ホームに戻る > スレッド一覧 > 記事閲覧
[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2017/06/26 13:15
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ZChukVGk

(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。



(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

江戸時代へ ( No.214 )
日時: 2017/12/11 23:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:RufVXKqE

大和魂(日本人の心のルーツ)を探るにおいて、その様なものは無い、必要ないと言う意見も出ていました。
しかしながら、それでは個人の自由、権利を主張して家族の有り様も変わってきた現代の日本人の生き方を全面的に支持するものですか。
なにかと言えば、最近の若者は!と言う義憤の声も聞かれます。

現代の若者が、悪く昔の人間は良いと言う意味でもないでしょう。
だが、日本人が暮らしていえう社会の有り様は、考え方により少しは変っていることくらいは認められるでしょう。

この事は世界中で起きている現象で、資本主義の発達により十分な物質に恵まれている幸せ、個人権利、自由を主張できる幸せのなか、社会の有り様が変わってきているのです。

ですが人間とは、個人個人が満足させられるだけで幸せな社会を構成することが出来るのでしょうか。
現在、起きている無差別殺人、格差社会の矛盾をほおっておいて、幸せな社会が出来るのでしょうか。

人間が共に生きるということを忘れて行けるのでしょうか。
宗教の神様を必用としなくなるのでしょうか。

人間は共に生きてこそ幸せになれるという事を忘れるべきではないでしょう。
認めるべきでしょう。
であるならば、将来、人間は何を持って共生意識とすることになるのでしょう。

それを求めるのに過去の歴史を見てみる事も意味あるものではないでしょうか。
そこに何があったのか。

世界史に歴史を求めると
数千年前の世界では、王国の中で人間は暮らしていました。
王国に属さない人々は、放牧の民として集団で狩りをし生き延びていました。
その時代の庶民は、ただ生き残る事が精一杯で、それが目的で助け合いながら生きてきました。
それが共認でした。

2000年くらい前には、全ての人々を対象とする宗教が興り、その宗教圏の人々は宗教の神様に救いを求め困難に打ち勝つよう努めてきました。
それが共認の一つの追加項目です。
その宗教の神が、逆に人々を抑圧するような時代が長く続き、人々は神の有り様に懐疑を抱くようにもなりました。

その頃になると、科学技術も発達し、生きるための労働から解放された人々は、個人個人の生活にゆとりができ、自分の生き様を自分で選択できるようになりました。
それは西欧ではルネッサンス(人文復興)と呼び、個人の権利、自由を求める事に目覚めた時代です。

同時に個人個人は競争に打ち勝つことによって、より自由で、権利も獲得できる事を学びました。
その競争は、彼らにとって善であり、競争することが人生の使命の様に納得していた。

だが物質的に十分な成果をあげた現代は、競争すること以上の目標をさがし戸惑っている。
一方で、競争にも参加できなく、生きている意義も曖昧になった多くの人たちも発生している。
この人たちは、何を持って自分の精神を満足させられるのか。

競争してきたと言っても、その競争には共通の目標、ルールも介在していた。
それが共認意識として働いていた。
人々は互いにそれを見やりながら自分を見て安心して競争していた。

その様なものが人間には必要であったのである。
この意識は、単に生存競争だけでなく人々の生活全体に存在していた。
それが集団の心(共認意識)であり、民族の心である。

その民族の心と言うものは、常に一定の姿をしている訳ではなく、民族の於かれた条件によって移り変っても可笑しくはない。
そうして、その民族の心(共認)と言うものは生き様だけではなく文化にも反映される。

そう言う意味で民族の心に変遷を探っていくのも、将来社会を考える大きな糧となるであろう。
大和魂と銘打って、探している民族の心は鎌倉・室町時代のそれであり。大和魂で捉えたい民族の心とは何であろう。

しかしながら、このような抽象的な概念は、一言で現せるようなものではなく、前後の時代の様子から際立たせられるものと思っている。
という事で、鎌倉・室間時代の検証は、一旦中止して次の江戸時代へ向かおう。

その前に、ルネッサンスと言う言葉を上げたので、室町時代以降、江戸時代までの政治的な下克上の時代を、身分などに関わらない生の人間性が発露した時代としておきます。

最後に、この文章を書きながら思ったのですが、

大和魂を鎌倉・室町時代に見ようとしていますが、ある意味、すべての時代の日本の心の事を大和魂と言い、その変遷を求めているとも言えると思います。

メンテ
朱子学の登場 ( No.215 )
日時: 2017/12/18 12:30
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6LrZIwTE

何と言っても江戸時代の特徴は、実質的な統一国家が出来たと言うことです。
国と言うものに対する認識が国民に行きわたりました。
飛鳥、平安時代も、統一国家には違いありませんが、これは貴族国家であり、庶民の事は年貢の対象としか見られておらず、国を治める治世の概念は貴族にはありませんでした。
続く鎌倉、室町時代も、権力闘争は主体で、武力さえあれば権力を維持することが出来、国を治められる、と思い込んでいました。
江戸時代に入り、諸侯の武力をコントロールすると共に、安定した治世とするために、国民の教育が必要と思いました(それが治世の重要な要素と気が付きました)。
徳川幕府が長続きしたのも、この両面の施策が実行できていたからです。

鎖国政策の問題もありますが、国家として安定し、経済、文化面の発展がありました。
当時は、民主主義などと言う思想は無かったので、専制君主国家として、理想に近いものとも言えましょう。
それも幕末になって西欧民主主義の思想が入ってきて、当然ながら基本的な治世の原則が壊れ明治維新を迎えることになります。

治世の為の儒学(日本では朱子学)は、中国の歴史を通してさんざん言われてきましたが、江戸時代の朱子学の様に国民に行きわたり治世の根源となったものはありません。

そこが江戸時代の特徴でしょう。
ですが儒教による治世の考えは、近代民主主義のそれとは相いれる要素ばかりとは限りません。
何故ならば、儒教が教えてきたものは、飽くまでも専制国家を想定しているものだからです。
日本の国民は江戸時代の儒教精神に影響されすぎ、それが尾を引いて、上に従順な国民性となっているのでしょう。
儒教精神も大切ではありますが、現代は民主主義体制、それによって選ばれた統治者(為政者)が何時も善であるとは限りません。
儒教精神だけでは、これに異を唱える術がありません。
また為政者が、財界(資本)の傀儡となってしまう場合もあります。
この場合も、政治的に対処する術を考えつきません。考えようとしません。

これが現在の日本国民の民族性としての課題でしょう。
殆どの政治家(為政者)が善であり、資本の傀儡となるような政治をしなければ、江戸時代の朱子学だけでも良いのですが。

一気に結論じみた事を書きましたが、これを念頭に入れて、まずは江戸時代の朱子学が、どのようなものであったか見てみましょう。


儒教の登場
中国の古代史は、夏、殷と言う伝説の時代の後に周と言う国名で一応は統一のかたちを取ってきたが、紀元前700年ころから、各地の豪族が跋扈して国中が乱れていた。
これを春秋時代、後半を特に春秋戦国時代といいます。

孔子が出てきた時代は(紀元前552〜紀元前479年)、それぞれが国家の構成をめざし統一へ向かう時代で、春秋から戦国への過渡期ともいえる時期で、激動の時代でした。

政治・経済・社会のすべてが大きく変動しつつあった時代で、
それまでの伝統的な価値観も大きく揺らいでいたことが、
孔子を動かした大きな要因ともいえるでしょう。
詳しく説明すると、恐ろしく長い文章になりますので、
孔子とかかわりがある部分だけピックアップします。

春秋末期になると、いわゆる下剋上という現象がつよくなり、
孔子の住んでいた魯という国(諸侯の国)でも、
魯の君主はほとんど権力を持つことができず、
国の実権を三桓氏と呼ばれた3つの貴族が握っていました。
ちなみに、三桓氏は魯の桓公の子孫に当たり、
魯の君主にとっては親戚にあたります。
周の封建制は血のつながりによるもので、
周王が親族を諸侯に任命し、
諸侯は自分の親族を卿や大夫などにして政治を行っていました。
諸侯国では、卿や大夫などの階層が力をつけ、
君主を凌駕するようになったというわけです。
しかし、下克上の恐ろしいところはこれだけでとどまらず、
三桓氏のリーダー格の季孫氏では、重臣の陽虎という人物が
この家の実権を握っており、
魯の国を実質動かすのは、魯の君主の家臣の家臣(陪臣という)
にあたる陽虎だったのです。


孔子の教えの概略は
『仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』(論語) 孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた(白川静説)。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。

孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方がある。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。
メンテ
儒教(論語の世界) ( No.216 )
日時: 2017/12/18 18:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6LrZIwTE

孔子の論語紹介
孔子の言葉で一番記憶にあるのが、

子曰、

>「吾十有五而志于学。
三十而立。
四十而不惑。
五十而知天命。
六十而耳順。
七十而従心所欲、不踰矩」。


「吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑はず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(したが)ふ。
七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず」。


[要旨]
孔子が一生を回顧して、その人間形成の過程を述べたもの。


[口語訳]
子曰く、、
「私は十五歳のとき学問に志を立てた。
三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。
四十歳になると、心に迷うことがなくなった。
五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。
六十歳になると、人の言うことがなんでもすなおに理解できるようになった。
七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、
人の道を踏みはずすことがなくなった」と。
論語の名言集
子曰、學而時習之、不亦説乎、
有朋自遠方来、不亦樂乎、
人不知而不慍、不亦君子乎、
(出典:学而第一1)

書き下し文
子曰く、学びて時に之(これ)を習ふ。
亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
朋(とも)有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。
人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや

通訳
孔子は言った。
物事を学んで、後になって復習する。
なんて悦ばしい事だろう。
遠くから友達が自分に合いに訪ねてくる。
なんて嬉しい事だろう。
他人が自分をわかってくれないからって
恨みに思う事なんてまるでない。
それでこそ君子というものだ。

解説
論語の中でも特に有名な一節。
中学校の授業で習った記憶がある方も
少なくないと思います。

勉強は強制されると嫌なものですが、
本来は、自分の成長を実感できる
楽しいもののはずです。
この姿勢は、大人になってからも
大事にしていきたいものですね。


>子曰、巧言令色、鲜矣仁、


書き下し文
子曰く、巧言令色、鮮(すく)なし仁。

通訳
孔子は言った。口先が上手で
顔つきをころころ変える人間が、
仁者であることはめったにない。


解説
仁者とは、思いやりのある人の事。
口が巧くて世渡り上手の人間に限って
案外中身が薄っぺらいものだという教訓です。

この一節は、学而と陽貨に
全く同じものが登場しています。
孔子自身の経験として、
「巧言令色」な人間をたくさん
見てきた上での教えなのでしょうね。


>不患人之不己知、患己不知也

書き下し文
子曰く、人の己を知らざるを患(うれ)えず、
人を知らざるを患うるなり。

通訳
孔子は言った。
他人が自分を分かってくれない事よりも、
自分が他者の価値を
認めようとしない事の方を心配しなさい。

解説
他人が自分を理解してくれないという悩みは
人なら誰しも一度は持つものですが、
孔子はそれよりもまず、
自分から他者の良いところを知る
努力をすべきだと説いています。


>君子周而不比、小人比而不周

書き下し文
子曰く、君子は周して比せず。小人は比して周せず。

通訳
孔子は言った。
君子は誰とでも分け隔てなくつき合うが、
つまらない人物は限られた狭い関りしか
もつことができないものだ。

解説
君子とは、徳がある
立派な人物の事を指します。

徳のある人の周りには
自然と人が集まってくるものですね。


>攻乎異端、斯害也己矣

書き下し文
子曰く、異端を攻(おさ)むるは斯(こ)れ害あるのみ。

通訳
孔子は言った。
自分と異なる考えを持つ人を
攻撃しても、害があるばかりだ

解説
自分と違う意見を持つ人こそ
自分を成長させてくれる存在です。


>人之過也、
各於其黨。觀過斯知仁矣。

書き下し文
子曰く、人の過ちや、
各々其(そ)の党に於(お)いてす。
過ちを観みて斯(ここ)に仁を知る。

通訳
孔子は言った。
人の過ちにはそれぞれ癖がある。
過ちを見れば、その人が
どういうタイプかが分かる

解説
この言葉には思わず頷いてしまいました。
古代中国でも現代日本でも、
人の本質が出るポイントは
変わらないのですね。

ちなみに私はせっかちで、
よく人の言葉を早とちりして
失敗します(笑)


>朝聞道、夕死可矣

書き下し文
子曰く、朝(あした)に道を聞かば、
夕(ゆうべ)に死すとも可なり

通訳
孔子は言った。
もし朝に真実の道を知ることができたならば、
その日の夜に死んでしまってもかまわない。

解説
養老武氏のバカの壁にも引用された言葉。
孔子の真理に対するひたむきさが表れています。

真理の探究者という面では、
孔子はソクラテスにも似ていますね。


>君子喩於義、小人喩於利、

書き下し文
子曰く、君子は義に喩(さと)り、
小人は利に喩る。

通訳
孔子は言った。
よくできた人物は何をなすべきかを考え、
つまらない人物は何をすれば得かを考える

解説
自分の身を正してくれる言葉その@。
日常の忙しさにかまけていると
ついつい目先の利益を追ってしまいがちです。


>知之者不如好之者、
好之者不如樂之者

書き下し文
子曰く、これを知る者は
これを好む者に如(し)かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

通訳
孔子は言った。
ある事に知識のある人であっても、
その事を好む人には及ばない。
また、その事を好む人であっても
その事を楽しむ人には及ばない。

解説
「好きこそものの上手なれ」ですね。
スポーツであれゲームであれ、
心から楽しんでやってる人には誰も敵いません。


以上、きりがありませんが、どれをとっても現代社会にも通じるものですね。

儒教と言うのは、孔子の教えを出発点に、色々な時代に、いろいろな人たちによって継承されてきた思想全体を言います。
とりあえずは孔子以降、紀元までの数百年の流れを下に説明します。

春秋時代の周末に孔丘(孔子、紀元前551年‐紀元前479年)は魯国に生まれた。当時は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

孔子の弟子は3000人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[11]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。
これらを合わせて儒教と呼んでいた。



メンテ
江戸の朱子学と武士道 ( No.217 )
日時: 2017/12/18 18:39
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6LrZIwTE

儒教のその後、
中国において儒教は次の様に連綿と続いていた。
ただし、はっきりとしておかねばならないのは、儒教は宗教ではないと言うこと。

紀元前後からの時代考証。

秦  法家以外の儒教を禁じた



宋  朱子学の登場




と続き、時代毎に変遷はありましたが、常に治世の学問とされていました。

(朱子学)

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。

陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。

王 陽明、 成化8年9月30日(1472年10月31日) - 嘉靖7年11月29日(1529年1月9日)は、中国の明代の儒学者、思想家、高級官僚、武将。思想家として朱子学を批判的に継承し、読書のみによって理に到達することはできないとして、仕事や日常生活の中での実践を通して心に理をもとめる実践儒学 「陽明学」 を起こした。

この陽明学は、江戸時代の日本にも伝えられ、大塩の乱を起こした元与力大塩平八郎や、倒幕運動した幕末維新の志士を育て、自らも安政の大獄に刑死した長州藩の吉田松陰らは、陽明学者を自称している。

非常に難解とされ訳されたことが無かった「公移」は、難波江通泰による詳細な訳注で『王陽明全集』第5巻(1985年、明徳出版社全10巻)にて刊行。同じ版元で岡田武彦(1908年−2004年)の『全集』にも王陽明関連の著作が半数以上ある。



儒教は5世紀のころから日本へ伝わっていますが、本格的に取り入れられたのは江戸時代からと言えましょう。

朱子学の登場

戦国時代は徳川家康が天下をとったことで終焉し、時代は江戸時代へと変化していくことになります。江戸幕府は、戦国時代へと戻らないように(つまり他の武将から謀反をおこされないように)、様々な方法で国の整備を行なっていきます。外様大名を江戸から遠い場所に配置したり、士農工商の身分制度を作り、安定した封建社会を作ったこともその一環です。

そんな中で、武士が学ぶべき学問というものも変化しました。信仰や武力ではなく、道徳や礼儀によって社会秩序を守ろうとする朱子学が盛んになります。

日本の朱子学は藤原惺窩によって確立され、弟子の林羅山の手によって幕府に取り入れられるようになります。

林羅山は、空は高く地は低いのように、万物には必ず上下があると考えました。これは人間社会においても同じで、父と子や主君と家来のように、上に来るものを敬わなければならないと説いたのです。この考え方は上下定分の理と言い、幕府の考える秩序と一致するものだったのです。

ちなみにこの林羅山ですが、方広寺証明事件の火付け役であるとも言われています。家康から4代将軍家綱の5代にわたって徳川家につかえ、江戸幕府の礎を築きました。

藤原惺窩、林羅山の朱子学の流れは、木下順庵(5代将軍徳川綱吉につかえる)、新井白石(6代将軍徳川家宣、7代将軍徳川家継につかえる)、室鳩巣(8代将軍徳川吉宗につかえる)、雨森芳洲らに引き継がれ、朱子学は江戸幕府を支える学問となりました。
地方での朱子学の流れ

朱子学がさかんだったのは、江戸幕府だけではありませんでした。土佐では南村梅軒が南学(海南学派)と呼ばれる朱子学の宗派を築き、その流れが谷時中、野中兼山、山崎闇斎らに引き継がれてきました。


江戸時代の武士道は、倫理、道徳感で朱子学をそのまま取り入れたようなものです。
明治維新後、武士道と言えば日本人の基本的な思考方法の様に思われていました。

特に外国人に取っては。
メンテ
荻生徂徠と江戸朱子学の全盛期 ( No.218 )
日時: 2017/12/18 18:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6LrZIwTE

(江戸時代の朱子学)

江戸時代の朱子学は単に人々の規範である以上に治世の為というよりも政策を立案する上でも重宝され、学問としても見事に花が咲いたようです。
ここまで儒教が国民の生活に体系付けられて溶け込んだ例はない。
孔子のころの儒教とはまるで違う様相です。
この記事の後半で荻生徂徠の人物を語る際に説明します。


朱子学の教理は、仏教や道教の刺激を受けながら形成されたものである。
朱子学の重要な概念に「気」と「理」がある。「気」とは、物質であり、時にはエネルギーを表している。「理」とは、感応する世界(変化する世界)を司る「法則・秩序」のことである。

「理」は「気」がない限り自己を現せない。また「気」はそれが「物」として認識できるときは必ずそこに「理」が存在するという。
この説明を読んで、仏教でいう色即是空の、「色」と「空」の関係に似ていると感じた。さらに、仏教思想においても「理」は重要な語として現れる。「理法」や「道理」という言葉が思いつく。「理法」は「法則・秩序」に近い概念だと思われる。
本書には、儒教、仏教、道教の合一を説いた「三一教」説のことが書かれているが、これら3つの思想は互いに影響を受けながら発展したのではないかと思われる。

朱子学は極めて厳格な道徳主義を持つ。また、「一物一理」という理論を有する。
一物一理とは、1つの物(事態)には1つだけ理(秩序、法則)があるという主張である。
また、朱熹は「心」を「性」と「情」に分ける。「情」とは「気」であって、我々が経験できる形而下の心の動きである。そして、「性」とは「理」であり、心の動きの秩序・法則など形而上のものである。
朱子学の特徴は、世界の構造から心の構造までを統一的体系的に論じている点にある。
朱子学も陽明学もともに「心」を最大の関心事としていた。

もともと「心」を強調したのは禅宗である。中国においては中唐以降、禅宗と浄土宗が仏教の中心となっていく。浄土宗においても唯心浄土の思想が強くなったと言われる。このように「心」に全関心を集中させていく傾向が儒学にも取り込まれ、道学に結実していく。
ただ、ここで「心」という漢字で表現されるものが、仏教と儒教で同じものを指しているのか(即ち同一の概念なのか)は、(個人的には)少々疑問な点もある。

著者は、儒学は軍人のための思想ではなく、官僚の思想であるという。
江戸時代の武士は文武両道を標榜し、荻生徂徠は中国も古代は文武両道であったなどと言って、儒教を武家社会に適合させようとした。儒教は確かに武士を中心とする官僚社会に倫理性を賦与したのである。

ここで、朱子学と伊藤仁斎、荻生徂徠の関係を簡潔に引用する。
伊藤仁斎は朱子学を踏み台にして、反朱子学を展開していく。これは言わば仁斎学と呼ぶべきものである。
そしてこの仁斎学を超克すべく登場するのが荻生徂徠である。
心に具わる理を原理化する朱熹と、朱熹を否定することで「日常実践道徳」こそが道の本質であるとする伊藤仁斎、さらに仁斎は個人道徳しか考えていないとして、社会全体の組織や制度を見る視点を持つのが儒教の本質であるとするのが荻生徂徠である。

江戸時代の武士道は、まさに朱子学が唱える倫理、道徳感を取り入れたものであると言える。


(荻生徂徠の主張)

徂徠は、江戸の社会が綱吉の治世の頃から大きく変容しており、貨幣・商品・市場の力が浸透して、伝統的な人間関係が、人々の気付かないうちに解体を始めたことや他人に気を配ることを忌避するあり方「面々構」という印象的な言葉で表現しました。
このように現実を捉えた徂徠は、政教分離を説き、その全面的な制度改革を吉宗に訴えた訳です。

・困窮が社会の混乱の原因になるため、国を豊かにすることが治世の根本と考え、
・人と土地との結びつきを、戸籍や旅券などによって把握することを提案
・武士や百姓と土地の関係を重視する反面、商人の商売はそれとは異質であることを認め
・自然に発生する風俗と、人為によって定めた制度を区別
・誠の制度として歴史感覚や程度問題を考慮すべき
・制度においては、それによって倹約も可能となることから、各々の分限や節度を重視
・人を使う道と、人が取り扱う法は区別。人があっての法であり、その上での法による支配の重要性を説き
・人の住処をはっきりさせて、適切な制度を立てることによって、経済は適切に動いて世界は豊かになる
と考えたのでした。

では、そのエッセンスを抽出してみましょう。

【困窮と富豊】
経済を論じるためには、困窮の悲惨さを考えておくことが重要
困窮が礼儀作法の喪失につながるため、困窮を病気に例え、国家においては困窮しないのが治めの根本であるということです。
古代の聖人が立てた法制の基本は、上下万民をみな土地に着けて生活させることと、そのうえで礼法の制度を立てることであるというこです。

【風俗と制度】
武士は米を貴ぶ気持ちを無くしてお金に執着するから、商人にいいようにお金を吸い取られて困窮すると考えられています。
落ち着かない風俗においては、法律も上のものが下を思いやることなく勝手に定めるため宜しくないというのです。
制度とは、分限を立てて世界を豊かにするものなのです。
少し注意が必要なのは、風俗によって自然と成立したものは制度とは認められていないことです。

【誠の制度】
誠の制度とは、時代によって変わることない人情をもって、過去を顧みて未来を憂うことによってもたらされるのです。
さらにその制度は、質素がよくても質素過ぎてはよろしくなく、華やかであっても華やかすぎてもよろしくなく、すなわち程度を考慮すべきことが示されているのです。

【制度と人の関係】
下の者は、天下世界のために心身を労することがないと考えられています。そのため、上の者が天下世界のために心身を労して考え、末永く続き万民のためになる制度を立てるべきことが語られています。
また、徂徠は、〈総じて天地の間に万物を生ずる事、おのおのその限りあり〉という考えに立って、各人の分限に応じて、限りある資源を配分すべきことが語られています。
その上で、制度を立てることによって、分を守るようにするというのです。
国の秩序を守るには、人に道義を説いたところで何の解決にもならない、筋道だった計画、新たな制度が必要だと徂徠は断言しています。

【人材育成】
人は用いて始めて長所が現れるものなので、人の長所を始めから知ろうとしてはいけないのです。
その上で、人はその長所だけを見ていればよいし、短所を知る必要はありません。
なお、自分の好みに合う者だけを用いることのないようにし、用いる際には小さい過ちをとがめず、その仕事を十分に任せるのです。
器量をもつ人材であれば、必ず一癖あるものなので、癖を捨てず、ただその事を大切に行えばよいのです。
上に立つ者は、己の才智によらず、下の者と才能や知恵を争うことなく、その「才智」をみぬき、それを用いる力量に求めました。
良く用いれば、事に適し、時に応じる程の人物は必ずいるものです。
「言語・容貌」を慎み、下の者を大切にし、その力をふるわせる作法こそは指導者たる者が身につけておかねばなりません。

【万民と土地】
戸籍や路引などの政策から分かるように、徂徠は人と土地との結び付きを重視しています。
特に武士については、〈身貴ければ身持も自由ならず、気の詰る事がち也〉とあるように、武士の気苦労がしのばれます。
万民についても、土地と結び付けることの重要性が指摘されています。
ただし、商人は、急に大金持ちになったり、一日で没落したりして、定めなく世を渡る者だというのです。
それに対し、武士階級や百姓は、土地との結びつきが強いため、それを考慮する必要がありますが、商人は勝手に商売してろということです。

そもそも都市と田舎の境界がなくなってしまったのが、この境界ができていないため、どこまでが江戸の内で、ここから田舎という限度がなくなってしまっているというのです。
勝手に家を建てならべていった結果、江戸の範囲は年々に拡がってゆき、誰が許可を与えたというわけでもなく、奉行や役人の中にも誰ひとり気がつく人もいない間に、いつの間にか北は千住、南は品川まで家つづきになってしまった。
従って、都市と田舎の境界がなければ、農民はしだいに商人に変わっていき、生産者が減少して国は貧しくなるものであるというのです。

【法と道】
法を立てずに何でも自由にできてしまうことを戒めています。さらに、罰則を伴う法による支配を提示しています。
法と人の関係については、法は人次第であり、人が法を取り扱うところにおいて、道があらわれます。
人を知り、人をつかうことにおいて道があり、その取り扱うものとして法があるのです。
とるべき方法としては、政治の根本に立ち返って、やはり現在の柔弱な風俗をもとにし、古代の法制を勘案して、法を立て直すのが肝要ということです。
政治の根本は、とにかく人を地に着けるようにすることであって、これが国を平和に治めるための根本なのであるとしています。

【戸籍と路引】
国を豊かに富ますことが、治めの根本であると徂徠は考えています。
治めの根本は、人が土地に根付くことであり、そのために戸籍・路引の二つが必要ということです。
戸籍によって国民の所在をはっきりさせなければ、世の中は混乱するということです。
路引とは旅券のことです。人の移動を、路引によってはっきりさせよということです。
この戸籍と路引の二つによって、国民の居場所を把握することの重要性が示されています。
自由すぎると、害悪が多くなるというのは重要な指摘です。

とにかく戸籍の法を立てて、人を土地に着けるという方法が、古代の聖人の深い知恵から出たものであることをよく理解しなくてはならないということです。
根本を重んじて、枝葉末節を抑えるのが、すなわち古代の聖人の原則。
根本というのは農業であり、末節というのは工業や商業です。
工業や商業が盛んになると農業が衰えるということは、歴史上の各時代を見ても大体そのとおりで、これもまた明らかな事実であるということです。

徂徠は、結論として、国民の住処を把握し、それぞれに合った制度を立てることで、世界の流通が活発に動いて経済が正しく直り、豊かさがもたらされると説きました。
そして、天下を治める道とは、民が安心して生活できること(経世済民)であり、そのためには儀礼・音楽・刑罰・政治などの制度(礼楽刑政)を用いて、人民の意見や才能を育み、発揮させることが肝要であるとしたのです。
さらに、六経に記された礼楽刑政を知るためには、古文辞(古語)を学ばねばならない(古文辞学)と唱えた人物でした。

メンテ
西欧文明による日本文明への侵略 ( No.219 )
日時: 2017/12/19 11:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:SnaWzQPk

論語の始祖、孔子が登場した時代は治世の安定を希望した群雄割拠時代の末期、江戸の朱子学が登場したのは、独川幕府の登場で戦国期を終えた時期。

儒教そのものの内容は、倫理、道徳律が主体でギリシャ哲学の、それのように人間社会の永遠の課題。
結果として江戸時代は幸せな時代であったと言える。
江戸時代の貧困は、自然災害に基づく飢饉が主な原因で、貧しくとも安定した社会が維持されていた。
最も士農工商などの身分社会であったし、大名など保護された特権階級はいたが。
かれら為政者が誠実であれば問題はなかったし、不誠実と言っても現代社会ほど悪辣な奴は出なかった。
でも、それは封建時代である事を前提としたもの。

人間社会の発達は、王権国家、専制国家を経て民主主義国家の時代となる。
そこで解放された人間の自我(欲望)は、倫理、道徳律では抱合できなくなる。
そう言う時代の流れが江戸時代の終わりには日本にも押し寄せてきた。
鎖国していると言いながら、西欧の文化は我が国にも長崎を手始めに入ってきた。
医学、科学、政治学など、ほとんどの知識が洋学として我が国にも浸透してきた。
時を経て、それが日本中に認知され価値観の転換を促した。

要するに西欧文化、文明が日本に上陸し、徐々に日本文化、文明を冒し始めたのである(置換されていった)。
歴史家のアーノルド・トインビーは、この様子を西欧文明によって日本文明が停滞したとか、休止したとか言っている(文明の衝突)。
文明の衝突と言っても南米諸国がスペインなど西欧諸国に蹂躙され破壊されたのと違い、平和裏に行われた。

その後の歴史の流れを考えて、それは日本にとって悪いことではなかった事は確かである。
ですが、西欧文明も欠陥のない文明でもなかった。
それが現代社会の矛盾として現れてきている。

実際に住んでいる社会にいると、それ以外の社会の認識は忘れてしまう。
新しい社会の有り様を模索するためには、多くの情報も得たいもの。
そう言う意味で歴史を検証する必要がある。

改めて、
江戸時代まではあったもので、江戸時代に無くしたもの。
明治維新まではあったもので、明治維新後に無くしたもの。
それは何であろうか。

このスレッドの主体は、飽くまでも日本人の心のルーツを探るもの。
日本人の心のルーツのうち、自然との協和性などは、西欧文明の影響も比較的少なく続いているものとみる。
その根拠は、宗教的なもので仏教、神道などの多神教民族の特徴と思う。
キリスト教、イスラム教などが入ってきたが、日本人の大半は、まだまだ仏教、神道を思っている。
時代と共に変遷するのは、人生を思う心情である。
これが社会、政治に作用する。

江戸時代にあって、西欧民主主義の影響で変質したものに、荻生徂徠に代表される、江戸朱子学の精神である。
最も明治時代と言われる時期は、江戸朱子学の精神も概ねは引き継がれてはいた。
現代社会が江戸朱子学の社会と異なるのは、どのような面であろう。

ここで、
荻生徂徠の主張を繰り返し、現代社会のそれと比較してみます。
(まとめ)
・困窮が社会の混乱の原因になるため、国を豊かにすることが治世の根本と考え、
・人と土地との結びつきを、戸籍や旅券などによって把握することを提案
・武士や百姓と土地の関係を重視する反面、商人の商売はそれとは異質であることを認め
・自然に発生する風俗と、人為によって定めた制度を区別
・誠の制度として歴史感覚や程度問題を考慮すべき
・制度においては、それによって倹約も可能となることから、各々の分限や節度を重視
・人を使う道と、人が取り扱う法は区別。人があっての法であり、その上での法による支配の重要性を説き
・人の住処をはっきりさせて、適切な制度を立てることによって、経済は適切に動いて世界は豊かになる

※ 荻生徂徠の基本的問題は、彼は御上(為政者)が常に善なるものである事を想定している。
  朱子学者としては、朱子学にのっとった御上は必然的に、そうなるものとして論理を進めている。
  学者の傲慢であろう。
  現代社会に置ける一番の問題は為政者と民衆の対峙の問題である。
  これに関しては、全く触れてはいないところに、単なる理想論と片づけることも出来る。

では、そのエッセンスを抽出してみましょう。

【困窮と富豊】
経済を論じるためには、困窮の悲惨さを考えておくことが重要
困窮が礼儀作法の喪失につながるため、困窮を病気に例え、国家においては困窮しないのが治めの根本であるということです。
古代の聖人が立てた法制の基本は、上下万民をみな土地に着けて生活させることと、そのうえで礼法の制度を立てることであるということです。

>荻生徂徠は朱子学の精神(礼儀、作法)を充足する為に、国民が困窮しないように為政をするように主張している。朱子学の徹底と言う観点から結果を予測するのは如何かと思う。
だが、発想としては、経済は国民の生活に寄与するものでなければならないと言う慧眼に感心する。

※ 市場主義経済は、国家単位の経済の安定を考えることなく、その国家の政治をも経済的発展の為に犠牲にしている。
※  経済は国民の為にあるのであって、経済の為に国家、国民があるのではないと言うことを高らかに宣言している。

【風俗と制度】
武士は米を貴ぶ気持ちを無くしてお金に執着するから、商人にいいようにお金を吸い取られて困窮すると考えられています。
落ち着かない風俗においては、法律も上のものが下を思いやることなく勝手に定めるため宜しくないというのです。
制度とは、分限を立てて世界を豊かにするものなのです。
少し注意が必要なのは、風俗によって自然と成立したものは制度とは認められていないことです。

>面白い事を言っている。現代で言う拝金主義を批判し、そういう心情が国民の為の経済を破壊すると言っている。
為政の為の立法作業は、表面的な事象に流されないで、朱子学の精神、自然の理にのっとり施行すべきと言っている。

※ 我々が受け入れている資本主義は、自動的に拝金主義となり、拝金主義を非難する気持ちも起きないのが現実。

【誠の制度】
誠の制度とは、時代によって変わることない人情をもって、過去を顧みて未来を憂うことによってもたらされるのです。
さらにその制度は、質素がよくても質素過ぎてはよろしくなく、華やかであっても華やかすぎてもよろしくなく、すなわち程度を考慮すべきことが示されているのです。

>誠の意味を正義とするか誠実とするか。
いずれにしても、これも時代の流れに流されないで、朱子学で言う真実を求めよと言っています。
ただし、質素すぎても、華美過ぎても良くないなどと言うくだりは、現代では通用しない考え方。
※ 西欧民主主義による個人の権利、自由の主張は「誠」と言う社会の共通概念を希薄なものとしてしまっている。

【制度と人の関係】
下の者は、天下世界のために心身を労することがないと考えられています。そのため、上の者が天下世界のために心身を労して考え、末永く続き万民のためになる制度を立てるべきことが語られています。
また、徂徠は、〈総じて天地の間に万物を生ずる事、おのおのその限りあり〉という考えに立って、各人の分限に応じて、限りある資源を配分すべきことが語られています。
その上で、制度を立てることによって、分を守るようにするというのです。
国の秩序を守るには、人に道義を説いたところで何の解決にもならない、筋道だった計画、新たな制度が必要だと徂徠は断言しています。

>人格論を言っているのであり、朱子学としては、これを言うのが使命と思うが、実際には、そうは行かないことが多すぎる。
まあ、せいぜい多くの人が朱子学を学んで身に着けることだ。

【人材育成】
人は用いて始めて長所が現れるものなので、人の長所を始めから知ろうとしてはいけないのです。
その上で、人はその長所だけを見ていればよいし、短所を知る必要はありません。
なお、自分の好みに合う者だけを用いることのないようにし、用いる際には小さい過ちをとがめず、その仕事を十分に任せるのです。
器量をもつ人材であれば、必ず一癖あるものなので、癖を捨てず、ただその事を大切に行えばよいのです。
上に立つ者は、己の才智によらず、下の者と才能や知恵を争うことなく、その「才智」をみぬき、それを用いる力量に求めました。
良く用いれば、事に適し、時に応じる程の人物は必ずいるものです。
「言語・容貌」を慎み、下の者を大切にし、その力をふるわせる作法こそは指導者たる者が身につけておかねばなりません。

>これは人生訓の類であり、何時の時代でも共通することですが、実際はこのように行かない場合が多い。

【万民と土地】
戸籍や路引などの政策から分かるように、徂徠は人と土地との結び付きを重視しています。
特に武士については、〈身貴ければ身持も自由ならず、気の詰る事がち也〉とあるように、武士の気苦労がしのばれます。
万民についても、土地と結び付けることの重要性が指摘されています。
ただし、商人は、急に大金持ちになったり、一日で没落したりして、定めなく世を渡る者だというのです。
それに対し、武士階級や百姓は、土地との結びつきが強いため、それを考慮する必要がありますが、商人は勝手に商売してろということです。

そもそも都市と田舎の境界がなくなってしまったのが、この境界ができていないため、どこまでが江戸の内で、ここから田舎という限度がなくなってしまっているというのです。
勝手に家を建てならべていった結果、江戸の範囲は年々に拡がってゆき、誰が許可を与えたというわけでもなく、奉行や役人の中にも誰ひとり気がつく人もいない間に、いつの間にか北は千住、南は品川まで家つづきになってしまった。
従って、都市と田舎の境界がなければ、農民はしだいに商人に変わっていき、生産者が減少して国は貧しくなるものであるというのです。

>面白い事に着目しています。
人間として安寧な生活を送るにおいて、自然との結びつきを無視できない事は、現代社会でも同じですが、現代人はあえて、それを理解しない人も多くなってきている。
ただし、人口が大幅に増え、大都市に集中する現代では、すべての人に、その環境を与えることが難しくなっている。

※ 土地問題の管理は、国民経済を考える上で大変大きな要素である。
考えられるのは、全国のインフラを万遍なく配置し、土地の利権を大きくしないこと。
また、それによって全国の土地を、より有効に使うべきである。

【法と道】
法を立てずに何でも自由にできてしまうことを戒めています。さらに、罰則を伴う法による支配を提示しています。
法と人の関係については、法は人次第であり、人が法を取り扱うところにおいて、道があらわれます。
人を知り、人をつかうことにおいて道があり、その取り扱うものとして法があるのです。
とるべき方法としては、政治の根本に立ち返って、やはり現在の柔弱な風俗をもとにし、古代の法制を勘案して、法を立て直すのが肝要ということです。
政治の根本は、とにかく人を地に着けるようにすることであって、これが国を平和に治めるための根本なのであるとしています。

>順法精神を説いている一方、行政による法の裁量権に言及し、法一途ではなく人をみて個別に考えることの必要性を言っています。
現代社会で冤罪が多発しているように、法の執行には十分な注意が必要であり杓子定規な運用は問題を起こすと言うことを、この時点で述べています。
ですが「法」そのものの有り様、立法の難しさについては言及していません。

※ 荻生徂徠も言っているように、古くなった法の改変が必用であるが、官僚共は己の利権確保のために、それを行わないばかりか、自分たちの利権確保の為の法律を作る有様である。

【戸籍と路引】
国を豊かに富ますことが、治めの根本であると徂徠は考えています。
治めの根本は、人が土地に根付くことであり、そのために戸籍・路引の二つが必要ということです。
戸籍によって国民の所在をはっきりさせなければ、世の中は混乱するということです。
路引とは旅券のことです。人の移動を、路引によってはっきりさせよということです。
この戸籍と路引の二つによって、国民の居場所を把握することの重要性が示されています。
自由すぎると、害悪が多くなるというのは重要な指摘です。

とにかく戸籍の法を立てて、人を土地に着けるという方法が、古代の聖人の深い知恵から出たものであることをよく理解しなくてはならないということです。
根本を重んじて、枝葉末節を抑えるのが、すなわち古代の聖人の原則。
根本というのは農業であり、末節というのは工業や商業です。
工業や商業が盛んになると農業が衰えるということは、歴史上の各時代を見ても大体そのとおりで、これもまた明らかな事実であるということです。

徂徠は、結論として、国民の住処を把握し、それぞれに合った制度を立てることで、世界の流通が活発に動いて経済が正しく直り、豊かさがもたらされると説きました。
そして、天下を治める道とは、民が安心して生活できること(経世済民)であり、そのためには儀礼・音楽・刑罰・政治などの制度(礼楽刑政)を用いて、人民の意見や才能を育み、発揮させることが肝要であるとしたのです。
さらに、六経に記された礼楽刑政を知るためには、古文辞(古語)を学ばねばならない(古文辞学)と唱えた人物でした。

>戸籍制度と言うものは権力者が年貢を間違いなく搾取する目的で作ったもの、それを国家運営の指標として取り入れるように提案しているのは、世界に先駆けていると思う。

※ ただし現代人は、戸籍によってプライバシーが侵害されるなど、これを否定する向きもある。
何でもかんでも自分中心で考える、現代人の我儘である。

(終わり)


西欧文明の流入と共に ※印で書いた様な要素が加わり、現代社会へと移り変わって行く。
メンテ
戦国時代 ( No.220 )
日時: 2018/02/13 14:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:c14jX/pY

室町時代から先に江戸時代の考証の一部へ飛んでしまいましたが、それめでの戦国時代の意義は大きなものがあります。
飛鳥・平安時代の貴族中心の社会に変り、鎌倉時代に始まった庶民の力が広まってきている事を示しています。

とりあえずはウィキペディアによって概観することにします。

日本の戦国時代は、日本の歴史において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。

慢性的な紛争状態が続いた時代だが、毎日が戦争状態にあったわけではない。室町幕府によって保証されていた古い権威が否定され始め、守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。中には家臣が盟主を追放して下剋上により地位を手に入れた者もおり、様々な経歴の戦国大名が登場する。

(経済と社会)

戦国時代は小氷期の到来と一致しており、一部識者はこの寒冷化による農作物の減少が戦国時代の原因という説を発表している[10][11]。東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は幕府体制の崩壊の一因となった。そして自国の領民を救うには他国の富・食糧を奪う必要が生じてそれが戦乱を生んだという見方もある。

戦国時代は戦乱の影響もあって人や物の流動が活発化し、貨幣の持つ相対的な価値が向上した。戦国時代初期には勘合貿易および一種の密貿易である私貿易といった明との貿易や南蛮貿易によって、明から舶来品だけでなく大量の銅銭の導入を図り、貨幣経済の確立をなしとげる段階にあった。また、ヨーロッパ人の来航とともに金銀比価の関係から、金銀の輸出入が盛んになった。世界遺産にも登録された石見銀山に代表される、金山・銀山の運営が経済の発展に伴い重要性を増した。この頃、金銀の品位改善のための灰吹法や砂鉄による鑪生産などといった新技術も導入された。金山・銀山の保持が主目的の城砦も築かれ、金山・銀山といった権益が絡む戦国大名同士の争いが繰り広げられることもあった。

1568年に織田信長が上洛するとこれまでの座、問丸、株仲間を排斥し楽市・楽座により自由な市場取引を推奨した。その後の豊臣政権においても直轄地および全国の大名領において楽市・楽座が推進された。 市場取引の活発化にも伴い、これまでの領国貨幣から、統一貨幣の発行も秀吉により行われた。

その一方で農村部では各地に存在した荘園は戦国大名や国人領主による押領の対象となり、荘園制は解体する。だが、徴税体制の中に依然として従来の名体制・職の体系を継承した部分も残されたものの、次第に大名主導による年貢などの負担の平均化が進められた。また、一地一作人原則が確立されて土地に対する借耕が盛んになり加地子・作徳分が成立するようになる。戦国大名の元で大規模な新田開発や灌漑整備が進められ、築城技術で培われた土木技術が農業面でも応用された。『拾芥抄』によれば100万町歩とされた全国の田畑面積が、慶長年間の慶長日本図編纂においては160万町歩であったとされている。更に各地で米以外の特産物も盛んに生産されるようになり、山城・大和の茶や紀伊の蜜柑などが知られるようになった。また、木綿栽培が普及したのもこの時期である。

商業中心地としては、ハブ港としての役割を担った堺や博多が栄えた。拠点間輸送には水運が多用され、東南アジア地域の輸送ネットワークの一部としても機能していた。堺の繁栄は特に顕著で、会合衆である納屋衆による合議制の元、自治を行い、都市全体に濠を巡らし、牢人を傭兵として雇うなど、戦国大名による支配も拒絶していた。他の都市としては、京都や、地方では山口・小浜・品川湊なども集積地や中継拠点としての役割を果たしている。

戦術の個人戦法から集団戦法への変換は、武器や甲冑の需要を増し、刀鍛冶らの職人も、それまでの銘物としての一品生産を中心とする生産方法から、ある程度の使い捨てを念頭に置いた大量生産を行うようになった。さらに、火縄銃など火器類の流入は、従来、非常時には徴発によってかなりの部分を賄いえていた軍需物資に、火薬など大量消費型の品々を加えることになり、ロジスティクスの重要性が高まった。茶屋四郎次郎のように、いわば“死の商人”として戦国大名の兵站を請け負う商人も出現した。

(文化)

戦国時代初期の文化は北山文化や東山文化と同様に、禅宗などの強い影響を受けている。下克上を旨とする戦国時代の気風は文化をも覆い、次第に豪壮を旨とする桃山文化の発露への布石となる。

特に、千利休による茶の湯の大成は、禅の思想に基づく“わび・さび”の美意識と、豊臣秀吉の発案との言い伝えを持ち、美醜について大きく意見の分かれる“金の茶室”という極限的な豪壮さを一つに内包したものと言え、今も日本文化全体に強く影響している。

戦国時代に活動した画家には雪舟等楊、雪村周継、土佐派の土佐光信、狩野派の狩野元信、長谷川等伯らがいる。また、室町時代から文芸や画を嗜む武将が現れると、現在においても作品の美術的価値が評価される武家の人物には、『鷹図』(土岐の鷹)の土岐頼芸や、『武田信虎像』・『大井夫人像』で両親の肖像を残した武田信廉らがいる。

文化の担い手としての天皇や公家は、この戦乱の時代には、文化の相伝に存在意義を見出すことを強いられ、自らも見出していた。東常縁や細川幽斎(藤孝)といった文化人の武家をも巻き込んで有職故実や古今伝授という文化の相伝を続けた。彼らは戦乱を避けて地方に疎開することもあった。土佐の南画などはそのようにして伝わった。

武家は名家のみならず、新興の勢力も文化振興に寄与している。これは、文化を取り込んで箔付けするという面が強いが、動乱の時代に文化によって心を休めるという、安らぎを求める思いのあらわれとしても捉えることができる。周防の大名・大内義隆が京の貴族を多数招いて山口を京化することに尽力したのはその例である。

(宗教)

宗教については、日蓮宗や浄土真宗といった厭世気分と免罪への求心から発しその後救世への渇望と強い結束を見せた宗派の布教が成功している。その一方、伝来したキリスト教も広がりを見せていく。

日本は飛鳥時代の仏教伝来より、神仏習合に基づいた神や仏への信仰が篤かったが、戦国時代には、さらに天道思想が戦国武将に広がり、「天運」を司るものと認識され、仏教・儒教と神道が結合した、天道思想を共通の枠組みとした「諸宗はひとつ」という日本をまとめる「一つの体系ある宗教」を形成して、大名も含めた武士層と広範な庶民の考えになり、日本人に深く浸透されるようになった。

(引用終わり)

戦国時代と言われる群雄割拠の時代が到来したのは、ある意味、大衆が力を得て、その力を糾合する事によって中央に対する地方の権力を創る事ができたと言う事になります。

上の説明の中にも地方経済が発達し貨幣の流通も盛んになった様子が話されています。
鎌倉時代以降、徐々に民衆が力をつけてきたことの証明であり、その気概を大和魂の発露としたく思います。

メンテ
大和魂 ( No.221 )
日時: 2018/02/23 23:13
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:kmUQmrcA

世界中で人間の社会と言うものは、古代の集落から始まり、やがて地域の有力者が領地を構成するようになる。
その有力者同士も、強いものに統合され国家と言う形が出来あがる。
国家と言う形になれば、統治する者と、統治されるもの、要するに民との関係がシステム化され、社会規範、ルールが確立されていく。
その形は王国と言え、古代エイジプト王国など歴史的な王国である。

王国が続くと貴族も増え、やがて貴族社会となっていく。
日本で言えば平安時代がそれにあたる。
また、王国から貴族社会が出来ると言うことは、国全体が安定し、統治者、民の関係が明白に意識されることにもなる。

統治者の方は、相変わらず自分たちの栄華の為に民から搾取する事だけを考えているが、徐々に力を付け、余裕が出来た民の方は、民自身の生活に夢、希望を募らせ、可能性を貪欲に追求し始める。

古代王国などでは見られなかった民の活力が出てくる。
それが文化、技術発達を促し、社会は民が中心でることに気が付く。

政治的には封建主義が続くが、統治者側も民の能力、活力を無視して統治する事も出来なくなった。
民主主義時代までは、まだまだであるが、社会の大勢は民の活動に移り、統治者は統治の意味での主役に過ぎなくなって行った。

文化芸術の面においても貴族文化から大衆文化が主流になってきた。
平安末期、武士の中から統治者にとって代わろうとする動きがあるが、此れも既成の統治者に変ろうとする民の力の現れである。
鎌倉時代の到来は、このような意味で、産業、文化、宗教の面で、新しい勢力が台頭した時代である。

王国時代の統治者にとって、民は服従させるべきものに過ぎなかったが、鎌倉時代にもなると、民の動向を正しく捉えなければ国家の統治も出来ないようになってきた。
現代の意味での国民の誕生である。

江戸時代に入って、強力な中央集権国家になるまでは、国家としての何の束縛も感じず自由奔放に活動していた時代である。
中央集権国家になると、産業、文化、芸術、宗教の面でも統治者側の束縛を受けるようになる。
また、中央集権を確立したと言う事は、民をコントロール出来る力を、統治者側も手にしたと言う事である。

さて、鎌倉時代に始まり室町・戦国時代を経て江戸時代までの400年間は日本の民が民としての束縛もなく、自由奔放に活動した時代であった。
この間に、天候不順の飢饉もあり、国取り争いの戦乱も絶えず、環境は厳しいものであったが、民はその中でたくましく活動を続けていた。
戦国大名も、そういう強い民の集団を率いてこそ覇権に臨めるのであった。

この間、建築、絵画、歌舞、工芸などあらゆる分野で現代日本につながるものを作っていった。
倭寇など感心する事ではないが、海外雄飛にも積極的であった。
商業も発達し戦国末期では堺などの商人の助けなくしては大名が覇権を取ることも難しいくらいであった。

私は、この時代の日本の姿を、仏教、儒教の影響を受けず、統治者の規制も受けず生きることが出来た日本人の日本人らしい面と定義付けたい。
政治的には混沌の時代であったが、民の台頭と言う意味では、この400年間に勝るものはないと思う。

標題の「大和魂」と言うのは、ここに存在すると思う。
アメリカの開拓者精神、イギリスのジョンブル魂なども、当時生活していた者にとっては、その様な気持ちなど意識してはいなかったであろう。

だが、あの時は、お互いに、こうしたことに懸命であったと言う認識が「何とか魂」ではなかろうか。
「大和魂」も、そうしたことで、戦乱の400年を生き抜いた我々の祖先の生き様のことと思えば良いでしょう。

ですが、実際に鎌倉時代から江戸時代までの人々の生き様を具体的に述べよと言われても、スラスラと言えるものではありません。
歴史的な事実も一々覚えているものではありません。

とりあえずは鎌倉時代から江戸時代への変遷は、結構複雑で多様なものであったと認識していただく事です。

日蓮の布教の様子とか
一向一揆が何故起きたとか
斉藤道三の国取り物語とか
出雲の阿国の話しとか
正宗の名刀
茶の湯の発想も、当時の権力とは相い入れぬものがあった。

多くの分野で新しいもの生み出す情熱物語が多くあります。
「大和魂」について、さらに検証してみようと思います。
メンテ
鎌倉〜戦国時代(農業) ( No.222 )
日時: 2018/02/24 23:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:WrvB6U.6

ここで鎌倉時代から戦国末期までの社会の様相、特に民と言う面から見てみましょう。

<農業>

奈良時代初期は、律令に基づいて中央政府による土地・民衆支配が実施されていたが、新しい農地の開墾が行われ、その土地は開墾した土地の所有者、主に豪族、貴族の私有を認めた。

民(農民)の多くは、その荘園に組み込まれ、領主の私有市民のように扱われていた。
開墾(荘園)が進むにつれて、まばらに住んでいた農民も自衛の為もあり集まって生活する様になってきた。

鎌倉時代の民衆といえば、ほとんどが荘園の中に住む農民でした。
荘園の中で、地頭やその他の武士は、多くの農民を支配し
年貢を取立てたり、いろいろな雑用をやらせたりしました。

荘園の農民の内、自分の土地を持つ地主を名主と呼びました。
彼らは農民ではありますが、戦のときは武器をとってこれらの武士に従いました。

名主たちは、自分で持っている田の一部は、自分で耕しましたが
残りは小作地として他の農民たちに耕させ、
それから地代(土地を借りたために地主に払う代金)を取立てました。

農民たちは、採れた米の三割から四割を年貢として
荘園の支配者である武士に差し出しました。

多いときには五割または、それ以上の年貢を出しました。
年貢の他に武士の屋敷な作ったり、橋をかけたり、荷物を運んだり
ただ働きの仕事も、しなければなりませんでした。

税として、米の他にも、畑からは麦・粟・大豆などを
産物として、漆・カキ・炭・薪・織物などを納めました。

重い年貢や、数々の労働は、みな小作人たちにかかってきました。

このような農民の暮らしは、たいへん苦しく
その住まいは、多くが一間きりの土間であったようで
そこに、むしろでも敷いて暮らしていたものと思われます。

農業技術は、平安時代の終わり頃から、非常に進んできました。
田や畑を耕作するのに、牛や馬などの家畜な使ったり、
くわやすきを使ったりすることは、ずっと前から行われていましたが
鎌倉時代には、農具がたんだん鋭いものになってきました。

また、今まで貴族・大社寺や豪族が、ほとんど独り占めにしていた農具や牛馬が
次第に豊かな農民たちにまで行き渡るようになってきました。

二毛作が行われるようになったことは、日本の農業史の上で大きな出来事ですが
これは、鎌倉時代に始まったと言われています。

まだ、耕されていない土地もたくさんありましたが、
農業技術が進むに連れて、開墾も次第に行われてきました。

関東平野も、幕府の指図で、その多くが開墾され田畑が増えました。
延暦寺の僧で、山の上から近江(滋賀県) の琵琶湖を眺めて
この広い湖を開拓して田をつくり、米の増産を計ったらよい、
と述べたものがいたと伝えられています。

生産力の向上は、農民にも領主にも、新規の意欲を生むことになった。

また、新規の武士階級の有力者は、荘園と言った土地所有の制度には納まらず自らの土地を増やし(領地)従来の土地所有の状況が変っていった。
その上に有力武士は戦国大名として覇権をめざし、軍役などで民を使うにも組織化していった。
随分と長く続いた我が国の土地の所有形態(荘園制度)は崩れて行くことになる。

同時に農民(民)も新しい感覚で民として生きる事にもなる。
統治者(大名・武士階級)と民との住み分けが始まったと言うか、民が社会の中で市民権を持ったとも言える。

農民(民)のこのような意識の変遷は、農業に留まらず他の分野でも興り、民衆の力となって社会を動かすようになってきたのである。

続く室町時代は、農業がさらに発展すると共に、商業の面でも新しいシステムを考え、飛躍的に発展する事になる。

メンテ
鎌倉時代〜戦国時代(商業) ( No.223 )
日時: 2018/02/24 23:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:WrvB6U.6

鎌倉時代になると産業の発達と共に貨幣経済が浸透していった。

年貢なども米ではなく貨幣で納めるものも出てきた。
貨幣経済の発達は、農産物を始豊富になった商品を流通させることに関連して発達したものであり。
海路、陸路も整備されて商業の範囲も全国を視野としたものとなり、力を持った商人が出現することになる。

遠隔地への金銭の輸送を手形で行う事も、商品を直接交換するのではなく中間に問屋の機能を持った商人も出てきた。

また大きな貨幣が動く事に伴い、高利貸しなども出てきた。
さらに交通(流通)の要所では定期市が立てられ、

平安時代から商業に関する座と言う組織があり、座を通して貴族との商売をし、座を取り仕切る商人には権力があったが、戦国時代の末期には織田信長が、楽市、楽座と言う名称で、一部の特権商人を排斥することによって商業がより自由に展開できるようにした。

我が国の近代化は、商業の面で鎌倉時代から始まったとも言える。
戦国大名は、この状況を良く把握しており、大名の権力を増すためにも、商業に関与し多くの富を求めるにいたる。

室町時代になると社会には武士階級(統治者)とは別に、権力を持った階級(民衆)が現れた事になる。
力を得た大商人は、国内のみならず積極的に海外貿易にも乗り出し、大名もそれに目を付け、大商人を連携して勢力拡大を計るようになる。
豊臣秀吉などは、その筆頭であるが、秀吉に関わらず薩摩、伊達、越後の戦国大名も海外との交易を重視していた。

戦国末期には次の様な大商人が登場し政治的覇権者を肩を並べる存在になっていた。

【淀屋常安】

 大坂の豪商。豊臣秀吉が舌を巻いたと言われるほどの知恵者である。天下統一後の流通機構の変動に乗じ、天下の台所と言われた大阪市場をいち早く制して成功を収めた。豊臣秀吉に仕えるが、大坂の陣に際しては徳川家康に付く。その功績により大坂での米市場の創設と独占を認められ、淀屋橋に米の取引所を開設して諸大名の蔵米を一手に扱った。水運の良さと、蔵屋敷が近いこともあり、それまで個々の商人と売買をしていた諸大名は、挙って米市場へ米を持ち込むようになり、やがて米相場が立つようになった。
 米相場では両替業も必要とされ、淀屋常安は両替商としても成功を収めた。また、大坂市場の海産物管理権も手に入れ、莫大な運上金を得ることとなった。その資産は「百万石の大名を凌ぐ」と言われ、「土蔵七三〇箇所、船舶二五〇艘、諸大名貸付金一億両、公家貸付金八○○○貫目、家屋敷五四二軒、その他、田畑、刀剣、茶器、宝飾など一億二一八六万余両」の財があったとされる。「どんなものでも、手繰り寄せれば商売になる」が口癖であり、伏見城の工事、淀川堤の土手工事など、数々の逸話が残っている。中之島の開発など、淀屋常安の事業は大坂発展の基礎となった。

【茶屋四郎次郎】

 代々、茶屋四郎次郎を名乗っているが、二代目清延は徳川家康に従って多くの戦闘に参加し、その信任も厚かった。本能寺の変を家康に伝えたのも、清延である。四代目清次は朱印船貿易に従事するとともに、糸割符制度の創設など、幕府の経済顧問としても活躍した。また、大坂の陣の際に和睦交渉を行ったのも、清次である。


【鴻池新六幸元】

 尼子家再興に尽力した戦国武将、山中鹿之助の子と言われる。清酒の醸造方を開発。それをきっかけに、運送業や廻船問屋に進出し、巨富を得た。「十人両替商」「大名貸し」で知られた鴻池の基礎を作った人物である。



鎌倉時代から戦国時代にかけて、政治の面では覇権争いに明け暮れていただけの様であるが、社会的には商業の発達を通して生活基盤、システムが著しく整備向上した時代であった。

商業の発達と共に、工芸品等への需要も喚起され、産業全体が伸びて行った良い時代であった。

正規の商業の発達以外に、倭寇などは海外で略奪を始めたのもこの時代の事である。


メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

題名 スレッドをトップへソート
名前  「名前#任意の文字列」でトリップ生成
E-Mail 入力すると メールを送信する からメールを受け取れます(アドレス非表示)
URL
パスワード ご自分の投稿文の編集、削除の際必要です。面倒でしょうが入力をお勧めします。
投稿キー (投稿時 投稿キー を入力してください)
コメント

   クッキー保存