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[1908] 新しい日本のかたち
日時: 2013/12/01(Sun) 07:31
名前: 天橋立の愚痴人間

以前にも同じ名前のスレッドを立てていましたが、古いものは名前をかえて(国のかたち)、ここに新たに書き起こします。

「新しい」と言う言葉に何を想っているかにつきまして、それは現代社会が民主主義と言う面でも、資本主義と言う面でも、知らず知らずの内に、想っていたよりも矛盾が噴出し、ただ、それを信奉しているだけでは、その言葉で期待していた成果を得られないようになって来ている事を鑑み、反省し、その認識の上に、我々は何かをするべきではないかと言うことを問うものであります。

民主主義と言う面では、個人の権利、自由の希求が、共生(助け合いながら生きている)と言う認識を希薄にし、結果、場合によっては、個人の精神を蝕むことも起きるようになって来ています。

また資本主義経済のありようは、ヒューマンスケールを飛び越えて展開し、生産手段の発達は、多くの人々から就労の機会を奪い始めています。
このような事は、人類の歴史数万年の中で理想と想っていた社会のありようが、理想を超えてしまい、人類として戸惑っているようにも見えます。

また、現代社会は、情報、物資の交流において、民族、国家と言うものの枠を超え、人々は容易に世界中の情報、物資を得る事が出来るようになって来ています。
国家の概念も従来の、それでは捉えられなくなって来ています。

これらの事が何を意味するか。
それは、まさしく新しい文化、文明の始まりと想います。
飽くまでも、人間そのものの本質は変わらないとしても、こうした環境に適合する智恵を、人間は文化、文明として展開して来ました。

このような視点にたち、これからの社会つくりに、我々は何を考えて行かねばならないかを自問自答して行きたいと想います。
それが、新しい国の形であります。

具体的には、如何に生きると言うこと、どうすれば生きられるかと言うこと、即ち、経済の事が中心になりますが、その為にも、我々は我々自身の生き様まで思案しなければなりません。
また、それは決して従来のそれを否定するものでもなく、突飛な展開を想定するものでもありません。
人類の歴史に立って、次に何を成すべきかを問うことであります。

今まで掲示板にいろいろと書き込んで着ましたが、その総集編としてまとめて見たいと思います。
かつ、掲示板での、いろいろな方との交流で多くのヒントを頂き、ようやく、ここらで一度、纏めたいと思うようになったことを付け加えさせていただきます。
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Re: 新しい日本のかたち ( No.3 )
日時: 2013/12/02(Mon) 03:28
名前: 古典経済学

いきなり生々しい現実を突きつける事になりましたが、それではグローバル化と言うものが必然であったか、否かについて見てみましょう。

佐伯啓思氏の「アダムスミスの誤算−幻想のグローバル資本主義」と言う著作があります。

 グローバル資本主義の祖(と思われている)アダム・スミスが実は(今日で言うところの)グローバル資本主義に批判的であったのではないか、と主張する本。政府の規制の象徴である重商主義を批判し、自由放任経済を主張した、といわれているアダム・スミス。しかし、これは貨幣に対する不信感から出てきた主張であり、彼自身は「土地と労働への投資」が自然な姿である、と主張していた、とこの本では主張する。

 「土地と労働への投資」と聞くとなんだか、日本的経営論でよく言われたの「土地神話」「従業員主権」何かをイメージしてしまうけれども、(この本で力点が置かれている)アダム・スミスはそんなバブルの勧めをしているわけではもちろんない。貨幣という「信用」の上にのみ成り立つ虚構のものよりも、確実なものとしての土地や労働に対する投資の方が自然の姿であり、望ましいと考えられていたと言うことである。この観点からすると、日本のバブルは「土地」を不確かなものとして扱ったが故の産物であるといえよう。そして「土地」に対する信用が崩れた後がまさしく現在の日本の姿だといえるのだろう。

 貨幣が信用によって成り立っているのは、確かにその通りであり、それが時として猛威を振るうのは、アジア通貨危機などをみても明らかである。ただ「信用」がないと、取引の際の費用や情報探索コストがかかって仕方ないだろう。つまり、信用はありすぎても、なさすぎても困るものなんだろうと思う。今(2000年冒頭)の株式市場を見ていると、IT関連は信用が集まりすぎ、逆に重厚長大型は信用がなさ過ぎのような気がする。まあ、ぱっとみの感想にしかすぎないけれど。

(引用終わり)

アダムスミス以降展開されてきた経済学は、これから紹介しますが、セイの法則」や「限界効用説」を根拠に「古典派経済学」、「新古典派経済学」と言われるものに大きく分かれて行きました。

その過程で問題となっている事に、普通、我々一般人が「需要」と「供給」と言う単純な概念、それに「神の見えざる手」と言う単純な思い込みによる経済の有様とは随分と異なるものがあります。
表記の著作は、アダムスミス自身も予想してない要素があったということであり、我々が簡単に把握できるものでもないのでしょう。
その一端を「重商主義」と言うキーワードで見てみたいと思います。


松田広島大学助教授

「古典派の経済学」

 古典派の主張の中心点は、貨幣が経済の実体面に影響を持たないということである。古典派の経済学は、貨幣の不足による需要の不足を否定した。それをもっとも簡潔に示したのが「セイの法則」である。すなわち、「供給はそれ自らの需要を生み出す」という命題である。セイは需要を経済循環の視点から見た。供給をした人は何かが欲しいから供給をしたという理解が基礎となっている。生産がなされればそれと同額だけの所得が生まれているはずだとすれば、供給があればそれと同額の需要があるはずだという考え方である。

 もし貯蓄がなければそれは正しいが、現実には貯蓄がある。しかし、その代わりに投資というものもある。貯蓄されたために消費されなかった分だけ需要が少ないが、その分だけ投資需要があれば作った分だけ売れることになる。セイはそこまで議論している。

 古典派は供給だけの需要が生まれると主張したが、その根拠は利子率による貯蓄と投資の一致である。縦に利子率、横に貯蓄と投資をとって図を描いてみよう。古典派は利子率が上がると貯蓄が増えると考える。将来多く消費できるのなら現在の消費をがまんするだろうという考え方である。また古典派は投資は利子が下がれば増加すると考える。返す金利分が少なくなれば、採算に合う投資が増えて来るという考え方に基づく。その貯蓄と投資が等しくなるようなところで利子率が決定されると主張するのである。

 その結果、作ったものは必ず売れるということになる。需要不足による不景気は起こりえない。では古典派の経済学では生産量を決めるのは、いったい何か。古典派は、労働市場において労働の需給が一致するところで生産がなされると考えるのである。常に完全雇用が成立し、失業は自発的失業と摩擦的失業のみ存在することになる。

 労働市場で、雇用量と実質所得が決まるこのような経済では、貨幣は経済の実体面に影響を持たない。貨幣と実物経済とは別に考えることが可能である。これを貨幣と実物の2分法という。古典派は、貨幣を経済の実物面をわかりにくくするベールであると考えた。これを古典派の貨幣ベール観という。古典派の経済学では、貨幣は物価を決める働きしかしていない。

 古典派の物価理論を貨幣数量説という。貨幣量が2倍になれば、物価が2倍になるという考え方であるが、これにはフィッシャー型とケンブリッジ型の2つのタイプがある。
 まずフィッシャー型から説明する。貨幣数量説的な考え方は非常に古くからある。フィッシャーの議論は、その歴史の最初ではなく、むしろ最後の方に現れたいわば集大成である。フィッシャーは取引の二面性に目を向ける。

 すべての取引には片一方には財・サービスが、もう一方には貨幣がある。取り引きされた財・サービスの総額=手渡された貨幣の総額という式が成立する。取り引きされた財・サービスの総額は取引量×物価水準である。貨幣の流通速度を貨幣が一年間に平均して人手をわたる回数と定義すれば、取引に使われた貨幣総額は貨幣量×貨幣の流通速度となる。
 古典派の考えでは、取引量は経済の実体面から決まってくる。貨幣の流通速度は取引慣行が変わらなければ一定と考える。そうすれば、結論として、貨幣量が2倍になれば物価は2倍になると考えられる。

 ケンブリッジ型では、そのような取引慣行ではなく、貨幣需要を考える。人々が所得に応じて、その一定割合の貨幣を保有すると考える。その割合を示す記号kを、ケンブリッジの教授の名を冠して、マーシャルのkと呼ぶ。kは一定で、生産量は経済の実物面から決まってくる。ここでも貨幣が2倍になれば物価が2倍になると結論できる。
 取引慣行が一定なら、取引量と生産量とは比例関係にあるだろう。フィッシャー型で取引量の変わりに生産量を使う型もある。そのとき貨幣の流通速度を所得流通速度という(取引量を使った場合、その流通速度を取引流通速度という)。マーシャルのkは、所得流通速度の逆数となる。

 この2つの型の貨幣数量説は、式の上ではあまり違わないように見える。しかし、ケンブリッジ型では、需要という個人の意志が表面に出ている。その点がフィッシャー型の単にそのような傾向があるという主張と違っていることに注意が必要である。

「新古典派経済学」

現在米英で主流派といわれる考え方。この学派はその根源をアダムスミスにまでさかのぼることができる。競争によるパレート最適、およびそれに付随するウェルフェアマキシマムを強調する。市場原理に基づいた競争が、諸要素の適正配分を促し、かつ技術の発展をもたらすというもの。現在の世界銀行及びIMFもおおよそこの考え方に乗っている。イギリスではこの考え方が、サッチャリズム=新保守主義のもとでの規制撤廃・民営化をバックアップした。
開発経済にあてはめた場合、途上国の政府はその介入範囲の狭小化を迫られることになる。つまり、国家的支援や国営企業、地場産業育成のための各種補助金などを切り捨て、自由競争・自由市場をモットーとする「小さな政府」となることが要請されるのである。もちろん国際経済の中にあっては、輸出・輸入ともに開かれたものとなる。経済的側面において政府に与えられた役割は、Market Failure、いわゆる「市場機能の欠落」部分に関しての修正のみである。市場機能が欠落する分野というのは、教育・福祉などの公共財や、市場原理を取りこめない自然独占状態についてである。(独占という状態は基本的に許されないが。)また、市場原理が望ましくない結果をもたらす場合(下記郵政行為を参照)や市場原理とは関係のない外部要因(環境汚染など)について管理・規制することが認められるのみである。
ここで想定される開発経路は、外資企業による直接海外投資によってである。安い労働力はそのまま比較優位となって、外資企業を誘致する。直接海外投資は資金のみならず、技術やR&D施設、ノウハウなども包括するので、これにしたがって開発がすすむ。ただし、これは企業行為の現地化が必要事項となる。現地経済と切り離された外資企業の経済活動は、ローカル企業に技術の移転を及ぼさず、現地経済を刺激することもないからである。
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マクロ経済学の登場 ( No.4 )
日時: 2013/12/02(Mon) 03:35
名前: マクロ経済学の登場

さて、前回の続きですが「るいネット」のサイトに、下記の文章が書かれています。

スミスの批判する重商主義とは、つまり富とは貨幣であるという考え方です。そして、当時、外貨(金銀)をいかに獲得するかが重要な国家のテーマであったわけです。スミスは、国富の基盤をこうした貨幣という不確かなものに据えることを批判したかったわけです。そして、確かな富とは、土地に根ざした労働生産物であるべきだと考えたのでした。土地を所有するということは、その土地に責任を持つことを意味します。そして、そこから貴族に特有の徳、すなわち、勇気、知恵、深慮、寛容が成立していたのでした。つまり、スミスが求めたものは、市場経済の確かな基礎であったのです。

 さらに、スミスは、人はもっとも確実で安全なところにまず投資し、その順序は、農業、製造業、そして最後に外国貿易の順序になると述べています。つまり、これが自由な経済活動の帰結であり、要は、スミスは、国内経済を重視するがゆえに重商主義を批判したわけです。ここで、「神の見えざる手」のくだりについて考えてみると、つまり、スミスは、自由にすれば当然国内に投資をするだろうということを述べたかったのではないかという帰結に至るわけです。スミスにとって、貿易とは、余剰生産物の交換にすぎなかったのです。

 アダムスミスの述べた「神の見えざる手」が、当時の時代背景や思想的背景を無視して、現代において一人歩きをしているという点です。当時スミスがもっとも言いたかったのは、地に足のついた経済基盤によるべきだという点です。しかし、現代の市場は、株式市場を始めとして、ますます投機的な要素が増大し、人々の感情によって大きく変動するものとなっており、正にスミスがもっとも批判したかったものそのものとなっているわけです。現代においてスミスがいたら、まさかこんな市場に経済をゆだねるべきだとは絶対に言わないでしょう。
 近年のアメリカの好景気は、金融業やIT産業に対する過剰な期待によって支えられています。いずれの産業も不確実な要素の大きい産業です。また、経済活動においては、市場のおける自由競争の原理が強調されており、そのとき引き合いに出されるのがアダムスミスの「神の見えざる手」です。実は、不確実なものを経済の基盤に置くことを批判していたアダムスミスのの言葉が、彼の批判した経済活動のありかたを助長するための引き合いに出されているということになります。
 
 日本ではアメリカの成功(?)にならい、アメリカの後を追う形で、IT産業に活路を見出そうとしています。その期待は過剰ともいえます。また、日本では90年代に起きたバブル経済の崩壊の教訓を生かせと言われています。しかし、IT産業によせる人々の過剰な期待は、まさにあれだけ痛い目を見たバブルの再来を期待しているようにみえます。

 このような状況をみれば、アダムスミスは、おそらく「もっと地に足をつけた経済活動をしなさい。」と批判するに違いありません。

(引用終わり)

これは先に紹介した、佐伯啓思 「アダムスミスの誤算−幻想のグローバル資本主義(上)」 に関連する記事である。
言われているように、スミスが考えた重商主義批判というのは、当時の経済活動が帰結として国家の富の増加に重きが置かれているのに対して、万民による万民のための経済活動の開放を目指したものである。
それも確かな「富」とは土地に根ざした労働生産物であるべきだと言ったように、経済活動を人間社会がそれまでやってきたように始原的な「需要」と「供給」を想定していた。
勿論、それは科学技術の進歩による生産性、運搬手段の発達により、想定外の現象が生まれることは予想できなかったことは認めなければならない。
その矛盾を突いてと言うか、補って展開したのが「新古典派経済学」ぼ流れである。
しかしながら、もともと曖昧な認識である「見えざる神の手」の部分については何の検証もしてないところに「新古典派経済学」の末裔の身勝手さがある。
結果、アダムスミスが目指した経済活動の主役を国家(少数の支配者)から一般の民衆に移そうとした本来の意義をないがしろにして、経済の主役を巨大資本にすり替えたのである。
アダムスミスの頃は、自由と思われる国民の経済活動の成果が行き着くところ国家(支配者)へ集まっていた。
現在は同じように一般民衆は、それ(資本主義)を信じて経済活動に勤しんでいるが、その富の多くは、結局一部の資本家へ集まっている。
これは社会科学としての近代経済学の大きな瑕疵である。

ところで、先に紹介した広島大学助教授は下記のようにも言われている。

「マクロ経済学の発生」

 国民所得決定の理論はマクロ経済学の中心問題である。1930年代には大不況の時代があった。映画「モダンタイムズ」などでその頃のムードを知ることができる。マクロ経済学はそのような状況を背景に生まれてきた。

 1936年に出版されたケインズの『一般理論』がその契機となった。第2次世界大戦後、ケインズ経済学が学界で一般に広く普及した。1950年代、60年代は、ケインズ経済学の時代であった。

 その後、1970年代に新古典派経済学が支配的になって、状況は変化した。この2つの学派で失業問題に関する意見の相違がある。

 失業を3種類に分業しよう。自発的失業、摩擦的失業、非自発的失業の3つである。自発的失業とは賃金が低いから、それで働かないという失業である。そのような失業は別に問題ではない。摩擦的失業とはリクルートのための失業である。これは転職する先が十分にあるのなら問題にする必要がない。政治的に問題になるのは非自発的失業である、すなわち現行の賃金で働きたいと思っているのに職が無くて失業している状態をさす。

 非自発的失業が存在するのならば、政治的に対応が必要である。新古典派経済学は非自発的失業の存在を認めない。現在は、1990年代の不況で、ケインズ経済学が少し見直されつつある。マクロ経済学の教科書では、短期にはケインズ経済学、長期では新古典派があてはまると整理しているものが多い。この講義では、この2つの立場の両方を説明する。
 景気の変動はかなり古くから知られていた。そのような景気変動の説明として、貨幣の不足説がある。つまり、貨幣が少ないから不景気で、貨幣を増やせば景気が良くなるとい
う説である。経済学はそのような説を否定するところから始まった。

 ケインズ経済学が批判の対象とした理論を古典派の経済学という(経済学史の用語法から言えば、これも新古典派経済学である。マクロ経済学では、新古典派という場合、ケインズ以後の精緻化されたものだけを指すことが多い)。
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ハイエクの登場<新自由主義経済 ( No.5 )
日時: 2013/12/02(Mon) 04:14
名前: ハイエクの登場<新自由主義経済

フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクは、オーストリア・ウィーン生まれの経済学者、哲学者。オーストリア学派の代表的学者の一人であり、経済学、政治哲学、法哲学、さらに心理学にまで渡る多岐な業績を残した。20世紀を代表するリバタリアニズム思想家。
ハイエクは経済学者である前に、哲学者であった。

ハイエクは,国家の役割を増やすこと自体を自由への脅威であり,社会主義的だというようなことを主張している。こうした考えは,徴税や軍隊をも自由への侵害だとする極端なリバタリアンにも通ずるが,しかしハイエク自身は国家の役割を否定しているわけではないし,自らの自由主義は自由放任主義ではないことを強調している。また,かれは,国際関係においては,カント主義的な超国家的な国際機関の役割を認めている。
 かれの思想の源流は,オーストリー学派的な個人主義,自由主義,功利主義,主観主義,主観的心理的価値論や論理実証主義にある。そこから,社会主義・共産主義を個人主義・自由主義と相容れない集産主義・全体主義として批判するのである。

 かれは,個人は絶対であり,個人の自由は不可侵であり,競争は個人の主観的で心理的な努力を最大限に引き出すのが競争であり,その結果については,各個人が背負う偶然であり,それを運命として享受するという心理的な態度が必要だと主張する。かれの競争や市場の概念はまったく具体性がない抽象的な一般論であり,価格機構の役割についての論も同様の一般論である。かれによれば,競争は,「個人の努力を統合する手段」である。しかし,商品価格をめぐる資本主義的競争は,「各部面における生産価格が,これらの中位組成の部面における生産価格,すなわちk+kp'(費用価格プラス平均利潤率と費用価格との積)にならって形成されるように,社会資本を,相異なる諸生産部門のあいだに分配する」(『資本論』岩波文庫(6) 270頁)のである。

ハイエクは,経済諸関係や生産諸関係を,市場一般や競争一般から説いて,主観的自由主義・個人主義という心理的立場からする社会主義批判を,より正確には,集産主義・全体主義批判を展開するのである。かれは,カント主義者らしく折衷主義的に,社会主義の終局目的を完全否定しないし,国家の役割をも否定しないし,消極的には政府の介入行動の必要性をも主張している。かれにとっては自由ですら積極的なものではなく,何かからの自由というふうに消極的に定義されるものでしかない。だが同時にかれは,自由それ自体が目的であるとも言う。

「ヨーロッパ近代史を通じて,社会発展の一般的方向は,慣習または法規によって日常の行動を拘束されていた個人を解放することにあった」(22頁)。かれは,「法の支配は自由主義時代に初めて意識的に発展したものであり,単に安全保障としてのみでなく,また自由の法的表現として,最大の成果の一つである」(105頁)として,カントの言葉を引いている。すなわち,「人間に服従するのではなくて,ただ法に服従することを要するときに,人々は自由である」(105頁)。しかし法の支配についてのハイエクのご都合主義は,「度量衡制度を取り締まる国家(または他の仕方での詐欺や欺瞞を防止する国家)は,たしかに行動的であるが,たとえば,ピケによる暴力行使を許す国家は行動的ではない。国家は第一の場合においては自由主義原則を遵守しているが,第二の場合においては遵守していないからである」(104頁)と述べているところなどに現れている。

ちょうど,10月8日,9月27日夜に始まったアメリカ西海岸での港湾封鎖にいたった使用者側が仕掛けたロックアウトとそれに抗議する港湾労働者の対立に対して,ブッシュ大統領は,タフトーハートレー法に基づく指揮権を発動し,港湾封鎖解除を命令した。これは80日間の業務期間内に労使の合意による解決を目指すことを国家が強制するものである。もちろんその期間内に解決するとは限らない。10日間の封鎖期間中の損失は,194億ドル(約2兆4000億円)にのぼるとみられている。この場合について,ハイエクの考えでは,労働者諸個人が生活のために行うピケなどの闘いを鎮圧する国家行動は,自由主義原則に適っていることになる。しかしこの場合,使用者側の一方的な合理化による失業の危機に対して港湾封鎖に立ち上がった諸個人は生活を他の個人(資本家)から妨害されているのだ!

 さらにかれは,「法の支配は,立法を形式化された法として知られている一般規則の種類のものに限定し,直接に個々の人々をめざす立法,またはかかる差別のために,だれかに国家の強制権を行使させることを目指す立法を排除する。法の支配は,すべてのことが法律によって規制されるということを意味しているのではなくて,法律によって前もって決められた場合にのみ,国家の強制権が行使されうること,したがって国家の強制権がどのようにして行使されるかが予見されうるということを意味している」(107〜8頁)と言う。

このような法の支配の立派な理想が,実際の階級独裁を覆い隠すベールにすぎないことは言うまでもない。国家が余計な干渉をしない限り,ブルジョアジーは自由に搾取する。あらかじめ国家の強制権の発動が予見されるので,ブルジョアジーの中には,それをあらかじめ計算に入れ,法の網をかいくぐって企業不正や脱税や不法行為を自由に行なうものもでる。支配階級は,法の支配を社会に押しつけながら,自らはその制約をできるだけ免れようとする。特定の個人を対象にしない形式的な法の支配は,どの階級が本当に支配しているのかをできるだけ見えないようにする幻想形態なのである。経済諸関係が法律諸関係を生み出すのだ。

 また,ハイエクは,価格機構による限られた情報によって生産活動が調整されることが望ましいとして,それ以上の情報は不可知でよいとしている。かれは企業秘密を,個人のプライバシーと同じようなものとして扱っているのである。それがかれの個人主義・主観主義から来ていることは明白である。企業の主体は,個人であり,一人格(法人)であり,個人に擬せられた主体として扱われているのである。これは,かれの思想が,カント同様の独立生産者としての思想的特徴をもっていることを物語るものである。かれにとって独占は悪であるが,資本主義的独占はたいした悪ではなく,競争の確保によって抑制できる程度の小悪であるにすぎない。ところが,国家社会主義や共産主義的な独占は,それ自体目的とされる自由とは両立できない。それらは,集産主義・全体主義の一種であるからというのである。かれは,資本主義的独占が歴史的必然であることを認めないし,それが,競争を排除せず,国際独占体となって激しく競争していることを見ない。というよりもそういう現実は望ましいとして肯定しているのである。かれはこうした競争から戦争が発生することを認めない。かれの思想からは,戦争は,集産主義・全体主義が自由主義に対して起こすものだという結論が導き出される。

結果、生まれた新自由主義経済は下記の様なものです。

新自由主義(ネオリベラリズム)とは、市場原理主義の経済思想に基づく、均衡財政・福祉および公共サービスの縮小・公営企業民営化・経済の対外開放・規制緩和による競争促進・情報公開・労働者保護廃止などをパッケージとした経済政策の体系、競争志向の合理的経済人の人間像、これらを正統化するための市場原理主義からなる、資本主義経済のレジームをいう。
フォーディズムに続く資本主義経済のレジームであり、フォーディズムを支えた、国家による富の再分配を主張する社会民主主義、国家が資本主義経済を直接に管理する開発主義国家の経済政策などと対立する。計画経済で企業と個人の全てが国家の管理下である共産主義とは極対軸の経済思想である。
資金・財・労働力・技術など移動を自由化を前提するグローバル資本主義は、新自由主義を一国をこえて世界まで広げようとするものといってよい。

「評価」

「社会といったものはない There is no such thing as society」と説き、また「市場にオルタナティブはない There is no alternative to market」として市場を絶対視したサッチャーの下、自助の精神が取り戻されたという評価や、以下の各国に共通した双子の赤字の課題を残しつつも、英国が英国病を克服したこと、米国が石油危機に端を発するスタグフレーションを脱し、1990年代にはビル・クリントン政権下でインターネットなどの新産業が勃興して産業競争力を回復したこと、南米ではブラジルが1990年代までの深刻なインフレの制圧に成功しブラジル通貨危機までの安定成長を遂げていることなどは、グローバル資本主義、新自由主義の功績であると評価されている。 また、日本におけるバブル後不況の克服も新自由主義的改革の成果と評価されることもある。

「批判」

冷戦に勝利をもたらした思想として世界中に広まり、1992年頃に思想的に全盛期を迎えたが、ドイツ再統一後の経済的混乱、ロシア及びCIS諸国と東欧諸国の経済・政治的混乱、またソ連及び東欧諸国における共産主義は本来の思想精神とはかけ離れていた為に行き詰まった事が明らかとなり、また1997年のアジア通貨危機から発した世界金融危機における2001年のアルゼンチン経済危機や、新自由主義者の巻き返しとも言えるイラク戦争におけるイラク及び中東諸国の政治的混乱を契機に世界的に批判が高まっていく。

(引用終わり)

ともあれ、経済における新自由主義の考え方は、ここ30〜40年の間、生産手段の飛躍的な発達と共に、経済のグローバル化を推し進めて着ました。
その間に、確かに世界中の人々は、物質的には豊かになり、繁栄に浴する事が出来たと言えます。
その意味では、ハイエクは正しく、新自由主義も有益なシステムであたっと言えましょう。
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現状分析 ( No.6 )
日時: 2013/12/02(Mon) 06:58
名前: 現状分析  天橋立の愚痴人間

ここで、少し視点を変えて、そもそも経済とは何であるかについて見てみましょう。

日本語の“経済”の語源は、中国の東晋時代の古典『抱朴子』(著者:葛洪)にある“経世済民(けいせいさいみん)”の記述にあると言われます。経世済民とは、『世を治め(経め)、民を救う(済う)』という国家統治の枢要を説いた慣用句ですが、群雄割拠の乱世が繰り返された古代中国では『理想的な政治』を意味するものとして使われた言葉です。

しかし、現代でいう“経済(economy)”は、政治と同一のものではありませんし、『理想的な経済・道徳的な経済・正義実現の経済』といった経世済民から導かれる道徳性(倫理性)を通常含みません。

“経済(economy)”とは、“お金・モノ(財)・サービスを交換するシステム”のことで、法律や商慣習といった一定のルールに従って行われるお金とモノ、サービスのやり取りのことです。私達は、働いて得た「所得」や今まで貯めてきた「貯蓄」、投資して得た「利益」、定期的な不動産所得や金融所得などから「お金」を手に入れて、様々な商品やサービスを買って消費します。

通常、資本主義社会では、お金を得る為に働かなければなりません。つまり、人々は家計を維持する為に「対価(報酬)を得られる財・サービス・システム」を「生産」しなければなりませんから、一人一人の国民の大半は、生産者であり消費者であるという事になります。直接的な生産者(労働者)でない人もいますが、その場合には、定期的な不労所得を産む資産(不動産・有価証券)か生活を維持するに足る財産を持っている人であったり、お金を増やす為に「所有している資本」を投資する人だったりします。労働者であっても、直接的に財やサービスを生産するのではなく、集めたお金を投資したり融資したりする銀行業や金融業に従事する人たちもいます。

個人(家計)と企業だけでなく、政府(公共機関)も国民から集めた税金や国債を使い、国家予算を立案して経済活動を行います。政府・地方自治体は、国家予算を公共機関に分配して、社会の利益・安全を増進する為の経済活動(公共事業・公共投資・社会保障)を行います。日本銀行は、金融政策によってインフレやデフレの過剰を防ぎ、円滑で健全な経済情勢を維持する為の金利調整を行います。

また、教育・医療・介護・福祉など公共性の高い分野で国民の負担を少なくする相互扶助や社会保障にも税金は使われます。その他、治安維持のための警察活動、国家安全保障のための国防活動、国益増進の為の外交など税金の用途にはさまざまなものがあります。公共の福利につながる行政の公的事業(教育・医療・福祉・雇用・事務処理・介護・都市計画など)に従事する公務員への給与・賞与も、国民の納付する税金によって賄われます。

経済活動は大きく分けると、「お金」と「商品やサービス」を等価交換する“実体経済(実物経済)”と「お金そのもの」を商品として金融取引(株・債券など有価証券の売買)や投資事業(将来の利益や成長を見込んだ金融市場・先物取引などへの投資)を行う“マネー経済”に分けることが出来ます。銀行や郵便局に預貯金する行為も、お金を銀行・郵便局に融資する形になりますので、株や債券の取引よりも安定度は高い(流動性が低い)ですがマネー経済に分類されます。

私達が、毎日の生活の中で行っている食料品や衣服など商品の売買は、典型的な実物経済であり、旅行やレジャー、娯楽などに伴う各種サービスや移動手段に支払う行為も実物経済です。実物経済では、お金と形のあるモノ、実感できるサービスが等価交換されますから、お金の価値の上下によって損益の出てくるマネー経済や資産経済とは異なります。

実物経済では、その場でお金を支払い、商品やサービスを受け取る事により(ローンなどを組まない限り)経済行為が完結します。それに対して、マネー経済では、持っているお金を一旦、有価証券や金融商品、外貨、預貯金といったものへと交換して、『将来の利殖(お金の価値の増加や分配)』を待ちますから経済行為はその場では完結しません。

日本の実物経済の指標であるGDPは、大体、500兆円あたりを推移していますが、マネー経済の指標の一つである日本国民の金融資産の総額は1,400兆円程度であろうと推算されています。全体的な傾向としては、株や債券といった有価証券の売買、不動産や先物への投資などを行うマネー経済は活発化する流れの中にあり、米国などでは特にマネー経済の規模が大きくなっています。

実物経済は、市場に個人・法人の需要を満たす商品やサービスを供給し、マネー経済は商品やサービスを生み出す株式会社に事業を展開する為の資金を提供するので、実物経済とマネー経済が相互に支えあうことで資本主義経済は成り立っています。

・・・

紹介しています、この文章は、もう少し続くのですが、私が言いたいことは、

「経済とは、社会生活を営むための財やサービスを交換するしくみのことです」

で始まったものでありますが、豊かになればなるほどに、経済活動における利潤の追求が目的となり、資本が自らの理念にそって独走を始めたという事でありますが、これは一概に巨大資本のことを指すのではなく、庶民一人一人の心の中も、同じ発想であり、人間の本能であり、これを非難する事はできません。

また、そういう心情が社会を発展させた原動力でもあります。
その結果が、生んだ格差社会の事を、それゆえに一概に否定することも出来ません。

それでも、現実に職がなくなり路頭に迷う多くの人たちの存在を前に、このまま看過できるものではありません。
このレスで書きましたように、単純な経済の概念も、随分と幅の広い領域の認識を必要としています。

実態経済と金融経済の乖離の問題も出てきました。
一気に複雑になった概念の中で、私は、ただ一点、生産手段の発達によるい雇用の喪失に最大の重点を置いています。

現状分析につきましては、とりあえず、この程度にしておき、後は、その対度対応する事にします。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.7 )
日時: 2013/12/02(Mon) 18:48
名前: 虐げられる民衆よ!  天橋立の愚痴人間

さて、現在、経済のことで何が問題となっているのでしょう。
表向きは、株価の乱高下、為替相場の不安定が世界の経済の大問題のようになっています。
それらの問題は、要するに金融システムの維持、存続の為に大騒ぎしているのです。
彼等(経済の専門家と言われる連中)に言わせると、金融不安は各地の金融機関を破綻させ、資金が滞る事によって経済が大停滞を起こし稀に見る恐慌が再来すると言います。

まず、そのことも検証しなくてはなりません。
確かに金融機関の多くは破綻するでしょう。
ですが、現在ある生産設備は、新たな投資などなくても数年は必要な商品を生産できるでしょう。
現在、出回っている商品も何十年前の恐慌時とちがい、有り余っています。

彼等が言う金融機関の破綻が起きても、どのみち底辺で蠢いている大衆には致命的な影響はない。
要するに破綻する部分は膨れ上がった仮想の経済のシステムであり、主に、其れによってあぶく銭を稼いでいる富裕層であるのだ。
現在の歪な経済の体質を繕い、繕い進んで見ても、すでにUEも破綻の様相があり、アメリカも表向きの失業率の7%が上下していると騒いでいるが、4700万人と言うフードスタンプ受給者から逆算した失業率は20%を超えている。
奴等が頼みの中国も、いよいよ格差社会の問題が頭をもたげてきて、先進諸国企業の生産工場と言う訳には行かなくなって来ている。
これからの頼みの綱はインドの13億の国民であろうが、そんなもののごまかしが何時まで続くやら。

我が国も、表向きの失業率は4%と言っていますが、年収100万円以下の人が、500万人を超えている。所謂、ワーキングプアといわれる200万円以下でみれば2000万人を超えている。
就労者の1/3以上である。
このような人たちは、実質、まともな職業に就く事が出来ない失業者に近いものである。
今後は、このような階層が益々増えて行き、弱者は益々困窮し、完全失業者が20%を超える日もそうは遠くはないであろう。

これでも、まだ、政治は経済専門家は従来の経済論を持って経済のコントロールが出きると誤魔化すつもりであるのか。
確か、安倍などは福島の放射能はコンとローる出来ていると世界中に嘘をついていた、これ位は訳もないのであろう。
もうすでに、破綻は、ほころびはアチコチに現れているのであるが。

まあ、権力とは、そういうものであるともいえる。
現実の利権を守るのが権力であり、権力自身が改革など出来はしないのである。

そういうものに、政治に何を期待しても無駄なのである。
今日は全体に憤怒の気持ちを露にさせていただきました。
次からは、もう少し落ち着いて現状を検証しましょう。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.8 )
日時: 2013/12/03(Tue) 05:23
名前: UP 天橋立の愚痴人間

UPします
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.9 )
日時: 2013/12/03(Tue) 09:15
名前:   天橋立の愚痴人間

復旧
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.10 )
日時: 2013/12/03(Tue) 17:23
名前: 誰もがしない経済分析  天橋立の愚痴人間 メールを送信する

ここで、少し角度を変えて現状を見て見ましょう。

日本企業の総売上高は、およそ10年前(2005年)に1500兆円を超えたと言います。内訳は金融・保険業以外の約272万の営利法人のから25000社あまりを抽出し推定で出したようです。

日本には個人企業を含めると300〜400の経営主体があると言います。
パートなど企業の売り上げに入らないものなどを含めると、2000〜2500兆円の金が動いていることになります。
普通、景気の指標はGDPなどを言い、それは500兆円くらいのものです。

この事について、一つ言えることはTPPなどで世界の貿易に遅れを取れば我が国の景気が悪くなり国民経済が困窮するように言っていますが。
輸出は、高々60兆円です。
2500兆円の金の流れの中の60兆円(2.4%)なのです。
国民経済を支えているのは、何かと言いますと、明らかに大半の内需であるのです。

もう一つの見方を言いましょう。
同じように、30年前の日本の総売上高は、1000兆円と言われていました。30年後の2/3です。
何が言いたいかと言えば、当時はバブルに突入する時期で好景気に支えられ雇用も十分に確保されていました。人口も1億人は超えており就労の必要な人間も、おそらく6000万人はいたでしょう。

それが、売り上げが30%以上増えても、雇用は逆に減ってきているのではないでしょうか。
現在の就労する事が必要な人間、6400万人の中にはワーキングプアと呼ばれている年収以下の人々が1000万人はいるのです。

まず、生産量の増加が、必ずしも雇用を生み出す事になっていないと言うことをはっきりと認識すべきであります。
それなのに、まだ、このような数値を使い経済を分析しようとするものはいません。

少なくともTPP参加によって国民が救済されることはなく、一部の企業のみが利益を得るだけであります。
政治と言うものが国民を忘れ、使命を忘れ、ひたすら企業の代弁者となっていることを認識しなくてはいけません。

TPPによって利益を得る一部の企業の従業員であるならともかく、圧倒的な国民の支持によって安倍政権を誕生させた愚かさを十分に反省すべきであるのです。

自民党を支持したひと、貴方はTPPの御利益に預かれると思っていたのでしょうか。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.11 )
日時: 2013/12/04(Wed) 07:04
名前: 雇用の喪失  天橋立の愚痴人間

さて、ここのところ数ページに渡り、生産手段の発達により雇用が喪失していることを書いてきました。
その様子を列記して見ましょう。

農業の分野では、耕運機、田植機などが普及し、特に稲作においては驚くほどの省力化が進んでいます。
昔は田植と言えば、家族総出、親戚までも借り出し、場合によっては近所の人の手も借りなければ出来ませんでした。
それが現在は田植機を使って一人で短時間にやってのけます。
稲刈り、脱穀もしかりで、農機具の発達なしに農業は続けていられなかったでしょう。

漁業については近海の定置網こそ、未だに人力に頼る事がありますが、大型の漁船によりトロール漁法など、機械力による漁獲高は大変増えている一方で、人力に頼る近海漁業は衰退しています。

林業の分野の機械の発達は、それ程でもなく、道具類の能率向上くらいです。
元々、林業は成育に長期の年月を擁し機械化の恩恵を期待できない分野です。

各種の工場生産品における機械化は目を見張るものがあり、人力に頼っていた頃に比べると数倍、数十倍、数百倍の効率の出る生産設備が整ってきました。

代表的な自動車の生産ラインを見ますと、もはや殆んどはロボットが生産していて人影はまばらにより見かけません。
各種の金属加工品の製造においても、切断機、加工機などがずらりと並び、人間は、それらの工程を監視しているだけです。
木工製品においても、コンピューターに打ち込まれは情報のとおり、次々と商品が作られて行きます。
紙パルプの製造、ベニヤ板の製造も、殆んど人の手はいりません。
食品加工も同じであり、餃子の王将の生産ラインなどを見ていますと100万個と言われる餃子が1日で作られる事が納得できます。

当地の丹後チリメンの工場では、昔、女性の織子さんがずらりと並んで機織をしていたものですが、これもコンピューター内臓の機械にとって変わり、機械がトラブルを起こしたときのみ人間の手が必要な状況です。

こういう生産現場ばかりでなく、駅の改札の無人化、ガソリンスタンドの無人化など、人間が機械にとって変わられる状況が続いています。
また、管理、事務の分野でも、コンピューターの発達は一人の人間で出来る能力を格段に向上させています。
印刷、写真業界などは、業界そのものの存在すら脅かしています。

このように、生産技術の発達は、驚くほどの容量で人の手を不要としているのです。

これは言い替えれば生産拠点がドンドン減っていることにもつながります。
先の東日本大震災のおり、一時、システムキッチン、エアコンの流通が縮小しました。
これは、それらを生産する工場が被害を受けたからです。
システムキッチン、エアコンなどの商品の生産は、全国で数十ヶ所の工場で全て作られているのです。

このような状況を示す統計に、第一次、二次、三次産業別の就労者の統計があります。

          第一次産業     第二次産業   第三次産業  
1955(昭和30年) 1600万人     950万人    1400万人
           40.0%       24.0%    36.0%
 
1980(昭和55年) 500万人      2000万人   3200万人
           9.0%      34.0%     56.0%

2010(平成22年) 250万人     1550万人    4400万人
          4.0%       25.0%     71.0%
 
これで見ますと、50年前、まだ戦後の復興の途中であった時代は、第一次産業の頼らねばならない時代でした。
それが30〜35年前、奇跡の復興を成し遂げ、右肩上がりの成長を続けていた時代の就労者の比率ですが、当然、製造業に34%の人が就いています。
それが現在では25%で、第一次産業と合わせて700万人の人が職場をなくしています。
その間に工業生産品の総量は30%以上増えているのです。

その分の多くは、第三次産業へ吸収されていますが、この分野は、雇用形態としては不安定なものも多く、ワーキングプアーを多く生み出す元ともなっています。
そして、この傾向は先進国に共通しているようです。

昔から働くと言うことは、衣食住に関するものが多くを占め、それは比較的誰もが容易に従事する事が出来る職業でした。
そういう分野の職業が減ってきている事は、生産技術の発達と言う面で止むを得ない事ではありますが、そうかと言って、言われるように新規産業をつくると言う事は、誰でも容易に就ける職業と言う訳には行きません。

また、雇用の喪失の原因のもう一つについて言おうと思います。
それはグローバル化の影響で、企業は生産コストの低減の為に生産拠点を世界中に求めます。
要するに、資本主義経済のシステムの一方の特徴である、分業が、ある一定の地域を対象とするのではなく、世界中の地域を相手に進んでいるのです。
そういう面からも雇用の喪失が起きています。

今回は、雇用の喪失、所謂、失業者の増加について言いましたが、次には、それが経済にどのような影響を及ぼしているかについて述べましょう。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.12 )
日時: 2013/12/04(Wed) 09:48
名前: 既成の経済論の検証  天橋立の愚痴人間

古典派の主張の中心点は、貨幣が経済の実体面に影響を持たないということである。古典派の経済学は、貨幣の不足による需要の不足を否定した。それをもっとも簡潔に示したのが「セイの法則」である。すなわち、「供給はそれ自らの需要を生み出す」という命題である。セイは需要を経済循環の視点から見た。供給をした人は何かが欲しいから供給をしたという理解が基礎となっている。生産がなされればそれと同額だけの所得が生まれているはずだとすれば、供給があればそれと同額の需要があるはずだという考え方である。

もし貯蓄がなければそれは正しいが、現実には貯蓄がある。しかし、その代わりに投資というものもある。貯蓄されたために消費されなかった分だけ需要が少ないが、その分だけ投資需要があれば作った分だけ売れることになる。セイはそこまで議論している。

古典派は供給だけの需要が生まれると主張したが、その根拠は利子率による貯蓄と投資の一致である。縦に利子率、横に貯蓄と投資をとって図を描いてみよう。古典派は利子率が上がると貯蓄が増えると考える。将来多く消費できるのなら現在の消費をがまんするだろうという考え方である。また古典派は投資は利子が下がれば増加すると考える。返す金利分が少なくなれば、採算に合う投資が増えて来るという考え方に基づく。その貯蓄と投資が等しくなるようなところで利子率が決定されると主張するのである。

しかしながら、当時は重商主義が盛りの時期でもあり、王族など有力者に冨が集中している様相が強かった。
スミスは従来の経済活動が帰結として国家の富の増加に重きが置かれているのに対して、万民による万民のための経済活動の開放を目指した。市場経済において、各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において価格のメカニズムが働く事により、適切な資源配分が達成される、つまり需要と供給が自然に調節されると考えた(神の見えざる手と言う発想である)。

古典派経済学は、イギリスの産業革命の勃興期を前提として成立したが、その後問題となった10年周期の恐慌やフランスの大規模な失業労働者に対する有効な処方箋を作成することができなかった。

これに代って台等して来たのが新古典主義経済論である。

重商主義が国家の富の増加に重きが置かれているのに対して、スミスなどは、万民による万民のための経済活動の開放を目指したものであるが、確かな「富」とは土地に根ざした労働生産物であるべきだと言ったように、経済活動を人間社会がそれまでやってきたように始原的な「需要」と「供給」を想定していた。
だが、それは科学技術の進歩による生産性、運搬手段の発達により、想定外の現象が生まれることは予想できていなかった事を認めなければならない。

その矛盾を突いてと言うか、補って展開したのが「新古典派経済学」の流れである。
その新古典派経済学においては、もともと曖昧な認識である「見えざる神の手」の部分については何の検証もしてないところに「新古典派経済学」の末裔の身勝手さがある。

要するに

新古典派経済学は古典派経済学に基づく実体経済の中での問題意識に対していろいろと言われてきた諸説に対して、経済は自由放任とし、生のままの競争原理に従うことこそが経済を発展させると言うものであり、経済に対する国家の関与、規制を撤廃することを進めている。
その結果、発展した経済は、多くの人を救う事(雇用を増進する)が出来るという様に結論つけています。

現在は、その新古典派経済学の流れを受けた、新自由主義経済学の全盛期を言う事が出来る。



(新古典主義経済学を平易な言葉で現している文章があります。)

失業者がいるということは、
その失業者が現在の市場で与えられている賃金では
働く意欲を持っていない、ということであり、
政策的に介入するにはあたらない、と考える。
これは、「自発的失業」(および「摩擦的失業」)
しか認めていない、ということであり、

「非自発的失業」の存在を認め、
これを解決するために政府が介入するべきという
ケインズ派から区別される。

また、新古典派は、マーケットが完全であれば、
企業の利潤最大化行動の結果、
費用が低下し、最大多数の最大幸福が
実現されると考える。
また、新古典派の特徴として、貨幣ヴェール観というのも、
しばしば挙げられる。これは
貨幣は取引の仲立ちをする単なる道具に過ぎないので、
貨幣供給量を恣意的に増減することによって、
国民所得(雇用量)に影響を与えることは
できない、とするもので、
貨幣政策により利子率を操作し
投資を増減させようとするケインズ派と
区別される。

(引用終わり)


いずれにしても、この文章の中にも出てきた、下記の内容についての検証は、何処にも出てこない。

経済学で「需要」と「供給」と言う場合、経済活動を人間社会がそれまでやってきたように始原的な意味での富の受け渡しを想定していた。
だが、それは科学技術の進歩による生産性、運搬手段の発達により、想定外の現象が生まれることは予想できていなかった事を認めなければならない。

この事は、ずっと以前から認識されていたはずであるが、現代経済学に至るまで、これを咀嚼する試みはなされてこなかった。
この事は、これから新しい経済論を始めるのに重要な根拠となります。
メンテ

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