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[3178] 日本(日本人)とは(日本人のルーツ)
日時: 2019/07/05 16:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:uY3N0oQw

(人口の問題)
紀元前2〜3万年ころの地球は寒冷化が進み人類の定住地に異変が起きた。
この一連の動きのなか、ロシア大陸と日本は氷上を歩いて渡る事ができ、モンゴルの北、バイカル湖周辺に住んでいた人たちが約7000人ほど日本に移住してきたと考えられている。

発見された縄文時代の遺跡数の分析から、縄文以降、各期の推定人口から、8,000年前の縄文早期の人口は、東日本地区で17,300人、西日本地区で2,800人の計、20000人と推定している(東日本地区の多くは北方から移住してきた7000人を含んでいる)。

一方、
・・・・・日ユ同祖という考え方があります。「シュメールと日本、同祖」というのが精確だと思います。

楔形文字は表意文字と表音文字との組合せで、これは日本語と同じやり方です。そして文法も、”既知名詞+変化名詞+変化態様”というように、日本語と語順が同じです。
シュメールとは現在の南イラクのことです。
こうしたシュメール文化が、南方(東南アジア・台湾)や朝鮮半島を経由して日本に入って来ました。

このうち黒潮に乗って移住してきた人たちは、日本海ルートをたどり九州北部、山陰から北陸地方に定住しました。
出雲大社を作った一族は相当大きな勢力を持っていたと考えられます。
他方、太平洋側へ渡った一族は九州南部の定住し熊襲を名乗っていました。紀伊半島へ向かって定住したと考えられます。

弥生時代に入ってから中国、朝鮮半島からの移住者が増えるまでは、この南方からの移住者が、縄文人の中核をなしていました。
縄文時代の人口のピークは26万人と言われています。

以上から、現代日本列島人は、旧石器時代から縄文時代を通じて居住してきた縄文人の系統と、弥生時代以降を中心に日本列島に渡来してきた弥生系渡来人の系統の混血であることがはっきりしたというわけだ。また、南方から来たアイヌ人(蝦夷)はこれらとはさらに別の第3の系統(ニブヒなどのオホーツク沿岸居住民)との遺伝子交流があったことがわかった。

(我が国への渡来人の歴史)
T 紀元前1万年頃   コーカサス(バイカル湖)方面から約7000人
U 紀元前1万年〜紀元前1000年  南方からの渡来人 縄文時代の中核を構成。北方系渡来人との交流もあり。
V 紀元前2〜3世紀 中国、朝鮮半島から移住し弥生人の中核となった。
  西暦5世紀までに100〜150万人と言われる。
  西暦5世紀後半〜6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
  仏教の伝来もこの時期。
W 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。

(参考)
弥生時代は紀元前1000年から西暦200頃までと言われていますが、弥生時代の後半の人口は60万人と言われています。
西暦700年(飛鳥・奈良時代)には540万人(100〜150万の渡来人を含む)となって行きます。

大和朝廷は紀元200年頃から始動を始め、国家としての形を形成するのは紀元500年頃である。

日本と言う国家は、この時期に初めて成立する概念であり、紀元500年ころ、大和朝廷を成立させた部族を、その民族とすることが出来る。
その部族とは、弥生時代以降、700年簡の移住してきた渡来弥生人が中核となるでしょう。
渡来弥生人と言っても700年の間に民族間の混血が進み、縄文人も含まれることになる。
しかしながら、大和朝廷に服従しないアイヌ(蝦夷)人の一部は、頑強に抵抗しやがて東北、北海道地方に追いやられる。

要するに18世紀に建国したアメリカは、アングロサクソン人が支配しているが、今尚インデアンと言う現住民族がいると同じことである。
我が国(日本人)のルーツ探しも、弥生人をそれとするか蝦夷(アイヌ)を日本人の原型とするか、見方によるものとしなくてはならない。

さて、次には日本の社会の様相を見てみましょう。
我が国に稲作が伝えられたのは紀元前800年(弥生前期ないし縄文後期)とされている。
それ以前と言う説もある。

稲作の伝来、定着と共に社会的大きな変化は環濠集落誕生と社会構成である。
最初は小さな集団から始まったのであろうが、これが段々と大規模なものとなり直径が数百メートルもある大規模なものとなり、村の概念から国の概念へと発達して行く。
また収穫物と言う財産を保持することになり、狩猟生活における獲物の取り合いとは別の、集団同士(村)の熾烈で大規模な争奪戦を生む原因ともなった。

「 クニ」の形成

弥生時代、当時の最先進地域であった北部九州では、当初、それぞれ個別の集落として存在していた「ムラ」が、農耕が基本に持つ高い人口再生産力を発揮してムラの拡大・分化を生み、近辺の生産適地を埋め尽くすように未開地を耕作地へ変えていった。

その結果増加した「ムラムラ」が、弥生前期後半ごろから小共同体(おそらく血族集団、本家と分家などから構成されたような共同体)に成長し、更にその小共同体が、指導力を持った中心的な小共同体と、そういう小共同体との共存を図ろうとする従属的な小共同体とに階層化し、それらが一つのグループとなって「クニ」を形成し始めた。
クニ形成の基本的要因は、水資源の共有化や管理の一元化の必要性が生じたことにあったと思われる。

それほどにムラの数や人口が急増し、北部九州の中小河川の水量では、その効率的な利用が強く求められたからであろう。
当然、クニの内外で調整や裁定というような社会的作業や、それがうまく図れなかった場合には、争いが−すなわちこの列島において初めての戦争が−起こったであろう。
それは次第に、大リーダー(大首長)と小リーダー(小首長)、さらにその構成員というように、人々の間に階層的な関係を発生させた。
縄文時代には考えられなかった、社会構造が形成され始めたのである。

そうした日本列島の新しい鼓動は、半島や大陸の方にも聞こえ始めていた。
「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為し、歳時を以て来たり献見す、と云ふ」
これは『漢書』に記された一文の読み下し文であるが、中国の正史に「倭」が登場した最初の記述である。時代は紀元前1世紀の頃。
現代文に直せば

「楽浪郡から海路を行った先に倭人と言う処がある。(倭の人々がいる、という読み方が一般的であるが、そういう漢文の用法は見出せない、という意見もある) 100以上の国々に分かれており、毎年、四季毎に(楽浪郡政庁を)訪れて貢物を献上する、と言う話である」

これはすなわち、当時の漢(前漢)を中心とする東アジアの国際社会の中に、倭(or倭人)と呼ばれる北部九州を中心とした西日本のクニグニが、一つの勢力として登場してきたことを意味する。
そして、100余国すなわち100余クニとは北部九州だけで収まりきれるものではなく、おそらく「倭」とは西日本全体を指していたのであろう、としている。

中国は後漢の時代、倭の「奴国」が自称太夫(=大臣、長官)を遣わして朝貢をした。時の皇帝・光武帝は返礼として印綬を下賜したという。
この一文は有名な「漢委奴国王」 により証明された。

そして民族の特性として、大和民族は農耕民族、あるいは島国に居住することから海洋民族と分類される場合もある。 また江上波夫が騎馬民族征服王朝説を唱えたが学術的には否定されている。

このような中で、日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立したのが神道のはじめである。
メンテ

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Re: 日本(日本人)とは(日本人のルーツ) ( No.1 )
日時: 2019/07/05 16:23
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:uY3N0oQw

(大和朝廷の成立)

その中で西暦200年、伊都国が、その後ろ盾と頼っていた後漢の勢力が弱体化するに従って、自らの権威も衰え、倭国連合を掌握する力を削がれることになっていくのである。
従って、倭国ではもはやいずれの国も、倭国連合を掌握する力はなく伊都国の代わりに新たな連合の盟主になろうと意欲を示す国、鉄や諸々の舶来の文物、技術を求め独自の交易を展開して利益を得ようとする国、あらたな倭国のフレーム作りを画策する国などが次々と台頭し、相争ったに違いない。

魏志倭人伝にいう「倭国乱れる(倭国大乱)」とはこういう状況を語ったと思われる。
さらに倭人伝は続ける。
「 倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。」  

それこそ「邪馬台政権」の樹立であり、これまでの「王」に変わる王の中の王「大王」卑弥呼の擁立であった。
この新邪馬台王権の誕生は、その後の7世紀後半の律令国家の成立という、大和朝廷の完成に向けての画期となったというのである。

『魏志』倭人伝は、3世紀前半に邪馬台国に卑弥呼が現れ、国々(ここでいう国とは、中国語の国邑、すなわち土塁などで囲われた都市国家的な自治共同体のことであろう)は卑弥呼を「共立」して倭の女王とし、それによって争乱は収まって30国ほどの小国連合が生まれたとしている。
ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現とその広がりを基準とする見方が有力である。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末など若干の異同はあるが、いずれにしても、ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる。

ワカタケルの政権(古墳時代中期後半)

475年、高句麗の大軍によって百済の都漢城が陥落し、蓋鹵王はじめ王族の多くが殺害されて、都を南方の熊津へ遷した。こうした半島情勢により「今来漢人(いまきのあやひと)」と称される、主として百済系の人びとが多数日本に渡来した。5世紀後半から6世紀にかけての雄略天皇の時代は、渡来人第二波の時期でもあった。雄略天皇は、上述した倭の五王のうちの武であると比定される。

『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、倭の王権が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられており、みずからの勢力を拡大して地方豪族を服属させたことがうかがわれる。また、海北とは朝鮮半島を意味すると考えられるところから、渡来人第二波との関連も考慮される。

この時代のものと考えられる埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)には辛亥年(471年)の紀年銘があり、そこには「ワカタケル大王」の名がみえる。これは『日本書紀』『古事記』の伝える雄略天皇の本名と一致しており、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘にもみられる。東国と九州の古墳に「ワカタケル」の名のみえることは、上述の「倭王武の上表文」の征服事業の記載と整合的である。

大和朝廷は
1.律令国家成立以前に奈良盆地を本拠としていた有力な政治勢力およびその政治組織。
2.大和時代(古墳時代)の政府・政権。「ヤマト王権」。
3.飛鳥時代または古墳時代後半の天子(天皇)を中心とする官僚制をともなった中央集権的な政府・政権。

ことを言い、その勢力は九州方面から進出してきたとも、若狭湾の方面から進出したなどと言われている。

その政権は初期の豪族同士の争いを経て、645年の大化の改新で確立されたと言える。
当時の有力豪族として、大伴、物部、安倍、蘇我氏がいる。
結局は、その豪族筆頭となった蘇我氏であるが、蘇我氏は応神天皇(西暦230年〜)の時代に百済の高官が日本に亡命し蘇我氏を名乗ったとある。
大伴氏も物部氏も5世紀頃に現れ共に神話の神を始祖としている。

その他に、当時の歴史上の人物として、秦氏、漢氏がある。
秦氏は秦の始皇帝の末裔として西暦3世紀の初め日本に帰化したとあり、漢氏も後漢の皇帝の縁者として同じ頃日本に帰化し、各種の技術を伝えたとある。

この様な背景から、大和朝廷(天皇家)は、韓国、中国との深い関係があり、民族的にも帰化した渡来人の有力者と言うことも否定できない。

委細は明確になっていないが、日本(日本人)のルーツとは、この様なものと言える。

さあ、皆さんは自分のルーツを何処に求められますか!


私は、日本人のルーツを縄文人に求めたい。

その理由は、日本人の本来の特徴「和」を求める精神は、弥生時代の渡来人には無かったはずです。
中国など他の文明圏の特徴は「大和魂」スレッドで書いているように「和」などという概念は有りません。
これは数千年の縄文時代に温暖な地域に住み他部族からの外圧もなく、比較的平和に暮らせた縄文人が培った心でしょう。
メンテ
Re: 日本(日本人)とは(日本人のルーツ) ( No.2 )
日時: 2019/07/08 01:38
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:2V4Lh9lE

標題の文章の訂正をします。
日本貧困党氏の指摘の有ったとおり紀元前1万年ころ北方から日本に渡ってきた人は、コーカサイド系ではなく、バイカル湖付近に住んでいたモンゴロイドと訂正します。

この証明は、1万年も前のこともあり、1万年前の人骨はまだ発見されていないが、古代縄文人の人骨のDNA鑑定からバイカル湖付近に住んでいた人たちと同じDNAを持った人骨が発見されているそうです。

(日本人バイカル湖畔起源説と中妻貝塚)

1972年に発見されていた取手市「中妻貝塚」の集中人骨埋葬土壙の人骨の一部を、佐賀医科大学の篠田謙一氏がmtDNA分析します。その結果はNHKスペシャル「日本人 はるかな旅」でも取り上げられました。「DNA分析の結果、シベリアのブリヤート人と遺伝的に最も近いことが判明した」と紹介され話題を呼んだのです。29体の縄文人のうち1体が韓国人と一致、1体が台湾に住む中国人、1体がタイ人、そして実に17体がシベリア平原に暮らすブリヤート人とDNA配列が一致しました。(残り9体は一致するデータなし)浦和1号とさほど離れていない取手の中妻遺跡人の中に、北方アジアを故郷に持つ人がこれだけ高確率で出て、しかも東南アジア人のものは全く出ませんでした。それ以前から一部研究者の間に存在した「日本人バイカル湖畔起源説」がにわかにクローズアップされ始めます。

またモンゴロイドについて説明します。

20万年ほど前にアフリカに出現したホモサピエンス(現代人につながる人類で、人類の出現としては700万年前と言われています)は10万年ほど前からアフリカを出て世界に拡散していきました。

なを、ホモサピエンスは、コーカソイド系(白人)ニグロイド系(黒人)モンドロイド系(黄色人)にも分かれて展開していきました。
アフリカに残ったのがニグロイド
ヨーロッパ方面に渡ったのがコーカソイド
アジア経由でアメリカまで渡ったのがモンゴロイドです。

さて、問題のバイカルコ付近にも、4万年くらい前からモンゴロイドが住んでいましたが、気候の大変動に伴い、さらに東へ移住するものが出てきて、25000年ほど前にはアメリカ大陸へも渡ったといいます。
日本には1万年ほど前に、その一部が渡ってきたのでしょう。

なお、古代日本人が何処から来たかについては、下記のサイトがわかりやすいと思います。

http://akikusah.hatenablog.com/entry/2017/10/22/235516

ここにも有るように、縄文時代には、朝鮮半島経由、南方経由で移住して来ています。
日本人のDNAを調べると、大きくは縄文人と弥生人の2系統になるそうです。
縄文人と弥生人に分けましたが、実際は北方から来た種族もいて、混血も相当進んでいるので、実際はアイヌ民族のDNAがはっきりと異なっているように見えるそうです。
前述で縄文時代のアイヌを、日本人のルーツとしましたが、そのアイヌと同じDNAを持つ人種が台湾にもいるそうです。
メンテ

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