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[2861] 芸術とは何か
日時: 2017/12/20 16:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XkpKJZPc

このスレッドは、私にとって苦手ば分野ではありますが、常々、モダンアートと言われるものの解釈に戸惑ってもいたものですので、何時かは追求してみたかったものです。


芸術とは
芸術とは辞書的には次の様に定義されています。
表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。文芸(言語芸術)、美術(造形芸術)、音楽(音響芸術)、演劇・映画(総合芸術)などを指す。

これではあまり解らないので、もう少し突っ込んでみます。

本来的には技術と同義で,ものを制作する技術能力をいったが,今日では他人と分ち合えるような美的な物体,環境,経験をつくりだす人間の創造活動,あるいはその活動による成果をいう。芸術という言葉は,利用する媒体や作品の形態によって伝統的に分類される数多くの表現様式の一つを示すこともある。したがって,絵画,彫刻,映画,音楽,舞踊,文学をはじめとする多くの審美的な表現様式をそれぞれ芸術と呼ぶことも,全体として芸術と呼ぶこともできる。これは一方では自然の被造物と,他方では技術や知識による産物と異なる。自然における創造は自発的であり,また技術や知識による創造は概念的であるのに対し,芸術はいわば直観的である。芸術の根源,すなわち芸術創造の根源には諸説があり,たとえば想像力,遊戯衝動,模倣衝動,表出衝動などさまざまに分類されている。

芸術は伝統的に文芸と美術とに分類される。文芸は言語や理論による表現技術で,美術は純粋な美の追求をより重視するものである。さまざまな表現様式,たとえば陶芸,建築,金属細工,広告などは,美の追求と実用的な目的を兼ねている。芸術は,純粋に美を追求するものと,単純に実用性を求めるものと異なる2つの目的の間に位置すると考えられる。この2つの目的の対立は,芸術家と職人という関連した用語にも反映されている。職人は実用性にかなり重点をおくと理解されているが,これは厳格な体系ではない。一つの芸術様式のなかでも,動機が大きく異なる場合もある。陶工や織工は実用的であると同時に美しい作品をつくるかもしれないし,賛美される以外に目的のない作品をつくる可能性もある。


(芸術を芸術たらしめるもの目次を見る)
しかし、このような変動性やあいまいさのなかにあって、芸術を芸術たらしめているものとして、三つの契機をあげることができる。「わざ」と知と作品であり、これはテクネー‐アルス‐アートの主要語義に対応している。力点の置き方はさまざまであっても、この三者の総合が芸術である。芸術作品は人間の作物のなかでも、日用品や道具や機械などとは異なり、その目的は限定されていない。できる限り充実した体験を可能にするということが、芸術作品の使命である。したがって、それを生み出す「わざ」もまた、ある一定の目的を満足すればよいというようなものではなく、可能な限りの高みを目ざす冒険の精神に支えられたものである。そしてまた、芸術における知も、学問的な知のように概念的言語によって説明される種類のものではなく、あるいは実際の創作によって体得される「かん」や「こつ」のようなものであり、あるいはその作品の鑑賞によってしかみえてこない境地のようなものである。前者は「わざ」と知の一体となった能力であり、後者は作品が鑑賞者に対して繰り広げる個性的な世界である。

 この作品世界は、ことばでとらえ尽くせないものであるからこそ、かえって、鑑賞者はそれをことばで語ってみたくなる。単なる感想から高度の評論に至る活動がそこに生まれてくる。しかし、どれほど語ってみても、なおかつ語り尽くされないものが傑作のなかにはある。したがって、特定の目的に鎖(とざ)されていない作品は、作者にとっても鑑賞者にとっても緊張の結晶であり、泉のように多様な意味を湧(わ)き出させるものとして、それはオリジナルな世界である。このオリジナルな世界は作者の個性を刻印した「作者の世界」だが、作者の意図を超えた可能性をはらんでいるという意味では、作者1人のものではなく、自律的な世界である。作者の意図を超えた意味を掘り起こすのは、鑑賞者の解釈である。したがって芸術作品の世界は、可能な限りの高みを目ざす芸術家の冒険の精神によって生み出され、最大限の意味充実を求める鑑賞者の本性的な志向性によって現実化されるものである。

 このようにしてみえてくる作品世界の意味充実が、美である。芸術美は真や善や聖などのあらゆる価値を排除せず、それらの表現のうえに達成される作品存在の質であり、この意味においてのみ、美は芸術の本質であるといいうる。近世以後の芸術概念の中心を占めてきたのは作品であり、単に芸術といえば芸術作品を意味するのが普通だが、現代の前衛のなかには作品概念を攻撃する傾向が根強くある。それは作品を静的な対象と考えてのことであり、この批判の根底には、生き生きとした精神の現動性を重んずる現代思想共通の態度がある。この思潮は、作品概念を破壊するよりはむしろ、解釈の可能性をはらんだ作品世界の奥行を明らかにしつつある、といってよい。[佐々木健]

(芸術と宗教)
これでも、もう一つ解りませんね。それで別の角度から見るために宗教について少し探ってみましょう。

「宗教とは何か」と言う問いに下記のような説明がある。

>神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。
>経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから、ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教、さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界宗教にいたる種々の形態がある。

宗教の起こりは呪術、自然崇拝から始まっている。
当時は単純に生きる糧を得るために人間を超えた大きな力にすがろうとしたもの。
時代を経て、人間社会が発達すると、人間自身が生きる事への不安も意識するようになり、その存在への癒しを求めるようになる。
それが実質的な宗教の始まりとみる。
要するに、宗教心と言うのは、人間が理性ではどうにもならないもの、理性を超越した何かを求める心である。
存在を意識しようとする思いであると規定する。
これを少し理屈っぽく言えば、次の様な文章になる。

世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。この信念は、生き生きした実在感をもって体験として受け取られ、合理的には解決できない問題から生じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期待されている。また、信念を同じくする人々が、教会、教団とよばれる共同体を形成する。[柳川啓一]
メンテ

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Re: 芸術とは何か ( No.1 )
日時: 2017/12/20 16:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XkpKJZPc

前述の定義に含まれているように、宗教という信念体系は、存在の秩序の象徴(宗教思想)、宗教体験、宗教集団という要素からなり、さらに、信念を表す行為が定式化されて、非日常的な神聖な行為として宗教儀礼、祭礼となり、一方、してはならぬ行動は戒律となり、信念を日常生活において実践する宗教倫理が課せられる。哲学、道徳、ナショナリズム、共産主義のようなイデオロギーや社会運動、ときには「ゴルフが彼の宗教」というような趣味までが、宗教の役割を代用することがある。しかし、これらは宗教「的」という比喩(ひゆ)にとどめないと、宗教の概念が広がりすぎる。

 宗教のいう存在の秩序というものは、きわめて一般的、普遍的、包括的なものであって、ユダヤ教、キリスト教、イスラムのように、万物を創造し、固有の意志をもった人格的存在としての神を中心に置くものと、仏教、儒教、道教のように、法、理、道という抽象的、非人格的な原理、法則を根底に置くものとに分かれる。すでに原始宗教のなかにも、霊魂という人格的存在の信仰のアニミズムと、呪力(じゅりょく)という非人格的力の観念によるマナイズムの区別がある。もちろん両方の共存もありうる。ギリシアの古代宗教、日本の神道(しんとう)の場合など、人格をもった神々が崇拝されるとともに、これらの神々も従わざるをえない運命とか、天地自然の道という法則が予想されている。

 こうした究極的な存在から発して、時間および空間をいかに象徴的に把握するかということも宗教思想の重要な要素である。天国と地獄という空間の構造、仏国土、神国という発想はしばしば認められ、自国を神聖とするナショナリズムとも結びやすい。時間の観念はいっそう豊富に展開し、祭りにおけるように、日常的、世俗的な時間が中断して、非日常的、神聖な時間が訪れる。原始古代宗教においては、それは神話の時代が再現することであった。世俗と神聖の2種の時間がリズムをなして交替する。こうした繰り返しは時間観として円のような永劫回帰(えいごうかいき)の思想ともなる。一方、時間を直線的に考え、ある破局的状態を経て別の世界が現れると説くこともある。こうした発想は終末観とよばれ、世俗的な革命のイデオロギーにも影響を与える。

最初に戻って、芸術の定義とは

>表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。

この、さりげない文章のなかで、

>精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。
という言葉に注目しよう。

精神的・感覚的な変動と言っているが、これでは全く意味が解らない。
要するに、芸術作品と言われるものを見ること、聞くことによって、導かれる何かを期待していると言う箏。
そうして導かれたものの価値が、鑑賞者が求めていたものと合致することで感動すると言う箏。
さらに鑑賞者が求めていたものとは、何であったのか。
が問題になる。

求めていたものは各人、各様ではあろうが、鑑賞者に内在する存在感への渇望感と言う意味で共通するものがあるとすれば、それは哲学的(心理学を含め)な内容のものともなる。
また、それが厭世的なものならば宗教的な心情でもある。
要するに芸術と言う分野は、哲学、宗教へも関連する精神の領域であるのである。

(では次に哲学的に芸術に迫ってみましょう)

はじめに:芸術哲学の対象とは何か?
本論文は、芸術作品が観念的なものと実在的なものの無意識的な同一であるというシェリングのテーゼに基づき、現代芸術を批判的に考察しながら、芸術の宗教性について論ずる。その際、芸術と宗教の関係という観点から、ショーペンハウアー及びニーチェの芸術哲学を分析する。結論として、理念の表現が芸術の使命であると主張しつつ、ニヒリズム的作品の宗教的意味を洞察する。なお、現代芸術への批判は、決してその文化的価値を貶めるものではない。以下序論では、現代芸術の代表的作品を評価しながら、美学と芸術哲学の相違を議論する。

現代における芸術の宗教性について

芸術が理想美の追求を止めると、美学という語は芸術一般を対象とする学問という意味で使われるようになった。美の疎外化という観点から、美学を再定義しようとする氏の問題意識を、本論文も共有している。
ところで、芸術哲学という語を使った場合、それが哲学である以上、芸術が表現する理念を問題にしなければならない。
さて、フラットアートを標榜する村上隆氏によって、2010 年にベルサイユ宮殿において開かれた展示が、フランスで大きな議論を巻き起こしたことは記憶に新しい。

「現代芸術とは何か?」を問うことが、彼の制作活動の目的だと言われているが、ここではその作品を客観的に評価してみたい。
そもそも、芸術とは何かという問いは抽象的であり、芸術が表現活動である以上、「芸術は何を表現するべきか?」という問いに具体化されなければならない。つまり、作品はこの問いへの答えでなければならない。村上氏の答えは、ポップカルチャーを含めた文化的活動は全て芸術的価値を持っているというものだ。

言い換えれば、彼の作品は芸術の判断基準を相対化することを目的にしている。しかし、それが一種の懐疑主義であることは、「スーパーフラット」というスローガンによって覆い隠されている。ここで村上氏の作品を取り上げたのは、彼が現代芸術のニヒリズム的傾向を先鋭化しているからだ。それは、歴史的価値に挑戦するためにまず、既存の形式を否定する。結果として形式から自由になった芸術はカオスになるか、新しい形式の下で抽象的
になるかの運命を取る。そこでは、驚きを与えるもの又は不思議なものがポストモダンとして評価される。
メンテ
Re: 芸術とは何か ( No.2 )
日時: 2017/12/20 16:52
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XkpKJZPc

『現代の批判』という評論の中でキルケゴールは、現代社会の特徴の一つとして水平化現象を挙げている。「無性格の妬みは、否定しながらも実は自分も傑出したものを認めているのだということが自分でわからず、むしろそれを引きずりおろし、それをけなして、それで実際にそれをもはや傑出したものでなくしてしまったつもりでいるのである。こうして、妬みは、現に存在している傑出物に対してばかりでなく、またきたらんとする
出物に対しても抗弁することになる。」

水平化によって過去と未来の芸術価値を相対化しながら、水平化の先導者としての自らの作品価値を高めることの背後に妬みがあるとすれば、結局のところ「美しい芸術」は絶望
的な形で崇拝され続けているのかもしれない。
このような形で、芸術を社会的及び心理的に評価するのが現代的な意味での美学だが、芸術哲学は、時代を超えた芸術の絶対的理念を要求する。
ヴィンケルマンが『ギリシア芸術模倣論』においてギリシア芸術を賛美しているのは、単に個人的な趣味の問題ではない。芸術は「最も美しい自然」だけでなく、「その自然の理想美」をも表現するべきだとする彼の主張には、普遍的な意味が込められている。

例えば、ミロのヴィーナスが鑑賞者を魅了するのは腕が欠けているからなのか?
それとも、ヴィーナスが愛と美の女神である事実が、彫刻の理想美を担保しているのか? 或は腕があるとないとに関わらず、モデルが実際に誰であっても、理想的な肉体美が我々を惹きつけるのか?

プラトンは個々の美しいものと、それ自体美しいものを区別したが、後者こそが芸術哲学の関心になる。
しかし、プラトン的イデアの存在を芸術哲学は証明できない。それは、理論物理学がニュートリノの存在を予言しても、その存在を証明するために膨大な実験が必要だったことに似ている。芸術哲学にとってイデアの存在は仮説でしかなく、その存在の証明は芸術家に委ねられている。

カントは我々が経験的に認識できる世界を現象界と呼び、その背後にあるかもしれない純粋な客観を物自体と名付けた。その物自体をショーペンハウアーは意志と定義する。これは、全く根拠のないことではなく、哲学史的には、フィヒテが純粋な主観としての自我を活動性(Tätigkeit)、シェリングが純粋な客観としての自然を生産性(Produktivität)と定義したことに関係している。ショーペンハウアー自身はそれを、身体が直接的客観(das unmittelbare Objekt)であることから、つまり、身体が現象或は表象として意識されると同時に、意志の客体性(die Objektivität desWillens)としても意識されることから根拠づけようとする。

それは、意識的と無意識的とに関わらず、意欲が我々の生にとって本質的であることを意味する。これは有機的自然界一般に認められることであるが、ショーペンハウアーは彼の意志概念を無機的自然界も含めた存在一般に拡大する。何かが存在するためには、何かが現象するためには、それが意欲されなければならない。その際、個体的意志を超えた普遍的意志が前提されるのが、ショーペンハウアー哲学の難点であるが、意志の普遍性は、それが個体的意志の集合ではなく、現象としての世界は「私」の表象の中で完成しているという観点から、理解されることができる。

一方、自然の所産の合目的性から、つまり、個々の無機的及び有機的存在が、自然が存在するための手段になっていることから、普遍的意志を想定することもできるかもしれない。しかし、このような仕方で我々の認識は現象を超えることはできないから、せいぜい、自然の生産性を、進化論がするように、目的論的に考察するに止まるだろう。たとえ、あらゆる存在が自然の根源的な諸力(ursprüngliche Kräfte)に還元されたとしても、それらはすでに規定された意志になってしまう。
ショーペンハウアーが主張する物自体としての意志は、時間、空間、そして因果関係から自由なのである。

(以下省略)

この様な文章が続く。
芸術の概念を哲学のそれと重ね合わせて証明する試みであるが、哲学、そのものが人間の有り様を色々な面から言い表しても、結局は、これが人間であると言う結論は出せなかった。
出せなかったと言うよりも、もともと結論など出せない対象であったと言うことになる。
だから芸術を哲学的な側面から定義しようとしても、時代時代、思想家それぞれの定義しか出来ないことになる。

では現代社会において芸術とは、どのように捉えることが出来るか、捉えられているのかが興味を引くところである。
メンテ
現代の芸術 ( No.3 )
日時: 2017/12/21 19:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:JaBlAQvg

(現代の芸術)

モダニズムは20世紀以降に起こった芸術運動、特に第一次世界大戦以後(戦間期)の1920年代を中心にした前衛的な動向を指す。従来の19世紀芸術に対して、伝統的な枠組にとらわれない表現を追求した。

ポストモダン(英: Postmodern)とは、「モダニズム(近代主義)がその成立の条件を失った(と思われた)時代のこと。ポストモダニズム (Postmodernism) とは、そのような時代を背景として成立した、モダニズムを批判する文化上の運動のこと。主に哲学・思想・文学・建築の分野で用いられる語。

フランスを中心に興った思想で、多かれ少なかれドイツ圏のニーチェ、フロイト、ハイデッガーらの思想を源泉とし、近代的な「主体」概念に対して構造主義によって提起された批判が背景にある。構造主義以後に構造主義を批判しつつ継承して出てきた思想傾向をポスト構造主義と呼ぶが、ポストモダニズムはポスト構造主義を下位概念として含む。

フランス現代思想の文脈では、サルトルは、その著書『弁証法的理性批判』(1960年)において、実存主義をマルクス主義の内部に包摂することによって、史的唯物論を再構成し、ヘーゲル‐マルクス的な歴史主義とデカルト‐フッサール的な人間主義との統合を主張していた時代であったが、構造主義は、無意識的・潜在的な構造的規定要因によって主体そのものやその判断およびその可能な選択肢が構成され、あるいは少なくとも制約されているとして、マルクスの上部構造/下部構造、生産力/生産関係といった構造的な諸概念が実体化されていること、また、デカルト - フッサール的な近代的な主体を思想の前提として実体視していることを批判していた。

構造主義の祖とされるソシュール自身は構造という用語を用いておらず、自身の理論を言語学以外の分野に拡張することにも慎重であったが、クロード・レヴィ=ストロースは、これを人類学に応用し、近代的な知と異なる野生の思考があることを示したのであった。サルトルの実存主義は、レヴィ=ストロースとの論争を通じて急速に衰退し、構造主義が勃興していった。構造主義によれば、現象の背後にある構造を分析することによって、あるシステムの内的文法をとりだすことができ、各システムはそれにしたがって作用する。そこでは、あらゆるものが予想可能になり、偶然性や創造性といったものが排除されてしまうのである。いわゆるポスト構造主義の論者とされる者たちは、構造主義のもつ、構造を静的で普遍的なものとし、差異を排除する傾向に対して、それは西洋中心のロゴス中心主義であるとして異議を申し立てたのである。

そのような状況下において、『ポストモダンの条件』(1979年)を著したリオタールによれば、「ポストモダンとは大きな物語の終焉」なのであった。「ヘーゲル的なイデオロギー闘争の歴史が終わる」と言ったコジェーヴの強い影響を受けた考え方である。例えばマルクス主義のような壮大なイデオロギーの体系(大きな物語)は終わり、高度情報化社会においてはメディアによる記号・象徴の大量消費が行われる、とされた。この考え方に沿えば、“ポストモダン”とは、民主主義と科学技術の発達による一つの帰結と言える、ということだった。

このような文脈における大きな物語、近代=モダンに特有の、あるいは少なくともそこにおいて顕著なものとなったものとして批判的に俎上に挙げられたものとしては、自立的な理性的主体という理念、整合的で網羅的な体系性、その等質的な還元主義的な要素、道具的理性による世界の抽象的な客体化、中心・周縁といった一面的な階層化など、合理的でヒエラルキー的な思考の態度に対する再考を中心としつつも、重点は論者によってさまざまであった。したがって、ポスト・モダニズムの内容も論者や文脈によってそうとう異なり、明確な定義はないといってよいが、それは近代的な主体を可能とした知、理性、ロゴスといった西洋に伝統的な概念に対する異議を含む、懐疑主義的、反基礎づけ主義的な思想ないし政治的運動というおおまかな特徴をもつということができる。

(ポストモダンアートの画像)

https://www.ggccaatt.net/2016/08/14/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88/

https://www.ggccaatt.net/2014/06/14/lowbrow-popsurrealism/

https://www.ggccaatt.net/2013/09/24/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%97%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88/

これらは従来の芸術と言う観点からは、ずいぶんとかけ離れているが、現代哲学の概念とは、どこかでつながっているのであろう。

全体として芸術で現されている概念は、ギリシャ時代を別として、人間にとって暗いもの、醜いものなど消極的な生き様を示すものが多い。
ピカソ、ゴッホ、ゴーギャンの作品など、決して心が躍動するものではない。

音楽でもそうであるが、現代の芸術と言われるものは、私などには解釈が難しい。
昔のように単純に共鳴できないものを表現しようとしている。
哲学で言えば実存主義の迷路にはまっているのではないかと思われる。
ギリシャ哲学の様に、何故、素直に感じる事象へ対象を見れない。
音楽でも絵画でも、ポストモダンと言れるものに何を感じ取っているのであろう。
何について共感しているのであろう。
それが自身の存在に対して何の意味があるのであろう。

ポストモダンの表現の一つに、中庭に枕を敷き詰めただけで芸術を感じろと言う。
その様な、刹那的な偶然を芸術と言うならば、哲学で言えば、アナーキストを称賛する事になるが、アナーキズムからは何も生まれない。ただ混沌が残るだけ。

実存主義を持って哲学が終焉したと言うならば、ポストモダンによって芸術も終焉したことになるだろう。
このように言う私は、ポストモダンに芸術を感じられる人々にとっては私は不遜な存在と映るであろう。
しかしながら、人間が宗教や芸術に求めた本質的な不安感は、昔も今も変わってはいないはずであるが。

アナーキズムを哲学と言うならば、ポストモダンも芸術言える。
双方に共通するのは、哲学の分野でも芸術の分野でも、それに同調される範囲は非常に狭いと言うこと。
哲学、芸術の定義の問題になる。
しかしながら、もともと現代社会は民主主義の花盛り。
共に生きると言うよりも、個人が中心が人生と言うもの。
それで良いのかもね。


(最期に芸術一般を眺めた場合に感じる事)

芸術の中でも、音楽は大抵、聞くことによって心が癒され、また元気をもらえるものが多い。
醜い音楽などは、ほとんど聞かれない。

映画、舞台芸術も、納得して筋を追う(疑似体験)ことが出来る。

西欧絵画は、絵画を見ることで心が晴れるものは意外と少ない。
写実主義の絵画は、単純に感動することもあるが、

名画と言われるピカソ、にしろ、ゴッホ、ゴーギャンの作品も、それを見て心地よく感じるものではない。
ユンクに至っては、気が重くなる。

それに引き替え日本の伝統絵画は、強いもの、明るいものを連想させる。
西欧に於いてはキリスト教からの解放(ルネッサンス)が、逆に人間の弱さを露呈させたのであろうか。

また彫刻には、このような不快感を感じるものはないが、逆に作者と共感するものが少ない。

絵画芸術とは、その様なものなのか。



>それでは最後に、簡単に西欧絵画史を書いておきます。

エジプト、ギリシャ時代は壁画などはあったが、主に彫刻が盛んであった。
ローマ時代に入り、キリスト教に関連する絵画が生まれた。

中世での絵画の隆盛期はルネッサンス期と言われ
レオナルド・ダビンチ、ボッティチェッリなどはキリスト教に関連する絵画を描いた。
「モナリザ」「ビーナスの誕生」「受胎告知」などが挙げられる。
その後、バロックと言う時代がある。
フエルメの「真珠の耳飾りをした少女」は、キリスト教を離れて現代の感覚で受け止められる。

近世にはいって、写実主義、印象主義、ロマン主義など、西欧絵画が花開く。
ミレーの「落穂ひろい」ドガの「踊り子」などは、皆さんも記憶にあると思う。

現代絵画

1920年ころには、モダンと言う言葉が使われ、これ以降の芸術をモダンアートと呼ぶ。
1960年ことからは、ポストモダンと言う言葉が使い始められ、以後、現代の芸術の事をポストモダンアートと言う様です。
メンテ

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