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[2172] 高橋是清と井上準之助<金融政策研究
日時: 2015/01/09 13:02
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:iJ6biGkc

と、言いましても、私は経済には素人。
しかしながら現代の経済専門家は信頼できない。
素人ながら、その問題を見てみたく、斯くなるスレッドを立ち上げました。
最初に、高橋是清の政策を検証するために、資料を添付します。


高橋是清と井上準之助 インフレか、デフレか 
http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/takahasikorekiyo.htm

第一次大戦中、日本は世界中に市場を獲得した。 第一次大戦後もこれを確保し続けたい。 そのためには輸出品のコストを安く、賃金や物価を低く抑えなくてはならない。指導者たちが、国民を導くスローガンは、なによりも、国民生活は節約を、財界は整理を、財政は縮小しようということだった。大正、昭和の国論、浜口雄幸(おさち)、井上準之助の節約論の基である。

 井上準之助は「財政、金融の引き締めを続け、金利や円を高く維持して、金本位制を守る必要がある」と主張している。 つまりは、現在必要なのはデフレ政策だといっている。 これに対し、高橋是清は「財政を拡張し、金利を下げ、財政金融を緩やかに運営して、円を安くすることこそ大切で、金本位制は二の次だ」と、インフレ政策を主張している。

 昭和四年(1929)七月二日に民政党の浜口雄幸内閣が誕生した。 井上準之助は大蔵大臣に就任する。 最初に日本が金本位制を取り入れたのは、松方正義内閣で明治三十年(1897)である。 大正三年(1914)、第一次世界大戦が始まったとき、ヨーロッパ諸国は金の輸出を禁止して、金本位制から脱落した。 日本も大正六年(1917)、金の輸出を禁止し、金本位制から脱落した。 昭和四年(1929)七月九日、浜口内閣は施政方針の声明書を発表し公式に金解禁の断行を宣言した。 実行の障害になるのは、金の流出の恐れである。 金解禁、金の輸出入は自由にするが、金は流出させない。 貿易黒字を確保し、為替レート、金利を高い水準に維持する。 そのためには、財政の緊縮が必須、非募債主義をとり、公債の発行はせず、減税をする。 公債も出さずに、税金も減らすことは、国の財政を縮めるしかない。

 昭和四年(1929)のニューヨーク株の暴落は金融恐慌となり、銀行を次々潰し、会社を倒産させた。 その結果、世界の生産は恐慌前の六割以下の水準に落ち込み、失業者は世界で三千五百万人から、五千万人に達した。 しかし、井上は、金解禁のことしか考えていない。 金解禁したら、金の流出が心配だと四六時中考えている。 アメリカの株価が暴落すれば、アメリカ当局は、株価の下げを止めるために、金利を下げるだろう。 アメリカの金利が日本の金利より低くなれば、アメリカの金は日本に流れてくる。 アメリカ株が暴落すれば、金解禁しても、日本から金が流れる心配をしなくても済むと考えた。

 昭和五年(1930)一月十一日から金解禁された。 金がなくては成り立たない金本位制の国になった。 手持ちの金は少しでも増やしたい。 ところが予想外に国内の金は海外に送金され、海外に保管してあった金も売らなくてはならなかった。 わが国の金貨は昭和四年末には13億4300万円あった。 それが昭和五年末には9億5900万円に減り、さらに減少する勢いだった。 昭和四年(1929)十月二十四日の「暗黒の木曜日」以来、二十世紀最大の大恐慌が、世界を席捲していた。 日本の引き締めで、日本の輸出価格を下げても、全世界の物価はさらに下がっていた。 苦しい思いをして引き締めても、何の足しにもならなかった。 もう一つ、明治三十年から大正六年の金の輸出禁止までの値段(百円が約五十ドル)の旧平価で解禁したことであった。 昭和の初めには、日本の国力は関東大震災の打撃、大量生産体制への立ち遅れなどで弱り、百円は四十ドル近くまで下がっていた。 実力より円高の金解禁に踏み切り、貿易は厳しくなった。

 昭和六年(1931)十二月十二日に政友会の犬養毅は大命(天皇の命令)を拝し、総理を受ける。 高橋是清は犬養の懇請で大蔵大臣就任を引き受けた。 十二月十三日夜、直ちに大蔵省令を発し、金の輸出禁止を宣言した。 昭和七年度予算は何度も組み替えられた。 若槻内閣の井上準之助大蔵大臣の編成予算は緊縮時代のもので、削りに削って、一般会計予算が14億7000万円余り。 高橋是清は緊縮がよいことだとは考えていない。 犬養内閣では18億円近く、斉藤実内閣では20億円を超えた。 予算はなぜ膨らんだか。 一に軍事費、満州の荒野で戦いが起こっている。 二に農村に注ぎ込んだ時局匡救費(じきょくきょうきゅうひ)。 その内訳は道路費、農業土木費、河川費など今日でいう公共事業費である。 歳入不足を穴埋めする国債(歳入補填国債)をわが国初め発行した。 

高橋の考え方は、国の財政も日銀の経営も年度ごとに均衡を図る必要はなく、一定の年度内に均衡すればよい。国債は年度内の不均衡を調整するために使う。 赤字の年には国債を発行し、経済を元気づけ、歳入を増やす。 それで翌年には歳入が増え、歳出を上回り、国債を返すことができる。 昭和十年ごろになれば満州事変も解決し、軍事費は大幅に減る。景気も良くなって時局匡救費(じきょくきょうきゅうひ)は必要なくなり、歳出は縮小する。 数年間の合計では、財政は均衡する。 それまでは赤字国債で繋ぐのだ。 高橋是清の考えでは井上準之助の緊縮政策で、日本国中、乾ききり、縮み上がっている。 この国に大量なカネを注ぎ込み、地を潤し、産業を生き返らせなくてはいけない。 日銀に札を刷らせて日本中に撒こう。 乾いた土地から、新しい芽が出るまでに時間はかからない。 カネはドンドン使って、新しい技術を導入したり、楽しく遊んだりした方がよい。 この乗数効果の理論で世界恐慌から、日本を真っ先に脱出させた。 高橋是清の新発行国債の日本銀行引き受けが功を奏した。 しかし、日銀の新発行国債のアイディアを軍に横取りされ、後世に大きな負担と大インフレーションを残してしまった。


(引用終わり)

当然のことですが、経済のグローバル化が進んだ現代と是清の時代とは環境が違います。
しかしながら、言われている経済の手法は、未だに同じようなものです。
それを検証しなければならないのではないかと思います。
メンテ

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高橋是清財政とアベノミクスの違いを徹底比較 ( No.1 )
日時: 2015/01/09 13:18
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:iJ6biGkc

高橋是清財政とアベノミクスの違いを徹底比較

アベノミクスに暗雲が立ちこめている。株価も下降気味、成長率に陰りが見え始めたのに、消費増税まで1ヶ月を切った。ここで景気が腰折れしたら、次の手は考えられているのだろうか。今こそ、高橋是清財政を学び、しっかりと経済立て直しの戦略を考えて頂きたい。

http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-1b66.html

昭和恐慌で強烈なデフレとなったが、日銀の国債引き受けで資金を得て、大規模な景気対策を行い、世界最速で世界大恐慌から立ち直ったことは世界的にも高く評価されている。安倍首相が決断をし、同様な大規模な財政出動を行えば、瞬く間に経済は息を吹き返し安倍首相は歴史に残る英雄になれることは間違いない。このグラフのように高橋是清が積極財政を行っている期間は見事にデフレから脱却し、ゆるやかなインフレに移行している。彼が大蔵大臣を続けていたらゆるやかなインフレはその後も続いていたことは間違いない。しかし不幸にも高橋是清は2・26事件で暗殺された。後任の馬場^一蔵相は軍部の要求通り、国債乱発を行いインフレ率が高まっていく。財政規模の推移を次に示す。

2・26以降は無謀な財政規模の拡大が行われている。一度国債の日銀引き受けを行うと、それが止められなくなりハイパーインフレになると言われることが多い。しかし、ここで起こったことは全く違う事情であり、現在の日本にはあてはまらない。当時は日清・日露・第一次世界大戦と3回連続で戦争に勝利しており、占領地を広げつつあった。欧米諸国(特に大英帝国・アメリカ合衆国)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、東アジア・東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようという大東亜共栄圏構想があった。1937年に日中戦争、1939年からは第二次世界大戦が始まり「欲しがりません勝つまでは」というスローガンの下で、国民合意の上で国民生活を一次的に犠牲にしても軍事中心の財政政策を行うことになったのであり財政拡大に国民の支持があった。

現在の日本はこれとは正反対だ。平和憲法を持ち、戦争を強く拒否する人ばかりである。高橋是清財政とアベノミクスを比較するには、この環境の大きな変化を無視すべきでない。日銀に国債を購入させ政府が財政規模を拡大してしまうと、高橋是清の2・26事件のように財務大臣が暗殺され、その後は自衛隊が暴走し戦争に突入すると考える人はどこにもいないだろう。
当時の景気回復を示すために株価指数を示す。昭和恐慌で株価は3分の1にまで下落していたが、高橋財政のお陰でその下落を挽回することができた。

アベノミクスでは、まず企業の利益が拡大し、賃金が上がって景気が回復するというシナリオを描いている。このグラフで分かるように昭和恐慌の後、高橋蔵相の大規模な景気対策で一気にデフレ脱却が可能になり景気は回復したが、賃金の伸びは鈍い。定額賃金は時給と思えば良いのだが、物価が上がる中で逆に下がり続けている。定収賃金とは、受け取った賃金であり、こちらは景気回復で労働時間が増えたようで、若干上昇しているが、インフレ率ほどは上がっていないから、実質賃金は下落している。これから分かるように、もし高橋蔵相がアベノミクス流に賃金上昇が景気回復の原動力を思っていたらいつまでもデフレ脱却は無かったかもしれない。
円安が景気回復に貢献したのは高橋財政もアベノミクスも共通だ。高橋財政の前の井上準之介による旧平価による金本位制への復帰で円高・緊縮財政で昭和恐慌に突入したが、高橋是清による金本位制離脱と円安誘導で強烈な金融緩和政策を行った。インパクトはずっと小さいがアベノミクスでも異次元の量的緩和により円安誘導を行った。高橋財政では円安による輸出の増加も景気回復に大きな役割を果たした。アベノミクスでは円安でも輸出はそれほど増加していない。

1932―36年の間、日銀が引き受けた国債のほぼ90%は、市中に売却された。これは金融引き締めだ。日銀が国債を売っておけば、市中銀行のから余裕資金を吸収でき、銀行貸出を抑えてインフレにブレーキをかけることができる。この政策は「公債たらい回し政策」と呼ばれた。日銀の国債引き受けにもかかわらず、ベースマネーの増加も抑制されている。ところが、1935年の下期以降、その市中消化に変調が生じるようになる。この事態に直面して高橋是清は「公債が一般金融機関等に消化されず日本銀行背負込みとなるようなことがあれば、明らかに公債政策の行き詰まりであって悪性インフレーションの弊害が現れ・・・」と懸念したと、『昭和財政史』は伝えている。

しかしながら黒田日銀が大量の国債を買い保有し続けている現在、悪性インフレどころかデフレ脱却さえもできていない。この理由は明かだ。デフレ脱却ができていない限り、ベースマネーの増加は大きな意味をなさない。不景気で投資しても利益が出ないことが分かっている限り、誰も銀行から融資を受けて投資をしようとはしない。しかし、一旦デフレから脱却すると、我先と融資を受け投資しようとする。それが止められなければ悪性インフレになる。これを止めるのが出口戦略だ。
アベノミクスでは国債を日銀が大量に買い、日銀当座預金を激増させているが、高橋財政では売りオペを行い、アベノミクスの真逆の政策を行った。どうして真逆になるかと言えば、アベノミクスはまだデフレ脱却のための入口戦略も終わっていないから出口戦略を語るには早すぎる。一方高橋財政では入口は財政政策であっという間に通過し、すぐに出口戦略に取りかかったと言うことができる。入り口ではインフレ率を上げる政策を行い、出口ではインフレ率を抑える政策を行うのだから真逆だ。アベノミクスでもっと大規模な財政拡大を行い、短時間でインフレ率2%を達成し、その後は出口戦略に専念するべきである。消費増税など全くの邪道というしかない。

アベノミクスは金融緩和で銀行貸出が増え、景気が回復するという構想だが、気の長い話だ。いつになったらデフレから脱却し景気が回復するのか全く不明であり、もちろん出口戦略どころの話ではない。ではどのようにして高橋財政では景気回復に至ったのかを鉱工業と農林業の生産指数の比較で見てみよう。
このグラフより、農林業の生産指数は1944年までほとんど変化は無い。例えば米価でみると昭和恐慌で価格は半分以下に下がり、その後の馬場蔵相によるインフレ政策でまた大きく値上がりしている。昭和恐慌で農家は大打撃を受けたのだが、農林業の生産指数はほとんど影響を受けなかったという事実があり、政治家による失政が無かったら何でもなかったのにと悔やまれる。

なお、世界大恐慌からの立ち直りは日本が最速であったということは鉱工業生産指数からも分かる。

高橋財政が産業構造を軽工業から重化学工業への移行を促進した。時局匡救事業として緊急の公共事業も行われた。
農林業の生産指数はほとんど影響を受けなかった反面、高橋財政が始まるや否や鉱工業生産指数は急上昇しており、これが景気の牽引役となっていたことが分かる。当時は満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと一気に準戦時体制へと移行していた時代であり、軍事産業の発展と関係があったことは明かである。
このグラフで明かであるように、歳出に占める軍事費の割合が高橋財政になってから大きく上昇している。現在の防衛費の割合は10%程度であることを考えれば、この割合は大きい。軍事費が拡大され景気が回復していくとき、国民生活がどのように変化していったかだが、例えば米と砂糖の消費量は昭和恐慌でも減っていない。高橋是清財政で徐々に増加、その後のインフレでも消費量は増加を続けた。第二次世界大戦が始まっても米の消費は変わらないが砂糖の消費は急激に減少している。つまり、米は主食であり生きていく上で欠くべからざる物であるが、砂糖は贅沢品で、我慢できる。だから「欲しがりません勝つまでは」と言ってじっと我慢したのだろう。

農林業はほとんど変化していないが、製造業の人口は大きく増加している。これは明らかに軍事産業に人が集まったことによる。1937年には製造業の就業者人口は100万人も増えている。
アベノミクスと高橋財政を比較し、次のことが結論される。
@デフレ脱却、景気回復は大規模な財政拡大によりすみやかに達成するべきである。
A高橋財政の後、財政拡大を止められなかったのは戦争が原因であり、今「大東亜共栄圏構想」が復活し日本が戦争を仕掛ける可能性はゼロであるのだから、財政拡大を止められなくなる可能性もゼロである。
B賃金上昇、銀行貸出の増加は非常に長い時間を要するのであり、それを景気の牽引役を期待するのはむしろ危険すぎる。

(引用終わり)

井上準之助は東大卒の日銀のエリート、
片や、高橋是清は、ヘボン塾に通い、アメリカへ渡航し苦労した人間。

二人の経済に関する理念の違いは明白である。
高橋是清は、おそらく直感的な判断を基礎に経済を見ていたものと思う。
もちろん、経済の専門家として井上と連携しているが、そこに彼と井上が結局は正反対の施策を取るに至った経緯を見る。

時代は違うので高橋のやり方が現代に、そのまま通用するとは思わないが、財務大臣を6度もやった高橋の直感力は、現代の行き詰まった経済施策に何かのヒントを与えるかも知れない。

メンテ
Re: 高橋是清と井上準之助<金融政策研究 ( No.2 )
日時: 2015/01/09 18:56
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:7ECCEykg

先に紹介した井上準之助の経済、金融政策は資本主義経済理論の伝統的なもので、教条敵ではあるが資本主義体制である以上、無視はできないものと思います。

しかしながら教条的な理論と言うものは非常時の対応まで応じることはできないのではないでしょうか。
その点で高橋の政策は、現場から汲み上げた要素を伴っていて臨機応変の処置ができたものと思います。


ここで当時の世界恐慌の様子を見てみましょう。

1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒として世界的な規模で各国の経済に波及した金融恐慌、および経済後退が起きた。1929年10月24日は「暗黒の木曜日」(Black Thursday)として知られ、南北戦争に次ぐアメリカの悲劇といわれた。

(背景)

第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。

1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他の生産も過剰になっていった。

また、農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていたにもかかわらず投機熱が煽られ、適切な抑制措置をとらなかった。アメリカの株式市場は1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。株式で儲けを得た話を聞いて好景気によってだぶついた資金が市場に流入、個人投資家も、信用取引により容易に借金が出来、さらに投機熱は高まり、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰。1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、のちにジョセフ・P・ケネディはウォール街の有名な靴磨きの少年が投資を薦めた事から不況に入る日は近いと予測し、暴落前に株式投資から手を引いたと[8]述べた。

(展開)

ダウ平均株価の指数を表すグラフ。1929年10月の「暗黒の木曜日」を境に株価は一気に下落している。
そのような状況の下1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出されてしまった。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。

シカゴとバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺した者はこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれるようになった。翌25日金曜の13時、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。

週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、更に10月29日、24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態にまでなってしまった。当日の出来高は1638万3700株に達し(これは5日前に続く記録更新であり、以後1969年まで破られなかった)、株価は平均43ポイント(ダウ平均で12%)下がり、9月の約半分ぐらいになってしまったのである。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になったが、これは当時の米国連邦年間予算の10倍に相当し、アメリカが第一次世界大戦に費やした総戦費をも遥かに上回った。

投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めていった。この日は火曜日だったため、後にこの日は「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と呼ばれるようになった。そしてアメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することになる。

過剰生産によるアメリカ工業セクターの設備投資縮小に始まった不況に金融恐慌が拍車をかけ、強烈な景気後退が引き起こされた。

産業革命以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。しかし1930年代における恐慌(世界恐慌)は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった。

(証券パニックから世界恐慌へ)

第一次世界大戦後の米国経済の圧倒的な存在感(当時世界の金の半分以上が米国に集まっていた)のため、一般的には米国の株価暴落がそのまま世界恐慌につながったとされているが、ベン・バーナンキをはじめとする経済学者は異なる見解を示している[9]。

1929年のウォール街の暴落は米国経済に大きな打撃を与えた。しかし当時は株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内にとどまっており、当時の米国経済は循環的不況に耐えてきた実績もあった。不況が世界恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったためであった。

暴落の後、米国には金が流入していたが、FRBはこれを不胎化させ、国内のマネーサプライの増大とは結び付けようとしなかった。これにより米国では金が流入しているにも関わらずマネーサプライが減少し続けた。その為金本位制をとる各国は金の流出に対し、金融政策を米国のそれと順応させるを得ず(各国は金の流出を抑えるために金利を引き上げざるを得なかった)、不況は国際的に伝播していった。

特に金本位制を取っていたドイツやオーストリアや東欧諸国は十分な金準備を持たず、また第一次世界大戦とその後のインフレにより金融システムが極めて脆弱な状態であった。その為、米国やフランスへの金流出により金準備が底をついてしまい、金融危機が発生した。

大不況が世界に広まるきっかけとなったのは1931年5月11日のオーストリアの大銀行クレジットアンシュタルト(Creditanstalt, 1855年にロスチャイルド男爵により設立。クレディ・アンシュタルトとも。)の破綻であったとされる。クレジットアンシュタルトは株価暴落に伴う信用収縮の中で突然閉鎖した。東欧諸国の輸出が激減し経常収支が赤字となり、旧オーストリア帝国領への融資が焦げ付いたこと、加えて政府による救済措置が適切に行われなかったことが破綻の原因となった。オーストリア向けの融資が焦げ付いた要因としては、3月の独墺関税同盟の暴露に対するフランスの経済制裁により、オーストリア経済が弱体化したことが致命的であった。

クレジットアンシュタルトの破綻を契機として、5月にドイツ第2位の大銀行・ダナート銀行(「ダルムシュテッター・ウント・ナティオナール」)が倒産し、7月13日にダナート銀行が閉鎖すると、大統領令でドイツの全銀行が8月5日まで閉鎖された。ドイツでは金融危機が起こり、結果多くの企業が倒産し、影響はドイツ国内にとどまらず東欧諸国、世界に及んだ。

当時の米国大統領、ハーバート・フーヴァーの「株価暴落は経済のしっぽであり、ファンダメンタルズが健全で生産活動がしっかり行われている(ので大丈夫)」という発言は末永く戒めとして記憶されることになった(当時の大経済学者アーヴィング・フィッシャーエール大学教授の所論でもあった)。

金本位制の元で、経済危機はそのまま経済の根幹を受け持つ正貨(金)の流出につながる。7月のドイツからの流出は10億マルク、イギリスからの流出は3000万ポンドだった。さらに数千万ポンドを失ったイングランド銀行は1931年9月11日金本位制を停止し、第一次世界大戦後の復興でやっと金本位制に復帰したばかりの各国に衝撃を与えた。イギリスは自国産業保護のため輸入関税を引き上げ、チープマネー政策を採用した。ポンド相場は$4.86から$3.49に引き下げられた。ブロック経済政策は世界中に波及し、第二次世界大戦の素地を作った。

特に1929年2月に金本位制に復帰したばかりの日本は色々な思惑から、世界経済混乱の中で正貨を流出させた(金解禁は1930年1月から1931年12月10日まで)。

(当時金価格は1トロイオンス$20.67、4.25スターリングポンドであった。戦後はニクソンショックまで1トロイオンスあたり$35の固定相場である。今1トロイオンスの地金は約8万円なので、$1億=現在金価値約4000億円相当と考えられる(2008年10月現在)。ただし、当時の経済規模を考えると10倍以上のインパクトがあったと思われる)

(日本の状況)

第一次世界大戦の戦勝国の1国となったものの、その後の恐慌、関東大震災、昭和金融恐慌(昭和恐慌)によって弱体化していた日本経済は、世界恐慌の発生とほぼ同時期に行った金解禁の影響に直撃され、それまで主にアメリカ向けに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、危機的状況に陥る。株の暴落により、都市部では多くの会社が倒産し就職できない者や失業者があふれた(『大学は出たけれど』)。恐慌発生の当初は金解禁の影響から深刻なデフレが発生し、農作物は売れ行きが落ち価格が低下、1935年まで続いた冷害・凶作、昭和三陸津波のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増して社会問題化。生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。(参照:金解禁)

高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大(一時的軍拡を含む)や1932年より始まる農山漁村経済更生運動(自力更生運動)、1931年12月17日の金兌換の停止による円相場の下落もあり、インドなどアジア地域を中心とした輸出により1932年には欧米諸国に先駆けて景気回復を遂げたが、欧米諸国との貿易摩擦が起こった。1932年8月にはイギリス連邦のブロック政策(イギリス連邦経済会議によるオタワ協定)による高関税政策が開始されインド・イギリスブロックから事実上締め出されたことから、日本の統治下となっていた台湾や、日本の支援を受け建国されたばかりの満州国などアジア(円ブロック)が貿易の対象となり、重工業化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出す。日中戦争がはじまった1937年には重工業の比率が軽工業を上回った。さらには1940年には鉱工業生産・国民所得が恐慌前の2倍以上となり、太平洋戦争におけるイギリスやアメリカ、オーストラリアなどに対する優勢が続いていた1942年夏まで景気拡大が続いた。ただし戦時下の統制経済下であり、生活物資不足となっていた。

1931年12月の高橋蔵相就任以来、積極的な財政支出政策(ケインズ政策)により日本の経済活動は順調に回復を見せたが1935年頃には赤字国債増発にともなうインフレ傾向が明確になりはじめ、昭和11年(1936年)年度予算編成は財政史上でも特筆される異様なものとなった。高橋(岡田内閣)は公債漸減政策を基本方針とした予算編成方針を1935年6月25日に閣議了解を取り付けたものの、軍部の熾烈な反発にあい、大蔵省の公債追加発行はしないとの方針は維持されたものの特別会計その他の組み換えで大幅な軍備増強予算となった。結局この予算は議会に提出されたものの、翌1936年1月21日に内閣不信任案が提出され議会が解散し不成立となった。実行予算準備中の2月26日に二・二六事件が発生し高橋の公債漸減主義は放棄されることになった[20]。

経済政策では1931年(昭和6年7月公布)の重要産業統制法による不況カルテルにより、中小産業による業界団体の設立を助成し、購買力を付与することで企業の存続や雇用の安定をはかった。また大企業を中心に合理化や統廃合が進んだ。重要産業統制法はドイツの「経済統制法」(1919年)をもとに包括的立法として制定され、同様の政策はイタリアの「強制カルテル設立法」(1932年)、ドイツの「カルテル法」(1933年)、米国の「全国産業復興法」(1933年)などがある。1930年代には数多くの大規模プロジェクトが実施された。

(ソ連の場合)

ソ連は共産主義国家だったため、主要国の中でただ一国、世界恐慌の影響を全く受けず非常に高い経済成長を続け、1930年にはGDP2523.3億ドルでイギリスを超えて世界第2の経済大国になった[42]。以後、スターリンの推進する五カ年計画で着々と工業化を進めていった。ソビエトのプロパガンダもあり、自由主義諸国の研究者の中には社会主義型の計画経済に希望を見出す者も多く出たが、実際にはホロドモールや食糧の徴発でポーランドに脱出するロシア人の漸次増加が起きていた。極東・シベリア開発には政権により意図的に作り上げられた「にわか囚人」が大量に動員された[43]。


(引用終わり)

これによりますと、第一次世界大戦のあと、各国は好景気に見舞われ各種商品の生産が増大していたおり、海外へ輸出して流通を確保していたものの、各国の疲弊のせいもあり余剰商品が出ている状況であった。
こうしたなかで、異常気象に見舞われた農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていたにもかかわらず投機熱が煽られ、適切な抑制措置をとらなかった。

結果、実体経済から遊離した金融市場に何かのきっかけで異変が起きると瞬く間にそれが世界に伝播し経済、そのものが停滞してしまった。

要するに現在のマネーゲームの初版が行われていたようです。
資本が商品のはけ口を求めて徘徊している様も同じようです。
ただし、金融面で言えば、当時は金本位制の真っ只中にあり、それは現代とは違うようです。

続く。
メンテ

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