に管理する開発主義国家の経済政策などと対立する。計画経済で企業と個人の全てが国家の管理下である共産主義とは極対軸の経済思想である。
資金・財・労働力・技術など移動を自由化を前提するグローバル資本主義は、新自由主義を一国をこえて世界まで広げようとするものといってよい。

「評価」

「社会といったものはない There is no such thing as society」と説き、また「市場にオルタナティブはない There is no alternative to market」として市場を絶対視したサッチャーの下、自助の精神が取り戻されたという評価や、以下の各国に共通した双子の赤字の課題を残しつつも、英国が英国病を克服したこと、米国が石油危機に端を発するスタグフレーションを脱し、1990年代にはビル・クリントン政権下でインターネットなどの新産業が勃興して産業競争力を回復したこと、南米ではブラジルが1990年代までの深刻なインフレの制圧に成功しブラジル通貨危機までの安定成長を遂げていることなどは、グローバル資本主義、新自由主義の功績であると評価されている。 また、日本におけるバブル後不況の克服も新自由主義的改革の成果と評価されることもある。

「批判」

冷戦に勝利をもたらした思想として世界中に広まり、1992年頃に思想的に全盛期を迎えたが、ドイツ再統一後の経済的混乱、ロシア及びCIS諸国と東欧諸国の経済・政治的混乱、またソ連及び東欧諸国における共産主義は本来の思想精神とはかけ離れていた為に行き詰まった事が明らかとなり、また1997年のアジア通貨危機から発した世界金融危機における2001年のアルゼンチン経済危機や、新自由主義者の巻き返しとも言えるイラク戦争におけるイラク及び中東諸国の政治的混乱を契機に世界的に批判が高まっていく。

(引用終わり)

ともあれ、経済における新自由主義の考え方は、ここ30〜40年の間、生産手段の飛躍的な発達と共に、経済のグローバル化を推し進めて着ました。
その間に、確かに世界中の人々は、物質的には豊かになり、繁栄に浴する事が出来たと言えます。
その意味では、ハイエクは正しく、新自由主義も有益なシステムであたっと言えましょう。
メンテ
現状分析 ( No.6 )
日時: 2013/12/02(Mon) 06:58
名前: 現状分析  天橋立の愚痴人間

ここで、少し視点を変えて、そもそも経済とは何であるかについて見てみましょう。

日本語の“経済”の語源は、中国の東晋時代の古典『抱朴子』(著者:葛洪)にある“経世済民(けいせいさいみん)”の記述にあると言われます。経世済民とは、『世を治め(経め)、民を救う(済う)』という国家統治の枢要を説いた慣用句ですが、群雄割拠の乱世が繰り返された古代中国では『理想的な政治』を意味するものとして使われた言葉です。

しかし、現代でいう“経済(economy)”は、政治と同一のものではありませんし、『理想的な経済・道徳的な経済・正義実現の経済』といった経世済民から導かれる道徳性(倫理性)を通常含みません。

“経済(economy)”とは、“お金・モノ(財)・サービスを交換するシステム”のことで、法律や商慣習といった一定のルールに従って行われるお金とモノ、サービスのやり取りのことです。私達は、働いて得た「所得」や今まで貯めてきた「貯蓄」、投資して得た「利益」、定期的な不動産所得や金融所得などから「お金」を手に入れて、様々な商品やサービスを買って消費します。

通常、資本主義社会では、お金を得る為に働かなければなりません。つまり、人々は家計を維持する為に「対価(報酬)を得られる財・サービス・システム」を「生産」しなければなりませんから、一人一人の国民の大半は、生産者であり消費者であるという事になります。直接的な生産者(労働者)でない人もいますが、その場合には、定期的な不労所得を産む資産(不動産・有価証券)か生活を維持するに足る財産を持っている人であったり、お金を増やす為に「所有している資本」を投資する人だったりします。労働者であっても、直接的に財やサービスを生産するのではなく、集めたお金を投資したり融資したりする銀行業や金融業に従事する人たちもいます。

個人(家計)と企業だけでなく、政府(公共機関)も国民から集めた税金や国債を使い、国家予算を立案して経済活動を行います。政府・地方自治体は、国家予算を公共機関に分配して、社会の利益・安全を増進する為の経済活動(公共事業・公共投資・社会保障)を行います。日本銀行は、金融政策によってインフレやデフレの過剰を防ぎ、円滑で健全な経済情勢を維持する為の金利調整を行います。

また、教育・医療・介護・福祉など公共性の高い分野で国民の負担を少なくする相互扶助や社会保障にも税金は使われます。その他、治安維持のための警察活動、国家安全保障のための国防活動、国益増進の為の外交など税金の用途にはさまざまなものがあります。公共の福利につながる行政の公的事業(教育・医療・福祉・雇用・事務処理・介護・都市計画など)に従事する公務員への給与・賞与も、国民の納付する税金によって賄われます。

経済活動は大きく分けると、「お金」と「商品やサービス」を等価交換する“実体経済(実物経済)”と「お金そのもの」を商品として金融取引(株・債券など有価証券の売買)や投資事業(将来の利益や成長を見込んだ金融市場・先物取引などへの投資)を行う“マネー経済”に分けることが出来ます。銀行や郵便局に預貯金する行為も、お金を銀行・郵便局に融資する形になりますので、株や債券の取引よりも安定度は高い(流動性が低い)ですがマネー経済に分類されます。

私達が、毎日の生活の中で行っている食料品や衣服など商品の売買は、典型的な実物経済であり、旅行やレジャー、娯楽などに伴う各種サービスや移動手段に支払う行為も実物経済です。実物経済では、お金と形のあるモノ、実感できるサービスが等価交換されますから、お金の価値の上下によって損益の出てくるマネー経済や資産経済とは異なります。

実物経済では、その場でお金を支払い、商品やサービスを受け取る事により(ローンなどを組まない限り)経済行為が完結します。それに対して、マネー経済では、持っているお金を一旦、有価証券や金融商品、外貨、預貯金といったものへと交換して、『将来の利殖(お金の価値の増加や分配)』を待ちますから経済行為はその場では完結しません。

日本の実物経済の指標であるGDPは、大体、500兆円あたりを推移していますが、マネー経済の指標の一つである日本国民の金融資産の総額は1,400兆円程度であろうと推算されています。全体的な傾向としては、株や債券といった有価証券の売買、不動産や先物への投資などを行うマネー経済は活発化する流れの中にあり、米国などでは特にマネー経済の規模が大きくなっています。

実物経済は、市場に個人・法人の需要を満たす商品やサービスを供給し、マネー経済は商品やサービスを生み出す株式会社に事業を展開する為の資金を提供するので、実物経済とマネー経済が相互に支えあうことで資本主義経済は成り立っています。

・・・

紹介しています、この文章は、もう少し続くのですが、私が言いたいことは、

「経済とは、社会生活を営むための財やサービスを交換するしくみのことです」

で始まったものでありますが、豊かになればなるほどに、経済活動における利潤の追求が目的となり、資本が自らの理念にそって独走を始めたという事でありますが、これは一概に巨大資本のことを指すのではなく、庶民一人一人の心の中も、同じ発想であり、人間の本能であり、これを非難する事はできません。

また、そういう心情が社会を発展させた原動力でもあります。
その結果が、生んだ格差社会の事を、それゆえに一概に否定することも出来ません。

それでも、現実に職がなくなり路頭に迷う多くの人たちの存在を前に、このまま看過できるものではありません。
このレスで書きましたように、単純な経済の概念も、随分と幅の広い領域の認識を必要としています。

実態経済と金融経済の乖離の問題も出てきました。
一気に複雑になった概念の中で、私は、ただ一点、生産手段の発達によるい雇用の喪失に最大の重点を置いています。

現状分析につきましては、とりあえず、この程度にしておき、後は、その対度対応する事にします。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.7 )
日時: 2013/12/02(Mon) 18:48
名前: 虐げられる民衆よ!  天橋立の愚痴人間

さて、現在、経済のことで何が問題となっているのでしょう。
表向きは、株価の乱高下、為替相場の不安定が世界の経済の大問題のようになっています。
それらの問題は、要するに金融システムの維持、存続の為に大騒ぎしているのです。
彼等(経済の専門家と言われる連中)に言わせると、金融不安は各地の金融機関を破綻させ、資金が滞る事によって経済が大停滞を起こし稀に見る恐慌が再来すると言います。

まず、そのことも検証しなくてはなりません。
確かに金融機関の多くは破綻するでしょう。
ですが、現在ある生産設備は、新たな投資などなくても数年は必要な商品を生産できるでしょう。
現在、出回っている商品も何十年前の恐慌時とちがい、有り余っています。

彼等が言う金融機関の破綻が起きても、どのみち底辺で蠢いている大衆には致命的な影響はない。
要するに破綻する部分は膨れ上がった仮想の経済のシステムであり、主に、其れによってあぶく銭を稼いでいる富裕層であるのだ。
現在の歪な経済の体質を繕い、繕い進んで見ても、すでにUEも破綻の様相があり、アメリカも表向きの失業率の7%が上下していると騒いでいるが、4700万人と言うフードスタンプ受給者から逆算した失業率は20%を超えている。
奴等が頼みの中国も、いよいよ格差社会の問題が頭をもたげてきて、先進諸国企業の生産工場と言う訳には行かなくなって来ている。
これからの頼みの綱はインドの13億の国民であろうが、そんなもののごまかしが何時まで続くやら。

我が国も、表向きの失業率は4%と言っていますが、年収100万円以下の人が、500万人を超えている。所謂、ワーキングプアといわれる200万円以下でみれば2000万人を超えている。
就労者の1/3以上である。
このような人たちは、実質、まともな職業に就く事が出来ない失業者に近いものである。
今後は、このような階層が益々増えて行き、弱者は益々困窮し、完全失業者が20%を超える日もそうは遠くはないであろう。

これでも、まだ、政治は経済専門家は従来の経済論を持って経済のコントロールが出きると誤魔化すつもりであるのか。
確か、安倍などは福島の放射能はコンとローる出来ていると世界中に嘘をついていた、これ位は訳もないのであろう。
もうすでに、破綻は、ほころびはアチコチに現れているのであるが。

まあ、権力とは、そういうものであるともいえる。
現実の利権を守るのが権力であり、権力自身が改革など出来はしないのである。

そういうものに、政治に何を期待しても無駄なのである。
今日は全体に憤怒の気持ちを露にさせていただきました。
次からは、もう少し落ち着いて現状を検証しましょう。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.8 )
日時: 2013/12/03(Tue) 05:23
名前: UP 天橋立の愚痴人間

UPします
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.9 )
日時: 2013/12/03(Tue) 09:15
名前:   天橋立の愚痴人間

復旧
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.10 )
日時: 2013/12/03(Tue) 17:23
名前: 誰もがしない経済分析  天橋立の愚痴人間 メールを送信する

ここで、少し角度を変えて現状を見て見ましょう。

日本企業の総売上高は、およそ10年前(2005年)に1500兆円を超えたと言います。内訳は金融・保険業以外の約272万の営利法人のから25000社あまりを抽出し推定で出したようです。

日本には個人企業を含めると300〜400の経営主体があると言います。
パートなど企業の売り上げに入らないものなどを含めると、2000〜2500兆円の金が動いていることになります。
普通、景気の指標はGDPなどを言い、それは500兆円くらいのものです。

この事について、一つ言えることはTPPなどで世界の貿易に遅れを取れば我が国の景気が悪くなり国民経済が困窮するように言っていますが。
輸出は、高々60兆円です。
2500兆円の金の流れの中の60兆円(2.4%)なのです。
国民経済を支えているのは、何かと言いますと、明らかに大半の内需であるのです。

もう一つの見方を言いましょう。
同じように、30年前の日本の総売上高は、1000兆円と言われていました。30年後の2/3です。
何が言いたいかと言えば、当時はバブルに突入する時期で好景気に支えられ雇用も十分に確保されていました。人口も1億人は超えており就労の必要な人間も、おそらく6000万人はいたでしょう。

それが、売り上げが30%以上増えても、雇用は逆に減ってきているのではないでしょうか。
現在の就労する事が必要な人間、6400万人の中にはワーキングプアと呼ばれている年収以下の人々が1000万人はいるのです。

まず、生産量の増加が、必ずしも雇用を生み出す事になっていないと言うことをはっきりと認識すべきであります。
それなのに、まだ、このような数値を使い経済を分析しようとするものはいません。

少なくともTPP参加によって国民が救済されることはなく、一部の企業のみが利益を得るだけであります。
政治と言うものが国民を忘れ、使命を忘れ、ひたすら企業の代弁者となっていることを認識しなくてはいけません。

TPPによって利益を得る一部の企業の従業員であるならともかく、圧倒的な国民の支持によって安倍政権を誕生させた愚かさを十分に反省すべきであるのです。

自民党を支持したひと、貴方はTPPの御利益に預かれると思っていたのでしょうか。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.11 )
日時: 2013/12/04(Wed) 07:04
名前: 雇用の喪失  天橋立の愚痴人間

さて、ここのところ数ページに渡り、生産手段の発達により雇用が喪失していることを書いてきました。
その様子を列記して見ましょう。

農業の分野では、耕運機、田植機などが普及し、特に稲作においては驚くほどの省力化が進んでいます。
昔は田植と言えば、家族総出、親戚までも借り出し、場合によっては近所の人の手も借りなければ出来ませんでした。
それが現在は田植機を使って一人で短時間にやってのけます。
稲刈り、脱穀もしかりで、農機具の発達なしに農業は続けていられなかったでしょう。

漁業については近海の定置網こそ、未だに人力に頼る事がありますが、大型の漁船によりトロール漁法など、機械力による漁獲高は大変増えている一方で、人力に頼る近海漁業は衰退しています。

林業の分野の機械の発達は、それ程でもなく、道具類の能率向上くらいです。
元々、林業は成育に長期の年月を擁し機械化の恩恵を期待できない分野です。

各種の工場生産品における機械化は目を見張るものがあり、人力に頼っていた頃に比べると数倍、数十倍、数百倍の効率の出る生産設備が整ってきました。

代表的な自動車の生産ラインを見ますと、もはや殆んどはロボットが生産していて人影はまばらにより見かけません。
各種の金属加工品の製造においても、切断機、加工機などがずらりと並び、人間は、それらの工程を監視しているだけです。
木工製品においても、コンピューターに打ち込まれは情報のとおり、次々と商品が作られて行きます。
紙パルプの製造、ベニヤ板の製造も、殆んど人の手はいりません。
食品加工も同じであり、餃子の王将の生産ラインなどを見ていますと100万個と言われる餃子が1日で作られる事が納得できます。

当地の丹後チリメンの工場では、昔、女性の織子さんがずらりと並んで機織をしていたものですが、これもコンピューター内臓の機械にとって変わり、機械がトラブルを起こしたときのみ人間の手が必要な状況です。

こういう生産現場ばかりでなく、駅の改札の無人化、ガソリンスタンドの無人化など、人間が機械にとって変わられる状況が続いています。
また、管理、事務の分野でも、コンピューターの発達は一人の人間で出来る能力を格段に向上させています。
印刷、写真業界などは、業界そのものの存在すら脅かしています。

このように、生産技術の発達は、驚くほどの容量で人の手を不要としているのです。

これは言い替えれば生産拠点がドンドン減っていることにもつながります。
先の東日本大震災のおり、一時、システムキッチン、エアコンの流通が縮小しました。
これは、それらを生産する工場が被害を受けたからです。
システムキッチン、エアコンなどの商品の生産は、全国で数十ヶ所の工場で全て作られているのです。

このような状況を示す統計に、第一次、二次、三次産業別の就労者の統計があります。

          第一次産業     第二次産業   第三次産業  
1955(昭和30年) 1600万人     950万人    1400万人
           40.0%       24.0%    36.0%
 
1980(昭和55年) 500万人      2000万人   3200万人
           9.0%      34.0%     56.0%

2010(平成22年) 250万人     1550万人    4400万人
          4.0%       25.0%     71.0%
 
これで見ますと、50年前、まだ戦後の復興の途中であった時代は、第一次産業の頼らねばならない時代でした。
それが30〜35年前、奇跡の復興を成し遂げ、右肩上がりの成長を続けていた時代の就労者の比率ですが、当然、製造業に34%の人が就いています。
それが現在では25%で、第一次産業と合わせて700万人の人が職場をなくしています。
その間に工業生産品の総量は30%以上増えているのです。

その分の多くは、第三次産業へ吸収されていますが、この分野は、雇用形態としては不安定なものも多く、ワーキングプアーを多く生み出す元ともなっています。
そして、この傾向は先進国に共通しているようです。

昔から働くと言うことは、衣食住に関するものが多くを占め、それは比較的誰もが容易に従事する事が出来る職業でした。
そういう分野の職業が減ってきている事は、生産技術の発達と言う面で止むを得ない事ではありますが、そうかと言って、言われるように新規産業をつくると言う事は、誰でも容易に就ける職業と言う訳には行きません。

また、雇用の喪失の原因のもう一つについて言おうと思います。
それはグローバル化の影響で、企業は生産コストの低減の為に生産拠点を世界中に求めます。
要するに、資本主義経済のシステムの一方の特徴である、分業が、ある一定の地域を対象とするのではなく、世界中の地域を相手に進んでいるのです。
そういう面からも雇用の喪失が起きています。

今回は、雇用の喪失、所謂、失業者の増加について言いましたが、次には、それが経済にどのような影響を及ぼしているかについて述べましょう。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.12 )
日時: 2013/12/04(Wed) 09:48
名前: 既成の経済論の検証  天橋立の愚痴人間

古典派の主張の中心点は、貨幣が経済の実体面に影響を持たないということである。古典派の経済学は、貨幣の不足による需要の不足を否定した。それをもっとも簡潔に示したのが「セイの法則」である。すなわち、「供給はそれ自らの需要を生み出す」という命題である。セイは需要を経済循環の視点から見た。供給をした人は何かが欲しいから供給をしたという理解が基礎となっている。生産がなされればそれと同額だけの所得が生まれているはずだとすれば、供給があればそれと同額の需要があるはずだという考え方である。

もし貯蓄がなければそれは正しいが、現実には貯蓄がある。しかし、その代わりに投資というものもある。貯蓄されたために消費されなかった分だけ需要が少ないが、その分だけ投資需要があれば作った分だけ売れることになる。セイはそこまで議論している。

古典派は供給だけの需要が生まれると主張したが、その根拠は利子率による貯蓄と投資の一致である。縦に利子率、横に貯蓄と投資をとって図を描いてみよう。古典派は利子率が上がると貯蓄が増えると考える。将来多く消費できるのなら現在の消費をがまんするだろうという考え方である。また古典派は投資は利子が下がれば増加すると考える。返す金利分が少なくなれば、採算に合う投資が増えて来るという考え方に基づく。その貯蓄と投資が等しくなるようなところで利子率が決定されると主張するのである。

しかしながら、当時は重商主義が盛りの時期でもあり、王族など有力者に冨が集中している様相が強かった。
スミスは従来の経済活動が帰結として国家の富の増加に重きが置かれているのに対して、万民による万民のための経済活動の開放を目指した。市場経済において、各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において価格のメカニズムが働く事により、適切な資源配分が達成される、つまり需要と供給が自然に調節されると考えた(神の見えざる手と言う発想である)。

古典派経済学は、イギリスの産業革命の勃興期を前提として成立したが、その後問題となった10年周期の恐慌やフランスの大規模な失業労働者に対する有効な処方箋を作成することができなかった。

これに代って台等して来たのが新古典主義経済論である。

重商主義が国家の富の増加に重きが置かれているのに対して、スミスなどは、万民による万民のための経済活動の開放を目指したものであるが、確かな「富」とは土地に根ざした労働生産物であるべきだと言ったように、経済活動を人間社会がそれまでやってきたように始原的な「需要」と「供給」を想定していた。
だが、それは科学技術の進歩による生産性、運搬手段の発達により、想定外の現象が生まれることは予想できていなかった事を認めなければならない。

その矛盾を突いてと言うか、補って展開したのが「新古典派経済学」の流れである。
その新古典派経済学においては、もともと曖昧な認識である「見えざる神の手」の部分については何の検証もしてないところに「新古典派経済学」の末裔の身勝手さがある。

要するに

新古典派経済学は古典派経済学に基づく実体経済の中での問題意識に対していろいろと言われてきた諸説に対して、経済は自由放任とし、生のままの競争原理に従うことこそが経済を発展させると言うものであり、経済に対する国家の関与、規制を撤廃することを進めている。
その結果、発展した経済は、多くの人を救う事(雇用を増進する)が出来るという様に結論つけています。

現在は、その新古典派経済学の流れを受けた、新自由主義経済学の全盛期を言う事が出来る。



(新古典主義経済学を平易な言葉で現している文章があります。)

失業者がいるということは、
その失業者が現在の市場で与えられている賃金では
働く意欲を持っていない、ということであり、
政策的に介入するにはあたらない、と考える。
これは、「自発的失業」(および「摩擦的失業」)
しか認めていない、ということであり、

「非自発的失業」の存在を認め、
これを解決するために政府が介入するべきという
ケインズ派から区別される。

また、新古典派は、マーケットが完全であれば、
企業の利潤最大化行動の結果、
費用が低下し、最大多数の最大幸福が
実現されると考える。
また、新古典派の特徴として、貨幣ヴェール観というのも、
しばしば挙げられる。これは
貨幣は取引の仲立ちをする単なる道具に過ぎないので、
貨幣供給量を恣意的に増減することによって、
国民所得(雇用量)に影響を与えることは
できない、とするもので、
貨幣政策により利子率を操作し
投資を増減させようとするケインズ派と
区別される。

(引用終わり)


いずれにしても、この文章の中にも出てきた、下記の内容についての検証は、何処にも出てこない。

経済学で「需要」と「供給」と言う場合、経済活動を人間社会がそれまでやってきたように始原的な意味での富の受け渡しを想定していた。
だが、それは科学技術の進歩による生産性、運搬手段の発達により、想定外の現象が生まれることは予想できていなかった事を認めなければならない。

この事は、ずっと以前から認識されていたはずであるが、現代経済学に至るまで、これを咀嚼する試みはなされてこなかった。
この事は、これから新しい経済論を始めるのに重要な根拠となります。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.13 )
日時: 2013/12/04(Wed) 18:18
名前: マネーの話し  天橋立の愚痴人間

現在、世界中に2京円のマネーが出回っていると言う話があります。
これを検証してみましょう。

日本のマネーストックは2012年で1150兆円、同じくGDPが475兆円として、GDPの2.4倍のマネーストックがあるとする。
これに対して世界中のマネーストックの合計を推定すると
世界の187カ国のGDP総計は、2012年で7220兆円。
つまり、7220×2.4=1京7300兆円と言う事になる。
(単位はドル・円の換算をおおよそでやっています、あしからず)
後は正規のデーターには上がらない、怪しげな金が数千兆円ほどあるのでしょう。
国によって事情が違うが、おおよそと言う目安にはなるでしょう。

さて、いきなり世界のマネーストックの話から入りましたが、とりあえずは、我が国の中のマネーの流れについて見てみましょう。

マネーストックとは

世の中に出回っているお金の総量のことで、通貨残高ともいいます。
世の中に出回っていると言う意味は、金融機関を除く民間の企業、個人のマネーの総計であり、預貯金額を含めるので現実に流通している日銀券の総計ではなく、現金及び帳面上のマネーの事です。
この数値は金融政策において重要な意味を持つので、目的に応じて以下の4通りの識別をしています。

M1
現金通貨と預金通貨を合計し、そこから調査対象金融機関保有の小切手・手形を差し引いたもの。
対象金融機関は日本銀行(代理店預け金等)、国内銀行(ゆうちょ銀行を含む)、外国銀行在日支店、信金中央金庫、信用金庫、農林中央金庫、商工組合中央金庫、その他金融機関(全国信用協同組合連合会、信用組合、労働金庫連合会、労働金庫、信用農業協同組合連合会、農業協同組合、信用漁業協同組合連合会、漁業協同組合)。
※現金通貨 = 銀行券発行高 + 貨幣流通高
※預金通貨 = 要求払預金(当座、普通、貯蓄、通知、別段、納税準備) - 調査対象金融機関の保有小切手・手形

M2
現金通貨と国内銀行等に預けられた預金を合計したもの。対象金融機関は日本銀行、ゆうちょ銀行以外の国内銀行、外国銀行在日支店、信金中央金庫、信用金庫、農林中央金庫、商工組合中央金庫。

M3
M1 + 準通貨 + CD(譲渡性預金)。対象金融機関はM1と同じ。
※準通貨 = 定期預金 + 据置貯金 + 定期積金 + 外貨預金

広義流動性
M3 + 金銭の信託 + 投資信託 + 金融債 + 銀行発行普通社債 + 金融機関発行CP + 国債 + 外債。対象金融機関はM3のものに加えて国内銀行信託勘定、中央政府、保険会社等、外債発行機関。

2012年のマネーストックはおよそ1150兆円と言われています。


(ベースマネー)

これに対してベースマネーと言う事について見てみましょう。
世に出回っている現金と、各金融機関が日本銀行に預けている「当座預金」(法定準備預金)の合計。ハイパワードマネーとも言う。
各銀行が日銀に預けている「当座預金」とは、法定準備預金と言い、銀行が保有する預金額の一定の割合を日銀へ預けておかねばならないと言う制度です。

その比率は、時によれば10%近く高くもしますが、現在は0.05〜1.3%であり、世に言う量的緩和を最大限にしている状態です。
法定準備金制度は、日本銀行の役割が、経済活動に応じてマネーストックを調整する為に設けられ、通貨残高の動向を監視して、市中に出まわるお金の総量が常に適量となるように調整しています。

ところで、このベースマネーがどれくらいであるかと言えば、これも2012年で114兆円となっています。
現実に流通している日銀券は80兆円あまりと考えられます。

それでは、次にマネーストックとベースマネーの関係ですが、
通常、マネーストックをベースマネーで割った関係を言い、これを貨幣乗数と言います。

たとえば、1150兆円のマネーストックに対してベースマネーが114兆円とすると
1150÷114=10.08となります。貨幣乗数のことを信用乗数とも言い、銀行の信用創造の状態を現します。

金融政策でマネーストックが増えるメカニズムは信用創造と呼ばれるものです。マネタリーベースを財源に産業に貸し出されたお金はマネーストックとなり、支払いを経て、預金となり、その預金が再び貸し出されて、投資や消費に使われ、再び預金となるという繰り返しで、徐々に預金総額が増え、債務の拡大と共にマネーストックが増えていきます。これを信用創造といいます。信用創造の過程で、投資や消費が繰り返えされることでGDPも増加して行きます。

これが大きいほどよいとも言えませんが、少なくとも景気が良い状態の場合は、このようになります。

現在のそれは外国の諸国に比べると高いのですが、それが必ずしも国民経済の好調を現している訳でもないことは御分かりでしょう。

先にも書きました、法定準備金制度などの手法を使い、日本銀行の役割が、経済活動に応じてマネーストックを調整するとありますが、最近十年以上と言うよりも、バブル崩壊以後、そうした日銀の金融操作でマネーストックが有効に機能し、実質の経済が好転することはなかった。

要するに、従来の日銀による金融操作の手法は形だけのものとなり、役に立たなくなっている。

何が原因で、その様になってきたかの検証をしなければならない。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.14 )
日時: 2013/12/05(Thu) 07:43
名前: 既成の経済学説! 天橋立の愚痴人間

前のレス
>何が原因で、その様になってきたかの検証をしなければならない。

に対して、経済学は何をしてきたかを問いたい。

前にも書いたが、資本主義とは、経済の仕組みの一種で、資本の運動が社会のあらゆる基本原理となり、利潤や余剰価値を生む体制である。「資本制」とも言う。
資本主義が成立するためには、商品生産と商品交換が一般化しており、自己の労働力を商品化する賃金労働者の存在が必要である。ひとくちに資本主義」といっても時代や国によって体制には差があるが、一般的に以下のような特徴を持つものであるとされる。

• 私有財産制(民法体系による司法による財産権の法的保護、経済的自由権
• 私企業による生産
• 市労働市場を通じた雇用、労働
• 場における競争を通じた需要、供給、取り引き価格の調整、契約の自由


このスレッドの最初の方で、スミス以来の経済学の流れを紹介しましたが、殆んど実際に起きる経済上の現象を解説しているだけであり、経済活動を仕切る、何の手段(数式)を明示している訳ではありません。

経済学で拘ってきたのは価格の構成であり、景気、不景気の認識の仕方、いかにして不景気を脱し、景気を良くするかと言う概念的な試み(想定)であります。

そして、彼等が常に目をつけたのは、需要と供給と言う側面であり、それが経済の総量を規制し、需要を高めると生産が活発になり景気は良くなる。
また、需要を高めるためには価格を、それなりに抑える。
そうして価格とは、需要と供給のバランスにより決められるが、そこを旨く誘導すれば価格が抑えられ、需要が増える、と言う程度の事でした。

(具体的な議論として)

700年代の終わりの頃の、セイの法則があります。
セイの法則とは、「供給はそれ自身の需要を創造する」と要約される古典派経済学の仮説。古典派経済学理論のフレームワークを形成していた。
あらゆる経済活動は物々交換にすぎず、需要と供給が一致しないときは価格調整が行われ、仮に従来より供給が増えても価格が下がるので、ほとんどの場合需要が増え需要と供給は一致する。それゆえ、需要(あるいはその合計としての国の購買力・国富)を増やすには、供給を増やせばよいとする。

次に1800年代の限界効用学説があります。

ゴッセンの第1法則(限界効用逓減の法則ともいう)

一般的に、財の消費量が増えるにつれて、財の追加消費分から得られる効用は次第に小さくなるという経験則。 限界効用理論が成立するための前提条件となる。

ゴッセンの第2法則(限界効用均等の法則ともいう)

人が効用を最大化するとき、各財への貨幣の最終支払単位によって得られる限界効用(財の限界効用と価格との比)がすべて等しくなる。

ゴッセンの第3法則

財の価値(価格)は、財の需要量が供給量を超えるときにのみ成立する。

1900年代に入るとケインズが出ました。

ケインズは有効需要と言う概念を作り、
(有効需要、貨幣的支出の裏づけのある需要。金銭的な支出を伴った欲望として、単なる欲望とは区別される。「有効」という言葉は、貨幣支出(購買力)に基づいていることを示している)

総需要管理政策を唱えました。

総需要管理政策:政府が財政・金融政策を適切に用いて総需要を管理し、景気の調整、完全雇用、国際収支の均衡、安定成長などの経済目標の達成をめざす政策。ケインズの有効需要の原理に基づく。ケインズ政策。

ここで、始めて需要と供給の関係を、民間の自然の成り行きに任せず、国家の介入で需要を喚起すると言う発想がおきました。
ですが、その全てが、曖昧な想定で終わり、現実に対応できているものではありませんでした。

今でもそうですが、経済の専門家が経済理論としてやってきたのは金融管理だけであり、万民の為に国民経済のあり様の指針を提示する事はありませんでした。

その金融管理も、前のレスで言いましたように、貨幣の流通量を管理しインフレを起こさないように管理してきただけであり、実体経済の流れとマネーの流れが乖離していても、それを何ともする事が出来ず、事実を追認しているだけでありました。

既成の経済学は、資本主義経済のシステムにも、根本原理に瑕疵が生じ、このシステムが万民の幸せを追求する為に十分なシステムとは言えなくなって来ている事を認識していません。

>市労働市場を通じた雇用、労働
>場における競争を通じた需要、供給、取り引き価格の調整、契約の自由

これが成立していないのです。
生産技術の発達は、従来の概念で需要と供給を見ることは出来ません。
グローバル化は経済活動の領域を広げ、地域ごとの需要と供給の図式が成立しません。
これが成立しなければ、経済活動を必要とする我々人間の立場(生死の問題)が担保されません。

要するに、これが経済学の実態であります。

元々内容のない経済学ですが、そういう条件でも、もはや全ての既成の経済論を見直しの対象にしなければならなくなって来ている事を自覚したいものです。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.15 )
日時: 2013/12/05(Thu) 08:20
名前: 新しい日本のかたち  天橋立の愚痴人間

経済と言うものは、我々人間が共同生活をするための基本的な環境(条件)である。

その経済が、いまや一人歩きを始め、経済のための経済として存在する。
我々の一部の人間は、経済的に成功することを、権力を握ることと同じと思い、権力闘争に明け暮れる。

そういうことも人間の性と認めるが、政治が経済に組敷かれている現代は、まるで封建国家における独裁政治と同じような環境で喘ぎ、弱者は何処までも虐げられる結果が待っている。

ここに来て、我々は現行の経済を牽制できる別のシステムを用意し、経済をコントロールしなくてはならない。

これは経済の分野における市民革命の様なものと思う。
問題は、昔の市民革命の場合、倒すべき独裁者がいたのであるが、これからの革命は、すこし様子が違うことを認識しなければならない。

倒すべき相手と言うのは、民主主義社会で資本主義経済のメリットを謳歌する我々自身でもあるのである。
我々は我々自身の若干の意識革命をしなければ、現行の経済システムに対して革命を起こすことは出来ない。

なに、
これも、そんなにたいした事でもない。
我々自身に許されてきた、少しばかりの利己心を返上するだけのことである。
我々自身を少し自制するだけのことで、殆んど苦痛にはならないと思います。

そういうことを、考えて、これから「新しい国のかたち」へ入って行こうと思います。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.16 )
日時: 2013/12/05(Thu) 13:20
名前: 発想の転換! 天橋立の愚痴人間

さて、いよいよ前人未到の分野に挑戦します。

結論から言っておきましょう。
今までタブーとされてきたヘリマネ資金(必要に応じた貨幣の意図的な増刷)を経済のシステムに組み込む試みです。
組み込むと言いましても無制限にする事ではなく、何処までが経済的にも、倫理的にも適正かと言うことも考えねばなりません。

最初に貨幣とは何かについておさらいをしておきましょう。
貨幣とは「商品交換の際の媒介物で、価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3機能を持つもののこと」とあります。

始原の貨幣とは、貝殻であったり石でありました。何かの目印程度であったのでしょう。
その後、貨幣自体に価値を持たせる(金銀銅貨)時代が長く続きました。
近世に入り、銀行が発達すると、兌換紙幣と言う形で貨幣は流通し、経済の繁栄に大きく寄与しました。
それも、100年くらい前からは不換紙幣にとって代られています。

不換紙幣となってからは、貨幣の価値をどのように担保するかが問題となり、貨幣の発行の権限を持っている国家等の資本の総体を担保としる考え方に代りました。

しかしながら、実際には、これは理屈の上の話しだけで、流通している貨幣に対して個別に保証できるものではありません。
要するに、信用だけが便りであり、その信用の根拠もいかがわしいものです。
このあたりで、実際には貨幣そのものに価値があると言う、あらねばならないと言う始原的な考え方は放棄しているべきであるのです。

その実、現在流通していると思われる2京円を担保する何もありません。世界中の中央銀行が所有している金塊は1600兆円よりないのです。
貨幣と言うものを、何かの価値に置き換えると言う発想は止めて、単なる約束事とし、それを公的機関が管理することで信用を与えられているものと思えばよいでしょう。

もう一つの経済現象、つまり需要と供給の関係で価格が決められ、その商品の量だけの貨幣が流通すると言う考え方です。
これば物品販売にとどまらず、工場の建設とか、宇宙開発等でも同じことであり、社会における経済活動の総量に比較する貨幣が流通している事になります。
これが現在、2京円であるか、否かは定かではありませんが、大体、そんなものでしょう。
要するに、貨幣があるから事業を行なうと言う発想から(実際は国家予算など、手持ちの貨幣の量によって事業が決まります)、事業があるから貨幣を必要とするという発想が成り立たないかと言う事です。

実際には事業の拡大(経済の発展)に伴い貨幣はドンドン増えてきているのです。
始めに貨幣ありき、と事業ありき、とでは、どのような事が問題になるのでしょう。
これは別途、慎重な議論を要するところですが、少なくとも、この問題を真正面から取り組む必要はあるのではありませんか。

貨幣の歴史から、このような発想の議論はなされてこなかったかと、思います。
少なくとも既成の経済論では、何処にも出てきません。
また、このような議論が出てこない背景には、世界の金融資本が、そうはさせまいと邪魔をしているのでしょう。
貨幣の増刷が容易に行なわれると、彼等の特権が危うくなるのです。

以上、大まかな結論から先に言いましたが、古典派経済学の様な時代とは貨幣の性格が変質していることなど、これを論証することもやって見ましょう。
古典派経済学では、需要と供給の関係から価格が決まると言うことを主題としてきましたが、現代のように生産技術が発達し、そんなバランスよりも、供給者の方から、より安い価格を設定し多くの商品を販売する方法、他社を押しのけて自社の商品のみ生き残る為の手段がとられています。

また始原的な経済と言うものは、商品の流通を介して人々の生活の糧(貨幣)を獲得すると言う要素が中心であり、需要、供給と言う図式は生活、そのものでした。

ところが現代は供給と言う活動の中に、人々が期待する生活の糧(人件費)が昔ほど含まれていないのです。
ですので、幾ら需要と供給と言う経済行為を繰り返しても、人々の生活の担保が十分に出来なくなって来ているのです。
需要と供給と言う古代からの経済の図式は、人々の生活の保証、つまり人件費と言う観点から見れば非常にアンバランスなものとなって来ているのです。

このような側面も有する中で、未だに貨幣と言うものは従来の価値観によって運用されています。
貨幣の管理だけが経済政策の中心です。
これを逆に言えば、貨幣経済のあり方が、人々の実際の生活を束縛しているとも言えます。

これだけの商品があふれる現代において、どうしてこのような飢餓的状況が生まれるのでしょう。
どのようにすれば、この矛盾、困難を克服できるのでしょう。

今日は、これくらいにしておきます。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.17 )
日時: 2013/12/06(Fri) 01:08
名前: 人間生存と貨幣:満天下有人

人類が生存の為に要する必要物資を得るのに、あらゆる財の交換価値を計る尺度としての便利な貨幣が、その交換の仲立ちを始めるようになりました。

特に産業革命以降は、技術の発達により「膨大な商品」が生産され、貨幣の仲立ち無くしては、拡大した経済のパイを維持出来なくしてしまいました。

人間の生存もこの貨幣が左右するようになってしまい、人間は生存を維持する為にこの貨幣を得なければ生きて行くことが出来なくなってしまい、一方で資本によって行われる生産活動は、人間の生存をも資本のコストとすることによってしか生存し得ないものだから、ここに大きな矛盾が生じてしまい、資本を持たない生活者は労働力を資本に売ることでしか生存そのものを維持出来なくなってしまった。資本は資本の生存の為には人間の生存は二の次で、だが人間はそれでも生きて行かねばならない。

生きる為に必要な物資を手にするには、貨幣を得なければならない。商品の生産、消費を通じてしか得られない貨幣・・・その貨幣経済下にあって、ならばいっそのこと、その貨幣を得ることに特化すれば便利ではないか・・・ここで金融資本の勃興が始まり、それがまた生産資本の支配権を得てしまう。

歴史的に大きな流れは、このようなものでしょう。

それ自体、何の価値も無く交換手段でしかない貨幣、だがそれによって人間の生存をも左右する貨幣、その概念を変えない限り、格差の解消どころか人類生存をも危うくしてしまう。当スレッド・新しいかたちの趣意は多分そこに置かれているのでしょう。つまり貨幣問題からアプローチしない限り、新たな世界は構築できない。

その意味で、人間が、現存しその中で生きている資本主義の下で、どのように貨幣=資本の概念を変えることが出来るか、言い換えると貨幣なるものが、利潤を得て、それを最大化することに特化されてしまった事に焦点が合わされてしまった現状に対し、貨幣無しでは生きていけない人間生活が一方で現存するのだから、貨幣における「概念的価値」を変えない限り、貨幣を得る為の方法論に終始してしまう。分配論もその一種でしょう。

貨幣を単なる交換価値手段として見るのではなく、そこに新たに人間生存価値貨幣の概念を構築できないものか・・・それを左右するのは結局の所、経済社会の構造転換という大命題が前提となり、貨幣だけからのアプローチでは大変に難しいとは思いますが、どのような論理の展開になって行くのか、注目させて頂くことにします。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.18 )
日時: 2013/12/06(Fri) 02:57
名前: 種あかし 天橋立の愚痴人間

満天下さん、
相変わらず格調の高い言葉でまとめていただいて有難うございます。

>済社会の構造転換という大命題が前提となり、貨幣だけからのアプローチでは大変に難しいとは思いますが、どのような論理の展開になって行くのか、注目させて頂くことにします。

いや、何。
手品の種明かしのように、それは格別難しいものではないと思っています。

要するに、貨幣は流通しているものを手に入れなければならないだけではなく、人間が働きさえすれば天から与えられる、つまり国家から与えられるようにすると言う事です。

具体的には「公共事業の発注」と言う概念を、一つの方法と思っています。
詰まり、仕事として与えられるのです。

この考えを推し進めると、誰でも勝手に仕事をし、国家に要求すると金が貰えるということもできますが、一方で自分勝手な人間の性と言うものがあります。

やはり、相当な管理の下で実践しなければなりません。
理屈は簡単でも、この部分、人間のコントロールが大変なのです。

経済の面の改革とともに、この方面のことを「大和魂」スレッドを使って追及して行くつもりですが、こちらの方が進んでいません。
TPP問題の発生など、経済の分野が独走し始めていて、あせる気持ちが経済の面の構想を先走らせていますが、人間学の方を疎かにしていては、マルクス共産主義が挫折したのと同じ轍を踏みます。

人間と言う動物は、実際は手に負えないものであり、何でも保護を続けて行けは、その内に大量発生してしまい、ネズミが海へ死の行進を始めるように、地球上の資源を食いつぶし、どうあっても絶滅へ向かうことになります。

経済の手品の種あかしは出来ても、人類生存の種あかしは、まだ遠い道のりと考えています。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.19 )
日時: 2013/12/07(Sat) 13:52
名前: 新しいテーマ  天橋立の愚痴人間

さて、前回までに言ってきた事は、産業革命以来、生産技術の発達は、一方で世界の人類の数を増やし、一方では人々から職業を奪ってきました。

人類の増加は、資源的な意味もあり、地球環境と言う立場からも、何時までも、そんなに増え続ける事はできません。
何よりも、人口が増える事は、その増加した人間がまた生産に携わると言うことで累乗的に深刻さを増している。

世界にあふれる、食料品を含む商品は、人々が生きるための十分な数量を擁しているが、人々はそれを手に入れる術(金)を持たない。
そういう産業構造の変質があるのに関わらず、人間は、飽くまでも時代遅れした経済の運用を続けている。

要するに、働く事により金を手にする事が出来ない人間は、どのようにして生きて行けばよいのであるか。
一つの方法はある。

それは自給自足の世界へ戻ることで、現実の経済の仕組みから脱出することである。
しかしながら、すでに70億と言う数に達した人間が、それぞれ自給自足で生きて行ける環境にはない。
都市部へ集中した人間には不可能である。

それでは、今後の人間社会の行く道は、どのようなものになるのであろうか。
幸いに、少なくとも有り余る商品は存在する。
ただ、従来の様な流通手段で、それを手に入れる事が出来るのは、限られた人間と言う事になる。
それが出来ない人間は、彼等からの施しを得るか、彼等が放棄した商品を拾い集めて生活するかである。
そんな形態は昔からあり、現在でもフィリピン、中国のゴミ捨て場に群がり生活している集団もある。

資本主義経済といわれるシステムを止めない限り、この状況は進展する。
このような資本主義経済の終焉は100年以上も前にマルクスが喝破している。

そのマルクスさえも予想できなかったのは、生産技術がこれほど進化することであったろう。
多くの人々は、我々の生活が、このようになって来たのは自由競争に任せた経済のシステムと思っている。
しかしながら、それを上回る原因があることを認めようとしない。

そういう連中は、新しい産業を興すことで窮地を逃れられると嘯いている。
70億人の人口に達した地球で、そんなマヤカシは許されないのである。
このように言えば、随分と悲観的な観測のように言う人がいるかも知れない。
確かに、現在社会は先進国のように家電製品、自動車等に恵まれていない多くの人たちがいて、彼等が我々と同等の生活水準を手にするためには膨大な需要があり経済の発展の余地はあるはずであると。

しかしながら、先に累乗的な発展といったように、そんな時代の到来までは、あと20年や30年のことであろう。
その様な末期的時代を迎えるよりも、一歩早く手をうつべきなのである。

手を打つ、と言う言葉で、何か出来ると言うことを言いました。
それは経済の仕組みの大転換であります。

資本主義経済のシステムからはじき出され、働く場所がない人たちに働く場を与えると言う事です。
需要と供給と言うシステムに則して、人それぞれが自己責任で生活の糧を手に入れなければならないと言う、従来の大原則に穴を明ける作業です。

これは、共産主義生産システムと言う形で、昔から求められていた方法ではあります。
しかしながら、同時に、私は共産主義の考え方を否定するものです。
確かに生活苦で多くの人が苦しんでいますが、生きる事は苦しいものであること、その中でも成功すれば思わぬ栄華も体験出来ること、人間は常に利己心を発揮して自らの立ち位置の向上に励む生活を送る事が第一の条件であります。

人間から利己心、向上心がなくなると、それは経済問題を逸脱するトンでもない悲劇を生む社会となり、そこには人間性などは期待できません。
生活に苦しくても人間性を維持して暮らす方が人間には幸せなのです。
ですので、弱者救済の為に、一部、自由競争の原理を損なったとしても、それは共産主義的思考の結果ではありません。

抽象的な文言を続けていますと。哲学の領域のようになるので、具体的なものを取り上げ検証する事にしましょう。

考え方としては、市場主義経済のシステムの中(企業)では仕事を得られない人々に対して、国家が意図的に仕事を作ってくれると言うシステムです。
例えば、国家、実際は行政の窓口へ行くと、希望者には仕事を必ず紹介してくれるシステム。
その仕事と言うのは庁舎の清掃であったり、公園などの清掃でもよいでしょう。
また国有林などに入り植林でも、木の伐採の手助けでもよいでしょう。

実際は、そんなことの程度では、量的に多くの人を救えません。
「新しい公共事業」を多く発注し、これに従事する人たちの数を増やすと言うことも、直接的ではありませんが、雇用を増やすと言う事になります。
この際、公共事業を選んだのは、公共事業の対象であれば、国家が意図的に生産を増やしたとしても、それで民業を圧迫しなくて済む領域があるからです。
雇用の為に発注する公共事業と言っても、飽くまでも自由主義経済の論理に乗っ取り受注は企業の競争による適正価格でなければならず、仕事のしようによっては企業家は思わぬ冨を得る可能性もなくてはなりません。
普通の事業との違いは事業の財源が貨幣の増刷によりか、民間の営利資金によるかの違いだけです。

国家による雇用の保証と言っても、いろいろな手段が考えられ「食料鎖国政策」なども、その一つです。
他にもいろいろと考えられるでしょうが、要するに国家が国民の雇用を保証するということを徹底して考えることであり、現在は財政的な理由で出来ないことも、財政の問題が解決できると、その手段は沢山出てくるでしょう。

ただし、幾ら財源が捻出できるとしても、現金をばら撒くこと、所謂、ベーシック・インカムには絶対反対です。
これは、人間性、そのものを損なうものであり、一度すると、人間社会は限りなく堕落することでしょう。

このように、雇用を国家が保証すると言う行為は、理論的には決して不可能な事ではないのです。
ただ、今までは、それはタブーとされてきました。

勿論、タブーであった事は、それなりに根拠があるでしょう。
我々は、その根拠を明確に把握し、現実の問題と照らし合わせて、タブーをも検証しなくてはならないのでないでしょうか。
このような課題を出せるのも、現在人類は、その生存のための生産手段を十分に手に入れていると言う大前提も考察の中の一つの大きな要素であると思います。

方策は単純でも、それを摘要するべきか、否かの検証は大変多くの問題を抱えているのです。
では!
メンテ
税の話し ( No.20 )
日時: 2013/12/08 17:56
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ei5EZi3A

前回には、このような課題を出しました。

>このように、雇用を国家が保証すると言う行為は、理論的には決して不可能な事ではないのです。
>ただ、今までは、それはタブーとされてきました。

雇用を国家が保証するという文言事態は問題はないのですが、そのために貨幣の増刷をするという事が問題なのです。

要するに、税金以外の財源で、国家を運営すると言う事が問題になってきます。
なぜならば、貨幣を増刷して何でも出来るのならば「税」と言うものを国家に納める必要はないのではないかと言う議論に発展します。

ここで「税」と言う観念を検証しましょう。
税と言う観念は、人間が集団生活を始めたときから始まっています。

要するに共同作業をしなければ生きて行けないばあいの共同作業に参画すると言うことは義務でした。
最初は労力を提供すると言う形でありましたが、分業が進むにつれて、物に変えて集団の組織へ納める事にもなりました。
集団の組織は、それを受け取り、多数の人員を要する狩猟や、集団を守るための戦いに参加する費用に当てました。
税は貨幣経済の発達と共にお金に変えて納められるようになってきました。
また、集団組織の維持のための税も、その内に組織の有力者の財産形成に当てられるなど、その進展は紆余曲折を経て、近代社会の税と言う概念に至りました。

近代社会では(独裁者のいない民主国家と言う意味です)、税は、社会の維持の為に使われ、維持に必要なだけの税を徴収する事が必要となってきました。
これが、我々が通常、思い浮かぶ税の観念です。

仮に徳川幕府時代に、その税をなくして、国家が勝手に発行する貨幣だけで国の事業をしてくれば、どのようになって来たかを想像して見ましょう。
この場合は藩札の意味ではありません。藩札については地域通貨として別途取り上げるべき問題と思います。
実際には金銀の鉱山を開発して、貨幣そのものに価値を持たせる貨幣制度でしたが、これが幕府が印刷する紙幣であったとしましょう。

人間の本性として、より安心できる暮らしをする為に、貯蓄と言うものをします。商人はより大きな利益を求め活動します。
そういうことを実現するためには貨幣を溜め込みます。
その貨幣が、徳川幕府の衰退とともに紙切れとなっては溜まりません。
今の民主主義国家と違い、独裁国家は何時なんどき倒れるか判らないのです。

ですので、徳川幕府が、城等の改築の為に意図的に印刷した紙幣ををばら撒いても、其れに不用意に応じると実質の資材を提供しなければならない工事関係者は信用して就いて行かない場合が生じます。

ですが現代社会のそれは、徳川幕府が倒れ、何の関係もない次の政権が生まれるのではなく、いちおぷは民主主義の名の下に、国民の代表たる政党の政権交代なので、徳川幕府時代とは比べ物にならない信用度はあると思います。

では、日本で言えば明治時代になって、西欧で言えば市民革命後の近代社会で、なぜ、それ(税金n頼らない国家の運営)を実施してこなかったかであります。

一つは近代国家を作ったばかりで、国家自身が新しい発想に馴染まなかったこと。
西欧共に貨幣は兌換紙幣が常識であったこと。
従来の税は。独裁者の私服を肥やすことに用いられる部分が多く、社会福祉の概念も未発達な社会では従来の税体系の続きで何の問題もなかったことなどが考えられます。
国民の税によって国家を維持すると言う数万年続いた形態に疑念など起きなかったのでしょう。

税の関する機能には、もう一つ大きな側面があります。
それは税を累進課税する事によって貧富の格差を調節できる事です。
特に近代国家となってからは、この機能が重要視されてきました。

最近になって「無税国家論」を言う人も出てきました。石油資源が豊富な、中東のある国では実質無税国家もあるようです。

しかしながら、我々は、元々「税」と言うものが何故、必要になり、国民が「税」を納めてきたかの根源を忘れてはならないと思います。

要するに「税」とは、我々自身の共同体を維持する為に、我々自身の義務の発想から来るのです。
税の観念のない国家意識がどのように変質して行くかを見なくてはなりません。
此処にも人間性を問題にしますが、人間性のよいところばかりを見ていてはなりません。
人間自身に自制の精神がなくては、結局は、本当に幸せな人間社会を構築は出来ないのです。

共同体(国家)を維持する為に政治が必要であり、経済も必要であり、税も必要であることくらいは、無条件に自覚しなければならない事です。
そういう意味で、金だけの「無税国家論」などは無責任極まるものと思います。

この様な条件つきで、部分的な貨幣の増刷によって国家を運営することを考えています。
この様なメンタリティの面の条件とともに、金融工学的な面での束縛も、当然受けねばならないでしょう。

それは、貨幣の増刷とインフレの関係であります。
メンテ
貨幣の増刷は可能か ( No.21 )
日時: 2013/12/08 23:13
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ei5EZi3A

貨幣の増刷による財源の確保がタブーであった事の検証をしているのですが、前回は税と言う観点から、それを言いました。

税金によって国家を維持していると言うことは、単なる金額の問題ではなく人間性のコントロール、及び貧富の差の調整と言う意味で必要でした。

もう一つは、貨幣をドンドン増刷する事によって、インフレが起きては大変と言う事があります。
貨幣経済は、貯蓄によって生活の安定を容易に図る事ができ、富者と言われている人たちのみならず、多くの人が其れに期待しています。
さらに年金制度などの社会保障の面を考えると、インフレは起こしてはならない大敵であります。

私が言っております、貨幣の増刷による財源確保も、実質は仕事(公共事業)と言う形で配分されるので、仕事に比例して手に出来るものであり、その事業を仕事がない底辺の層に集中して発注する事により、しかも適正な価格の発注をすることにより、潤沢な金を持つ人々を増やすことにはならないと思います。
と言うよりも、そういう形での発注をするためには、どのような工夫が必要であるかが問題となります。

それでも毎年数十兆円の貨幣を増刷するとなると、社会に出回る貨幣の量は確実に増えてきます。
ある程度は、税金と言う形で徴収する事によりコントロールします。
今まで貧困に喘いでいた人が、それなりの収入を得て税金も納めるようになるでしょう。
生活保護などに擁する予算も減ってきて、財政は楽になると思います。
財政が楽になった分だけ、貨幣の増刷は止めればよいのです。

ですので、金ばかりがダボつくような事態にはならないでしょう。
そうならないようにコントロールする事が政治の使命となるのではないでしょうか。

ここでインフレと言う事について見てみましょう。
典型的なインフレーションとは、好況で経済やサービスに対する需要が増加し、経済全体で見た需要と供給のバランス(均衡)が崩れ、総需要が総供給を上回った場合に、物価の上昇によって需給が調整されることで発生する、とありますが、現在社会では、意図的に生産調整でもしない限り、総需要が、総供給を上回ることなど殆んど考えられません。

この話しの大前提に上げていますように、生産技術の飛躍的な発達は、いろいろな面で従来の経済の法則が当てはまらなくしてきているのです。
多くの人々が、ただ金を持ち、供給が、其れに答えられないのならともかく、貨幣の増刷で救済する対象である層の人々が、高々、年収300万円くらいを手にしても、それでインフレなど起こすことはないのです。
財の供給が安定している限り。
ただし、そうした人々がやがて、みんな数千万円の資産を持ちようになることは想定外であり、その場合が到来するか、否かも問題としなければなりません。

以上の検証から、ある一定の条件さえ整えば、貨幣の増刷による国家の運営、経済のシステムの維持は出来ると言う結論としたいと思います。

しかしながら、飽くまでも一定の条件が満たされる事が必要であり、次には、その条件を人間は守ることが出来るか否かの検証が必要になります。
どのようなやり方なら、それが守られるかと言うことになり、それは各論で実証しなければならないでしょう。





メンテ
民主主義! ( No.22 )
日時: 2013/12/08 23:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ei5EZi3A

ここで突如「民主主義」と言うものを考えましょう。

イギリスの元首相チャーチルが言った有名な言葉に、
「民主主義は最悪の政治形態であると言える。ただし、これまで試されてきたいかなる政治制度を除けば。」
という言葉があります。

民主主義は何時でも衆愚に陥る恐れと裏腹にあり、この度言っています、貨幣の増刷により財源の問題も、皆の総意と称して、限りないベーシック・インカムを求めるようになることを拒めないのです。

私たちは民主主義と言えば対極に、独裁主義を上げてしまいますが、そんなに単純に色分けできるものでしょうか。
皆が賛成でも、反対でも、守るべき何かも人間社会を維持する為にあるのではないでしょうか。
そういうものに理解を示す事が出来ない民主主義は、民主主義自体の瑕疵となることを皆で自覚しなければなりません。
今までも、人間社会は随分といろいろな規制を人間自身に課してきました。
未成年は酒、タバコを禁止するとか、麻薬の禁止でも、人々は自身で決めたルールを守ってくる事が出きました。
また、倫理道徳と言う面でも、いまは随分と自由になりましたが、昔から人間は自らに規範を示すことをやって着ました。
そういうものが年々、個人の権利、自由と言う名目でないがしろにされつつあることを危惧します。

民主主義の名の下にする、限りない個人の権利、自由の追求は、結局は弱肉強食の混沌とした古代の世界へ逆戻りとなることを自覚しなければなりません。
今、何故、このことを持ち出したかと言えば、貨幣の増刷は確かに踏み出してはならない一歩を踏む出すことであり、タブーを破る事に違いありません。

しかしながら、一方で、これほど行き詰まった資本主義のシステムを、そのままにして改革し克服するためには必要不可欠と言いますか、これ以外に方法がないのです。
その為には、このように我々自身の価値観をも、見直す必要があるのです。

文化、文明史的転換と言えば、大げさですが、そこまでの自覚なしにやれる事ではないのです。
手品の種証は、容易でも、それを習得するまでには、大変な準備期間が必要と言う事です。

次には、もう少し具体的に言いましょう。
メンテ
ユートピアは地獄の一丁目! ( No.23 )
日時: 2013/12/09 01:30
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:mV4JLzy2

民主主義と言う言葉がでたついでに、ユートピアと言うものが、どのようなものかも検証しておかねばなりません。

それは、私がベーシック・インカム政策を極端に否定していることと、共産主義社会を否定している事につながります。

人間の存在は、文化、文明と言う皮をはげば単なる動物としての存在です。
一見、豊かで思惟ある存在に見える人間も、窮地に陥り自己保存本能むき出しの動物と化すことを忘れてはなりません。
そこには何万年の人間の歴史も意味はないのです。

人間が共生の秩序を守り社会を安定させ発達させてきたのは、そうしなければならない人間自身の束縛感からなのです。
それは、生きることは容易でない、働かねば生きて行けないと言う本能的な束縛がある故に、人間はルールも守り社会的な使命も果たしてきたのです。

ベーシック・インカムを徹底し、誰でも何をしていても生きることを保証されるとか、共産主義社会が到来し、個人の競争などしなくても生きる苦難から開放されることを、おそらくユートピアに置き換えているでしょう。

それが大間違いであることを認識しなければならないのです。
どのような形にせよ、ユートピアが訪れたなら、人間の精神はどのような方向へ進むかと言うことを考えねばなりません。
このように言えば、趣味の世界に生きられるので問題はないと言う人も結構います。
100歩譲って、当分は、その様にユートピアを楽しめたとして、人間の性はそのままでは納まりません。

生きる為に何の苦労もなくなった人間は、自らの享楽を貪る事に集中するか、あるいは生死の問題を軽んじて殺人、性犯罪などあらゆる倫理道徳を破壊しつくします。
それで逮捕監禁されても生きる上の何の問題もないのです。

ですので人間から働く必要をなくすと言う事は、人間社会に終止符を打つようなもので、ユートピア=地獄の一丁目と言う事になります。
ですが、実際の人間社会も、有り余る商品の生産が出来、働く場所がないものにはベーシック・インカムで金を与え、飼い殺しすることも出来る環境になっています。

このような時期に、働くと言うことを、単なる経済問題に限って言うのではなく、哲学的、宗教的な領域まで昇華して考えねばなりません。
人間、皆、生きる為に働いてこそ、人間らしい幸せを得る事が出来るのです。

「人間、皆、生きる為に働く」

今までは何でもなかったこの事が、これからは難しい命題となって来るのです。
そのための発想の転換を要請するのが、このスレッドの主題でもあります。

メンテ
失業者の増大 ( No.24 )
日時: 2013/12/09 13:02
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:gtSPWxpM

世界の失業率
1位 マケドニア 31.3
2位 ボスニア  28.0
3位 南アフリカ 25.1
4位 スペイン  25.0
5位 ギリシャ  24.2
12位 ポルトガル 15.6
30位 イタリア  10.6
32位 フランス  10.2
41位 アメリカ  8.0
42位 イギリス  8.0
44位 スエーデン 7.9
50位 デンマーク 7.5
55位 フィリピン 7.0
70位 ロシア   6.0
79位 ドイツ   5.4
87位 日本    4.3
91位 中国    4.1
96位 韓国    3.2
105位 タイ    0.6
106位 ベラルーシ 0.6

こんなところですが、この数値自体が信じられるものではありません。
失業率8.0%のアメリカですが、一方の統計で4700万人のフードスタンプを発給していると言います。総人口3億1000万人に対して47000万人分のフードスタンプと言うのは人口の15%が殆んど収入がなく生活保護を受けていると言う事になります。

アメリカの就労人口は16000万人と言われています。これを分母に失業率8.0%で換算すると12800万人の失業者がいます。失業者世帯を1280万として家族を含む人口は同じ比率で2500万人がフードスタンプ受給の対象者になります。
4700−2500=2200万人分のフードスタンプ受給者は仕事についていることになり矛盾が生じます。
要するに失業率算出の前提となる失業者の定義が間違っているのです。
実質の生活困窮者は4700万人いて、それは人口比で15%になっていると言う事です。
さらに生活困窮者と言えば、日本で言う生活保護を受給しているものに限っている訳ではありません。
アメリカで、仕事に就けず、あるいは必要な生活費を稼げる仕事に就けない実質の失業状態にある人は、優に20%を超えているといえます。

中には40%近いという人もいます。
我が国でも同じような事が言えます。
失業率は4.3%ですが、総就労人口6500万人のうち、年収100万円以下が600万人、200万円以下の、いわゆるワーキングプアーといわれている人は2000万人いると言う事が国税庁の資料にも出ています。
2000万人を失業者とすると30%。失業状態に当る実際の生活困窮者は半分としても15%は失業状態と言えるでしょう。

韓国なども、表向きの失業率は3.2%で統計の中では優秀な国であるようですが、実際には日本より酷い状況であると言います。
スペイン、ギリシャはともかく、経済的には成功者の部類である、ヨーロッパの諸国が軒並み10%前後であります。

これも実際は、どのような内容であるか疑問を呈することであります。
要するに、これだけ発展したと思われる資本主義経済のシステムでは、人口の20%がまともな職業に就けない状況になっていると言う事実です。
この状況を、普通は景気のせいにして、景気が回復するようにあの手、この手の施策を出しているようですが、それは全くのマヤカシであり、期待しているのは庶民ばかり。施策を打ち出している当局自体が、そんなもので解決できるとは思っていないでしょう。

当局は権力者であり、弱みを隠して権力をふるいます。
それでも当局(政治)信じるつもりでしょうか。
まずは、我々は、この現実、失業者の増大は決して抑えられなくなっていることを、自覚しなければなりません。

メンテ
雇用の確保 ( No.25 )
日時: 2013/12/09 15:06
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:gtSPWxpM

次に多くの失業者を出している別の側面を検証して見ましょう。

(先進国の産業構成比率)

第一次産業  2〜10
第二次産業  20〜25
第三次産業  65〜75

(アメリカの産業構成の比率)

第一次産業  1.6
第二次産業  17.2
第三次産業  81.2

(開発途上国の産業構成の比率)

第一次産業  20〜50
第二次産業  20〜30
第三次産業  30〜50

このように、経済が発達していると思われる国ほど、第一次、二次産業の比率が低くなり第三次産業に集まっているのです。
原因は、全て生産技術の発達によりものであり、それが悪いとは言いません。
ですが、人間の歴史は、この分野(第一次m二次産業)で生計を成り立たせてきたのです。

第三次産業と言うのは、確かに社会資本の充実に伴って広がってきた経済の領域であり、それなりに労働力を吸収して来ました。
ですが、最近の失業者の増加も、ワーキングプアーといわれる低所得者が増えているのも、この第三次産業も飽和状態となっていると言う事です。

第三次産業にはアルバイト、フリーターでも出来る不定期性の職場も多く、過酷な労働条件を押し付ける「和民」問題も、このような分野の出来事です。

最近、アメリカで99%運動が起きていますが、現実はもっと深刻であり、格差の問題でもないのです。

現状分析はこれくらいにして、失業者をなくせ無いかと言う問題に移りましょう。
現行の経済のシステムをそのまま放置していては無理な事です。

結論は、政治が介入しなければ問題は解決しないと言う事です。
政治が介入すれば解決できるのです。
何時からか忘れられていた事ですが、経済と政治が、おのおのの立場を別にして行動するべきであるのです。

これについては経済学の分野でケインズが「公共事業」ありようで、少し言及した事がありますが、本格的に機能しないまま現在に至っています。
経済学も雇用と言う問題を取り上げてはいましたが、飽くまでも金融管理以上の事には介入せず、机上の論理だけで終わっていました。

さて政治の介入により雇用の確保ですが、いろいろな方法があると思います。

公共事業発注による雇用の確保
食料鎖国政策による雇用の確保
国土利用計画に伴う雇用の確保
行政による日雇い事業
・・・
このあと、これらを検証してみましょう。








メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.26 )
日時: 2015/11/24 10:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:kQgluorA

少し続けたい為に、久しぶりでUPします。

メンテ
おさらいに変えて ( No.27 )
日時: 2015/12/04 11:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:9PPft5Vg

このスレッドで今まで書いてきたことは、現代の資本主義の有り様を俯瞰する為のものであります。
何の為にと言いますと、そもそも「経済」とは、どのようにあるべきか、「経済」と何かと言う素朴な問いに答えるためです。

一言で言えば、「経済とは、社会生活を営むための財やサービスを交換するしくみのことです」
と言って良いでしょう。言うべきでしょう。

資本主義の理屈では、それを次の用に現しています。

古典派の主張の中心点は、貨幣が経済の実体面に影響を持たないということである。古典派の経済学は、貨幣の不足による需要の不足を否定した。それをもっとも簡潔に示したのが「セイの法則」である。すなわち、「供給はそれ自らの需要を生み出す」という命題である。セイは需要を経済循環の視点から見た。供給をした人は何かが欲しいから供給をしたという理解が基礎となっている。生産がなされればそれと同額だけの所得が生まれているはずだとすれば、供給があればそれと同額の需要があるはずだという考え方である。

ですが、産業革命以来、豊かになればなるほどに、経済活動における利潤の追求が目的となり、資本が自らの理念にそって独走を始めたという事でありますが、これは一概に巨大資本のことを指すのではなく、庶民一人一人の心の中も、同じ発想であり、人間の本能であります。

ところが、生産手段の発達と流通の発達は、ヒューマンスケールを飛び越えて展開し、利潤を生むことが経済の有り様になって行き、新自由主義などが展開することになる。

結果、最終的には、資本(貨幣)の為の経済のシステムが経済のシステムであるように変遷し、現代に至っている。

新自由主義(ネオリベラリズム)とは、市場原理主義の経済思想に基づく、均衡財政・福祉および公共サービスの縮小・公営企業民営化・経済の対外開放・規制緩和による競争促進・情報公開・労働者保護廃止などをパッケージとした経済政策の体系、競争志向の合理的経済人の人間像、これらを正統化するための市場原理主義からなる、資本主義経済のレジームをいう。

この過程で、信用創造を言う事が発展し、世界で発行されている通貨の量は、既に何京円とも言われ実体経済の規模をはるかに凌駕している。


初めに返りまして、現状のシステムが

「経済とは、社会生活を営むための財やサービスを交換するしくみのことです」

上記に適したものであるでしょうか。
上記の条件を満たせる様なものでしょうか。

答えは、否 です。

近年、言われている各国の経済の施策を見れば判るでしょう。
通貨のシステムの安定の事が至上命題であり、企業の活動の保全が全てであり、人々が生活を営む為のシステムの維持と言う面には無関心であります。

「人々の生活を営む為のシステム」と言う面では、企業の繁栄こそが、それを導く様な理屈を通しています。
それは、冒頭の古典主義経済学の理論が成り立たないことで、矛盾が証明されているはずである。



メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.28 )
日時: 2016/02/08 21:11
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:5MBe./mI

最近、経済の問題のレスが多くなっています。

政治に物申しても埓が開かない現在、仕方がないことでしょう。

経済の基本的な認識と、将来の可能性を探るために、UPします。

出来ますれば、最初から目を通して頂きたく思います。

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.29 )
日時: 2016/02/29 17:50
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:HDnb.89E

みんなが、新しい国のかたちをイメージし

それが土壌にならなければ、社会は変わらない。

経済の理屈も、GDPの話題も不要。

新しい国の形を思いやる、その心が、その総体が社会を変えられるのである。

難しいことではない。

不可能なことでもない。

このスレッドを読んでいただいて

想いを巡らせていただきたい。

それだけで

社会は変えられる。

幾ら官僚共が横暴であろうとも

幾らユダ菌が力をもっていても

大衆の相違にはかなわない。

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.30 )
日時: 2016/03/09 12:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:RA.xYlXk

新しい日本のかたち。

1 生活基盤は、資本主義の原則に基づき自由競争の場とする。

 働かねば生きられない事を原則とし、余暇に埋没する社会は否定する。

1 生活の為に働かねばならない人たちには雇用の場を提供する。

民間で雇用がなければ国家が何かの形で、それを設ける。
 具体的には公共事業の発注、介護保険事業への支援。

1 食料など基本材の自給自足の為に、第一次産業を盛んにする。

 インフラの整備、補助金の整備

1 都市部、地方の交流の活性化。

 行政機構、研究施設などの地方への分散。
 現役世代とリタイア後の住み分けを奨励し、都市と地方の人口の流動化を図る。
 産業施設の為ではない、国土利用計画を策定する。
 極端な過疎地を統合するための施策を行う。

1 人間の身の丈にあった制度を考える。

 サービス産業における省力化(無人化)は、全体の状況に合わせてコントロールする。

1 基礎年金分は国民全員を対象に国家が支給する。

※ 以上の為に通貨の発行権は国家が所有し、必要な通貨の増刷を行うものとする。
 ただし、ベーシック・インカムのような現金をバラまく事は戒める。


企業の社訓のようなもので、難しい理屈ではない。
これを実践するための決意、努力、方策が問題なのであり。
それが政治であり、学問である。

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.31 )
日時: 2016/03/11 21:11
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XG07sYFE

何回も繰り返して言いますが、現代の問題の根本は、生産技術の発達と、流通のグローバル化で、取り残された人々が多く出てきていることです。

それは、景気、不景気の問題ではなく、格差の問題でもない。

欧米先進国の失業率が10%にも上がり、下がって行く傾向は見られない。
アメリカなどで失業率が5%内外と言われている一方で、フードスタンプの受給者が5000万人近くいると言う現実が、統計の矛盾を物語、現状を訴えている。

日本においても、非正規雇用が就労者の4割を超えていることは何を物語っているのか、真摯に受け止めねばならない。
雇用と言う問題が従来の感覚では考えられなくなってきている。

この問題を直視せずに、経済を語って何になるのか。
辻褄合わせの経済の施策が意味をなさない事を考えるべし。

この観点から見れば、ユダ菌問題など本質ではない。
今までの産業の有り様事態が問われているのである。

資本主義の理論は、たかだか200年の歴史。
資本主義の原理は、それ以前から存在し、人類とともにあったもの。

現代資本主義の理論を打ち破っても、それが資本主義の否定にはならない。
生産技術の発達は、これほど世界を、人間社会を変えている。

ここの新しいシステムの構築を考える事は、決して先走った行為ではない。
文明史的転換と大きな事を言っているが、最近の200年は、過去2000年以上のスピードで変遷している。

文明史的転換と言っても、何ら可笑しくはないのである。
メンテ
新しい日本のかたち ( No.32 )
日時: 2016/03/23 23:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:3zxz9qTM

1000兆円もの借金を抱え、通貨危機となり預金封鎖もやむを得ないなどと言う戯けた論理がまかり通っていることは他のスレッドで検証すみ。

現行の金融理論など、クソ喰らえで、ここでは全く新しいシステムで経済を検証して行こう。

まず最初に問題にするのは、通貨発行権を国家に取り戻し、政策遂行の為の通貨の増刷は、これを認める。
通貨の増刷と言ってもインフレを誘発するような増刷は、固く禁じる。
ベイシック・インカムのように現金をバラまく事は基礎年金支援以外は固く禁じる。

さあ、何からやろうか。
まずは、1000兆円の借金の問題。

これは毎年発行する借転債(平成27年度で110兆円あまり)は全て通貨の増刷で賄う。
国債の多くは10年おのであるので、これを続けて行けば10年で借金はなくなる。

さて一般会計予算であるが平成27年度を例にとってみましょう。

各省庁で使う事業費の合計は75.8兆円
これに国債費       25.8兆円を足して
             101.6兆円が予算として計上されています。

レ レ レ 下の記事とは、つじつまが合いません。

平成27年度国債発行

建設国債       6.0兆円
特例債(赤字国債)  31.0兆円
借換債       116.0兆円

ここが国の予算の解りにくいところ、

国債についても、償還金の一部資金を調達するために、借換債(借換国債)が発行されます。借換債は、国債整理基金特別会計において発行され、その発行収入金は、この特別会計の歳入の一部となります。なお、借換債の発行に当たっては、新規財源債と異なり、国会の議決を経る必要はありません。

そうなのです。
最近数年は、借換債の発行が100兆円を超えていることは確かなのです。

一般会計における税収は、50兆円そこそこなので、一般会計の国債費(何を指すのかわからない)25兆円を含めて、106−50=56兆円は錬金術で編み出さねばならない。
56兆円だけで良いかと言えば、それもさにあらず、実質は平成27年度国債発行金額は152.兆円であるのである。

ところで、そう言うややこし話とは、もうおさらばです。
国債は、発行しないからです。

1000兆円の借金返済の為の通貨の増刷の他に、75.8−50=25.8兆円通貨の増刷をします。

つでに、24.2兆円増やして50兆円の政策遂行の為の通貨の増刷をします。

これによって、基礎年金は一人あたり月に10万円は保証され、
介護保険への支援は3兆円増やします。ヘルパーの給料が上がり介護サービスに従事したい人が殺到するでしょう。
公共事業として
老人医療施設を大増築します。
農業、漁業のインフラ整備に今までの3倍以上の金をつぎ込みます。
新幹線もドンドン作ります。

プラス、24.2兆円で、これくらいは楽にできるでしょう。
さあ、これで何が不都合か考えてください。

悪性インフレが起きると思いますか。
株価、為替に大問題が起きますか。

国内の景気が回復すれば、何も輸出にこだわることはありません。
大きな問題は何もない。

否、あった!
それは資金の貸出して命をつなぐ金融機関が困るのです。
金融業などは、現在の規模から縮小して、職員の年収もグット下げてやらせれば良い。
国家相手に商売するなどと、おこがましい。

ユダ菌が困るのです。
皆さんは、金融機関を支援しますか、ユダ菌を支援しますか。

それとも我々の国作りへ向いますか!

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.33 )
日時: 2016/03/25 15:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:iJbM9fFY

他のスレッドも使い、新しい日本のかたちの可能性を模索しています。
その前提条件となるべき通貨の問題の検証は、ある程度やってきました。
ここでは、それが可能と言う前提で、さらに論を進めようと思います。

要するに通貨発行権を国家が持ち、政策の遂行の為の通貨の増刷ができると言うシステムを作ることです。

考えて見ますと、我が国の予算も税収で賄えなくなってから随分と時間が経ちます。
現在では税収の2倍以上の予算を組んでいる状況です。

これは我が国でも年金を初めとする福祉政策の充実に伴い、予算が膨らんだからで、言われるように「小さな政府」に切り替え、明治時代当初、幕末の政治に切り替えれば、税収の範囲で国家の経営もできるでしょう。

それでは、そうすべき、と言う意見も出るでしょうが、その前に経済の本質をじっくりと考えてみましょう。
一番大きく変わっているのは、食料をはじめ、あらゆる商品が必要な量を十分に確保できる体制にあり、かつ、その生産余力は、過剰と思われる位に存在すると言うことです。

税収がないからと言って、古い、貧しい時代へ後戻りする必要はないのではないでしょうか。
その具体的な解決策は、国家による通貨の管理で行えることです。

今度は、国家と言う概念の見方を考えてみましょう。

>国家とは、国境線で区切られた領土に成立する政治組織で、地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである。領域と人民に対して排他的な統治権を有する政治団体もしくは政治的共同体である。 政治機能による異なる利害を調整し、社会の秩序と安定を維持していくことを目的にし社会の組織化をする。


国家の役割を統治と言う意味でのみ、捉えるならば福祉政策は必要ありません。
しかしながら民主国家と言われている現在は、国民の幸せの為に充実した福祉制度を維持する事を重大に思っています。
高福祉、高負担と言う考えで従来は、それを実現してきましたが、格差が増え福祉の対照とする人々の比率が増大するとともに、高負担の限度が過ぎてしまいました。

資本主義社会を続ける限り、格差の問題はなくならず、グローバル化の進展とともに広がる一方です。
ですが、資本主義社会の原則は人類にとってなくてはならない原理でもあり、対義語の共産主義社会が良いとは決して思えません。

そこで考えたのが、増え続ける福祉の財源を、通貨の増刷で賄えないものであろうか、との考えです。
普通は、むやみな通貨の増刷は、悪性インフレを誘発するとタブーとされてきました。

ところが生産手段の発達は、何時でも必要な商品を作り出す事を可能にし、インフレが起きる条件の商品の取り合いと言うことはなくなりました。

個人的に通貨の増刷をすれば贋金作りの犯罪ですが、国家が国家の政策を実行するための通貨の増刷は制度として存在できると言うことになります。
もちろん、その限度は、別途に定める必要はあります。

実際に、過去数十年、建設国債、赤字国債の名目で年々数十兆円の通貨の増刷をし、それを国債と言う形でやった結果、1000兆円の借金ができた次第です。

平成27年度の実績では、建設国債、赤字国債を38兆円発行しています。
借換債は別として、この部分が税収不足を補う為に発行された通貨です。

実際には巨額の借換債やその金利負担など、国債でなく、単なる政府紙幣として発行するならば、38兆円ではなく、四十数兆円を発行していることになります。

それでインフレなど、起きてはいないでしょう。
この上に、30兆円を上詰みし、都合70兆円の政府紙幣による政策を実行できれば、現在課題となっているほとんごの事業は日の目を見て、予算の実行とともに国内の景気は活性化すること間違いはありません。

これができない理由は、全くないのです。
国家予算の真水部分(国債関係費を除く)の内、省庁の経費(人件費を含む)を除外した、民間に投下できる金額は、倍くらいになることを想定されれば、その様子が判るでしょう。

何の為に、国家が、そのような事をするかと問われたら、
それは雇用の促進であり、格差社会から追い詰められている人々の救済をして、社会に幸せをもたらす為であると言う。

ここに新しい社会うぃ現す言葉として

>生活の為に働く意志のあるもの、能力のあるもの全ては、国家が雇用を保証する。

そう言う国のかたち、は如何でしょう。



メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.34 )
日時: 2016/03/27 23:00
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0MeChg3c

ほとんどの皆さんは、国家は税金で運営されているものと思っていました。

税金が足りなければ造幣局でお金を刷って、それを使おうなどとは考えもしませんでした。
そりゃ、贋金を作ることが容認されれば、働かなくても食べて行ける。
何でも買える、何でもできる。

個人的には、そうであるから国家も贋金を作るなどと思いもしませんでした。
お金とは、そう言うものと思っていました。

原則としてお金とは、そう言うものでなくてはならないでしょう。
ですが、お金と言うものを、しみじみ考えたことはありますか。

お金がいくらあっても、食べるものが変えなくては何にもならない。
お金がいくらあっても買うものがなくては意味がない。

逆に、お金がなくても食べるものが自由に手に入ればお金などいらない。
自動車でも、電気製品でも自由にもって行くことができたらお金などはいらない。
飛行機や電車も無料で乗ることができればお金などいらない。

お金が大事か、商品、サービスにどちらかを選べと言われると、ちょっと考えた結果、商品を選ぶであろう。
お金とは、そのようなものであり、商品、サービスが得られる保証があるから必要なもの。
また、商品、サービスの量に比例してお金がなくては、それが買えない人も出てきて大変だ。

お金だけがありすぎても、お金に比例して商品は買えない。
お金とは、そう言うもの。

必要な商品、サービスがあってお金が足りない場合、お金は自然と増えてくれるのであろうか。
確かに明治の初めの頃は、現在に比べ圧倒的に商品がなかった。
だが現在は、どうであろう。
ほとんどの人は個人の住居を持ち、電化製品などはフル装備でもっている。
明治時代に比べてお金が増えたのであろう。

んっ!
お金は働いたら稼げるもの、明治のはじめ、3000万人の人が働いて得るお金の総量と、現代社会で6000万人の人が得るお金の総量は2倍にも3倍にもなっているであろう。

そのお金は誰が出しているのか。
通常は会社からもらうが、会社はどこからお金を集めてきたのか。
詰まるところは明治時代以降、お金は誰かが、ドンドン増やしていたと言うことになる。

それはそれとして、別の疑問が沸いてくる。
お金が先に増えるのか、商品を買うために働く人が増えるのか(商品が増えるのか)。
卵が先か、鶏が先かの話になってくる。

面倒なことはさておき、お金とは、常に必要に応じて減ったり、増えたりするもので絶対量が決まっている訳ではない。
と言うことは解った。

元の話に帰って、

ならばお金と商品、サービスを同時に作れば話は解りやすい。
もっとも、それが出来、また許されるのは個人ではなく、国家とすれば社会に住む皆も納得できるであろう。

なら、ヤッちまえ!
何を!

公共事業でも介護サービスでも、国家事業を行うお金は、同時にお金を作って使えば良い。
実に合理的な発送ではないか。

でもね、お金がこの世に全てではないのだよ。
人間から勤労意欲をなくしてしまったら、真面目に働く人がいなくなる。
国民の大半が遊人のような社会が幸せと思いますか。
人間性が変わってしまいますよ。
それでも良い人は良いとして、私はそんな社会はまっぴら御免。
少々は貧しくても生きがいがある方が良い人生と考える。

出来れば、そう言うことは(お金の増刷)しないで済むようにすることが大事である。
それで無制限と言う訳には行かないが、必要最小限の贋金作り(少し人聞きが悪いが)は認めてもよかろう。

だが、これは国家としてやる場合だけだよ。
市町村まで、それをさせてはならない。
そのような事をすれば、社会はシッチャカ、メッチャカお金の信用がなくなり、個人も贋金を作りことになる。

まあ、このやり方は危険ではあるが、危ないものほど魅力もある。
倫理的には、税金が足りなければ政府紙幣の増刷で政策を実行することは可能である。

倫理的、道徳的に自信があれば、挑戦したら如何なものかな。

確かに、お金と言う物は、見えているより複雑なものではある。
だから、魅力があり、それを求めるのかな。




おそまつ!

メンテ
ロボット時代 ( No.35 )
日時: 2016/04/01 01:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:bz7TPoK6

「ロボットは一家に1台」の時代がもうすぐ来る
掃除用ロボットは既に多くの家庭でお馴染みとなっているでしょう。
ロボット時代の創生と言うことで、多くのメーカーが開発に勤しんでいます。

 私はこの数年のうちにロボットが一家に1台普及する時代が来ると信じていて、その息吹を肌で感じています。

 ですので、それを皆さんにシェアし、IT産業を支えるエンジニアの皆さんにいち早く、将来のロボットはどうなっていくのか、皆さんとのかかわりがどうなっていくのかということをこの記事で紹介していきたいと思っています。

 皆さんにとってロボットってまだあまり身近に感じるものではないと思います。

 ロボットと言ってすぐにイメージするのはホンダのASIMOやSONYのAIBOでしょうか?その技術はすごいということはご存じだと思います。歩行技術やセンサー技術、などずいぶん進んでいますよね。

 また、ちょっとマニアックな方なら、“RoboOne”という格闘系の大会を年に何度かやっているのをご存じかも知れません。これもずいぶん技術は進んでいて、なかなか倒れないし、転倒したとしてもすぐに起き上がります。その様子に驚かれた方もいらっしゃることと思います。

 しかし、ロボットはそういった特殊なショー的なことやホビーの世界では扱われていても、私たちの生活の中にはまだまだ普及していないと思います。

 私はここ数年のうちに皆さんの家にロボットがやってきて、皆さんが生活する上でなくてはならないものになっていくと思っています。


ところで、ロボット時代を喜んでばかりいられません。

ロボットは人間の雇用を奪う。

米・経済紙ウォールストリート・ジャーナルが、ロボットの発展による人間の仕事の喪失規模について言及した。

 ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)は8月25日、人間とロボットが職場でともに働く時代を経て、ロボットが人の仕事を奪う時代に進むだろうとした上で、人間の雇用が失われる規模について指摘した。

 2013年の英オックスフォード大学の研究では、今後数十年の間に、人間を雇用していた職場のうち、47%程度が自動化に伴うロボットに取って代わられるだろう推算している。技術および科学の発達が経済活動に及ぼす影響を分析する米国のフォレスター研究所も、オックスフォード大学の研究結果ほどではないが、少なからぬ仕事が人々の手から離れると見込んでいる。

 同研究所は、2025年には、米国で自動化によって2270万人の雇用が消えるだろうという見通しを指摘している。ただし、同期間に新しく創出される雇用を考慮すると、実際にロボットに取って代われる雇用数は910万人と推定しているそうだ。2015年現在、自動化およびロボットが占める雇用は、全体の仕事の16%の水準に達しているという。

 オックスフォード大学の研究より前向きな見通しを発表しているフォレスター研究所だが、彼らですら人々が体感する雇用の減少は、様々な分野に広がるだろうと予想している。しかし、これらの自動化またはロボットの登場により、新たに創出される雇用もある。代表的な分野では、ロボットを対象とした修理・点検分野を挙げることができる。フォレスター研究所は、自動化やロボットの導入で雇用が10件ほど消えるごとに、人間には1件の新たな雇用が登場するだろうと分析している。

 なお、米・ピースカールタイムズは「ロボットに奪われない代表的な職業10選」で葬儀指導員や(高齢者や児童を相手にした)デイケアワーカーなどを選んだ。理由として「人間的な共感が重要な職場」であり、「それらの職種の現場では、ロボットと対面させられることは不快であるから」とした。オックスフォード大の研究でも、人間であることが不可欠な専門セラピストや療法士、精神的な健康に従事する職業がロボット代替確率の低い職業としている。


オックスフォード大学が選ぶロボットに代替される可能性が低い職業
1位 専門セラピスト
2位 精神健康担当社会福祉士
3位 歯科専門医
4位 内科専門医
5位 栄養士

オックスフォード大学が選ぶロボットに代替される可能性が高い職業
1位 電話販売員
2位 税務代理人
3位 時計職人
4位 金融会社の貸出担当者
5位 銀行の入出金職員

(引用終わり)

いかがでしょうか、10年後の話ですよ。
10年後でこの予測だから、30年後は、とんでもないことになっています。

いくら家庭用ロボットが便利だと言っても、それを買うお金はどこから出てくるのでしょう。
ロボットに心配をするよりも、そう言う時代、私たちは生きるために働く場所があると思いますか。

人間、1ヶ月も食事をとらなかったら、ほとんどの人は死んでしまします。
その時、世界の100億の人たちは生きていけるのでしょうか。
いや、いや、未開の地で生活している人には何でもないことかな。

科学技術の発達が貧困を生み出すと言う事を言われている人がいますが、現代社会の問題は、まさに、ここにあるのです。

資本主義経済のシステム!、そんなものでは太刀打ちできませんよ。
新しい日本のかたちスレッドでは、このことを考えましょう。

メンテ
近未来の話し ( No.36 )
日時: 2016/04/01 17:03
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:c57LKdXw

少子化問題で労働力が不足するから外国人労働力を1000万人もいれよう、などと、ふざけた意見がまかり通る。
少子化と共に需要も減ることなど眼中にない。
低金銀を求めて中国、東南アジアへ工場が進出しているが、そのメリットも今のうち。

ロボット化が進展すれば、これに代わる労働力はない。
なにせ相手は機械、24時間創業、年中無休もお手のもの。

そりゃ、あらゆる工場生産品は、今の1/10の人間で生産できるようになる。
サービス産業があると、多寡を食っているが、無人改札口はもはや常識、無人スタンド、自動販売機、無人レジなどが行き渡り、将来は介護ロボットの発達で、最後に残るであろう、介護産業も機械化される。
無人操縦のタクシー、公共乗り物が登場するのも時間の問題。
洗濯屋も写真屋も今はすっかり斜陽産業。
スポーツの審判員もロボットにさせるほうが、余程正確になる。

このような時代になれば、働いてお金を得て、それで生活すると言う、何万年続いてきた人間の歴史はどうなるのか。
働かずに食える想定などしたことなかった人間は、どうすれば良いのか。

人類始まって以来の文明史的転換の時代が近づいているのである。
もとろん、一気に変わりはしないが、それが徐々に、徐々に既に始まっているのである。

そのような時代に、合理性は至上の原理、自由競争は束縛してはならないなどと、マヌケな論理から離れられない。
まあ、仕方がないか。
資本主義と民主主義がもたらした、ここ200年の果実を貪り続けていれば、我を忘れて有頂天になる。

でもね、真面目に考えて、どうすればいいのだろう。
人類が万物の霊長と自負するならば、考えて自ら招いたこの様な挑戦を受けて立つべきである。
何もしないうちにギブアップする必要はないのである。

そこで考えられるのは、必要な雇用の確保ができるか、否かである。
それは、もう市場の原理では無理な話し。

社会全体として、そう言うシステムを考えるのである。
今まで人間は、このような事を考えもしなかったが、人間であればできるはずである。

ただし
人間から我欲を取れば、あとは抜け殻。
生活はできても何をしでかすか解らない。
完全な管理者会は容易に思いつくであろうが、それではいけない。
人間性の確保は最優先にしなければならない。


だからミクロ的には競争をさせる。格差を発生させる。
それで良いのである。

だが、全員が競争に参加できる様に国家が気を配ってやる。
これが、大きな新しい社会の基本原理なのである。
国家の目的、使命であるのである。

そのためには、第一次産業の保護育成とか、介護の領域を中心にサービス産業を産業の主流化とする。
交通網の整備、住環境の整備、産業のインフラ整備などの公共事業などは、100年も200年分も仕事がある。
宇宙開発をもっと勧めても良い。
少子高齢化も見込んで、労働力の配置計画を国の責任で検討するべきである。

ところが、税収を基準に予算を組んでいる、どこの国でも予算に縛られ将来社会を見越した政策がとらないでいる。
生産の場で、これだけの進歩があり、雇用が失われると言う時代に、なぜ従来の経済の理論など適応する必要があろうか。

否、時代に合わせて変えて行かないと人類文明、そのものが破綻する。
経済学者、政治家、官僚は、すべての制度を白紙から見直す試みをしなければならない。
税収に頼った国作りなどは、考え直すべきなのである。
極端に偏るであろう税体系など意味がなくなるのである。

ユダ菌の弊害などは、この問題の前には蚊に刺されたようなもの。
ぶっ飛ばして進めば良いのである。

300年も先の、完全な未来社会の到来に備えるためにも、我々はやるべき事をしておかねばならないのである。

メンテ
新しい日本のかたち ( No.37 )
日時: 2016/04/01 17:26
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:c57LKdXw

と言うことで、私は経済のスレッドを中心に色々なスレッドを使い、この可能性を探ってきた。

パラダイムチェンジも貧困の構造も、アングロサクソン研究も、全てこのためであった。
「大和魂」のスレッドも究極的にはこれに結びつけるつもりであるが、まだ道は遠いようである。
この問題は単に経済の問題に留まらず、皆が将来の社会の有り様について共通の認識にいたらねばならないからである。


でも、まあ、経済の領域で、何とかできるであろうと言う目論見が出来、さらに次の段階に挑戦することにする。

先のレスでは大きな事を言いましたが、実際は数十億の人間が実際に生活し続けている社会。
大きな改革が、一気に、容易にできるものではない。

現在考えて、できるもの、やらねばならないことが、通貨発行権の問題と、政策に使う財源を通貨の増刷で賄う事を認めさせることである。

これができなければ、なんの手立ても打てないのである。
逆に言えば、これが出来ればあとは技術的な問題。
優秀な官僚共が何とか考えるであろう。
東大出の馬鹿でも、それくらいは出来るであろう。

ここでは、この問題は解決できるとして、近未来の社会のかたちを具体的に描いてみよう。
メンテ
新しい日本のかたち(1)→年金 ( No.38 )
日時: 2016/04/04 13:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:dkxAW6zA

新しい国のかたちの形態編ですが、まず年金のことから始めましょう。
実は、これが一番費用がかかる問題です。


基礎年金の支給は、60歳になると、一人あたり月額10万円を支給する。

年金の支給は、年金を支給されるまでの掛金の多寡に関わらず一律に支給する。

ただし、いかなる形にせよ、収入があるものに対しては、所得の2%を年金積立金として徴収する。
企業については天引きで、事業者は確定申告の時点で収める。
例えパート・アルバイトであっても、事業主は2%を天引きし当人に変わって収める。

所得がありながら、掛金を収めない人に対しては、不足分を計算し支給から差し引きする。

年金掛金の目安として、年収が600万円ならば12万円、300万円の人で6万円程度、200万円ならば4万円、100万円ならば2万円であり、将来の基礎年金の受給額に比べて納得して頂けるものである。

また、年金の受給前になくなる人に対しては、それまでの掛金の総額に応じて一時金として遺族へ支給する。
この計算で行くと

年収300万円で40年働いた人が収める年金の総額は240万円。
これを複利計算で運用していたとしてせいぜい700万円程度であり、
支給される基礎年金の7ヵ年分に当たる。

85歳まで生きるとして受け取れる年金総額は、3000万円。
3000万人の老人が基礎年金を受け取るとなれば年間の支給総額は36兆円となる。
積立金の運用で10兆円くらいは出せるので、都合25兆円が国の負担となる。
これを通貨の増刷で賄う。

国の負担分が大きいが、あくまでも働ける者は、真面目に働くことが受給の条件である事を示している。
後の年金(現在の厚生年金に当たる部分)は、民間業者の年金に任せ、自己責任でやっていただく。

国の負担分が大きいが、これが福祉国家の要であり、多くの老人の老後を安定させることにより、社会の活性化を図る。
30兆円分のお金は、必ず消費となって市中に還流するので単なるヘリマネには当たらない。


(追伸)
ここ20年くらいは、戦後のベビーブームの影響で、年金受給者が4000万人を超えるが、現在の年金の剰余金、約200兆円を逐次取り崩すことによって切り抜けられる。

※ 平成27年度で厚生労働省の一般会計からは、11兆円が年金の維持のために使われています。
  後で国家の財政を検討するときに、これらの資料も関係してきます。
メンテ
新しい日本のかたち(2)→医療保険制度 ( No.39 )
日時: 2016/04/04 13:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:dkxAW6zA

さて次には国民医療費の考え方を見てみましょう。

現在の医療保険制度は、
国民健康保険(市町村)       3520万人
国保組合               312万人
全国健康保険協会(一般的な健康保険)  3488万人
組合管掌健康保険(企業毎)      2950万人
船員組合健康保険           13万人
共済組合けんぽ            919万人
後期高齢者保険            1473万人
その他                  2万人

合計 1億2887万人の国民皆保険となっています。

これに対して平成27年度の国民医療費の合計は、40兆円近くになっています。
上記の健康保険制度の会計では負担できない部分、11.0兆円は厚生労働省の一般会計から出ています。
と言うことは、各健康保険から出ている医療費の総額は、29兆円ということになります。
皆さんが支払われている保険料いついて、段々と値上がりしているので負担に思っておられるでしょう。
その実態を全体から検証してみましょう。
まず我々労働者の総年収ですが、

我が国の労働人口を6500万人とすれば、平成23年度の労働者の総賃金は
当時の国税庁のデータから平均をとって
約 340兆円となります。

(平成23年度のデータ)
年収 100万円以下      526万人
同 100〜200万円      1612万人
同 200〜300万円      1300万人
同 300〜500万円      1267万人
同 400〜1000万円      1059万人
同 1000〜2000万円      461万人
同 2000〜5000万円      201万人
同 5000万円以上       13万人
保険料の比率はいろいろとあるでしょうが、それを無視すれば、340×0.085≒29兆円。
つまり年収の8.5%を払っている訳になります。
年金の項目で計算した様に
年収600万円の家庭では、51万円
年収300万円の家庭では、25.5万円。
累進課税方式となっているので、実際はもう少し少ないでしょうが、それでもあまりは違わない事を実感されるでしょう。

さて、新しい日本のかたちの医療制度ですが、基礎年金の場合の様に、何でも通貨の増刷とはいけません。
ですが、現在ある多くの保険組合を統合し、国家が(外庁としても良い)管理する一つの保険機構とします。
保険料の徴収は今までとおり所得によって累進的に聴取する。
徴収のしかたも基礎年金と同じように、パートなどの場合も事業主が代行して国家へ収める。
自営業者は確定申告時では負担になるので、毎月収める様にする。
年金の場合でもそうであるが、事業主負担は廃止する。
ところで事業主負担の分は5兆円を超える額になり、その分は、みなさんの負担に上載せする。
上記の計算には既に含んでいる。
その代わり事業主には法人税をしっかり払って貰うことにする。
なを、年金も保険料もパート、アルバイトであっても報酬を支払う時に天引きとなるが、天引きの後の金額が実際の最低賃金と考えれば本人の不利とはならない。

皆さんが払う保険料の額であるが、年収の8%と設定し、あとは従来通り国庫の負担とするか、これも通貨の増刷が考えられる。
税収が確保されれば、一般会計の処理としたいが、それは後ほど検証する。

要するに税金とは別に、国民負担分という考え方で、福祉制度を充実させる為には、税金を含めて国民負担率が30〜40%になるのは覚悟しなければならない。
年金と医療保険で、10%負担し、所得税、消費税等で25〜30%ひねり出すことが目標となる。
その内訳は別項目で検証することとする。

現在でも日本の国民負担率は消費税を15%にすれば、40%を超えて北欧の諸国と肩を並べる。
しかしながら、現行のままでは、40%になったところで十分な福祉政策はできず、安心して住める社会とはならないであろう。


なお、後期高齢者医療制度のことであるが、これは従来ならば扶養家族として保険料を徴収してなかった人を対象に、保険料の窓口を増やすために厚生労働省が考えたことであり、実際には、後期高齢者への国庫の医療補助が6兆円を超えるなど、目的が達しられた跡は見当たらない。
別途に再検討することにします。
メンテ
新しい日本のかたち(3)→雇用の問題 ( No.40 )
日時: 2016/04/04 13:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:dkxAW6zA

年代別下記の表で上は就労者数の実数を示し、中段は、就労者数の産業別比率を示します。最下段はその年のGDPの産業別比率です。

          第一次産業     第二次産業   第三次産業  
1955(昭和30年) 1600万人     950万人    1400万人
産業別比率   40.0%       24.0%    36.0%
GDPの比率  5.0%      35.0%     60.0%

1980(昭和55年) 500万人     2000万人   3200万人
産業別比率   9.0%      34.0%     56.0%
DGPの比率  4.0%      34.0%     62.0%

2010(平成22年) 250万人     1550万人    4400万人
産業別比率   4.0%       25.0%     71.0%
GDPの比率  2.0%       25.0%     73.0%

2015(平成27年) 160万人     1523万人    4668万人
産業別比率   2.5%      24.00%    73.5%

※ 2045年(30年後)の予測→人口が1億人(現在より2割減る)としての計算です。
その時の就労者は現在と同じ比率で5000万人。
2045年  125    1200万人   3675万人
産業別比率   2.5%   24.0%    73.5%

上は単純比例ですが、実際には生産の分野のロボット化を計算すると。
        125万人  600万人    4275万人となります。
産業別比率は   2.5%   12.0%   85.5%
昭和30年ころと、就労の内容が驚く程変わってきているでしょう。
30年後の形態を書きましたが、第三次産業の部分もロボット化が進み、とても85.5%、4275万人の雇用を確保することはできません。
振り返って見ますと昭和55年当時、第二次産業の就労者が34.0%、2000万人いた頃が、1億総中流などと、繁栄感を感じていた時でしょう。

その後のグローバル化、生産技術の発展が現在の状況を招く引き金となっているのです。
第三次産業で労働力を吸収できている間は良かったのですが、その第三次産業でも、最近10年で増えているのは介護サービスの分野だけです。
産業別就労者の詳細で医療福祉関係の就労者は10年前は、553万人、現在は793万人で、約240万人増えています。
ほとんどが介護ヘルパーであり、現在200万人ちかいヘルパーがいますが、将来は40万人ほど人で不足になると言われています。
このような事情から、単純に下記の数値には成らないのです。
          第一次産業    第二次産業   第三次産業  
          125万人    600万人    4275万人となります。
ここで新しい日本のかたちの希望する産業構造を言いましょう。
          第一次産業    第二次産業   第三次産業  
           300万人    1000万人   3700万人
     産業別比率  6.0%     20.0%     74.0%

30年後に、5000万人分の雇用を、この比率で確保するために、何をしなければならないかは政治の課題であり、一般国民の理解と協力が必要です。
次には、雇用の確保のために、実際は、どのようにすれば良いかを検証しましょう。

参考に産業分野について資料を添付します。
(第一次産業)
 農業、漁業、林業
(第二次産業)
 製造業、建設業
(第三次産業)
公務員、運輸・輸送、情報、不動産、金融・保険業、小売、電気・ガス・水道
それ以外のサービス業(娯楽、医療・介護、警備、飲食、その他)

メンテ
新しい日本のかたち(4) ( No.41 )
日時: 2016/04/04 13:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:dkxAW6zA

先のレスで産業別雇用の問題を取り上げましたが、これも数字を予測していても始まりません。
どのような社会となれば、その産業構造にできるかも見てみましょう。

少し結果的な懸賞になりますが、まずは将来の社会の有り様を想定してみましょう。

(生産の場)
大量生産品は、ほとんど大工場で自動生産ライン、ロボットにより作られる。
この過程で必要なのは、機械のオペレーター、修理の専門家、コンピュータ技術者、企業の管理者、清掃、警備などの維持管理などで現在よりも人数は絶対的に減ってきます。

ただ、これとは別に、手作りの妙を大切に思う需要も増えて、町工場も結構繁栄する。


(自動車)
輸送とも関連し、大きな変化がある分野。
要するにガソリン車はほとんど姿を消し、電気自動車、水素自動車が主流となる。
移動運転装置が開発されて、公共交通では、運転手はいなくなり、代わりに車掌のような立場のサービスマンが同上するようになる。

(農業)
主な食品の国内自給自足はほとんど達成している。
農業も企業化されて、地域ごとの組織が(数は制限なし)企業として経営する。
ただし、この分野は、地域毎の組織が原則であり、それ以上のグローバル化は法律で制限する(大企業の参入は許さない)。
田畑は、農業生産が効率的に、できるように公共事業によってインフラ整備を進める。
公共事業によって誰でも使用できる大温室を全国に展開し安定した作物の生産が容易にできるようにする。

昔、職人がプライドをもって仕事をしたように、農業の分野は若者が集まるような魅力のある産業と変身させる。
良質の食品は、当然、世界への輸出の対象となり、経営的にも安定化できる。

ただし、この場合、公共事業で作った施設の賃貸料は経営に負担が掛からないように格安とする。
公共事業によりインフラ整備以外でも、補助金を出すことによって自発的な向上を促す。
このように農業を人間らしい働きができる魅力のある産業に変えるとともに経営が成り立つように国家が支援することで、200満員を超える農業従事者を確保する。

(漁業)
漁船を大型化して世界の海へ打って出ても資源的に問題があり、この方面には力を入れない。
代わりに養殖漁業に力を入れて、研究施設、インフラ整備に予算を注ぎ込む。
養殖の対象は、魚介類、海藻類とすべての解散物とする。
海洋での要職場を公共事業で整備し、漁港施設を整備し、農業と同じように若者にとって魅力のある産業に育てる。

(林業)
住宅建材に使う木材の多くを輸入に頼っているが、世界全体が裕福になり住宅建設も増えて、いずれ枯渇し輸入ができない状況も考えられる。
木材の場合は植林から伐採まで、短くて50年を要する産業であり、請求な基盤の整備は難しい。
だが、現在、戦後に植林した多くの林があり、これを計画的に徐々に活用しなければならない。

現在、国内産の木材を使う場合、その価格が問題となっている。
林はあっても、それを切り出し製品化するのに大きな費用が必要であるからである。
現在は外在輸入で、国内産に変えているので、費用を商品に添加できず、特別の良材以外は商売の対象とはならず、働くものの収入も上がらず、農業以上に衰退の一歩を辿っている。

これを解決する一つは、林道の思い切った整備である。
今から言えば50年ほど前に、一次林業整備をやり始めたが、外材の輸入の勢いから国内産の切り出しを諦めた形跡がある。
それでも、現在の輸入材のようには安価にはならないが、国土保全のため、いずれ枯渇するであろう外材に備えるために、今から国家としての対策を始めねばならない。なにせ、この分野は成果を得るのに半世紀は必要である。

いずれにしても、林業の従事者は身体的に過酷であり危険な職業である。
だが、それを乗り越えられる収入を保証し、国土を守る事を国家はしなければならない。
当面は、林業に従事する者に対して1日に付き、相応の補助金を出すと言うことにする。

※ 長くなるので今回は、これまでとしますが。新しい日本のかたちの夢はとりとめもなく続きます。




メンテ
新しい日本のかたち(5) ( No.42 )
日時: 2016/04/04 13:50
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:dkxAW6zA

次には生面でどのようなかたちが想定できるか見てみましょう。

生産技術の発達で、ともかく昔と違って、すべての人が食料とは機械器具などの生産に当たらねばならないことはなくなり、第三次産業と言われる分野が主な職場となります。
人類が生き残るために必ず必要な分野の仕事は少なくなり、無理して長時間労働につくこともなくなります。
要するに、余暇の時間が増えてくるのですが、余暇の時間もありすぎると、それは人間生活にとって決して好ましいものではありません。
ですので、労働時間も週休2日制が定着し、中には週休3日と言うものもあります。
出来れば週休2日くらいが適当と思われます。
いずれにせよ、定年退職の年齢も60歳程度に下がり、それに応じた産業構造、労働時間が決められます。

ですが、行政、及び経済行為の中心は、都市部に集中することは変わらず都市部の生活者はまだまだ続くことになります。
ですが、国土の利用という意味でも、生活環境をよくするためにも、地域分散型社会の構成が進むことが望まれます。

もちろんIT分野の発達で、社会の機能が地方に分散する事もありますが、それよりも人間が一生を送るに置いて、自然の環境に親しむ時間の充実を増やすことが望ましく、物質的な豊かさの次には、そう言う生き方が問題となってくるでしょう。
具体的に言えば、第一線で働く間は都市で生活していても、リタイア後の生活を地方で送るという生活方式が定着することが望まれます。
要するに、幼児期は地方で自然に恵まれて育ち、高等教育を受ける年代になれば、大都市、地方の都市で勉学に恵まれた環境で力を付け、社会人となり仕事に熱中する。
その後に、余生(第二の人生)は、自分の好きな土地で、好きなように過ごす。
すべての人間を、その対象にする訳ではありませんが、このような進路が容易に開ける環境を作ります。

このような社会となれば、都市部と地方との人口の流動化がなり、現在のような極端な格差は解消されます。
生活圏が変わることによって、地方の経済も活性化され、バランスのとれた国土利用ができます。

ただ、このためには、それが容易にできる地方のインフラ整備、病院や老後のサポートのシステムも都市部から移住する人たちが安心できるようにしなければ成りません。
従来の国土利用計画は、何が何でも産業の興隆が目的でありましたが、将来は国民の生活様式をリードするための国土利用計画を主流にします。

この場合、現代社会に残る、限界集落など極端な過疎地域は、統合することも考えねばならないでしょう。
国家が介入するばあい、行政の有り様も、財政的な合理性も視野に入れねばならず、国民の方でも、それに協力する必要があります。

念のために断っておきますが、こうした理想郷にちかい社会は、共産主義社会を想定しがちですが、そうではなく、個人の生活はあくまでも個人の努力で勝ち取るべきものであり、経済行為の基本は、現在のように資本主義のシステムを維持します。
それによって格差が生まれることでしょうが、その格差こそ、人々を緊張させて生き様に張りを持たせ平穏な人間性を維持する元になるのです。
ただし、どうしても生活に困る弱者も出てきます。
それは従来通り社会福祉の制度で救済します。
ですが、経済的に安定した社会であれば、福祉に頼らねばならない人たちの数も減り、結果的にそうした社会を作ることが財政面の国家の安定にもつながります。

このような社会の到来は、それなりに生活が安定しなければ成りません。
現在でも第二の人生を地方で送るために移住する人がチラホラありますが、現在のところ、よほどのもの好き(失礼)か、地方の生活に自信のある人に限られています。

そうではなく、普通の人々が思い立つように、国家が環境作りをし始める時期ではありませんか。
後で触れるつもりですが、そのためには地方のインフラ整備もしなければ成りません。
基礎年金制度も安心できるものでなければ成りません。
介護制度も充実しなければ成りません。
そうしたことができて、地方移住のための費用も1000〜3000万円で可能なようにしたいものですね。
地方への移住と言っても、それ用の貸家、貸マンションを作ることもできますし、貸農地なども必要でしょう。
基礎年金がしっかりしていれば、思いきって、それくらいの費用を出せる人も多いと思います。

現代資本主義は、一般大衆の環境を考えずに、滅多やたらに新商品を売ることによって発展してきました。
その結果、一般大衆の懐の都合で、また経済的に追い詰められた一般大衆の都合も考えないで、ただ、買え、買えと生産をし続けてきました。
それも、家電製品とか自動車など、作れば無理してでも大衆が買っていた時代は良いとしても、これほど物質的に豊かになった現在、企業の方も考え方を変えねばならないのではないでしょうか。
大衆の生活を安定させることが、安定した消費をうみ、それが需要を生み経済が成り立つようにすることが大事でしょう。
いずれにしても、産業としては、今までのような工場生産品が主流であったのと比べて、第三次産業の分野の要求に答える需要が多くなるでしょう。
第三次産業を活性化するには、一般大衆の安定が必要です。
政治も新しい国作りも、まずは、国内、国民の生活の安定に努めねば成りません。

これが新しい日本のかたち、の概要です。
特別のことではなく、今までは国家としては、考えようとしなかったことではないでしょうか。
これが政治の大きな方向性を定めることになることを望みます。
現実の政治は、経済の流れに振り回されているだけで、どうすれば、このような国つくりができるかなど、考え様ともしないのです。



メンテ
新しい日本のかたち(6) ( No.43 )
日時: 2016/04/04 16:38
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:dkxAW6zA

(流通システム・輸送)

現在の宅配便は時を得たシステムで、これはインターネット商売と関連して、ますます発展するでしょう。
インターネットによる販売も、さらに増えるでしょうが、これは小売業の圧迫ともなり、良い面ばかりではありません。
これとは別に考えねばならないのは、ネットも使えず、グローバル化した商圏に対応することができない小規模生産業者に販売の道をつけてやることです。
そのようなシステムを構成しておかなければ、前にも述べたような手作りの商品を広くさばくことが出来ないからです。
農作物でも、付加価値の高い品物を流通ルートに誰でも乗せられる様にしなければ成りません。
これは従来の市場では対応できません。
農協も時代遅れで頼りには成りません。
また、日本には海外で販売できる多くの商品も豊富にあります。
大組織に属する企業は、それが出来るでしょうが、小規模の企業では言葉の問題、海外の基点の問題で誰でも可能とは言えません。
ですがそのような企業をまとめて、輸出の世話ができる組織は作れるのではないでしょうか。
せめて、都道府県単位で、そのような組織が3〜5もあれば、近所のそれを頼って誰でも輸出を試みることができます。
近頃は町おこし、村おこしと言う名目で、地方の行政も地元の産品の販売の支援に力を入れてきております。
これを、もう少し発展させれば、半官半民の組織を作ることができるはずです。

ベンチャー企業を奨励したり、付加価値の高い商品作りを奨励していても、その流通の問題まで解決してやらねば、グローバル化しすぎた現代社会では、その目的を達することはできません。
ついでに申しておきますと、もう農協はいらないでしょう。
存在しても他の業界と同じように、業界団体としてのみ存続すれば良く、農協を通して農政を施工するなどという考えは、農業の発展の足を引っ張るだけと思います。

(新しい価値商品)
ユーチューブへ動画を出して、多くの視聴者があればお金が入ると言います。

音楽業界でも、CDの売上よりも、ダウンロードによる普及が始まっています。
映画も同じです。
ただし、現在では余りにも高くついているようです。
この業界は、ますます進化してくるでしょう。

また、これほどインターネットが普及した時代、情報がお金になるという様なことが、もっと起きることでしょう。

現在はネットで検索して多種の情報を得るには、ヤフーとかグーグルが代表的な存在ですが、地方の事、身近な情報を詳細に知りたいばあい、それでは十分な情報が集まりません。
もちろん現在でも、そう言う活動をしている地方のサイトもありますが、主唱者の資力のこともあり、多くの人には知られてはいません。

前にも言った様に、地方で第二の人生を送ろうと、土地、住宅を探しても、信頼できる情報源は限られています。
地方の産品を購入する場合でも、どの情報でも信頼できるとは限りません。
それが地方のサイトの情報で問題が起きれば狭い範囲ですので、いい加減な情報を調べて対応することが出来、自然と無責任な情報は少なくなるでしょう。
このように、これからのインターネット時代に対応する様に、インターネット業界自体が発展することを望まれます。


メンテ
新しい日本のかたち(7)→医療問題・老人介護 ( No.44 )
日時: 2016/04/04 17:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:dkxAW6zA

(医療制度・老人介護)

少子高齢化もあって、この問題が深刻です。
医療システムについて、現在は大病院へ患者が殺到し、厚生労働省では大病院へ行く場合はかかり付けの町医者の推薦状がいると言う様に、大病院へ殺到する患者を制御する様に必死です。
ですが、これは全く正反対であり、患者はまず設備が整った大きな病院で受け付けてやるべきであります。
何と言っても大病院は検査機器が充実していて、町医者が経験で診察するよりもはるかに病気の原因を探ることができます。
最初から、誤診されたのでは、される恐れがあるのでは患者としては堪りません。
町医者には、病気の原因、処方がはっきりしてからかかるのが本質ではありませんか。
もちろん、風邪と解っていたり、単なる腹痛で心配ない場合は別ですが。

だから、全国どの地域にも、せめて自動車で1時間の範囲に一つの設備の整った病院を設置し、その規模は該当する患者に対応できる様な規模とする。

土地、建物を含むその設備費は、行政の負担とし、運営は民間に委嘱する。
人口割で10万人に一つの病院を考えると、全国で、この基軸病院の数は1000くらいになります。
現在でも、おそらく必要な数の7〜8割はあるでしょう。
身近な例で数えて見てください。
ただし、1病院のエリアの人口10万人として、その初診を全て受け入れるとなれば、かなりの規模が必要となります。
現代の医療器械の発達は目覚しく、どの病院にも高価な機器を装備するとなると、あまり多くの基軸病院はできません。

医療システムは、こうした基軸病院を中心に、周囲に町医者を配置することです。
そうして町医者と大病院の連携をしっかりと取ることが必要です。
町医者からの要請があれば、検査の部分では遅滞なく町医者の要請に答える様にしなければ成りません。
町医者は町医者でなければ出来ない医療の範囲があります。
老人については、昔の様に往診するように気をつけることです。
最近は一部の町医者が結構、往診の体制をとっています。
その町医者の信念に答えるためにも、必要ではない治療は町医者に任せる様に患者の方も気をつけるべきでしょう。
このよう循環が機能すれば、むやみに大病院が混雑することもないでしょう。
ヨーロッパでは、検査専門の病院が各地にできており、どの町医者でも安易にそれを利用するシステムが整っているらしいです。
検査が外注なので結果が得られるまでに時間がかかりますが、最新の検査機器が利用できるので誤診は少なくなり町医者でも安心して診察を受けられます。
どちらが良いのでしょうね。

お若い方には縁が無いでしょうが、終末医療の問題もあります。
大概の人は不治の病と悟った場合、大病院で楽に最後を迎えたいと思うものです。
患者の親族も、そのように思います。
これは私の経験ですが、私の母親は自宅で看取ることになりました。
96歳にもなっていましたので延命などは望んでいませんでした。
それでも最初は、いよいよ病院で帰らぬ人となると思っていましたが、かかり付けの医者から、24時間体制で訪問看護するシステムがあると聞かされ、それに頼ることにしました。
24時間看護をするスタッフはいずれも看護婦の資格があり、契約するとかかり付けの医師と連携してモルヒネの投与など適切な処置を施し、本人は苦しくことなく逝くことができました。
同時に近くのデイサービスに通っていたので、そちらからも在宅介護として週に2回ほどスタッフが来てくれて、入浴サービスなど、いろいろと世話をやいてくれました。
そう言う状態を経験して、ようやく現代の介護システムの全容が解った気がしました。
結構な制度ができているのです。

現在の日本では、病院でも介護のシステムでも量的には結構なものが揃っております。
今後は、これを機能的に使えるようにすれば良いと思います。

さて、これとは別に、我が国の特別養護老人ホームが不足していて、待機老人が随分といます。
特別養護老人ホームに入れず、他の短期収容施設を約3ヶ月置きに転々としなければならないのが実情であります。
先に我が国の医療システムの事を賞賛しましたが、
再起の可能性のない老人が、死に場所を探して転々しなければならないなど、先進国として恥ずかしい様なシステムも存在していることも事実です。

新しい日本のかたちでは、
このようなことは解消し、各地に必要十分な終末老人施設を建設します。
それも現在の様な、4人部屋、6人部屋でなく、個室を中心として、入所、退所がいつでも自由になるようにします。
これによって老人ホームに入ることに何の抵抗もなく、親子同居に拘る必要もない社会を作ります。
そのための財源の話は別の項目で取り上げることにします。

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.45 )
日時: 2016/04/05 10:12
名前: 北の国から ID:iaG8MS0Q

 天橋立の愚痴人間さん、こんにちは。
「新しい日本のかたち」を考えるとき、医療や介護のことが、どのくらいの位置に
あるのかは難しい問題かも知れませんが、これは、国民一人ひとりの「安全、安心」
に関わることであって、ある意味では「安全保障」の重要な一角だとも思います。

 医療のシステムを考えるとき、いろいろな書物によると、「国民の健康破壊の実
態」「社会保障制度」「医療の供給体制」の三つの側面からの考察が必要らしいで
すが、医療機関や介護施設などの配置の問題は、今日的な具体的な問題でもあると
思います。

 まず、いまは都会でも田舎でも「具合が悪く、保険証もあるけど、なかなか医療
期間にかかれない」という、医療供給体制のいびつさが、住民の不安の大きなひと
つになっています。

 「ちょっとした病気でも大病院を選択する」「翌日まで待てるのに、夜中でも医
療機関にきて、医者は眠れない…コンビニ受診」などの言い分が医療従事者側にあ
るのですが、これは明らかに医療従事者の単なる傲慢でしょう。

 子どもが熱を出したら、それがどんな病気かわからずに不安があり、夜中でも医
者にみてもらいたいというのは、親としての当然の想いですし、高齢者が具合が悪
くなったら、家族として「レンベルの高い病院でみてもらいたい」というのも、ご
くあたりまえの感情だと思います。

 医療機関の配置は、「人口10万人に一カ所の二次機能病院」というのは大切な
ご指摘だと思いますし、家庭医制度を重視し、往診に力をいれるという制度も必要
だと思います。

 たとえば、がん細胞が検査の結果発見され「がん」と診断を受けた患者が、がん
がどの程度ひろがっているのかを調べるのに有効な「シンチレイショングラフィー」
という検査(放射性同位元素を注射し、それから発生する微量の放射能を受光して
画像をコンピュータによってつくり、がんのひらがりをみる)。
 ボクの住む人口35万都市でも、この検査機械を持っているのは二つだけです。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.46 )
日時: 2016/04/05 10:31
名前: 北の国から ID:iaG8MS0Q

北海道では、「お産のできる病院まで車で2時間以上」という市町村はざらで、
この傾向はますます深刻になっています。お産をひかえたお母さんたちは「定期
検診」にもいかなければならず、大変な問題です。
(にもかかわらず産婦人科を希望する医学生はいっそう減少している)

 医療供給体制の「いびつさ」は、国のありかたとして早急に解決しなければな
らない(安心して子どもを生むことのできない国に未来があるはずがない)問題
でしょうね。

 これは、医師政策(医師のつくりかた)が一番大きい問題で「医師になりたい
人はお金の問題を心配せずに医大に行ける」「医師になっても大金持ちになるこ
とはできない」というシステムが急がれると思います。

 高齢者介護は「余生を楽しく、健康に」という目標でしょう。
国のありかたを考える上で「高齢者が、健康やお金の不安をできるだけ少なくで
きるような制度」というものは、むしろ、若者、現役世代のひとたちが「この国
は安心して働ける」「買い物をセーブしてとにかく貯金しなくては、ということ
をかんがえなくてもいい」と言う面で重要ですね。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.47 )
日時: 2016/04/08 09:14
名前: 贅六@関西弁 ID:79X/nc36

医療問題ですかァ、 此れワテ等の様な老齢者にとっては深刻な問題でおます。

まァねェ、この医療が問題に成るのは、主に地方、其れも“僻地”の問題でおますなァ。

愚痴人間はん、北の国からはん、ご両人のお説も尤もでおますが、都道府県夫々によって問題の様子も色々変わってると思いまっせ。

ワタイが住んでる大阪府の各地方都市でも、市町村によって悩みは異なりますんや。市町村によって公営の病院が必要な町も有れば、そんなもん必要のない町もおます。

住んでる町がバレますが、ワテの住んでる町は 大学病院、赤十字病院、が夫々一つずつ、大規模医療法人が一つ、中規模医療法人が二つ、小規模医療法人が三つほど、その他開業医は数知れず、ちゅうとこでおますが、

ワテはその小規模医療法人で、B型肝炎 と 冠動脈硬化 の治療を受けてますねん。

その他にも、編頭痛 が有った時は 脳梗塞 を心配し、鼻 が詰まって如何も成らん時も、 その他何でも調子の悪い時は、この病院を利用してます。要するに「掛かり付け病院」ちゅう訳でんな。

と言うのは、何処が悪いに限らず、長らく利用してた近所の開業医の先生が、高齢の為廃業しはりましたんで、次に掛かり付けの医院を決める為に近所を当たったんだすが、帯に短したすきに長し ちゅう奴で「此の先生なら・・」ちゅう開業医に巡り合わなんだもんで、先に書いた「馴染の病院」へ行く様に成ったんだすわ。

一口に医者と言いましても、エエ医者も、藪医者も、親切な医者も、傲慢な医者も、居てますよって、<僻地>や無ォても「掛かり付け医院」を持つ事は容易やおまへんのや。 それを本省のクソ役人は何でもかんでも十束一絡げで処理しようちゅう根性ですよって困る人間が仰山出て来るんでおます。

今度打ち出された、大病院での「初診5,000円」「再診2,500円」たら言う手数料も、かなりエグイ話でっせ。 目下、ワテの気掛かりなんは、ワテが通ォてる病院が此の対象に成るのんか、又は成らんのんか、ドッチや! ちゅうl事で、若し再診のたんびに2,500円取られたら、ワテの医療費の高騰は目を覆う物に成りますわ。

確かに日本の医療費問題は今、健康保険存亡の危機に立たされて居る様なもんでおますが政府は此の改善に根本的な手を打たずに、小手先だけのお茶濁しで問題の先送りばっかりしてますんや。 又、開業医や病院の経営者にも悪い奴がイッパイ居てます。

一つの命題を改善する為に、多面的な角度からアプローチする必要が有り、ホンマに難しい事やちゅうのは解りますが、いろんな改革の為に庶民を犠牲にするのんは止めて貰いたいもんだす。
メンテ
北の国からさん、贅六さんへ ( No.48 )
日時: 2016/04/05 16:17
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:iWkxRksA

北の国からさん、ご意見をありがとうございます。

そう言えば、あなたは医療の分野に詳したっかですね。
産婦人科の問題や救急車で運ぶ患者の受け入れ先がなく、たらい回しにされている現実の事を忘れていました。

日本の大病院は、医科大学の系列下にあると言われていますが、それは問題なのでしょうか。
35万都市と言えば地方では大都市であり、私の地方では舞鶴しが10万人で、それでも仰がれです。

舞鶴に隣接する福知山市が7万人、私が住んでいる宮津市が2万人、近隣の市町村全て(京都北部)を合わせても、30万人と少しでしょう。

その中に病床200〜300の病院が9つあります。
なぜか、患者が殺到し、どの病院も待ち時間が2時間以上ですが、何でも、かんでも自分の思うようにならないと我侭を言っていても仕方がないでしょう。

診察の体制としては、かなり整っているとおもいますが、そうし病院でも最新の医療設備となると十分ではないようです。
それで、心配な病気になると京大病院など遠くへだ出かける事もあります。
まあ、最新の医療器械と言っても検査結果を読み取る医師の方に実力がなければ困るのですが。

先に10万人に1箇所に、中核病院と言いましたが、実態に合わせれば、3万人に1箇所に訂正した方が宜しいか。
それらの病院にも確かに、別の診療所へ通っても問題のない老人たちがたくさん来ています。
現代の病院システムは、そんなに絶望的ではなく、今、一つ工夫をすれば良いのではないかと考えます。

それよりも、医療費の問題ですね。



贅六@関西弁さん、ありがとうございます。

年代は私とほとんど変わらないと思います。
持病をいろいろと溜め込んでおられますのも同じようです。

私の場合、高血圧と肝臓疾患(GPTgが00を超えている)は20年以上続いていました。
3年ほど前から地域の半公立病院へ通い、投薬のおかげで平常値に戻りました。
その代わりに、今度は糖尿病と言われ、相変わらず毎日薬を飲んでいます。
その上に罹病候補として、肺癌、脳梗塞を医師から言われております。

高血圧も肝臓も薬を絶やせば再発の恐れもあり、毎月薬代が5000円はいります(70際になる前は10000円)。
家内も方も、なんやかやと病院通いをしてまして月の医療費が1万円を超えます。

ですが、保険がなければ毎月10万円近くなり、とても生きては行けません。
国の保険制度を心配しております。

さて、病院の話しですが、貴方の地域は、どの病院へ行こうか悩まれる様で羨ましいですね。
ですが大病院、町医者に関わらず診察には誤診や護身でなくとも見当違いの診察をする医者ガ結構いますね。
セカンドオピニオンと言う言葉がありますが、確かに安心して任せられる医者を見つけることは、また別の問題ですね。

ですが機械による検査は誤審を減らせると思います。
怖いのは大家と言われている年配の医者が、経験で適当に決め付けることです。

私は病院へ行って、それとなく慰謝を観察しています。
多くの老人は、医者が優しいとか、詳しく説明をしてくれるとかを判断基準にしてますが。
私は、じっくりと医者の人柄を感じ取る様にしています。
信頼できる医者の薬の処方は結果を出します。
そのような意味で、現在通っている病院の医者には満足しています。
でも、ヤブの話は大病院でもよく聞きますね。

初診料の5000円の話しですが、呆れますね。
私が通っている病院は、そんな金は取りません。
病院の受付に、取らない事をはっきりと明示しています。

厚生労働省のバカ共は、病院問題のどこを改革しなければ良いか、何も解っちゃいないようです。

お二人さんも、ロムされている方にもお願します。
私の意見は私の意見、
それを叩き台にしていただいても宜しいので、色々な意見を述べていただきたいと思います。
それを集約してこそ、新しい日本のかたちが見えてくるのではないでしょうか。

公務員などは公僕です。
公僕などにあまり期待せず、この様にすべくであると教え諭す事を忘れては行けません。
メンテ
新しい日本のかたち(8)→雇用問題 ( No.49 )
日時: 2016/04/08 12:02
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:W0NNmMR6

No 40のレスで約30年後の就労者数の合計を5000万人(現在6400万人)として、希望する内訳を次の様に言いました。
第一次産業    第二次産業   第三次産業  
     300万人    1000万人   3700万人

平成27年度の内訳は次の通りです。
農業・漁業・林業   160
建設業        478
製造業        1042
運輸・郵便      342
卸売・小売業     1071
学術・研究       212
宿泊・飲食       400
生活サービス・娯楽   226
教育・学習支援    308
医療・福祉      793
その他        423
公務員        221

合計   5872万人
6400万人とならないのはカウントに欠けている就労者がいるのでしょう。

さて、30年後の内訳を予想してみましょう。
(第一次産業  合計300万人))
農業・漁業・林業   300
(第二次産業  合計1000万人)
建設業        600
製造業        400
(第三次産業  合計3700万人)
運輸・郵便      300
卸売・小売業     600
学術・研究       300
宿泊・飲食       400
生活サービス・娯楽   350
教育・学習支援    200
医療・福祉      1000
その他        300
公務員        250

合計   5000万人

如何でしょうか。
第一次、 二次産業の就労者を1300万人くらいは人為的にでも確保し、第三次産業の分野の負担を減らす。
第一次産業では、農林漁業への支援を増やし、第二次産業の製造業では大幅に減る製造業対策として建設業の数を確保する。
そのための公共事業は増やすが、それは第一次産業振興、ないし福祉政策実行のための事業の展開を中心とする。
将来の生活形態の展開のための道路整備なども行う。

第三次産業では小売業の縮小は避けられず、代わりに医療・福祉を中心に雇用の確保を目指す。
公務員を減らしてないのは、新たな住民サービスを展開するため。
これからの公務員は役所に閉じこもっていないで街へ出て各所サービス・指導に当たらせる。

ここで、就労問題について、もうひとつの意見を述べます。
教師を含む公務員の中途採用の比率を格段に増やすことです。
教師、公務員の新規採用は1/3以下とし、概ね年齢を問わない中途採用とする。
これによって専門知識的にも内容が充実する。
民間の営利企業などでは、そうは行かないが、公務員なれば十分に受け入れられる体制である。
これによって公務員を巡る転職の流動化が進み、かつ、公務員の特権意識がなくなる。

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.50 )
日時: 2016/05/04 17:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yP05ZAx6

如何でしょうか。
私たちは、このような社会にすることが可能なのです。

最近、100年の科学の発達は、このような社会を作ることができる必要条件であったのです。
資本主義経済体制は、驚く程の速さで、このような環境を作ってきました。
その意味で、今までの経済のシステムを否定するものでは全くありません。

ですが、国民の為の経済の法則、基盤である、誰でもが容易に需要と供給の流れに乗って生活を保証される環境ではなくなってきました。
資本主義経済のシステムも、現在は、そのことを省みて方向を修正する必要があるようになってきたのです。

これは難しいことでも、何でもありません。
通貨の考え方を変えるだけで良いのです。

現在はあらゆる商品が豊富であり、量的に確保することは、経済の仕組みの使命ではありません。
今までは、資本主義の体制で、みんなの力で商品の生産することが必要であったのです。

通貨は、そのための媒体であり続けてきました。
通貨とは、経済の流れの中から発生しなければならなかったのです。

ここに書いた「新しい日本のかたち」を実現するためには、通貨は国家が増刷できるものとしなければなりません。
それは税収と言う形で国家財政を考えることはできなくなっているからです。

税収で国家財政が考えられないのは、福祉にかかる予算が多すぎるからです。
ですが、それ故に福祉社会を諦めるのではなく、現代の環境、これほど生産力を手にした人類の環境を利用すれば、新しい通貨のシステムを作り、豊かな社会を維持することができるのです。

繰り返しになりますが、通貨の増刷の考え方にも、非常に危険な要素があります。
国民が、全てを通貨の増刷で賄うと言う気持ちになることです。

物質的に豊かになった現在、物質的には可能でしょう。
商品の生産などは機械に任せて、人間は余暇を享楽すれば良いのです。

ですが人間社会で人間性を維持して行こうと思うなら、それは取り返しのつかない不幸を生みます。
人間は、あくまでも生きるために一生懸命に働いていてこそ、色々な出来事に幸せを感じられるのです。

経済の問題とは別に{パラダイムチェンジ」と言うスレッドも立てています。
人間自身が価値観を正しく認識していなければ、ここに言う「新しい日本のかたち」の社会も地獄への一丁目になることがあります。

それでもね、勇気をもって、覚悟をもってやり遂げなければならない時代が来ているのではないでしょうか。
私たち人間社会は、今でも麻薬など排斥する厳しい規約を守っています。
交通規則などでも、納得出来れば制限に応じることができます。

通貨の増刷を、雇用を確保するための事業費に充てる。
基礎年金など、福祉予算の不足分の充填以外には行わない。

これが守れると思いますか。
守れなければ、このままで行かなければならないでしょう。

私は出来ると思いますし、またしなければ、グローバル化する経済の影響で、多くの人が路頭に迷う時代となり、富者と貧者が徹底的に対立する社会が訪れることでしょう。

人類が、どのような道を選ぶか、大変、大きなテーマですが、この様な観点から、このスレッドを書いています。



メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.52 )
日時: 2017/08/08 16:56
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:QIJY5HS2

最初から読んでいただくと、現状分析から問題把握。
新しいシステムの可能性などを書いています。

政治以前の問題であり、このような社会を目指すことが出きるかが命題のスレッドです。
メンテ
新しい日本のかたち 1  行政組織 ( No.53 )
日時: 2018/06/19 09:50
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:IuYCGI72

いままで、あちこちで書いて来たものをまとめて、具体的な案を出して見ます。


(行政組織)

中央政府
州政府

市町村
とし、新たに州政府を設ける。
州政府は国土再利用計画などを策定し、国民の全員に生活環境の保証をするために設置するもので、現在よりきめの細かい施策を実行する為のもの。
州政府の責務は実際の国民の安定の為のものであり、域内の県の担当者を呼んで広域的な施策を考える。


>中央政府

 憲法・法令に基づき国家全体を統括すると共に法令の作成と共に国家の基本方針を国民に知らしめる。
 国内を北海道・東北・関東・北陸・東海・近畿・中国・四国・九州(沖縄を含む)の9州を設置し、これを監督する。
 外交、国防、諜報、通貨管理、全体の治安は中央政府が専権事項とする他、年金、医療保険、介護保険など福祉の統括的責任(各種保険の財政的なものは地方に任せない)を負う。
 電力、通信、研究開発の分野は中央政府の管轄とする。
 
 全国的な徴税、税の配分は中央政府の役割とする
中央政府が集める財源は法人税の全て、間接税の全て、所得税、固定資産税などの半分、消費税の半分とし、余った財源は州政府へ配布(補助金)し、その責任をもつ。
 中央政府の公共事業は、国防に関するものの他、国道、高速道路など州を跨ぐものについてのみ行える。

 これに拠って国家の必要とする財源は、国会の維持費、中央官庁の維持費、国防、外交費、教育、公共事業費などに限られる(年間10兆円)。
 年金、医療保険、介護保険などは特別会計による。


>州政府

 州政府は、その州にあった政策を立案し実行するために存在する。
 州政府にも内閣にあたる組織を置き、議会は一院制とする。
 州政府は、その州における住民の生活を保障するために州内の産業配置、インフラ配置などを通して国土の利用計画を定め、それに合った施策を遂行する責任を持つ。
 そのために県会議を主唱し
 州政府の財源は中央政府からの補助金による(年間20兆円を想定)。


中央政府の財源
 税収     100兆円
 通貨の増刷  100兆円(これが問題となり後述する)
 合 計    200兆円

支出  中央政府維持費・事業費   10兆円
    州政府への補助金     180兆円
    予備費           10兆円

州政府の財源
 中央政府からの補助金   20兆円(180÷9の単純計算とする)

支出
 支出  州政府維持費   0.5兆円
 州政府の直轄事業費    4.5兆円
 県・市町村への補助金   15兆円

>県の財源(近畿地方の2府5県を例として平均を想定)

 地方消費税       0.3兆円(市町村は無しとする)
 その他         0.1兆円
 州政府からの補助金   2兆円

合 計          2.4兆円(京都府の現在の予算は1兆円)
支出
 県行政の維持費    0.3兆円
 県行政の事業費    0.5兆円
 市町村への補助金   1.6兆円

>市町村(人口3万人単位で計算)

 市税(個人所得税の半分)0.005兆円(50億円)
 固定資産税の半分    0.005兆円(50億円)
 県からの補助金    0.024兆円(240億円)

合計        0.035兆円(350億円)
 (当地宮津市は人口2万人、一般会計予算は100億円)

支出
 市の行政維持費     0.02兆円(20億円)
 市の事業費       0.12兆円(120億円)
(住民の生活保護の為の施策を重点に)
 市の公共事業費     0.12兆円(120億円)
(市内の企業者保護に重点を置いて発注する)

>京都市の例で言うと
 市税(個人所得税の半分)0.05兆円
 固定資産税(半分)0.05兆円
 その他      0.03兆円
 県からの補助金    0.8兆円

合計          0.93兆円
※ 昨年の一般会計予算は7800億円なので、これで行ける。

支出
 市の行政維持費     0.2兆円
 市の事業費       0.4兆円
(住民の生活保護の為の施策を重点に)
 市の公共事業費     0.33兆円
(市内の企業者保護に重点を置いて発注する)

以上、税収及び国家の財源を必要な地域へ必要に応じて配分することにより、過疎地域(経済的に弱い地域)ほど手厚い予算が組めるようにする。
これによって国家全体の経済を底上げをし、逆に福祉予算の削減をはかる。
年金、医療、介護などの財政的維持は全て中央政府の責任とし、地方は地方の基本的な生活基盤の育成に専念できる様にする。
大都市部の住民については、その都市発展の意欲を損なわないために、個人所得税の半分と消費税の半分は県が徴収し人口に比例して還付されるものとする。
企業活動は地域、人口に関係なく発揮されるものなので、中央政府が総括しても問題は起きない。
また県、市町村単位の施策は、飽くまでも住民本位となるように、財源は県単位、及び州単位で徴収し配分する事により、その方針に従って使うよう監督する。
州の権限を持たせるので国会議員、中央官庁の利権は減ってくる。
州政府、議会の利権が発生するが、範囲が様くなるので選挙民からの監視がしやすくなる。
州議会議員の選出の方法は後述する。



(税金)

所得税は法人税とも、累進課税を徹底し高額所得者の課税限度を70%に上げる。
固定資産税は住居用と認められる他は、一律現行の3倍とする。
株式など各種投機的な金の動きに対しては取引毎に課税する。
消費税は食料、医薬品は5%ぬ据え置き、他は15%に引き上げる。



(公務員制度改革)

公務員は中央政府、州政府、県職員、市町村職員とする。
全ての公務員の採用は新卒、中途採用を半々とする。
公務員採用試験は、それぞれの組織では一律とし、現行の様なキャリア制度はなくす。
公務員の中途採用を増やすのは行政に実社会の把握を促進させることと、官民の交流によって公務員の特権を無くす事を目的としている。
また中途採用者は各業種毎の専門の経験を積んでいるので公務員のレベルの向上が期待できる。
それによって、年金、医療保険なども公務員の特権を排除して一元化することになる。
公務員の給料は、平均的サラリーマンの年収+20%以内に設定する。
(現行で言えば、450+450×0.2)=540万円となる)
公務員の定年を定め、関連企業への天下りは一切認めない。
再就職をのぞむならばハローワークなど就職斡旋機関をとおす。


メンテ
州政府 ( No.54 )
日時: 2018/06/19 09:10
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:IuYCGI72

州政府を設定したのは、国内の発展の為、格差の解消の為により綿密な政策を実行する為です。

中央政府では安全保障の問題の他に全ての領域を万遍なく管轄するために、どうしても大雑把になる。
それで中央政府には、安全保障、外交と福祉政策の責任を任せ、他の分野は州政府、県が担当するシステムとする。

特に州政府は国民経済の維持に責任をもつ。
格差解消、国民に対する雇用の責任を負い、そのために産業構造、インフラの配置など、国土の利用形態から考えた施策を実施する。
州政府は地域毎の経済圏を設定し、どの地域でも安定した雇用が生じるように画策する。

農業を主体として発展させる地域、漁業、林業に力を入れる地域。
観光が奨励できる地域、老人などの保養に適する地域の開発などなど土地の利用を行政主導で行う。
従来の県単位では、効果が期待できない面も補強する。

州政府は財源の確保(中央政府からの補助金)と計画策定に責任をもち、実際の施行は主に県が行う。
計画と実施を切り離す事によって大きな利権を拡散する。

州議会議員は専門知識の抱負な人間を選出することが必要になり、口先だけの国会議員では務まらない様にする。
また州議会議員は地域誘導型政治をな無くすために全員、大選挙区制とする。

高度な専門知識が必要とされる場合に対応して、中央政府と共に利用できる公設のシンクタンクを設ける。
議会や内閣の法制局は廃止する。

この様に州政府の役割は実社会にとって非常に大切なものとなる。
教育は研究開発と共に中央政府所管とした方がよいかも。


>中央政府の役割

既に書いているが、中央政府は、安全保障、外交、諜報活動を専権事項とし、他に教育、社会福祉、国としてのインフラ整備(国道、通信、エネルギー問題、治安に責任を持つ。

また中央政府は憲法が遵守されているかを監視し、各種法令の策定、地方の条例の監視を行う。

全国から税金を徴収して、各州に配分し他の行政機構を円滑に動かす責任を負う。



メンテ
選挙制度、公務員 ( No.55 )
日時: 2018/06/19 09:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:IuYCGI72

選挙制度

中央政府の議会は2従来とおり2院制とし、衆議院議員(国会議員)は各州から均等に選出する(各州20名程度)、参議院は大選挙区(全国区)のみとし、全て比例代表制とする。

州政府の議会は1院制とし、議員は県毎に等しい人数(10人程度)で構成する。

以上は地域誘導型政治を無くす為の制度である。

県議会議員は、人数割の選挙区を設定しある程度は選挙区の代表である事も認める。
市町村議員は、実質意味をなさない議員が多く、議員定数の削減をする(人口1500人当たり1名程度)。

なを中央政府の議会については、議員の癒着、腐敗による審議の偏りを防止するために、スイスの様に年に3回ほどの国民党投票を制度化して国民の意志に反する議員の活動をけん制する。

国民投票にかけた議案は、国民投票の結果を議員の総数と同じ比率で採決出来るようにする。


公務員制度

中央政府から市町村の公務員まで、公務員の採用は毎年半数は中途採用とする。
それに伴い年金、医療保険制度も一元化する。
公務員にスト権を与えると共に、定年なども設定し、解雇など懲戒基準も民間並みする。
公務員の天下りは一切認めない(肩たたきなどによる早期退職は認めない)。
局長以上の人事は内閣が行い議会の承認を必要とする。

州政府においても公務員の人事の扱いは同じ。
メンテ
通貨管理制度 ( No.56 )
日時: 2018/06/19 10:17
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:IuYCGI72

通貨管理制度

中央銀行制度は止めて通貨の発行権は中央政府のものとし通貨管理の責任も中央政府のものとする。
為替管理、関税も同じ。

中央政府は従来の通貨管理の他に、政策実行に必要な通貨の増刷を行えるものとする。
ただし、通貨の増刷の基準は年金などの支給以外は、政策に見合うものとし、現金の配布は出来ないものとする。
また通貨の増刷がインフレを起こさないための管理を必要とする。
そのための通貨の増刷はGDPの20〜25%が目安になる(100兆円前後)

ピットコインなど仮想通貨の流通は認めない。
メンテ
産業の再配置 ( No.57 )
日時: 2018/06/20 00:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ktMiPF4Q

産業構造

各州毎に雇用を確保できるだけの産業の配置及び再配置については州政府が企画し民間企業がそれに応えられるインフラ整備を公共事業として行う。
これは長期計画であり企業に強要するのではなく、企業が望むような配置とする。

その中には、工場など生産産業や流通産業、介護産業、長期療養施設、教育、研究施設の再配置を含む。
グローバル化で雇用を無くす人たちのために、これらのインフラ整備を公共事業として発注する。
公共事業はグローバル化の影響を受けやすい弱小企業を優先に発注し、工事の規模も、それに応じて小分けにするとともに、十分な工期を設定する。
公共事業の規模は各州5兆円規模を考える。
※建設産業は比較的人力を要する産業であり、かつすそ野が広い産業であるので、この産業を保護育成することは雇用の増大の効果がある。

それと共に、農業、林業、漁業などの第一次産業の保護育成を図り、第一次産業の従事者を5〜7%程度に引き上げる(現在は1.2%)。
漁業を除いて、これらの産業は輸入製品の価格に押され経営が成り立たなくなっている。
この為に、食料、木材などの輸入制限(鎖国)を実施する。
食料の自給率は40%以下となっている現在、少々のエンゲル係数が上がっても国策として実施する。
農業の分野は水耕栽培、温室栽培を大規模に出来るし生産効率を上げられるインフラを整備し将来は上質な農産品をそれなりの価格で輸出産業となるまで育成する。
将来は世界的食料危機が見込まれ、中国などが豊かな国になれば品質の良い日本製品の市場は必ず増えてくる。
それまでの間30〜40年は、州政府による保護が必要である。

林業も価格の点で国内産の木材は殆ど省みられれていない。
しかしながら国土から考えて良質な木材が作れる環境を整備する必要がある。
具体的には、当面の間、林業に携わる者の人権費を公的費用で補填し林業に対する民間企業の意欲を促す。

漁業は養殖漁業を大規模にし、その為のインフラ整備を公共事業として行う。
介護事業は将来社会での雇用を生み出す大きな分野であり、介護に携わる人たちの年収はが全国の労働者の平均以上となるように必要ならば人件費の補填を公的費用で賄う。

工場生産の分野における人員削減はロボットなどの登場によって段々を減ってくる事は必至であり、これに代わる手仕事の分野を公的機関が育成する。
また、全体に豊かな社会となれば、人々の生活様式も変化し、第一線をリタイアした人が老年期の20年前後は自然豊かな地域で送ることが容易に出来るようなシステムを考える。
地方の、その様な人のために賃貸マンション、賃貸別荘などを整備しておく。
賃貸でなくとも新築物件、中古物件の売買が容易になれば、資金力のある老人が容易に移住するようになる。
反対に地方で暮らしたあと都市部へ帰ることも容易に出来る社会とあれば、人口の流動化が生まれ、地方の人口を増やすことが出来る。

ヨーロッパの人たちが長期休暇をとり習慣があると聞く。
社会全体が豊かになれば我が国もその様な習慣ができ、それがまた人口の流動化を生み、地方経済の活性化につながる。

良い面の相乗効果が出るまでは州政府が中心となり長期計画で面倒をみる。
大体、50年間くらいは中央政府の通貨の増刷によって事業を継続することが必要であり、この為の総経費(通貨の増刷)は100×50=5000兆円見込まれる。
しかしながら、現在の1400兆円の借金を、このまま継続して行っても50年も経たずに8000兆円を超えると言う予測もあり、決して無茶苦茶な発想ではない。

同じ借入金を増大させるならば、はっきりとした将来計画の基づいてやるべきであり、それが政治と言うものである。

しかし、これらの施策を実行するには単なる通貨の増刷云々だけでは出来ない。
多くの問題の改革も必要であり、それはこれから見て行くとしよう。

(追伸)

現在、政府は大企業中心に国際競争力をつけさせ輸出国として国家の発展を画策している。
企業がグローバル化をめざすのは自然の成り行きであり、その様なものをことさら支援する必要はなく、世界に打って出られる企業は勝手にやらせれば良い。
もちろん、そうした企業が国の発展に寄与する事は認めるが、国内の経済というものは輸出だけではなく、国内の産業が活性化すれば需要が増え輸出しなくても企業の売り上げは伸びる。

であるから、大企業に頼る経済対策など全く無用のもの。
政府は国内で活動する企業の事だけを考えれば良いのである。

この簡単な理屈がとおらないのは、大企業が政府の力をかりて世界へ打って出ようとし、それを単純に政党が支援する構図となっているからであり全くの錯誤であるのだ。

トヨタでも、政府としては出来るだけの法人税をとり、それがいやならトヨタを追い出せば良いのである。
日本の国内市場が活性化すれば、そのトヨタも日本を無視できなくなる。
企業と政府の施策とは、こんな関係であるべきなのである。
メンテ
教育 ( No.58 )
日時: 2018/06/20 15:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ktMiPF4Q

小中高校の教育は県が所轄し大学・研究施設は中央政府の所轄とする。
義務教育の方針などは、関係法令を含めて中央政府の専権事項とする。
また小中高校及び大学までの公立学校の学費は全て中央政府の負担で無料とする。
幼稚園、保育園も設置基準、管理は県が所轄し公設の場合、入園費は県の負担で無料とする。
民営の場合、行政が算出する基準に従って、その半分は行政が負担する。

義務教育の方針について、従来は教育基本法で「自主性を育てる教育」が方針としてあるが、実際はこれが歪曲されて実践されているのでこれを是正する。

以下、その様子を陳述する。


「お話 その1」

 京都府のある小学校の四年のクラスには、教育に非常に熱心な先生がおられまして、その先生は、テストのとき、生徒の全部に90点以上を取らせたいと思い、試験が近づくと、黒板に問題と解答を書き出し、何回も何回も生徒に覚えさせていました。 結果は聞いておりませんが、その父兄の一人は、先生の努力を奇異なものと感じておられました。

「お話 その2」

 私の子供が小学生のおり、「学級通信」なるプリントを殆ど毎日の様に持って帰ってきました。 始めは、先生も大変と思いながら、少しは目も通しておりましたが、そのうち、捨てる訳にもならす、ただ集積するに任したものです。 日常化した膨大な量のプリントは子供にとって本来の連絡紙の意味を感じなくなり、本当に必要な内容を含んだものも含めて親に確実に手渡す事の大切さがだんだんとわからなくなってしまいました。

 知り合いの小学校教諭に聞きますと、そのプリントの作成に毎日時間を取られて、また、毎日なので書く内容に神経を使うため大変らしいです。 費用対効果の意味で先生方に同情するだけではすまされない問題が内在していると思います。

「お話 その3」

 最近小学校での運動会では、1等・2等・3等と順位をつけない学校があるらしい。 幸いに、私の子供の学校では経験しなかったが、早く走れるのにふざけて走らない子供、玉入れでは相手の籠に玉を入れる子供、またそれを観戦する父兄のしらけた表情など、想像するに耐え難い光景を現実のものとしている小学校が少なからずあるようです。

「お話 その4」

 私がPTAの地区の役員をしていた中学校で、毎年夏休みに行われている、生徒による古紙回収の行事での話し。
準備の為の役員会が開かれ、教務担当の先生からは以下のように説明されました。 「この行事は生徒の社会学習の一つとして、生徒が自主的に計画して行うものです、父兄の方には、回収の為の車両を提供していただき、また行事が安全に行われるように指導してやって下さい」
行事当日の事 ・・・

行事後のPTAの役員会(反省会)の発言集

ある父兄 
今年は生徒達が非常に協力的でスムースにできて、本当に助かりました。
(私のところでもそうだった、との同調意見あり)

教務担当の先生  
有難うございました、また来年も宜しく・・・

私の発言
皆さん、少し待って下さい。 私の地区では以下のようでした。
集合時間を厳守できていない、特に上級生に目立つ。
集合して後、上級生からは、父兄に何の挨拶もなく、また、下級生にたいして何の指示もしない。
様子を見ていると、班分けは出来ているらしく、ぞろぞろと出発する気配なので、回収道順等について車両を運転する父兄に説明をする様に注意をしたところ、明確に説明する何の資料も持っていない。
回収前に、協力を依頼する文書を各家庭に配布していたようだが、そのリストも持っていない。 回収作業が始まってからは、トラックの荷台に乗せろと上級生ほど要求する。

 以上の内容であり、先日、先生から言われていた、生徒が自主的に行う社会学習の観点から見ると、その目的からは、かけ離れた状態であった。 それでも結果として、市からの助成金を含めて50数万円の収入が見込め、それで教材及びクラブ活動の資金が手に入り、生徒が自分達の力でこれを達成したと思うことは、教育上ゆゆしき問題であり、来年からは取り止めていただきたい。 資金が必要ならPTA行事として行い、生徒に協力させればよい。 (皆さん、しらけてシーン ・・・ )

「お話 その5」

今度は私が地区の公民館で文化委員をしているときのお話です。
小学校の夏休みを目前に、公民館の関係委員・小学校の担当の先生・市の教育委員会からも課長が出席して、地区の子供たちの夏休みの過ごし方を指導する為の会合でした。

学校の先生からは、海水浴の時の安全確保、交通事故に巻き込まれない様に注意させるとか、規則正しい生活に留意させるとかの一般的注意を学校の夏休み中の行事とも関連させて発言しておられました。

次に教育委員会の課長は次のように発言されました。 「学校では子供が自主性を発揮するように常に指導を行っております、夏休み中も、先生が言われたことを子供が自主的に出来る様に、指導してやってください」
何気ない発言に議事は順調に進むはずでしたが、その場にふさわしくない者が今年は紛れ込んでおりました。

私の発言 
最近、教育の場でよく自主性が言われていて、修学旅行の行先も子供の意見を聞かれているそうです。 何事でも自主的に出来ると言うことは、その事に関しては、すでに人間として完成できている事ではないでしょうか。 我々社会人におきましても、簡単なことから難しい事までそれぞれに任しきるには、慎重な考慮を必要とされます。

その人が結果の責任を取れる範囲において、本人にまかす(自主性にまかす)様にしないと、事業などは維持出来ません。 もちろん自主性は大切な内容ですが、それを身に付けさせるのは、成人も含めて大変なことです。 また自主性を発揮する為の自身の判断力を醸成させる為に、人は、広く他の意見を取り入れる習慣を身に付けないと出来るものではありません。

生まれながらにして社会的に有効な自主的な判断力を持った子供などいるはずがありません。 正しい自主性などは、その内容に応じて(簡単な事例から複雑な内容のものまで)教導されねば育つはずはないし、年少のころより、そういった、指導をきっちりされる方が、子供はより早く、正しい自主性を身につけることになるのではないでしょうか。

子供達に正しい判断力が育っておれば自然に自主的にものを行うことが出来、結果として我々父兄が喜ぶことであります。 真に子供の成長を願うならば、自分のことでも責任の取れもしない子供の判断の自由にまかせて、成り行きを見ているような悠長なことは、日々成長を繰り返すべきこの時期に適切では無いはずです。

子供の判断の誤りはその都度きっちりと指摘してやる事の連続が教育であり、その必要がなくなった部分に比例して自主性が芽生えたと思うべきです。 しかるに、最初に自主性ありきの今の発言が子供の成長にどの様な意味で有効かを、具体的な根拠を示して説明していただきたいものです。 (またまた一同 シーン ・・・  )

これらは私の子育ての過程での出来事を中心に述べてきました。 その中によく出て来た、表題の「平等」と「自主性」について考えることにします。

広辞苑を引きますと「平等」とは「かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと」その用例としては「・・・に扱う」とか「男女・・」のように、あるものとあるものの関係において平等の概念を当てはめることが正しい使い方であり、また「平等に分ける」の場合のように、平等の概念が適用できる対象について可能な言葉であります。

しかるに、我々人間の能力・環境など、それ自体が平等になりえないものに、平等の概念を適用しようとする行為は、愚劣を通り越していて、このような概念を教師が持っているとすれば、直ちに矯正すべき内容であります。 我々人間は、与えられた環境・身体・能力に応じて精一杯生きてゆく事が大切なのです。

年少者の教育の場での神様になるような教育は、子供達が長じて社会生活に入って行く上に、大変な弊害をきたす以外のなにものでもありません。 頭の良い子はそれを生かし・身体の頑丈な子はそれを利用するもよし、成長と共に、自分に応じた生き方を身に付けさせること、自分の長所を認識させることが義務教育時点での重大な課題ではないでしょうか。

民主主義の世の中で、機会とか情報とか、社会的各種差別に対して平等を主張するのは結構ですが、人間自身が平等に生きられると思い込ませかねない教育は、この世ではやって欲しくないものです。

同様に「自主性」について、広辞苑では「他人の干渉を受けないで、自分で決定して事を行うさま」とあります。 子供でも、成人でも、自らを成長させるにおいて、一番大切な心がまえは、見習うことです。 その昔、我々老人の時代には、親は生活に追われていて、我が子の教育などは、ただ叱り付けることでした。 その中で子供達は、やってならない事、善い事を自然に習ってきました。 成人に達してからも、先輩達の仕事を盗むようにして覚えていったものでした。 年少のころから、少しずつ確実なものを身に付けて、それが自信になり、判断力の根拠となって、他の人からも信頼されるようになりました。

自主性などは、その過程で無意識のうちに醸成されてゆく、責任感を伴った自我に基づくものでなければなりません。 自我とは、これも広辞苑によりますと哲学的には「認識・感情・意志・行為の主体を外界や他人と区別して言う語」、また心理学的には「意識や行動の主体を示す概念」、精神分析の世界では「イド」(注)から発する衝動を、外界の現実や良心の統制に従わせるような働きをする」とあります。 自我の発育は心理学で言っておりますように、思春期に反抗期を伴って顕著になってくるものであり、個人の心的体験等によりそれぞれに差異があるものです。

発育途上の子供に対して、択一的に、他動的に、まず先に、自主性の概念を教え込む等の手法によって、正常な自我を醸成させることが出来ると思っているのでしょうか。 自主性と言う言葉を自我と置き換えて考えればそんなに単純に、教えて身につけさせられることではないはずです。 自我の未成熟のまま自主性の概念のみが発達した、能力も責任感もない多くの人間が社会に出た時、社会の秩序が崩壊するのは目に見えております。

教育の場で「自主性」を云々するのは、如何にして正当な自主性を身に付けさせることが出来るかを、教育者自身が己に問う問題であり、子供に自主性を安売りするものではありません。 まして、事例を与えて子供に実験させて悦に入っているのみの教育現場のあり方は、もってのほかの状況と考えます。 「自主性」にたいする考え方が逆立ちしている様です。

(引用終わり)

このような事では、何の為に教育期間があるのか意味がない。
教育とは、別に就職のためにあるものではないが、将来社会人としてまっとうに生き、その中で自分の能力を発揮できるようにする準備期間であるはずである。

であるのに社会の実態とかけ離れた認識を植え付け、無条件で自己主張が通る様な教育は、まったく反社会的で、真逆の教えと言える。
結果、実社会に適応できない若者を大量に生み出す結果となっている。

これはひとえに義務教育の過程の教師の責任である。
教師自体がすでに社会的に未熟な存在であり子供を導く能力にかける。

正しい自主性教育をするならば、教師の質を上げる必要があり、教師の育成、指導過程を充実させるシステムが必要である。
この為に他の公務員と同じく教師の中途採用の枠を広げねばならない。

また教師の成長を促すために、新任教師には習熟した教師が一定期間監督する様なシステムが必要である。
(これは海外の国では実際にやられている)

義務教育の過程のこれは我が国の将来の人間力を保持するためにぜひ必要な方針転換であり、数十年計画で実施しなければならない。
アジアなどの新進諸国の若者の覇気は日本の若者は遠く及ばない。
小さく固まりすぎた若者、成長の為の努力をする事をすぐにあきらめる若者(成長が金儲けでも同じこと)が多く、人的資源として日本は外国に劣っている。

これはひとえに容易に自主的に生きることが出来ると勘違いさせる教育のせいである。
自主性と個性を発揮すると言う事は、同じ様で全く異なる概念である。

個性を発揮するとは、実際に社会に己を認めさせることが出来るという事であり、それに至らないまでも、個性が発揮できる、自主的にやれると思い込んで、実際は無為に過ごす若者が据えているのである。



メンテ
社会福祉制度(年金、医療、介護、生活保護) ( No.59 )
日時: 2018/06/21 11:16
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:1ACfCnMw

>年金制度

年金は基礎年金部分と比例報酬部分に分け、基礎年金部分は公的年金として一律、毎月10万円/人とし、61歳から支給する。
比例報酬部分は全て民間に任せる。

公的年金はパート、アルバイトにおいても支払いの都度徴収(報酬の5%)する。
最低賃金は、この分を見込んで設定する。

現在の全国民の年収は下記のとおり。

国家公務員(自衛官含む) 11兆円
地方公務員        21兆円
民間の合計        200兆円

合計           231兆円
年金として徴収する金額は5%で合計約12兆円。

これに対して年金受給者の数を4000万人とする。
年間の基礎年金支給総額は4000万人×10万円(月)×12=48兆円が必用となる。
不足分の36兆円は通貨の増刷で賄う。

年金に関する徴収、支給は完全に平等とし、高額所得者の累進負担は所得税にて調整する。
この事によって、国民は老後の心配が減り日常の経済活動が活発になる。

>医療保険制度

医療保険も完全に一元化する。
国民の総医療費は40兆円に達している。
個人負担率を一律50%とすると、20兆円の保険料徴収が必要となる。

現在の個人所得税は約15兆円、これを累進性を高め20兆円と設定し所得税を納める人たちから、その半分を医療保険として徴収する(10兆円)
不足分の10兆円は消費税を15%に上げげ、5%分をこれに充てる。

>介護の問題

介護保険の財政の危機的状況です。
介護の総費用は10兆円にもなり、将来は20兆円になると言う予測です。

介護保険料を徴収してますが、それは2.2兆円くらいです。
後の財源は、国、地方自治体から7.8兆円出しています。
介護は近年日本の家庭構成を思うと是非必要なシステムで、それを利用する人もますます増えてきています。

不足分の10兆円の財源を確保しなければなりません。
所得税、医療保険については累進課税方式で集めていますが、これ以上、は個人税として徴収する事は社会の活性化を妨げます。

>生活保護

我が国では生活保護の制度が他の先進国よりも劣っていて、格差の問題が顕著になってきています。
我が国の生活保護費の総額は210万人に対して3.7兆円となっています。
生活保護が必要な家庭の補足率は19%であり、60%以上の他の国と違い、此れが問題になっています。

単純に計算して生活保護の為の財源不足は、此れも10兆円に近いと思います。
結局は介護と生活保護の両面で20兆円の財源が不足しており、此れも通貨の増刷で賄います。

今までに合わせて56兆円の通貨の増刷を見込みましたが、この用途は各分野での最低必要な事業を行うためであり、通貨が過剰に供給されインフレを招く恐れは全くありません。


最期に医療制度に関して提言をします。

近年、厚生労働省は、まずかかりつけ医の診察を経て大きな病院へ行くように指導していますが、これは全く真逆の発想です。
単なる風邪や腹痛ならばともかく、最初は誰も深刻な病気を心配します。

人が大病院へ集まるのは、それが確認したい為です。
最近の診断システムは高度になる代わりに大層高額な機器が必要で、小さな病院では出来ません。
それ故に、自分が心配するならば、まず大病院の診察が受けられるように配慮すべきなのです。

大病院で病名が決まり、治療の方法が決まったら、その後の治療は町医者でも出来るはずです。
この様な流れを作ってこそ、大病院の混雑も防ぐことができ、町医者も繁栄することができます。

行政が考えるべきは、その大きな病院の配置の事ではありませんか。
既に民間の大きな病院では通院の為の独自のマイクロバスの運行をしています。
公的病院ほど、そういう住民サービスはやっていません。

厚生労働省の考え方が全く真逆であるからです。

また、此れとは別に町医者が利用しようと思えば安易に出来る検査専門の公的病院を作る事も大切かと思います。

メンテ
新しい日本のかたちの始まり ( No.60 )
日時: 2018/10/25 13:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:C8ugXWCg

既成の政党、政治屋の事を云々していても全く埒があきません。

発明、発見、革命とは、既成の概念に捉われていては出来ません。

新しい国の形を夢見る事から始めましょう。

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.61 )
日時: 2019/01/04 12:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:cO7i41JY

「新しい日本のかたち」というタイトルで、これからの日本(社会)のかたちを模索しています。

最近のレスで、公務員制度、選挙制度、年金、医療、介護の問題、教育を事例に挙げています、さらに大きな問題として経済的格差を生む産業構造、通貨管理制度なども取り上げてきました。

我が国が直面しているこれらの問題は、すべて資本主義のシステムが招いた結果なのです。
「新しい日本のかたち」を取り上げるに際して、個々の事例の検証の前に、大前提となる「市場主義経済」のシステムの検証をしなければなりません。

この問題は、別スレッド「経済の話し」「1000兆円の借金<マクロ経済」「通貨管理政策」「貧困の構造」などで繰り返し書いています。

結論として、市場主義のシステムの一部を見直すことで、現在では解決不可能と思われる事象も乗り切れるのです。
ただし、物質的には大層豊かになった現在、現在の諸問題を無条件に解決し理想郷が現れれるなどと簡単に考えてはいけません。

人間社会は、飽くまでも生きるためには一生懸命に働かねばならないと言うことを前提としなければなりません。
そのためには「市場主義経済」のシステムは堅持しなければならないのです。

ですが、別スレッドでも書いていますように、根本的な分野の一部を見直すことで出来るのです。
その基本中の基本は「通貨」への考え方です。

もう一つの要因は、民主主義の下、際限なく保障されていると勘違いされている個人の権利の問題です。
かつて、民主主義の考え方で主権在民を達成したように、個人の権利を守ると言うことは大切なことですが、個人の権利と言っても、個人自身に関する権利と(趣味など)公的な性格も併せ持つ個人の権利とは、おのずから軽重があることを互いに認識しなければなりません。

新しい国のかたちとして、公共事業の増大や、基本年金の国費による支給など、すべての人々には賛同できない面も出てくるでしょう。
しかしながら民主主義の下、国民の代表である政府の施策は、一部の人びとの立場から不公平、不平等と思われても受け入れることも必要なのです。

統治とは、それがどのような形であっても、強制力が働き、完全には国民すべての同意は得られないのです。
統治者自身の不正、間違いを暴くことはもちろん必要ですが、個人として統治行為自身はうけいれなくてはなりません。
卑近な例ですが、具体的に言いますと、最近表札も出さない人が増えています。

郵便、宅配などのサービスは、住民の協力があってこそ、スムースに実施できるのです。
郵便、宅配の事業も政府の統制下のルールで行われているのす。
個人情報秘匿の目的で、表札を出さないような個人の権利は認められないと言うことです。

生活の中の些細な事ですが、このような些細な領域で統治に抵抗する面が見られます。
これでは統治者の施策も行きわたりません。
新しい日本のかたちの政策も立ち往生しかねません。

何も、権力にひれ伏せと言っている訳ではありません。
権力、そのものが自分たちのために動いていることをもっと理解してほしいのです。

この様に言いましたが、それは逆のことも言えます。
権力が間違って施行されていると感じれば、それを激しく糾弾することも権力を理解することであります。

新しい日本のかたちえお実践するには、かなりの通貨の増刷という行為が伴います。
何のための通貨の増刷か、しっかりと見極める国民の目が必要なのです。

この様な国民の自覚なしの通貨の増刷、新しい日本のかたちの政策は、現在では見られない問題を引き起こしかねます。
ですから、政策的な改革と同時に、国民自身の有り様の改革も必要となるのです。

通貨管理の改革と同時に

産業構造の改革

福祉政策の改革など

いろいろな問題が「新しい日本のかたち」では提案できるでしょう。



メンテ
新しい日本のかたちの必要性 ( No.62 )
日時: 2019/01/04 18:16
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:cO7i41JY

人間にとって一番幸せな社会とは、働くことなく遊んで暮らせる社会のことでは決してありません。

人間の存在に関する苦悩は、古代の昔から衣食を満たすこと以外ついて回るのです。
永遠の生命を持たない人間の本質なのです。
物質的繁栄を願った古代宗教(呪術)とは異なり近代宗教は人々の救済を説いています。

本来、人間は不安の中で生きています。
その人間が不安から解き放たれて(忘れて)生きている状況に享楽と仕事の世界があります。
享楽と言いましたが、ありすぎる享楽では人々の不安を満たすことはできません。

繰り返し言いますが、歴史家アーノルド・トインビーは、人類の将来の課題は、経済的格差の問題ではなく余暇の増大となるだろうと予言していました。

有り余る余暇の時間は、人間にさらなる不安と欲望を促します。
新たな刺激を求める人間は、従来の倫理、道徳では制御できない何をするようになるか解りません。

一方、人間は必要に応じて働いている間は、本来、人間が持つ不安感を感じる余裕はありません。
働くことで人間の精神は安定に保たれるのです。
忙しく働いている中でこそ、余暇は生き生きと楽しめるものでしょう。

人間社会全体を見るとき、ほとんどの人間は働くことで生活ができ社会を維持している状態が一番幸せな状態なのです。
グローバル化が進み生産技術が発達し人間の働く機会が失われてきている現在、これは格差の問題云々の前に、大きな問題であるのです。

歴史上、記録されている人間社会は5000年、そのあいだ人間は発展を続けてきました。
しかしながら、近年200年の歴史の発展は目覚ましく、ついには従来の人間の有り様まで変える様な状態となりました。

そうです、人間は皆が皆まで働かなくても必要な食糧、資材を手に入れることが出来ます。
大多数の人間が働かなくても社会を維持できない時代とは異なってきているのです。

産業のグローバル化によって人間は知らず知らずの内に選別され、多くの人間を社会的活動から追い出し生活の機会(職場)を奪い無為な時間を与えている一方で、勝ち組として豊かな生活をする人々には十分すぎる余暇を提供しています。

その両方ともに、人間の本来の不安を乗り越えることは難しくなります。
全ての人間が働くことなく過ごせる理想郷も問題ですが格差社会の結果、人間の本来の不安感が増すことも重大な問題です。

今までは人間の本性、不安という側面から捉えましたが、それよりも率直に格差の問題を解決する手段としてほとんどの人間が働く機会を確保出来るような社会を作ることです。

そのようになるように国家が介入して雇用を確保することです。
しかしながら、これは共産主義国家を目指せと言う訳ではありません。

共産主義体制は別の意味で大きな問題を含んでいます。
言い遅れましたが、人間の社会は市場主義の体制が一番あっているのです。

人間の本性の内、生への不安を取り上げましたが、一方で人間と言う種族は、際限ない欲望をコントロールできないのです。
人間社会が全くの公平、平等に維持されると、人間のその本能、際限ない欲望が満たされません。

厄介な人類と言う種族は、生への不安を抑える一方で、個人の欲望も満たしてやるようにしなければならないのです。
最もすべての人間に、その欲望を満たさせることなどできないので、結果は不平等、不公平が生じます。

人間社会を平穏にコントロールするためには、多少の格差は容認して社会の有り様を考えなければならないのです。
であるので、現在の市場主義経済の大枠は守らねばなりません。

今までのところを総括しますと、

「新しい日本のかたち」とは

市場主義経済体制を堅持する中で、ほとんどの国民が必要とする雇用を国家として確保できる体制のことです。

具体的には、公共事業など国家の事業を行うことで雇用を確保したり、農業、漁業、林業など市場主義体制の下では立ち行かない産業への補助による雇用の確保、介護保険や年金など、福祉の分野における財源の確保(通貨の増刷)などによって社会の消費を増やし雇用の機会を増やすことです。

要するに、国家の財政において、税収以外の歳入を計ることです。

また、必要なグローバル化は問いませんが、駅の改札口の無人化、ガソリンスタンドの無人化の様に経営者から見れば1円でも経費を削減すると言う競争を制限することです。
これは法律で出来ることですが、企業の競争力確保を至上命題とする現在の政治、行政はしようともしません。
安全性確保、雇用の確保という立場から、国家は企業に譲ることをしなくて良いのです。

基本的に、このような「新しい日本のかたち」へ向かうならば、NO55から言っているように、具体的ないろいろな施策が考えられます。


この改革には大変大きな課題もあります。
しかしながら、この課題に対して叡智を絞れば十分に解決はできるのです。
ここ200年の歴史を考えても、この様な改革が出来ないはずはありません。

メンテ

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