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[2931] ▲赤坂料亭での接待「食い飽きた」 言い放った大蔵官僚6682
日時: 2018/02/07 16:25
名前: 「南の島 九州 達磨」 ID:LF5TkktY メールを送信する

▲赤坂料亭での接待「食い飽きた」 言い放った大蔵官僚
小森敦司2017年12月3日09時03分

 平成に入っても、大蔵省は金融機関に強い権限を持ち、裁量行政を続けた。そこで大手銀行のエリートは「自行を有利に」と接待をかさねた。ゆがんだ関係に捜査のメスが入ったのは、金融危機まっただ中の1998年初め。事件を受け、「財金分離」が進んだ。(小森敦司)

 「MOF(モフ)担」

 大蔵省との折衝や情報収集にあたる大手銀行の中堅幹部たちはそう呼ばれた。大蔵省の英語名の「Ministry of Finance」の頭文字からきている。いつしかMOF担は、出世コースになっていた。

 当時はまだ、金融規制や競争ルールの多くが大蔵官僚らの裁量で決められていたのが実態で、銀行側は当局の人間にすり寄るしかなかった。そのため、MOF担にとって料亭やゴルフ場での接待が重要だった。

 98年に経営破綻(はたん)する日本長期信用銀行(長銀)の取締役新宿支店長などを務めた箭内(やない)昇さん(70)。92年から94年までのMOF担(役職は企画室長)時代の出来事を苦々しくも語ってくれた。

 場所は東京・赤坂の高級料亭と記憶している。夜、さんざん待たされたあげく連れ出した大蔵省の幹部は言った。「料亭の料理は食い飽きた」

 それで、料亭のおかみに命じて部屋に七輪を持ち込ませ、メザシを焼かせた。その幹部にとって、この店はなじみなのか、漢方薬まで手配させて煎じさせた。

 相手は将来の事務次官と言われた大物だった。部屋は強烈な異臭で充満した。頼んでおいた料理はキャンセルになった。「でも、こちらは気持ちよくしてもらうのが目的だから、『お好きなように』という感じだった」

 箭内さんは振り返る。「本当に腐っていた」。箭内さんにとって、この室長時代が28年の長銀生活の中で最も暗い時だった、という。

 接待相手は幹部だけではなかった。銀行の資産を査定する大蔵省検査を終えた検査官たちをまねき、伊豆の温泉に泊まりがけの大接待をしたことがあった。営業部門が設定した。

 当時の銀行にとって最大の課題は不良債権を小さく見せることだった。大目にみてもらいたいとの期待があった。米国の支店から戻ったばかりの箭内さんは驚いた。「米国では逮捕されるような話。いくらなんでも露骨すぎる」

 透明なルールに基づくのではなく、「お上」が差配する「発展途上国型の金融行政」と感じた。

「護送船団方式」維持できず
 ゆがんだ関係がなぜ続いたのだろうか。

 戦後の大蔵省は、スピードの遅い船をも守る「護送船団方式」のもとで、店舗数や貸出金利まで決める力をもっていた。それだけに、大手銀行はどこも金融当局との意思疎通がなにより大切だった。ところが、高度経済成長が終わって優良な貸出先を失った各行は、不動産関連やノンバンク向け融資にのめり込む。

 そうしてバブル経済は肥大化し、接待も節度を失っていく。バブルが崩壊してもなお、不良債権隠しの狙いもあって接待はなくならなかった。

 むろん、接待で不良債権が消えてなくなるはずがない。97年11月。それを抱えきれなくなった北海道拓殖銀行など大手金融機関が経営破綻に追い込まれた。頼みの綱のはずだった大蔵省はすでに「船団」を守る力を失っていた。

 そんな折、金融界の総会屋に対する利益供与を探っていた捜査当局は大手銀行の大蔵官僚らへの接待の異常さに気づく。そして98年1月、官僚逮捕に踏み切り汚職事件としたのだった。

 金融に対する国民の不安と不信が頂点に達するなか、箭内さんがいた長銀は98年6月、「起死回生を」と住友信託銀行との合併方針を打ちだす。この時、箭内さんは体制刷新を訴えたが、旧執行部が居座る動きを知って長銀を辞め、経営コンサルタントに転じた。

 長銀株はその後も売りこまれ、98年10月、発足間もない金融監督庁から債務超過と認定され、一時国有化が決まる。箭内さんは言う。「途上国型の金融行政がそうやって終わっていった」

 2002年には竹中平蔵経済財政相が金融相を兼務して不良債権処理を加速。03年にりそなホールディングスも実質国有化された。箭内さんはりそなの社外取締役として同行再建に尽くす。外部から招いた経営陣らによる改革はスピードを上げ、国から注入された公的資金を15年に当初想定より約3年前倒しで完済した。

官僚逮捕「これで時代変わる」
 接待汚職事件では「ノーパンしゃぶしゃぶ」での供応まで明らかになり、国民はあきれ果てた。そんな形で保護されてきた日本の金融界が、世界のプレーヤーに勝てるはずがなかった。

 大蔵官僚の本音を聞きだし、その傲慢(ごうまん)ぶりや幼稚さを描いたテリー伊藤さんの対談本「お笑い大蔵省極秘情報」の続編「大蔵官僚の復讐(ふくしゅう)」は、事件後の98年7月に出版された。

 この本の中で、大蔵官僚はこう捜査を批判する。「この場合の接待は贈収賄じゃなくて、潤滑油じゃないですか」「検察は時流に乗った捜査しかしていない」

 金融関係者の間には「なぜ、こんな危機まっただ中に捜査に入るのか」「国民の不安を増大させるだけだ」と疑問視する声も出ていた。

 しかし、金融界にも捜査を歓迎する声があった。大蔵省からの逮捕者が出た98年1月。東海銀行(現三菱東京UFJ銀行)の広報部次長だった谷山信さん(59)は、東京・大手町の上空を飛び回る報道機関のヘリコプターを見上げたのを覚えている。

 「大蔵省に箸の上げ下ろしまで指図される銀行経営にずっと違和感を持っていた。捜査当局の手が入って『これで時代が変わる』と思った」

 事件は金融行政を「裁量・事前指導型」から「ルール重視・事後チェック型」に移行するよう促した。

 あれから20年。金融庁は18年夏、前身の金融監督庁が発足して以来の大規模な組織の見直しをする。銀行の不良債権を厳しく調べた検査局を廃止、監督局に統合して、金融「処分庁」から「育成庁」への転換をめざすという。ただ、裁量的な行政に戻らないか懸念する声も上がっている。

     ◇

 〈財金分離〉 大蔵省は主計局や主税局などの財政部門のほか、銀行局や金融検査部などの金融部門も抱えていた。銀行への税金投入を避けたい財政部門の意向から不良債権処理が遅れたとの指摘もあり、不祥事も重なって、1998年6月に金融検査・監督部局を独立させ金融監督庁が発足。2000年7月には金融制度の企画立案などにあたる大蔵省金融企画局を金融庁の総務企画部(01年1月から局)として移した。01年1月の省庁再編で大蔵省は財務省に。




「南の島 九州 達磨」
「事実新見」報道部










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