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[2535] 認識論<歴史哲学
日時: 2016/08/10 14:30
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:q7VimIas

認識論と言えば、多方は宇宙の有り様、生命(人間)の有り様などを規定するものであり、遠くギリシャの時代から、哲学と言う形で言われてきた。

大きくはギリシャ時代の認識
キリスト教世界の認識
西欧、特にドイツの観念論
更には唯物論的認識論
その他、経験論とか色々と認識の仕方はあるが、最近は心理学的、生理学的な認識論が特徴である。

また、人間研究の認識論は、歴史に対する認識論に通じる。
このスレッドで言いたいことは、認識論自体を云々することではない。
そのために、とりあえず歴史認識についてさらに検証しよう。

(代表的な歴史観)
政体循環史観
古代ギリシャの歴史家・ポリュビオスが唱えたもので、共同体を統治する政治体制には『王政・貴族政・民主政』の3つがあると述べ、それぞれは長期に渡ると必ず堕落し、次の政体へ変化するという史観。王政は、王を僭称する“僭主政”へ、貴族政は少数の貴族が独裁する“寡頭政”へ、民主政は市民が詭弁家に扇動される“衆愚政”へと堕落して崩壊する。

キリスト教的歴史観
アウグスティヌスなどによってまとまられた歴史観であり、天地創造から神の国への到達によって終わる目的論的歴史観。失楽園から、キリストの再臨によって神との人間の関係が回復されるという進歩史観である。

ライプニッツ的歴史観
ライプニッツの主張した楽観主義であり、すべては神の予定調和であり、不幸や不合理なことがあっても、それには理由があり、最終的には最善となるように企画されているという歴史観。

ヘーゲル的歴史哲学
ドイツの哲学者ヘーゲルによって唱えられた歴史哲学。歴史とは弁証法的に発展する自己意識の発展の過程であり、自由を獲得する過程であるという観念論的歴史観。ヘーゲルは当時のプロイセン国家の成立を歴史の終わりと見た。

唯物史観
主にマルクスが唱えた、ヘーゲルの観念論歴史哲学に対して、生産構造や技術革新などの経済的・物質的要素を重視する唯物論的歴史観。歴史上のすべての闘争は階級闘争だと主張し、階級格差のない共産主義社会の実現を歴史の先史の終わりと見た。

永劫回帰
ドイツの哲学者ニーチェによって唱えられた歴史観。歴史に始まりも終わりもなくすべては繰り返すという歴史観。

シュペングラー的歴史観
ドイツの歴史学者シュペングラーは、文明論的な比較形態学を試み、文明が栄枯盛衰することを主張して、西洋の没落を説いた。

フランシス・フクヤマ的歴史観
アレクサンドル・コジェーヴの解釈によるヘーゲル的な歴史哲学を援用し、歴史とはリベラルな民主主義が自己の正当性を証明する過程であるという歴史観。ソビエト共産主義の崩壊による冷戦の終結を、リベラルな民主主義の最終的な勝利であり、歴史の終わりであると主張した。

(引用終わり)

この中で、ヘーゲルとマルクスだけが、唯物史観によっていると言える。
ヘーゲルのそれは論理的認識論ではあるが、結果として観念論に至っている。
問題は、この二人だけが、国家の経営にあたり、理論から国家の有り様を論じていることになり、ヘーゲルのそれは後日のナチスの台頭につながり、マルクスのそれは共産主義国家の実現をもたらす。
※ ナチスはユダヤ人を論理的な帰結として不要の民族とし抹殺を計ることになる。
何が問題かと言う事をヘーゲルをたとえに話してみよう。

ヘーゲルの歴史哲学は,「哲学が歴史に赴く際に携えてくる唯一の思想は,単純な理性の思想,つまり理性が世界を支配し,したがって世界の歴史も理性的に進行する,という思想である」という信念のもとに,現実の歴史を捉え直そうとする
ヘーゲルの国家論もかなり独特なものである.というのは,普通,国家というものは社会契約説が主張されるように「個人が同意に基づいて形成される」ものだからである.つまり,契約説によれば,国家の基盤は「個人」なのである.しかし,ヘーゲルの国家論では,基盤は個人ではなく国家に置かれる。

結果以下のような認識に至ることになる。
歴史哲学でヘーゲルが示したかったことは「歴史を貫く理性を現実の歴史に目を向け,その理性を見いだすこと」である.このときにヘーゲルが注目するのが,個々の人間なのではなく,「民族」や「国家」なのである.
この「民族」や「国家」の構成を述べたものが「法哲学」なのである.つまり,歴史哲学でヘーゲルが「民族」や「国家」の成立についてそれほど詳しく論じないのは,「法哲学」の課題であるからである.ヘーゲル自身も『歴史哲学講義』の序文において「国家論の詳しい展開は法哲学である」と主張しているように,「個人−国家」関係は歴史哲学においては前提として認められたものとされるのである。
※ せっかくのヘーゲルの論理学(哲学)も、これが帰結では話にならない。

(引用終わり)

要するに、ヘーゲルは純粋思考により達した結論から国家を見てとり、法哲学を完成し、それによって国家を統治することを考えた。
ヘーゲルの時代は、それは単なる論理であったが、この考え方は歴史において専制独裁国家が生まれる根拠となってきた。
例えば古い話になるが中国の秦は法律で民を統治した最初であったが、その厳しすぎる法規制が民のためとはならず、結局は国家を滅ぼす事になった。

観念論のような仮の設定で人間を見るのではなく論理的に追求する事の必要性は認めるが、しかしながら、それで得た結論が人間そのものを包括できているとするのは間違いである。
論理的な積み上げをいくらしても人間は測れないことは、現代のスーパーコンピューターでも、実際は人間に変わることができない事と同じである。

その不完全な論理で国家を統治できると思うことは間違っているのである。
だが、どのような論理も、それが法となって統治の一端を担えば、人々はそれに従わざるを得ないことになる。
統治する方も、される方も、法に振り回される事になる。

認識論で、これを持ち出したのは、認識の過程において論理を重んじることは必要ではあるが、その結果の認識を絶対視すること、固定化することは間違いであり、許されないことである。
偉大な哲学者、ヘーゲルもマルクスも、結果として、この誤りを冒しているのである。

認識とは、このようなものである。

同じ掲示板に「るいネット」がある。
そこでは熱心に論理的探求がなされていて賞賛に値する。
だが、それが決して結論を導かない事を願っている。

メンテ

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Re: 認識論<歴史哲学 ( No.1 )
日時: 2016/12/25 21:56
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:KNWgpDp2

UP
メンテ
Re: 認識論<歴史哲学 ( No.2 )
日時: 2017/10/22 19:48
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:njs7o6TM

>その不完全な論理で国家を統治できると思うことは間違っているのである。
>だが、どのような論理も、それが法となって統治の一端を担えば、人々はそれに従わざるを得ないことになる。
>統治する方も、される方も、法に振り回される事になる。

>認識論で、これを持ち出したのは、認識の過程において論理を重んじることは必要ではあるが、その結果の認識を絶対視すること、固定化す>ることは間違いであり、許されないことである。
>偉大な哲学者、ヘーゲルもマルクスも、結果として、この誤りを冒しているのである。


要するに、物事の認識とは常に二面性を考えて認識する必要があると言うこと。

しかしながら人間の日常生活に於いて、それに拘りすぎると身動きが出来ない。
よって、何らかの価値観を想定し言動する事が常である事は否めない。

そこへもってきて、本来の認識論、二面性の認識論に出あうと対応できないことが生じる。
私の意見を見る人は、私が自民党かリベラルかで、戸惑っているようだ。
自民党でもリべラルで何でもないのだが。

しかしながら、選挙の投票など実際の行動を起こさねばならない場合、どちらかに決めねばならない。
けれども私の認識では、自民党もリベラルも選択肢ではない。

それで棄権と言う選択をする。
まあ、民主主義を守ると言う意味では白紙投票をするのが筋であろうが、そこは私の横着。

棄権は許されないが、認識とは、このようなものと思っている。

メンテ
自分勝手な認識論 ( No.3 )
日時: 2018/01/17 11:18
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YHXDDygA

認識とは、辞書を引くと次の様に説明されている。

知ること,あるいは知られた事柄。後者の意味では knowledgeの語も多く用いられる。概念,推理,判断を主要3契機として遂行され,推理と判断において認識全体が積極的に関与する。

推理の過程のない認識を直観的認識という。

さらに判断の契機が消えるか極小になると知覚になり,認識と区別される。

しかし知覚により近い自然科学的認識の場合,判断は客観的であり,その認識は一般性をもっている。そこでの認識の働きは本質的に重要でなく,結果のみが価値をもっている。このような認識内容は知識と呼ばれることが多い。

一方形而上学的,宗教的認識などでは認識主体の役割が大きく,この場合認識の働きそのものが認識内容と等しい重要性をもっている。

(引用終わり)

平たく説明しましょう。

1 まず、痛い、痒いなど知覚による直接的な認識(知覚)があります。

2 次には与えられた言葉、文章などで、ある事柄を概念的、推理的及び判断を伴って記憶することも認識です。

3 次には、既成の概念、論理から外れて、あるものを頭に描くこと、これも認識で直感的認識と言います。

2番によって得られた認識のうち、客観性が強いものを「知識」と読んでいます。

同じ2番によって得られる認識でも、主体的判断の結果が強い認識を「意思」という形の認識とします。

3番の認識は、与えられた情報を上回る個人の意志(自覚)に基づく概念としての「認識(哲学、思想)」としてみます。

これとは別に我々の脳の働きを見てみます。

勿論、脳は、人間の身体の全てを統率している組織であり、運動神経、身体の代謝機能、神経系すべての機能を司っています。
そのうちに、人間が知覚すること、記憶すること、考える事などが入っています。

脳医学的に言えば

大脳の前頭葉は、思考、理性と関係しているようです。
また側頭葉と言われている部分は、記憶に関係しているようです。
その他に、大脳辺縁系と言われている部分は本能と関係していると言われています。

これとは関係ない分類ですが、人間が考える、行動すると言う過程で人間の脳の動きには3つの要素に分けることが出来ると思います。

知識
判断力
知恵

これが伴って一つの意志が出来、行動に移ります。

知識とは、上に書いた、2番目の認識
2番目の認識の内、客観的な認識だけでは人間は行動(意志)を起こしません。
知恵とは、人間が行動を起こす場合、必ずしも知識だけに捉われてはいません。自分で考えた、又は直感的に感じた何かも取り入れて判断を下し行動に移ると言う事です。

ここで取り上げたい「認識」とは3番目の認識です。
2番目の認識の内、客観的な認識とは、情報を正確に記憶する事にあります。

>同じ2番によって得られる認識でも、主体的判断の結果が強い認識を「意思」という形の認識とします。
このように言いましたが、主体的判断を伴って記憶に残すと言う事について、何故、ここで主観が入るかと言う事になります。
その主観の出所は、

>3番の認識は、与えられた情報を上回る個人の意志(自覚)に基づく概念としての「認識(哲学、思想)」としてみます。

3番目の機能にあるのでしょう。
これに基づいて2番目の情報を整理し、記憶にとどめていると言う事です。
でうから、これは正確な情報の記憶ともいえないでしょう。
先入観えお伴った知識と言えるでしょう。

コンピューターが撃ち込まれた情報を知識として記憶するだけなら良いでしょうが、人間には本来、完全に客観的に情報を処理することが出来ません。

ですが人間が知識として記憶(認識)しているものに対して、その様な疑惑はもたず、唯一の認識と勘違いすることが多いのです。
と言いますのは、2番目で認識するときに作用する3番目の認識は、ひとそれぞれの経験に基づく要素が強く、人によって均一ではないのです。

客観的な情報(知識)は常にあふれるほど、平等に見聞きします。
それを、どのように咀嚼し、知識(記憶)として認識するかは、さまざまなのです。

3番目の脳の作用として、どの程度の機能を宿しているかですが、
経験的に体験的に学習し得られるものと思います。

ある人は書物で、多様な判断の仕方を学び、ある人は体験を通して自ら身につけ、ある人は先人の意見を取り入れることで学びます。
直感的に何かを察知することもあるでしょう。
哲学、思想などと言う堅苦しい言葉で無くて、処世術と言っても良いでしょう。

この領域において豊富な情報がある人は、2番目で入ってくる客観的な情報処理において、いろいろな角度からの分析をします。
そうして結論としては、必ずしも一つとすることはなく、むしろ常に複数の認識として記憶します。

認識とは、このようなものであって欲しい。
否、人々は無意識に、このような事を繰り返している。
ただし、有り余る情報の為に、第3の認識機能がついて行っていない状態であると思います。

書物など読まなくても、経験則を見直すだけでバランスの取れた認識が出来るはずです。
出来るだけ正しいと思われる認識を知識として、次の段階の意志表示をしてみたいものです。

知識
判断力
知恵

また、ここでは、どのような認識も、たんに1/3の領分を満たしているだけです。
メンテ

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