Re: 当代世間裏算用 ( No.56 ) |
- 日時: 2009/11/12 18:36
- 名前: 満天下有人
「スラム化の理論を排除せよ」A
・・・彼らの理屈はおおまかに言って三つの柱で成り立っている・・・
生産(供給)も需要(消費)も、そして交換の過程で形成される価格も全て、自由な個人の主観的価値判断によって形成される・・・GDPに現れる国家による財政出動を除く部分も全て、個人の合理的主観的価値基準の表れである・・・合理的価値基準の選択は、「限界効用」によって行なわれ、そこで合理的な均衡が成立すると言うのが、彼らのマクロ理論である・・・
ざっくり概観すると、以上のような理屈が柱となっており、その消費者行動の限界効用と限界代替によって、市場が成立し価格も決定されるというものだ・・・三本柱とはどういうものなのか・・・
@個人の主観的価値判断の重視 経済の根底を形作るものは、自由をベースにした個々人の主観的価値判断である、経済の絶対的本質はそこにある・・・(これがハイエク一派の基本思想である、要するに人間には、そもそも理性などというものを期待できない、本能に従ってしか行動できない生きものだから、好きに自由に行動させれば良い、その個々人の主観的価値基準で社会を成立させれば良い、経済面でも市場を通じての主観的価値基準のシャッフルで以って、均衡点は成立するものだ・・・)
・・・貨幣からも人間は自由であるべきである・・・よって規制的な金融政策を行なう中央銀行は不要である・・・
ここで大きく欠落している論理は、“諸個人の”自由な主観的価値基準という箇所にある・・・私的資本も法人格を持った個人であるという所を見落としている・・・ それが一般個人の価値基準をゆがめてしまっていることを見過ごしている・・・いや多数の者は彼らが持つ主観的価値なるものから疎外されてしまっているという現実を、である・・・
貨幣に関する中央銀行不要説も、個人的価値基準論に立脚したものである・・・ もう消えてしまった別スレッドでも書いたが、そもそもFRBは客観的基準に基づいて運営されるべき中央銀行ではない、ユダ金融資本の「価値観」によって、擬人格を与えられた私的資本の一つの個人格としての主観的価値観が認められたものとしての存在である・・・事実、米政府は1株も所有していない・・・
このことはハイエク一派の、政府などによって規制されることを最も嫌う理論と、正に合致する存在なのである・・・だが同時に、新古典派理論の随所に見られる矛盾というか形而上的な仮定がFRBにも象徴されている・・・大多数の主観的価値基準を持つ個々人は、別の少数の主観的価値観を持つ存在に翻弄されて来たのである・・・その現実のどこにまっとうな均衡が成立するというのであろうか・・・
これは形而上的な一種のまやかしではないのか・・・私はその意味でも新自由主義あるいは、基底にその思想を置く新古典派などという存在は、現代における形而上学に過ぎないと言いたいのだ・・・
このことは以下の二つの柱にも通じるものである、それは彼らが言うところの限界理論と均衡論にも見られる・・・形而上的御伽噺の実践は、ユメもあって楽しいかも知れないが、子供相手のヒョッコリヒョウタン島とは訳が違うのである、現実は・・・
竹中平蔵なども、個人の主観的価値観に社会を任せるべきである、そのためには真なる完全競争実現のために規制を撤廃すべしという論者であった、それが構造改革であると・・・彼もまた、ハイエク一派と同じまやかし論者であった・・・
構造改革論者たちは、この国に根付いてしまった構造を変えるというより,実は、新古典派が言うところの理屈を導入し,正にハイエク一派が矛盾したように、擬人化された個人格をもった主観的価値観を導入し、彼らだけの間で成立する均衡を導入したかっただけのことである・・・そこのどこに理想とする「完全競争」があるのだ・・・
・・・大多数の個々人の主観的価値観を疎外するような理屈・・・いわば社会をスラム化させるような論は、排除せねばならない・・・いや、くたばってしまへだ・・・。
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Re: 当代世間裏算用 ( No.57 ) |
- 日時: 2009/11/12 22:47
- 名前: 満天下有人
「スラム化の理論を排除せよ」B
・・・彼らの論理の次ぎの柱は・・・A限界効用理論 というものである・・・
・・・個々人の主観的価値観は、ある時点で合理的な結果をもたらすという仮定論理である・・・どういうことかと言うと、経済行為、それも個々人の行動に主体を置いているから、個々人の消費生活から合理的な結論が得られ、それが市場全体を合理的な動きにするというものである・・・個人の主観的価値観とて際限が無いものではなく、自ずと限界がある・・・それが彼らが言うところの限界理論である・・・
よく引き合いに出されるのが、家計におけるコメとパンの消費関係である、コメとパンの消費選択をする場合、合理的家計人はコメとパンの価格差を見て、限りなくどちらかの選択を多くして行く・・・選択の限界は、パンをコメに、あるいはコメをパンに代えようとするとき、値段が関係して代替する限界が生じるというものである(=限界代替率)・・・
しかしそんな個人の嗜好に近い個別分析をした所で、総社会での価値形成とは何の関係もない・・・彼らが主張する価値観は、あくまで主観的個人的価値観であって、その集大成が必ずしも社会全体の価値形成に関連するとは断定できるものではない・・・正に合成の誤謬というものもあろう・・・
・・・そして大きく欠落している論理は、個人的価値観も長い歴史に培われてきた伝統、文化、あるいは宗教観も入るであろうが、それぞれの地域によって社会的欲望あるいは趣向も異なる、そこを取り入れずに全てを一つの価値観で括ってしまうところに大きな欠落がある・・・自由な主観的価値観を唱えながら、一つの価値観で括ってしまうようなことは、大いなる矛盾ではないのか・・・その矛盾はどこから生じるのか、多様な形而上的嗜好を一つの仮説に、しかも科学的分野に押し込めようとするからであろう・・・
ハイエク一派が別にWTOなどに仕掛けて規制撤廃、関税廃止を唱えたわけでもないであろう・・・だが擬人化された個人・私的資本に、オレたちも一つの個人体であるから、オレたちの主観的価値観遂行もOKだという口実を与えてしまった・・・
・・・この擬人化された個人に新自由主義者たちは、規制撤廃の論理を与えて、法人税の引き下げ、労働の自由化=派遣労働の推進を行なはせ、底辺層を広げ社会をスラム化する因子を与えた・・・しかも一国内のことに留まらず世界規模で・・・
彼らのような離散民族でない民族は、そう簡単に別の価値を求めてたやすく移動できるものではないのである・・・。
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Re: 当代世間裏算用 ( No.58 ) |
- 日時: 2009/11/13 18:27
- 名前: 満天下有人
「スラム化の理論を排除せよ」C
・・・彼らの論理の三番目の柱は、所謂B均衡論である・・・
先に、個々人の主観的価値観が消費行動を規定し、それは限界効用によって消費の選択がある時点で合理的な水準に落ち着いて行くという論を紹介した・・・商品価格もこの消費側の需要度によって決まる、供給側もそれに応じ、供給量及び価格も決定され(供給側の限界理論)、均衡が生まれるというものである・・・
・・・パンとコメの選択関係におけるように、消費者行動が決定されると言う論の裏づけ・補強としてよく持ち出されるのが「パレート最適」なる理屈である・・・いや新古典派にとっての理想とする「完全競争」状態における需要と供給論の支柱ともなっている・・・(そもそも完全競争状態なるものからして、非現実的な絵空事であり、形而上的なものであるのだが)・・・
イタリア経済学者パレートというおっさんが考え出した理屈で、その名前が付けられたもので、どういう理屈かというと、前回のコメ・パン選択の理屈もこの範疇に入る・・・
パレート最適論とは、ある集団のうち誰かの効用・満足度を犠牲にしなければ他の誰かの効用は高められないという理屈なのである・・・一見、政府による再分配社会保障政策論のようにも聞こえるが中身はそうではない・・・
ある者Aがケーキを100個所有し、ある者Bが饅頭6個持っていたとする・・・どちらもケーキだけ饅頭だけでは満足度が得られない、そこでAがケーキ3個、Bが饅頭3個をそれぞれが交換したとすると、双方3個づつの満足度が得られる・・・つまり効用の均衡が促進されるという理屈である・・・
だが消費者効用の観点から見ると、確かにケーキ三個と饅頭三個は,交換によって満足度効用の役目は果たしている・・・しかしだ、Aはまだ97個も持っている・・・ この97個をどうにかしないと、「総」社会的な効用が得られないことになる・・・
一つはAが所有していた最初のケーキを変更するしかない・・・第二は、残りを他の牛乳であれオハギであれ、限りなく交換して行くしか方法がない話になる・・・ これが彼らが言うところの「交換過程を通じて、合理的に」効用が分配され、しかしその効用は限りなく分配されるのではなく、個人的嗜好によって必ず限界が生じる、所謂限界効用説なる論理を導き出す・・・そしてそこに媒介するのが貨幣であり、それによって価格が合理的に決まって来て、そこに均衡が成立するという理屈である・・・
・・・しかしこの論理、どこかおかしくないだろうか?・・・。
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Re: 当代世間裏算用 ( No.59 ) |
- 日時: 2009/11/13 20:35
- 名前: 天橋立の愚痴人間
- 満天下有人 さん、貧困の問題に関する経済の論理からのアプローチを興味深く拝見しています。
限界効用理論にしても、均衡論にしても、経済の分野だけの理論であり、それだけで社会の問題を充足できると思い込んでいることが、そもそも間違っていると思います。
その根拠となるハイエクの哲学(と言うよりも、己の経済理論を裏付けるために仕組んだ、小泉と同じ誤魔化しの屁理屈)について下記の文章でよく解ります。
>経済の根底を形作るものは、自由をベースにした個々人の主観的価値判断である、経済の絶対的本質はそこにある・・・(これがハイエク一派の基本思想である、要するに人間には、そもそも理性などというものを期待できない、本能に従ってしか行動できない生きものだから、好きに自由に行動させれば良い、その個々人の主観的価値基準で社会を成立させれば良い、経済面でも市場を通じての主観的価値基準のシャッフルで以って、均衡点は成立するものだ・・・)
哲学をこんなものに摩り替えるとは言語道断でしょう。
彼らを新古典主義の流れと形容しますように、まさしく、それらは資本主義の当初、誰もが経済の枠組みで活動できていた、よき時代の残照を再び実在させようと企んだことになます。
すでに世界は発達した資本主義のシステムの矛盾に対応すべきときであり、ケインズなどがその修正を必要だと考えたその折に、丁度小泉のクソ馬鹿が、自分の功利の為にピント外れの議論を持ち出し社会を惑わかしたのと同じケースだと思います。
ともあれ、これにアメリカの巨大資本が飛びつくのは目に見えていたのでしょう。 この時点で、資本主義の経済システムは国家、国民から離れて行ったのでしょう。
ですから、その後の経済の理論は、すでに経済活動から疎外されてしまっている人たちのことは目に入らず、第一線で活動できる人たちの経済のみを取り上げてきて、それに何の瑕疵も認識してこなかったことになります。
職を失った人たちについて、最初の限界効用理論にしても、均衡論にしても何の意味も持たないのです。
彼ら自身、需要と供給と言う古典的な範疇ばかりを問題にし、生産力の発達と雇用の問題、流通の過程における地域格差の問題などを無視してきました。
結果は、アメリカの貧困状態が
>・・日本での生活保護に該当するフードスタンプ(食料配給券)の受給者は4千万人に近づいているようだ・・・
と紹介されているように、一番資本主義経済が発達しているアメリカでトンでもない格差社会が出来上がり、今後拡大することはあっても、解消することなど考えられない状況になっています。
その上、フードスタンプの受給対象の貧困とは、日本で言うワーキングプアーの比ではない極貧を想像します。
先の貧困率の発表も、信じる訳には行きません。 アメリカの貧困率こそ、ダントツの世界一でしょう。 アメリカの統計の誤魔化し我が国以上に徹底しているのでしょう。
裏社会が平気で大統領の暗殺をする国なので、当然のことと思います。 1日も早く、現代資本主義の間違いを糾さねばならないと思います。
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Re: 当代世間裏算用 ( No.60 ) |
- 日時: 2009/11/13 21:36
- 名前: 満天下有人
・・・天の橋さん今晩は・・・
雑用の合間を縫って書いているものですから、流れが悪くかつ、言葉足らずの箇所が多々ありますが、これを纏めても一度書いてみようという気になったのは、例の貧困率問題と、目下進行中の仕分作業のメンバーに、小泉竹中をよいしょしていた者が数人入っていることを知ったからです・・・
も一つは、新自由主義とか新古典派とかいう、非常に錯綜した論を、整理してみようという気持ちも動機の一つにありました・・・聞く者にとっては実に耳障り良く合理的な思想だとすぐに思い込ませてしまうまやかしを、順を追って剥いでみようと(笑)・・・さすがにあなたは理解が早いです、私の結論も同じ所に至るはずです・・・
耳障り良いものを剥いでやらないと、一人儲けはけしからんなどという批判は多々あるにも関わらず、何故かその批判者たちは資本主義のおかしな所そのものには、批判の目を向けないのですね、分かっていない・・・
・・・<彼ら自身、需要と供給と言う古典的な範疇ばかりを問題にし、生産力の発達と雇用の問題、流通の過程における地域格差の問題などを無視してきました。>・・・
正にそのことです・・・需要供給のことにしても、時代は生産力が発達しているのに、新古典派学者どもは、例えば価格形成の過程を論じていても、生産側の変化さへも見落としたまま価値と価格の関係を論じているのですね・・・昔、ロボットが全部生産を担ったらどういう価値分配論が出てくるかということも対論したことがありました・・・そこまでをも見据えて考えるのに、何だか考えるべき筋が何も考えていないのですね・・・
・・・よく「総」社会的という言葉を使わせてもらっておりますが、個々人の勝手な主観的価値観だけでは世の中、滅びてしまうという意味を込めているのですが、具体論は続きで愚論を展開させて頂きます・・・。
・・・
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Re: 当代世間裏算用 ( No.62 ) |
- 日時: 2009/11/14 11:53
- 名前: 満天下有人
「スラム化の理論を排除せよ」D
雑用の合間を縫って書いているものだから、あっちへ飛び、こっちへと些か流れが悪くなって(笑)、
・・・新自由主義、新古典派、彼らの論理、どこかおかしくないだろうか?、というより何かが大きく欠落しているのではなかろうか・・・
でも彼らにとっては何もおかしくないのである、それは彼ら新古典派の論理の出発点が、自由な個人の主観的価値基準を中心に始まっているからである・・・しかしながら「総」社会的価値形成なるものは、個々人の主観的価値基準だけで形成されるものではないであろう、特に経済関係においては・・・確かに個々人の価値基準が集合して客観的な価値が決まる、そのことは別に全面否定するつもりはないのだが、事実はそもそもの個人的価値基準さへも満足されない結果が世界を覆っているということである・・・
・・・そこを無視して供給・需要の均衡及び商品価格の決定論を、膨大な方程式まで使って効用・満足度の計算をして一体何になるのだろう・・・誰だったか名前は忘れたけど、経済学は所詮観賞用飾りものであると言はれていたが、再度申すならそれはそれで構わない、だが鑑賞から飛び出して現実の人間生活を困らせるから、困ってしまうのだ・・・
・・・彼らの論理で言うところの均衡理論、そこで価値や価格が形成されるという理屈は、個々人の効用、満足度が総社会を規定しているということである、供給、需要の均衡もそれに規定される理屈になってしまうのだが、現実は果たしてそうなのか・・・
個々人の限界効用を基礎に均衡論を打ち立てた大御所はレオン・ワルラスである・・・19世紀末の学者だから、新古典というより古典派であるという印象を受けてしまうが、アメリカ学者の誰だったかが、時代の新旧は別にして諸派の理論を区分けして再分類した所からネオクラシカルという括りが出来た・・・共通点は束縛されない自由な個々人の主観的効用・満足度=限界理論がベースになっているものである・・・
前回ケーキ百個と饅頭6個の交換による効用均衡の話をパレート最適論を引用して、ごく入り口のことを紹介した・・・実はこのパレートさん、元々は数学者、物理学者、建築工学者なのだが、ある自由主義者の紹介でワルラスと知り合いになり、一転して経済学者になった人である・・・ 彼のケーキ、饅頭交換による効用の話も、ただそれだけのことであると批判したが、実はパレート氏も同じことを感じ始め、富裕層Aの満足度は貧困層Bの満足度を低下させ、貧困層の満足度の上昇は、富裕層が満足度をどこまで低下させることができるか、その接点だけを見つければ良いというだけの話になる・・・(所謂パレート最適における無差別曲線上で、接点がどこにあるか、その接点も座標軸上では限りなく移動する)・・・
その接点とて、そこにおけるAとBの効用を表しているだけで価値観の違いを経済学は問うていない、つまり満足度を求める利害だけを得、数学的に計算すればそれで終りとしているだけである・・・
・・・もし新古典派と言われる学者たちが思想の根底に、個々人の限りなき自由から派生する主観的価値観を置いて経済行為を見ると言うのであれば、それぞれがかなり違う価値観、目的,感情、満足度を持っているのだから、そこまで立ち入らなければ意味が無い、しかし経済学でそこを分析するのはムリであり、かつ経済学そのものは、そんなことを目的とはしていないから、これ以上経済学に留まっていてもしょうがないとしてパレートは、社会学者に転向してしまった・・・
氏の有名な理論に2:8論というのがある・・・世の中は常に2割の富裕層とそれ以外の8割の層で構成されている・・・もし資本主義的生産関係において2割層の満足度を減少させ8割層の満足度が上昇するなら、「社会の“為の”効用」は達成される・・・同時に一国を一つの「社会効用」の角度から見ると、2:8における不平等感はあっても、総体としての富は資本主義社会の方が大きくなるではないか・・・
つまりパレート最適が満たされれば、資本主義下での不平等は正当化されることになる・・・これは、これからの資本主義はどうあるべきかという問題について、大きなヒントを与えているし、修正された資本主義なるものは、果たして有り得るのか、存在し得るのかという実に大きな命題をも含むテーマを暗示している・・・
・・・行き着く先は社会学の範疇になってしまい,目下は新古典学派の形而上学を剥いでいる最中なので、別の議論に委ねたい・・・。
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Re: 当代世間裏算用 ( No.63 ) |
- 日時: 2009/11/14 12:00
- 名前: 満天下有人
- 。。。
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Re: 当代世間裏算用 ( No.64 ) |
- 日時: 2009/11/15 09:36
- 名前: 満天下有人
- 「スラム化の理論を排除せよ」E
・・・結論を言うなら、結局のところ新古典派は、人間にとっての基礎的な経済関係、つまり供給と需要の関係は個々人の主観的価値観が規定し、商品価値及び価格も市場を通じ(市場主義)、人間の限界原理で決定されるものとした・・・
・・・この理屈に一貫して大きく欠落しているものは何かと言えば、生産側の主観的価値基準がどのようなものであり、それに基づいて商品価値がどのように創出され、それを通じ価格がどのように決定されるか、それを「総」社会的な器の中で追求する形跡が全く無いことである・・・
端的に言うなら、商品の価格なるものは供給側の生産性が向上すれば低下するし、あるいは私的資本の生産形態では、彼らが帳簿的原価計算上で「人件費」として処理する部分を低減すれば供給側が提供する価格は下がるということである・・・
そこを無視して、商品の最終段階である価格なるものが需要側個々人の効用によって決定されるという均衡論は、云って見れば、市場におけるセリ市的価格決定論である・・・築地魚市場でのセリ市と同じような価格決定論に過ぎない・・・
売り手と買い手がセリ合うその過程で決定される価格によって「総」社会的な供給と需要の関係が均衡し充足されると言うのは、幻想でありまやかしである・・・くどいように総社会的という用語を繰り返している理由は、生産と需要の関係は全体として社会全体の再生産を可能にするものでなければいけないということである、生産に携わる者は同時に需要者、消費者でもある、だから再生産が可能になっているのである、可能であるから社会が存続出来ているのではないか・・・そこを見落とす論は形而上的である・・・
価格と言うものも、繰り返し行なわれる再生産の過程を通じて形成される一つの標識にしか過ぎない・・・経済関係において生産される価値というものは、供給側の主観的価値基準と、それを受けて立つ側・需要側の「効用」度だけによって決定されるものではないはずなのだが、それを強調するのは、何かを隠蔽しようとしているからである・・・
それは供給側の論理が利潤を求めてその蓄積を第一義とする主観的価値判断を基礎に経済社会を支配しようとすることにある・・・そこには社会全体の再生産を維持せねばという正義はもともと存在していないということである・・・
ここにも新自由主義者、新古典派たちの奇妙で矛盾した論理が伺える・・・何故矛盾した論理になるかといえば、彼らの主張の第一が個々人の自由、平等、主体的価値観といういわば形而上の世界に属する概念を、再生産という純粋に経済関係の問題に持ち込んでいるからである・・・
形而上的概念での自由、平等、価値観なるものは、支配されない、隷属されないという希求の裏返しでもある・・・それを言う論者がでは何故、資本の支配、資本への隷属を否定しないのであろうか、正義を唱えながら一方でこの支配、隷属関係は不正義ではないとでも言うのであろうか・・・いやそれを言うと自らの論理が破綻するから、隠蔽しているのであろう・・・ 彼らが主張する市場主義も、何かを隠蔽しているものである・・・先にセリ市的価格決定論を批判しておいたが、彼らの価格決定論は、人間の生産的手が加わっていない天産物資源取引のことを言っているだけではないのか・・・
それとて現実には価値の形成でもなく単に思惑から生じている投機に過ぎなくなっているし、細工された需給情報によって価格が決定されているに過ぎない・・・単なるセリ市「市場」であり、出てくる価格はセリ市価格にしか過ぎない・・・そんなもので市場主義を唱えられると、再生産が出来なくなる・・・
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Re: 当代世間裏算用 ( No.65 ) |
- 日時: 2009/11/15 09:40
- 名前: 満天下有人
- 「スラム化の理論を排除せよ」(完)
・・・再生産とは明日も来年も100年後も、人間が生存することを可能ならしめるものである、人間労働の手が加わっているが故に明日のカテの再生産を可能ならしめるものであり純粋に計算可能な経済行為である・・・結果として社会的平均的価値の受容が出来ないものが生まれるということであってはならないはずである・・・
・・・ある程度の格差は止むを得ないとする論も,形而上の、あるいは情緒的感情を自由、平等、価値観という名義の下に混同させられてしまっているからではなかろうか・・・変な主義が生まれた20世紀末から純粋な経済行為・総社会的再生産が壊れ始めた・・・
・・・そして彼らの正義は何故か軍事の不正義を非難しないのである・・・資本の不正義と抱き合わせで・・・21世紀はこのまやかしを剥がねばならない世紀でもあろう・・・ヘーゲル哲学弁証法の出発点は否定であった、それを更に否定する「否定の否定」が、社会を昇華させるという哲学であった・・・
・・・アウフヘーベン・止揚の概念を言うまでも無くドイツ語のこの単語には、否定、棄てるという意味と同時に「保存する」という意味もある・・・形而上世界では棄てるだけでなく保存保留されるべきものは多々ある・・・しかし純粋経済の範疇では何故否定せねばならないのか、形而上的情緒的なものは排除して、本質を十分検証して見る必要がありはしないか・・・。
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Re: 当代世間裏算用 ( No.66 ) |
- 日時: 2009/11/15 11:43
- 名前: 天の橋立の愚痴人間
- 今日のサンデープロジェクトに西川前社長が出ていて、彼を擁護するために同席していた(名前は覚え忘れました)人間が
「巨額の郵便貯金を民営化により有効に活用することが日本のためにもなり、世界が望んでいる」と言う事を、如何にも当然であり、理解しない方がどうかしているという様に話していました。
これに異論を挟む人は全くいません。 私は、そう言うことをやり続けてきたアメリカが、現在どのような国になってしまったか、しらけきった思いで見ていました。
満天下有人さんが指摘されている、
>・・・商品の価格なるものは供給側の生産性が向上すれば低下するし、あるいは私的資本の生産形態では、彼らが帳簿的原価計算上で「人件費」として処理する部分を低減すれば供給側が提供する価格は下がるということである・・・
この現象をまさに正義中の正義と位置づけし、経済が与えてくれる果実を貪ることに狂奔している人々は、やがて独占資本が自分達を奴隷にすることに気が付きません。
自動車の製作などは、日本ですでに5社あまりに集約されています。 その5社が何時カルテルを組むかも解りません。
資本の独占が進むと、強大な力は政治を押えて、独占禁止法など骨抜きにするでしょう。 5社が2社になると、必ずカルテルが成立します。
グローバル化の名の下に巨大化が進んでいるその先には、企業=国家と言う構造が隠されています。
そのような成長を目指している世界企業の為に、郵便貯金のような国民の命に変る蓄えを提供するなど自殺行為と違いはありません。
本当に、もう少し経済と言うよりも、国家自身の価値観を見直す必要があるようです。
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