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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2018/05/23 11:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

「大和魂」と言う言葉を使うと嫌悪感に満ちてこれを否定する人たちが多い。
まるで街宣右翼と同類に扱われる。

しかしながら先の大戦において、国を守る為に散って行った200万近い兵士の事は、どのように思われるのか。

全てが全てでないとしても「大和魂」を信じて突進し倒れた兵士の事は考えられないのか。
その「大和魂」が軍部によって利用されていたとしても当事者の兵士の責任ではない。

ここで「大和魂」をミソクソに言う事は彼らの死を馬鹿にする事になる。
調子者が騙されて死んだと言えますか。

彼等の為にも「大和魂」は正当に評価することが大事と思います。
彼等は、まさしく彼等なりの「大和魂」を持って、国を守る為に死んで行ったのです。


(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。


(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

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文明史的検証 ( No.227 )
日時: 2018/05/19 10:40
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YXzqPS3A

ここで文化と文明と言う言葉に触れてみます。


文化という言葉を辞書で引くと、

それぞれの民族・地域・社会に根付いている人間の生活様式の全体。
主に人類がつちかってきた哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動のこと。

文化という言葉は精神的な部分に重きを置いているので、機械的な発達よりも、学問や学習、人々の交流に関する事柄に用いる場合が多いようです。

英語に当てはめるのであれば

“Culture”


文明という言葉を辞書で引くと、

人知が進み世の中が開けた状態。
精神的・物質的に生活が豊かになった状態。
文采のあること。文化の行われる世。

と出てきます。

しかし現在における「文明」という言葉の概念としては、精神的な発達よりも技術・機械の発達や、社会制度の整備などに対するニュアンスの違いが強く、経済的・物質的文化の表現に用いることが多いようですね。

英語に当てはめると、人間の発達した社会状態を指す

“Civilization”

文明的生活や、機械的・科学的な発達を意味する言葉ですね。

文明と文化の違いとは?

文明という言葉は特定の地域や年代に縛られず、普遍的に使用されています。

対して文化という言葉は特定の地域、年代、歴史を表す際に用いることが多いでしょう。

また、文明という言葉は、

技術

機械

社会制度


などの発達なども含めますが、

文化という言葉はどちらかといえば精神的で、

分野

学問

芸術

宗教

などの発達や交流に使われることが多いです。

https://xn--n8j9do164a.net/archives/2960.html

とあります。

しかし、此れでは本当の概念の違いが判りません。
文明とは、ネソポタミア文明、エジプト文明、黄河文明など、大きな対象を名指しているのに対して、文化は、室町文化、平安文化、又は貴族文化などと言う用法をもち、より局所的、短期間に置ける人間社会の有り様を指しています。

先に紹介した文化と文明を規定した要素は、強いて分けられるものではなく、それらの事柄の展開の有り様の区別ではないかと思います。

別の見方、ウィキペディによると、

文明とは、人間が作り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す。

(文明の発生)

文明が発生するには、まず前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農作物の生産がなければならない。最初期の農耕はオリエントの肥沃な三日月地帯において11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。これらは、2万年前に最も寒くなった寒冷期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。この時期はBC5300年頃にはメソポタミアにおいて灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。その後、紀元前4000年ごろからはウルやウルクといった都市がメソポタミア南部に相次いで建設されるウルク期と呼ばれる時期に入り、BC3200年ごろには楔形文字が発明された。

なぜ人類社会が高度に組織化され文明が発生するようになったのかは明確にはわかっておらず、いくつかの説がある。この中で、乾燥化や地球寒冷化などによって人々がより条件の良い土地に移住して集中するようになり、その人口を支えるために大規模な農耕がおこなわれ、文明が成立したとする説がある。

(文明のゆるやかな成立)

新石器時代の狩猟採集から、原始的な農業を経て、村、町、都市へとゆっくりと発展して、文明が成立していくため、文明が一気に成立するわけではなく、文明に至る階段を登ることになる。例えば、シュメール文明は最古の文明の一つだが、BC5300年頃のウバイド文明から、ウルク期のBC3200年の文字の発明まで2000年を要している。原始的農業を経て灌漑技術を生み出し、都市を構成し、冶金技術も生まれ、神官階級が文字を生み出し、歴史時代が始まる。
また、アンデス文明は、BC1000年頃文明が発生し、AD1500年頃滅んだが、この文明において文字は存在せず、インダス文明も同様であった。冶金術はメソアメリカ文明ではあまり発達しなかった。

歴史学者、アーノルド・トインビーは、その文明論の中で文明の発祥について次の様に語っている。
文明と言われるものの発祥の前に、その集団の中に先験者と言われる者がでて、周囲の人々が、その先験者をまねる(ミメシス)事によって集団として動き出す。

この時、その集団から文明が生まれる。
そうして、文明の展開について次の様に言っている。

成立した文明社会も、やがて停滞期を迎えたり、外敵要因、自然環境によって衰退する事もある。
マヤ文明が謎の消滅をしたり、メソポヤミア文明が、過去のものとなったりする事を現している。

その過程で、文明は常に文明を衰退させる要因(挑戦)に対して常に文明を維持、発展させる力(応戦)を発揮しているのであり、応戦できなくなった文明は衰退又は滅ぶとシテいる。

先に文化と文明の定義をしたが、文明とは文化を維持する社会の力の様なものとも規定できるのではないか。
当然、成果物としての文化は残っても、力を失った文明は衰退する。

勿論、衰退、興隆と言っても明確な識別ができる訳ではない。
一方、数千年も前に衰退した3大文明に変り、現代社会には文明と言う概念はないのかと言う疑問にぶつかる。


現代社会について文明と言う言葉で説明すれば、西欧文明が世界を席巻していると言う事になる。
他にも上げるならば、それはイスラム文明であるが、残念ながら多神教に基づく東洋文明と言う概念はない。
またついでに説明すると、
マヤ、インカ文明は西欧文明によって消滅させられ、現代は西欧文明とイスラム文明が激しく衝突していると言える。

その西欧文明とは、エジプト、メソポタミア文明につづく古代ギリシャに発するものであり、中世を経て科学技術の発達した現代社会へつながるものである。

さて、その西欧文明とは、

●ギリシャ=ローマ文明と西欧文明の連続性と非連続性

 現在は世界的に近代西洋文明が広がっているので、ヨーロッパが昔から世界の中心であったかのように錯覚しがちである。しかし、今から5百年ほど前には、文明の最も進んだ地域はユーラシア大陸の主要部であるインドやシナ、イスラム地域であった。西欧は長く、こうした諸文明に対し、ユーラシア大陸の西端という辺境に位置する後進的な地域だった。
 西欧文明はギリシャ=ローマ文明の継承者というイメージを持っている人が多い。確かに継承してはいるが、単純に連続しているものではない。両文明には明らかに断絶がある。ローマ帝国は395年に、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂した。西ローマ帝国は、476年に滅亡した。これによって、西欧におけるギリシャ=ローマ文明は滅んだ。西欧文明は、この文明を生み出した民族とは異なる民族が中心となって、生み出した別の文明なのである。
 ギリシャ=ローマ文明は、環地中海圏を舞台として興亡した。ヨーロッパの南東部を中心とした。これに対し、西欧文明はヨーロッパの内陸部に発生し、南部または地中海地域だけでなく、むしろ北西部や大西洋地域で、独自の発達をした。この二つの文明の間には、連続性と非連続性がある。

 西欧文明の主たる担い手は、ゲルマン民族である。ゲルマン民族は、ローマ帝国の衰退期に、帝国各地に流入した。今のフランスの辺りであるガリア地方では、フランク族のクローヴィスが、481年にフランク王国を建国した。そして、496年には、自らカソリックに改宗した。王が回収した事によって、ゲルマン民族は、徐々にキリスト教化していった。
 8世紀前半になると、宣教師ボニファチウスがドイツに布教した。キリスト教は、ゲルマン民族の固有の信仰を否定した。自然崇拝・祖先崇拝を排除したのである。このことが、西欧文明に自然支配や個人主義という特徴を与えた。
 800年に、シャルルマーニュは、ローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を受け、カール大帝として西ローマ帝国の理念を復興した。カール大帝は、カソリック世界を統一し、また教育・文化の発展に尽力して、「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる文化再生運動を起こした。ここにギリシャ=ローマ文明とユダヤ=キリスト教とゲルマン民族の文化という三つの要素が融合し、西欧文明の骨格が出来上がった。

●統合力としてのユダヤ=キリスト教

 西欧文明は、文明を統合するための原理・制度・機構をギリシャ=ローマ文明に学んだ。たとえば、西欧文明は、ローマ法による国家・社会を目指した。その点で、ギリシャ=ローマ文明と西欧文明は、「親文明」と「子文明」の関係にある。親子といっても、主たる担い手となる民族が替わっており、文字通りの世代交代ではない。また、西欧文明が発生したときは、西欧ではギリシャ=ローマ文明は消滅している。そのため、「子文明」である西欧文明は、「親文明」に学びつつも、親の模倣に終わることなく、独自の文化を発達させることができた。
 とはいえ、諸民族・諸部族が一個の文化的統一体として結合するには、統一をもたらすものが必要である。その統合力として働いたのが、キリスト教とラテン語である。「子文明」としての西欧文明は、「親文明」としてのギリシャ=ローマ文明が残した文化的統合の象徴によって、緩やかな統一性を得た。西欧文明は、外来の宗教・言語以外に、固有の統合力を持たなかった。キリスト教とラテン語による統合は、弱い統合であるにもかかわらず、西欧諸社会に文明としてのまとまりをもたらすには十分であった。それにより西欧文明は、約千年にわたり分解することなく持続した。
 西欧文明は、ギリシャ=ローマ文明に対し、その周辺文明として発生したが、ギリシャ=ローマ文明の遺産を継承しつつ、地中海圏の他の主要文明から文化要素を摂取して成長し、主要文明の一つになったといえる。

 私は、西欧文明の三要素のうち、キリスト教が西欧文明の精神的中核となったことが、この文明の根本的な性格を定めたと思う。キリスト教は、ユダヤ教の中から、それへの批判として出現した。そしてユダヤ教から分かれ、異なる宗教として発展した。しかし、キリスト教の元祖はユダヤ教である。どこまで差別化しても、母体がユダヤ教であることは変わらない。
 ゲルマン民族がキリスト教化していく過程は、ギリシャ=ローマ文明を摂取していく過程だったが、キリスト教化を通じて、ユダヤ教の思想文化を間接的に摂取することでもあった。すなわち、ヘブライズムがヨーロッパの内陸部・北西部に伝播する過程でもあったのである。キリスト教を通じて西欧文明に流入したユダヤ教の要素が重要な作用をするようになるのは、貨幣経済が発達し、またプロテスタンティズムが台頭した15〜16世紀以降である。
 私は、キリスト教とユダヤ教の違いを認めつつ、西欧の宗教の基底にはユダヤ教の要素があることを強調する時には、ユダヤ=キリスト教と書くことにしている。ユダヤ教そのものについては、ここでは触れない。別稿で改めて書く予定である。
メンテ
文明史的検証 2 ( No.228 )
日時: 2018/05/19 10:13
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YXzqPS3A

ここで文明に触れたのは、明治維新によって日本はいきなり西欧文明の影響を受ける事になり、日本らしいものが大きく変換し始めたのを確認するためであります。

当時の社会では概ね諸手を挙げて受け入れていたもの(西欧文明)も、実は次の様な矛盾を含んでおり現代社会では、それが噴き出しているものと思う。
いきなりの結論付けの様であるが、次に紹介する文章は、西欧文明の問題点を浮き彫りにしている。
トインビーが言ったように、文明とは常に挑戦を受け、応戦してこそ発展、展開して行くものであり、その挑戦をきちんと受け止めねばならない。


http://www.alter-magazine.jp/index.php?%E2%80%95%E5%A4%A7%E8%BB%A2%E6%8F%9B%E6%9C%9F%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%9F%E8%A5%BF%E6%AC%A7%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%96%87%E6%98%8E%E4%B8%96%E7%95%8C%E2%80%95

1.西欧普遍主義の終焉による転換期時代の開幕
==============================================
 
「今、世界でなにがおこっているのか?」という疑問に対して、大まかに言っ
て二つの答え方がある。一つは、3・11大震災、地球温暖化から9・11事件
後の反テロ戦争、リーマン・ショックに至る天災と人災に世界諸国の政府が対応
に忙しい。しかし、しばらくしたら1990年代のままの世界に戻るだろう。と
いうマス・メディアに出ている答え方。もうひとつは、今、世界歴史の一ページ
が捲られようとしている。そういう大転換期の時代だという答え方である。この
小論は、後者の立場に立つ、あくまでも一つの見かたである。

 岩波文庫にも翻訳の出ているイマヌエル・カントの「恒久平和のために」とい
う世界的名著がある。国連がその提案の主要部分を実行している。近代主権国家
が市民の安全を保障する大構想を示している本書について、その邦訳者を含めて、
カントのユーモアが分からず、本当に永遠の平和が、このカントが描いた国際平
和構想のもとで保証されていると信じている。

 しかし、カントはこの本の冒頭で、「恒久平和のために」というのは、自分が
墓地で見かけた墓碑銘であることを記している。ユーモアをもって、自分の提案
しているのは、当時の西欧を中心にして確立されていた主権国家の協力のもとで
どのように国際平和を実現できるかについての提案であって、「恒久平和のため
に」というような墓碑銘に記すのに良い理想的な「恒久平和」など実現できない
し、そのことについて自分は関心がないことをいっているのである。

 実は、今日起こっている大転換は、このカントが当時の西欧で完成期にはいっ
ていた啓蒙主義の時代に考え出した国際平和の仕組みが、その平和を作り出す力
を出し尽くし、その正統性も次第に風化して、すでに末期的症状を呈している。

そういう時代に適した新しい「恒久平和のため」だけれども、現在の世界の条件
を計算に入れた平和の構想である。カントが想定し、国連が実現した主権国家や
その構成する国際機関つまり国連が中心になって実現される平和は決して「恒久
平和」ではなかったことが、いろいろな兆候から読み取れる時代に入っているの
である。

 カントが念を押したように、近代国際社会の「平和」は恒久ではない。つまり、
今起こっているのは、国家と市民の間に交わされているはずの安全保障契約が効
力を失われかけている状態がはっきり姿を現したということに他ならないのであ
る。
この「契約」では、国家が軍事力と警察力という「正統な暴力」、つまり
「殺人をする権利」を独占する、市民はこの「暴力」の国家による独占を認めて、
国家以外の武力を持つ団体は解体するが、そのかわり国家がその市民の安全のみ
ならず、その人権や福祉も保障するという契約だった。カントはこの契約が恒久
平和のもとになるものではないことを十分承知の上で、これを基盤とする国際平
和の在り方を示したのである。

 今、とくに開発途上諸国では、近代国家の成立とともに自分の軍事力を放棄し
たはずの「非国家」主体が、自分たちがその領域内に住んでいる主権国家が、自
分たちの人権も安全も保障してくれないことに対抗して、宗教単位、エスニック
集団単位などで、それぞれ独自の軍事力をもつようになっている。先進工業諸国
でも、反テロという名目、そして市民の安全を守る名目で、自衛組織が編成され
て、市民と認めていない移住労働者などを監視したり攻撃するなどして、マイノ
リティの不安全状況が拡大している。

 いうまでもなく今日でも、国家や国際機関の役割がなくなったわけではない。
しかし、ウェストファリア体制が16世紀に確立された西欧においても、今日で
は地域統合が進んで、主権国家のかなり多くの権限が、欧州人権裁判所など、欧
州規模の諸機関に移管されている。したがって、純粋なウェストファリア型の主
権国家は、事実上開発途上諸地域にも先進工業諸地域にも存在していない。かな
り乱暴なことをいえば、ウェストファリア型の大国は、日本くらいかもしれない。

 カントの現実主義的な国際秩序モデルが理想像を描き出しているウェストファ
リア体制のほころびは、国連の強化などの対症療法的な手当てでは到底現状回復
ができないところにまで広がっている。その意味で我々はポスト・ウェストファ
リア体制の入り口に立っているということができる。この新しい体制がどんなも
のになるのか、誰れにもわからない。しかし、少なくとも我々世界の市民がどの
ような構想を選び、どのような行動を取るかで、この新秩序の輪郭が描かれるこ
とはたしかで、そのことをわれわれは認識しておく必要がある。

 ウェストファリア体制の終焉は、しかし、上記の国家機能の減衰だけによって
生じているものではない。主権国家の国際政治・軍事秩序における機能変容とと
もに、その背景になっているグローバル市場の国際経済・国際金融的な機能の変
化についても理解する必要がある。いま、世界諸国のなかでも、平等な主権を持
っているはずの中小諸国は、グローバル政治経済の中で、自分たちより大きな経
済力を持つ巨大多国籍企業との経済競争に負け続けている。

 ウェストファリア条約のときに成立して、啓蒙思想が人権の支え手として選ん
だ主権国家は、事実上、巨大多国籍企業の利害関係にうまく取り入ることで、そ
の国際経済競争力を維持する必要が出ている。そこで、近代主権国家が、その領
域内の人々を市民としてその安全と権利、福祉を保障するとされてきたけれども、
西欧近代の主権国家も、その市民の福祉などを配慮するよりも、巨大多国籍企業
との競争・協力に力を入れる必要が出てきているのである。

 グローバル金融競争に歯止めをかけることを市場の自由競争への障害として、
国家による規制の全面撤廃をもとめる新自由主義、いわゆるネオリベのグローバ
ル支配の結果、「福祉国家」という、カント以来、かつては近代国家が目標とす
る理想的な国家など、もはや夢にも描けないようになっている。この傾向は、資
本主義経済が、生産力中心の余剰集中から、投機的な金融商品市場における独占
率拡大競争を競うというような、スーザン・ストレンジが的確に命名している
「賭博場資本主義」に変容してしまったことの結果であるといえよう。

 グローバル経済格差を埋めることが困難な世界経済の不均等成長は、すでに生
産を中心とする1970年代までのケインズ流の国際資本主義のもとで始まって
いたけれども、1980年代以来の新自由主義のもとで、回復が不可能なまでに
定着してしまっているのである。本稿は国際金融危機について論ずることを目的
としておらず、筆者も金融論の研究者ではないため、詳述は避けるが、18世紀
以来科学技術への研究投資による急速な工業化を推進してきた資本主義が今日、
息切れ状態に陥っていて、資本主義生産経済が末期的な症状を呈しはじめている
ことは疑いを入れない現実である。

 1990年代のラテン・アメリカとアジアの開発途上地域の金融危機に始まり。
2000年代には、米国に端を発するリーマン・ショック、最近のギリシャ・シ
ョックでさらに広がっている先進工業地域の金融危機、さらには現在の西欧中心
の財政危機のもとで、雇用の縮小を前提にした経済成長さえもできない。労働市
場の緊縮を前提にした先進工業諸国家の財政投資で金融危機の出現を先に引き延
ばす延命資本主義経済が世界を風靡する時代に入っている。

 国家財政が破産するデフォルトを回避するためには、新自由主義の大原則も完
全に破られている。そして、先進工業大国中心の金融統制と金融機関を中心とす
る大企業へのカンフル注射的な財政支援が金融企業中心の大企業に財政援助を集
中させている。その反作用として、援助を受けた国では、負けだしたら国のデフ
ォルトを引き起こす「勝ち組」大企業の繁栄をよそに、注入されたカネの返済の
ための緊縮財政が「負け組」市民に強制されて、「勝ち組」と「負け組」の格差
が拡大の一途をたどっている。

こうして国家の破産を先に延ばす延命策の結果、開発途上諸国だけでなく、先
進工業諸国でも貧富格差の拡大に対して、米欧諸国でも抗議デモや座り込みが多
発している。要するに、グローバル投機金融のみが拡大して、労働市場が縮小し
ているのである。

 もっとも、新自由主義グローバル経済を回復させるために、先端技術の開発に
活路を求める動きは、地球温暖化を遅らせるグリーン・エコノミーという形を取
って現れてはいる。
しかし、大量消費を前提にする大量生産が今後も続けられる
としても、遺伝子組み換えによる世界の農業をアグリ・ビジネスによって置き換
えようとする米国を中心とする巨大多国籍企業の活発化、原子力発電を維持・強
化しようとする日本財界と政府の動きなど、末期的症状のグローバル資本主義は、
環境を破壊するばかりでなく、世界の大部分のローカル共同体も破壊し、慢性的
な貧困のもとで不安全な生活を送る人々の数を増やすばかりである。

 このように、政治・軍事の面でのウェストファリア体制の崩壊現象と並行して
いる経済・金融の面での資本主義経済世界システムの崩壊現象が進行している。
このような現象は、この論考の最初で記したように、一過性の現象ではない。

 しばらくすれば、世界は1970年代までの右肩上がりの成長経済に支えられ
た国際的な安定と平和を回復するという楽観的な見通しもないわけではないが、
本稿では、そうではないという立場で今全世界で起こっていることの意味を読み
とることにしたい。なぜなら、近代国家の危機と現代グローバル金融の危機は、
16世紀以来、右肩上がりな「進歩」「近代化」に成功していた西欧中心の近代
世界が持続不能になっているしるしでしかない。

続く
メンテ
文明史的検証 3 ( No.229 )
日時: 2018/05/19 10:26
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YXzqPS3A

 そんなわけで、上に記した国際政治・軍事、世界経済・金融の末期的な症状が、
もっと広くまた奥の深い、西欧近代文明の終焉を意味すると考えるべきである。
このことについては、イマヌエル・ウォーラースティンの2011年2月にダカ
ールで開かれた世界社会フォーラムで行った発言によく現れている。「今日、わ
れわれは一つの時代の終焉を迎えている。過ぎ去ろうとしているこの時代は、い
ろいろな名前で呼ぶことができるけれども、そのひとつとして、西欧中心の普遍
主義の時代と呼ぶことができる」と述べている。

 そこで一つの問題が出てくる。なぜ「西欧中心の普遍主義」の時代の終焉が、
近代国家と世界市場の末期的症状という形をとっているのか、という問題である。
このことを説明するために、我々は「西欧近代」の普遍主義が近代国家と世界市
場との結びつきを前提にしていることについて考える必要がある。まず確認しな
ければならないことは、今日の日本に暮らす我々にとって、我々の生活が、西欧
近代科学技術と西欧近代法によって支えられているということである。

 我々の衣食住には、日本古来のものが沢山ある。しかし、日本古来の衣服にも
化繊製のものもあるし、西欧の技術によって大量生産もされている。日本古来の
食糧の多くは、トラックや、汽車、飛行機によって運ばれ、食卓にのる前に、冷
蔵庫に保存されたり、電気レンジで調理されるものが多い。住環境にしても、団
地のコンクリ家屋だけでなく、日本風に建てられている住宅にも、電気の照明、
ガス・上下水道も、西欧から移転された技術を利用している。

我々の生活のもとになっている生産システム・消費システム・廃棄システム・交
通システム・労働システム。教育システム・医療システム・社会保障システムな
どは、すべて西欧の普遍主義を取り入れた近代国家の基準や統制、官僚指導、法
制度に基づいている。

 その意味で「西欧発信の普遍主義」は、我々の便利な市民生活を支えている。
我々は近代法治国家のもとでの公教育を受け、民主主義的な政策決定と市民とし
ての安全を保障され、世界市場の経済原理と金融原則に基づいている生産と消費
の配分を受けたり、さまざまなサーヴィスの受給関係のなかで生活している。 
 

 日本をはじめ非西欧諸国・諸地域で「近代化」と呼ばれてきたものは、このよ
うに具体的な形で我々が西欧から伝授された科学技術と法律・政治・経済・金融
制度などの受容過程のことである。「近代化」は今、当然のように我々の生活を
支配しており、われわれはそれを有難いと考えないくらい当然の成り行きとなっ
ている。しかし、この「近代化」過程で、西欧発信の普遍的な文明を受け入れた
ことについて、ただ有難いといって感謝することのできない現象も起こっている。

 そして、そのような現象の中に、近代国家が必ずしも我々市民の安全を保障し
ているばかりでなく、脅かしている面もあるとか、世界市場の競争のために得を
するかわりに、貧困生活を強いられるワーキング・プアなどの問題が、特に最近
世界各地で噴出している。そして地球温暖化などの生態系の破壊や、原発事故に
よる被曝の危険性の問題も出てきている。

 これらの諸問題は、「近代化」を否定せず、西欧の普遍主義を承認し、近代国
家の法制度の枠や、世界市場の科学技術に基づく生産を強化することでの解決を
求めることができる。今日のメディアなどは、その方向での、環境問題、国際金
融問題、労働問題などへの対応策を議論している。筆者も、人権関係、生態系関
係の市民活動に参加しているので「西欧中心の普遍主義」にドップリ浸かってい
る日本市民の一人ではある。したがって、西欧中心の普遍主義の時代が過ぎ去ろ
うとしていることに諸手を挙げて歓迎するものではない。

 特に、西欧覇権諸国が、この「普遍主義」を非西欧世界に伝達したことは、人
類史上で西欧文明の貢献であったに違いない。科学技術の移転は人類全体の生活
水準を上げることに役だった。また、「人権」という概念を非西欧世界に伝えた
ことも、非西欧諸文明の中で差別されていた人々にとって、疑いもなく良いこと
であった。しかし、近代西欧文明が、いわゆる「啓蒙主義」の時代に形成した
「普遍主義」は、同じ時代に形成された近代国家を単位とする国際社会や世界市
場中心の資本主義経済と切っても切れない深い関係性を持っていたことを見過ご
しにしてはならない。

 それは、以下の三つの問題がその背後にあるからである。第一には16世紀の
近代化が、それ以前の基軸宗教(3000年前から2000年前にかけて、古代
帝国の専制と古代貨幣経済の出現に対して起こった創唱宗教)によって非道徳と
して信徒に禁止していた「権力慾」と「貪欲」という悪徳を近代文明の中心に据
えたことがあげられる。

 16世紀に起こった近代国家の確立は、政治人 homo politicus というもっぱ
ら権力を追求する「権力慾」の塊という人間類型を前提にしており、近代国家の
勃興と同時に成立した世界市場経済は、「貪欲」を一切の行動の動機とする経済
人 homo economicus という人間類型なしには成立しなかった。

 この二つの人間類型は、それ以前の支配的な人間類型であった、ものを「作る
人」 homo faber と「あそぶ人」 homo ludens を、権力闘争・経済競争の道具
にかえてしまったのが、今日の悲劇の始まりであった。「作る人」は職人として
の誇りを否定されて、労働者として搾取され、「遊ぶ人」は性と暴力を中心とす
るサーヴィス産業の金の卵にされてしまった。

 2011年夏、タイ国のチェンマイで、新自由主義グローバル経済にたいする
仏教とキリスト教との協力について対話がおこなわれた。そこで確認されたこと
は、仏教もキリスト教(正確にはその前身のユダヤ教も、政治的には古代帝国が
成立して、経済的には貨幣が出現した時代に、民衆特に貧しい人々の味方として
生まれている。したがって、過去2000年から4000年前に機軸宗教が生ま
れた時代と同様に、巨大な帝国と無敵の金融とが並存している。

したがって、仏教とキリスト教とは、その信仰上の相違をこえて、権力慾に支え
られたグローバル覇権体制と貪欲な新自由主義に対してともに立ち上がるべきだ
ということが決議された。

 第二に、自然の破壊と収奪が西欧覇権諸国の植民地主義に支えられて進んでき
た。西欧における資本主義の誕生は、英国のエンクロージャ−によって説明する
西欧発信の古典的な歴史解釈によって無視されてきたが、スペインによるラテン・
アメリカからの金や銅などの金属や、香料を始めとする植物の収奪に始まり、イ
ギリスなどによる綿花などのモノカルチャーによって、非西欧諸国民の植民地主
義支配と奴隷制とともに進行した。

 資源面では貧しい西欧が資本主義を発展させてきたのには、このような非西欧
世界の豊かな鉱物圏・生命圏の収奪があった。(同時に非西欧地域の民衆が安価
な労働力、貴重な消費人口となったことも忘れられない。)そのことは、201
0年、名古屋で開かれた生物多様性条約締約国会議でも南の国々によって主張さ
れた。

 第三に、ウォーラースティンが指摘した西欧の「普遍主義」には、人権など非
西欧世界が学ぶべきものが確かにあった。しかし、それと同時に、西欧による非
西欧世界の植民地化が16世紀から今日まで続いている背後には、西欧の歴史的
使命として「普遍主義」の全世界的な普及という思い上がった主張が控えている
ことも今日の問題の根になっている。そして、なによりも大切なことは、外発的
に外から押し付けられた考え方は、たとえ正しく役立つものでも人々に受け入れ
られない。内発性こそが一切の普遍性の大前提だということである。

 キプリングが言っていたとされるように、いわゆる「白人の負い目」として、
植民地主義の正統化となった西欧「普遍主義」の普及は、日本のように、自分が
植民地化されないために周辺諸国を植民地侵略する「対抗植民地主義」の例も合
わせて、近代化の名における侵略は平和に生存する諸国民の安全を脅かす支配で
あった。その大前提は、「進歩」=「開発」の概念とこれを支えた段階説、西欧
を人類歴史の頂点におく発展段階説である。

 これは、オーギュスト・コントの「三状態の法則」アニミズム(正確にはフェ
ティシズム)の未開社会、宗教の支配する中世社会、科学が支配する近代社会に
始まり、マルクスの生産手段の所有を手がかりとする原始共産制社会・奴隷社会・
封建制社会・資本主義社会・社会主義社会・共産主義社会。ロストーの反共産主
義的な停滞的な前近代社会・離陸・近代社会までいろいろな形をとってはいるが、
いずれの場合にも西欧啓蒙主義をもとにする普遍主義的な認識論と価値とをもと
にして非西欧諸社会が、やがては、いちおう普遍主義文明に編入されることを前
提にしている。

 問題は、この西欧社会を頂点とする歴史の進歩。つまり「開発」の神話の過信
性が、今や現実によって否定され始めているということである。問題は非西欧諸
国が反植民地主義の立場の延長線上で、西欧の「普遍主義」の押し付けに反対し
始め、西欧でも、この非西欧世界の問いかけに答えて、西欧と非西欧を包み込む
グローバルな問題提起の嵐が吹き荒れていることであろう。この「普遍主義」の
傲慢さに対する否定の嵐が、一方ではナチズム、ネオナチズム、反米・反西欧テ
ロリズムなどの南の右翼ニヒリズムの形で、他方では北の内部における左翼ポス
ト・モダニズムを中心にして、世界各地域で吹き荒れている。

 そのきっかけは、反テロ戦争。中東の反植民地主義独裁の限界。リーマン・シ
ョック以後の貧富の格差拡大。3・11大震災時の福島第一原発爆発事件などで
あったり、多様ではあるが、結局は「西欧」に端を発した普遍主義を非西欧に押
し付ける植民地主義の最後の形であるグローバル植民地主義、つまり新保守主義・
新自由主義のもとでのグローバル化の「成れの果て」であるという共通項でくく
ることができる。

 ところで、「西欧普遍主義」の限界は、このような社会運動においてだけでは
なく、人権という啓蒙時代以来の西欧普遍主義の最も進んだ法理念・法制度にお
いても現れ始めている。

 人権における西欧普遍主義を超える試みとして、現在国連の人権理事会で進行
中の「平和への権利」の制定過程がとくに注目に値する。この新しい人権は、ア
メリカと西欧そして日本の反対にかかわらず、とくに反植民地主義的なラテン・
アメリカ、アフリカそしてアジアの国々の支持のもとで進んでいる。そこに「西
欧普遍主義」を乗り越える新しいしい突破口になるのではないか、ということで、
かなり立ち入った形で、この「平和への権利」について考えることにする。

(引用終わり)


アーノルド・トインビーに拠れば、日本には日本文明と呼べるものがあったが、明治維新によって、それが中断された(消滅した訳でもない)と言っている。

明治維新で入ってきた西欧文明(文明開化)とは、民主主義と資本主義であった。
個人の自由、権利を保証すると共に人々の欲望追求が解放された。

人々は狂喜してこれに飛びつき社会は急速に発展していった。
その西欧文明が至上のものであれば問題は無かったのであるが、先に挙げたように、西欧文明と言えども人類史の中の一端に過ぎない。
西欧文明が内包していた矛盾が近年になって顕著になり人々は困惑してきているのが現状と思う。

私たち現代人が、社会を憂い、政治を憂いている源流もここにあります。
私が大和魂に拘っているのは、西欧文明における挑戦を乗り切る為の応戦の力として東洋的なものを考えてみたいと思っているからです。

メンテ
司馬遼太郎史観→接ぎ木文化 1 ( No.230 )
日時: 2018/05/21 13:44
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:aA98q2Qw

今まで私が書いて来たことと重複するものもありますが、私の独断の恐れも取り除くためにも、司馬遼太郎の史観を紹介しましょう。
江戸時代以前の考察は少ないが社会全般の事に言及しています。

司馬遼太郎『この国のかたち1』文藝春秋、1990年3月

どうして大和政権が古代日本の代表的な勢力となったのか。4、5世紀であっても大和政権は、他の諸勢力に比して比較的大きかったが、絶対的ではなかった。ところが7世紀になると、戦国乱世のような大規模な攻伐があったようには思われないのに統一性の高い国家ができた。この奇現象は、1869年の版籍奉還も同じである。
7世紀の面妖さは、5世紀の中国に隋という統一帝国が勃興したことにより説明できる。対外恐怖心が共有されたことが大きい。これは明治維新も同じである。統一国家の芯となったのは「律(刑法)・令(行政方)・格(例外的な法規)・式(細則)」である。四者は相関し法体系をなした。これらは中国から導入した王土王民制(儒教に基礎をおく)である。しかし、制度のうち宦官と科挙は入れず、儒教も学問としては導入したが民間の宗教意識としては導入しなかった。これらを導入していたら日本は中国そのものになっていただろう。
6、7世紀に日本に導入された仏教もインドのそれとは異なる。王朝や氏族を守護するものとして導入された。平安初期の天台宗・真言宗もこの点で変わりはない。日本では幸運にも、ついに、ヨーロッパ、中近東、インドあるいは中国のように、人々のすべてが思想化されてしまうという歴史を持たなかった。しかし、思想への憧れは持っており、宗教ではなく書物を通じて摂取しようとした。

○2「朱子学の作用」

明治維新の革命思想は極めて貧弱なものである。スローガンは尊王攘夷しかなかった。外圧に対する悲鳴のようなもので、フランス革命のように人類の理想を謳ったものではない。革命の思想や理想というものは遺伝子のようなもので、その後の歴史を規制したり形づけたりする力を持つ。明治維新ではここが貧弱であり、その後敗戦に至るまでの間に近代そのものがやせ衰えてしまった。
鎖国が国是としておお暴れして革命したわけだが、それが達せられるとさっさと開国してしまった。
人間はよほどでない限り、自分の生国、母校などに自己愛のようなものをもっているが、この土俗的な感情は軽度の場合ユーモアになるが、重度の場合は血生臭く、見苦しい。単なるナショナリズムは愛国という高度の倫理とは別次元のものである。
ナショナリズムは、本来、眠らせておくべき性質のものである。わざわざこれに火をつけるのは、よほど高度の政治意図から出る操作であり、歴史はこれに揺さぶられると、一国一民族は壊滅してしまうという多くの例を遺している。
ついでながら「尊王攘夷」も輸入思想である。宋(960-1279)では、征服王朝による侵略を受け続け、結局滅んでしまったが、その政権下で夷を打ち払い、漢民族の正当の王を尊ぶべしという思想を生んだ。これは危機時におけるものであり、普遍性を持つものではない。
日本の13世紀はすばらしい時代であった。新仏教、彫刻におけるリアリズム、開拓農民の政権(鎌倉幕府)により、律令制下で力を蓄えた公家・寺社勢力と対抗し、田を作るものがその土地を所有する権利を確立した。この素朴なリアリズムをよりどころにする百姓の政権ができて、日本は中国や朝鮮とは似ない歴史を歩み始めた。
宋学(尊王攘夷)はイデオロギーであったが、このとりこになったのが後醍醐天皇である。日本の天皇としてではなく、中国の皇帝のようなつもりになり大乱を起こした。
宋学は、本場中国にあっては、朱子により大成し、精密化された。朱子学の理屈っぽさと、現実よりも名分を重んじる態度は、官学化されることで弊害を生んだ。日本では、朱子学の空論性が攻撃され、江戸期の思想に好ましい効果を生んだが、一箇所朱子学が沈殿していった土地がある、それが水戸である。幕末、水戸は朱子学的尊王攘夷思想の中心的存在となった。

○3「雑貨屋の帝国主義」

日露戦争における海軍は、大規模な海軍たらざるをえなかった。ウラジオストックに停泊し、また欧露から回航されて来る大艦隊と戦うには、やむなく大海軍であることを必要とした。応急の必要に迫られ、日本は開戦前7〜8年の間に世界有数の大海軍を建設した。
本来、大海軍というものは世界各地に植民地を持つような国において必要なものであり、無敵艦隊のスペインはそうした例の代表的なものである。
日露戦争後においても日本は世界中に植民地など有していない。大海軍は必要なかったのだ。しかし、一度生まれた組織は、参謀本部という奇胎を背後に増殖を続けた。
日本における帝国主義は本当に存在したのか。たしかに日本は韓国併合を行ったが、イギリスにおける帝国主義は、過剰な商品やカネのはけ口であるが、日本ではそんな過剰な商品など存在しなかった。日露戦争の勝利が日本国と日本人の調子をくるわせてしまった。
小村寿太郎は、ぎりぎりのところでポーツマスにおける講和を結んだ。日本にはもう戦争を続けるだけの力は残っていなかった。しかし、国内では講和拒否、戦争継続を唱える新聞と大群衆を生んでいた。この狂気こそがその40年後の破滅への出発点であった。
満州へは当時無関税で商品を輸出していた。これにより現地の資本は総倒れとなったが、その商品たるや、人絹、砂糖、雑貨のようなものであった。このちゃちな帝国主義のために国家が滅ぶこととなる。一人のヒトラーも出ずに大勢でばかな40年を持った国は他にはない。

○4「統帥権の無限性」

現在と日本史上の中世、近世には十分つながりがある。しかし、近代の昭和一ケタから20年の敗戦までは、日本史の中で非連続の時代である。
自分は昭和18年当時、中国東北部にいたが、常にノモンハン事変(昭和14年)のことが頭にあった。ソ連のBT戦車は大量生産の雑な車体であったが、防御力と攻撃力に優れ、ノモンハンの日本軍は、じつに死傷率70%という世界戦史にまれな敗北をして停戦した。これは関東軍参謀の独走で行われた。
昭和前期の日本は、統一的な意思決定能力をもっていたとは思われない。
当時の参謀本部作戦課長に話を聞いたことがあったが、小石ほども実のあることを言わなかった。

○5「正成と諭吉」

維新後、尊王攘夷思想は、尊王だけが残り、イデオロギー化した。マルキシズムを含め、イデオロギーが善玉・悪玉をよりわけたり論断するようになると、幼児のようにあどけなく、残忍になる。
後醍醐天皇は、建武の中興において、ごく自然な日本的体制であった鎌倉の武家体制を否定し、中国の皇帝のような専制権を持とうとした。正成はこれに呼応して、河内金剛山のふもと赤坂に城塞を作り、1000名の手兵で幕府軍20万7600騎(太平記)の大軍に抵抗した。北条執権府がいかに無能で弱いかを天下にさらけ出し、赤坂陥落後も、ゲリラ戦や正規戦で幕府軍を大いに苦しめた。
尊氏が北朝を立ててからは、焦土作戦を企画した。京都という都市は食糧を生産せず貯蔵もしていない。いったん京都を退いて敵の尊氏を京都に呼び込み、四方を固めて敵を叩こうとした。しかし、帝の側近は帝が京都を退くこの策を受け入れず、聖運でなんとかなるのではないかとした。正成は、わずか500騎で兵庫に下り、湊川で一族とともに討ち死にする。
太平記読みは講談の源流であり、とくに江戸期、元禄のころ武士や庶民の間で隆盛を極めた。人気は正成に集中した。昭和になり、朱子の尊王論が国民教育に取り入れられ、楠木正成は思想語に近くなった。

○6「機密の中の国家」

明治憲法は明らかに三権分立の憲法であった。統帥権などという用語は存在していない。日本の歴史は一級の歴史であるが、この昭和10年から20年だけは異質な時代である。

○7「明治の平等主義」

明治維新は徹底的な革命だった。諸藩に莫大な金を貸して富裕を誇った金融業は、鴻池を残して一夜でまるはだかになり、全国300万の士族とその家族は失業し、農民は米でなく現金で年貢を払わなくてはならなくなった。
江戸時代は幕府も藩も原則として自作農主義であり小作農は少なく、自作農は自給自足を原則としており、現金など持っていなかった。このため現金の入る家業の造り酒屋にたのみこみ、自分の田の所有権を渡し、税金を肩代わりしてもらう約束で小作農になった。革命は、フランス革命やロシア革命と異なり、誰も得をせず、社会全体が手傷を負う形で成立した。
島津久光は、この革命の発端となった薩摩藩を率いていたにもかかわらず、こんなドラスティックな形での変革は望まなかった。彼は、新政府(太政官)を憎み、西郷を安禄山であると悪罵した。西郷もこれは堪えたようで、新政府を辞して鹿児島に戻っている。久光は大久保も恨んだ。まさか版籍奉還をするとは考えていなかった。
大久保は冷厳な人物であった。儒教的な思弁を好まず、軽兆さがなく、現実主義だった。

○8「日本の近代」

忠臣蔵はお侍の話である。浅野家の若い殿様が、高家(儀典課長)の吉良にいじめられる。この浅野家の経済力の裏には赤穂の塩があった。これが全国に流通していた。また、日本列島の沿岸を回船が運航し、商品流通を行っていた。
また江戸の識字率は世界一だったのではないか。文字を習わせるのは、聖賢の書を読むためではなく、農村や町方のこどもが奉公した時に帳付けをできるようにするという、きわめて経済的な動機によるものである。江戸や大坂では劇場が栄えたが、これは貴族の保護によるものでなく、大衆の木戸銭によるものである。
商品経済の盛んな世になると、モノの売買、カネの貸借すべて個人が矢面に立つようになる。モノの価値を権力でなく相場が決めるようになり、江戸時代はそうした意味ですでに近代であった。


ヨーロッパにおける近代精神は、宗教的権威の否定、科学的合理主義と人格の自律性、人間主義の3つが柱であるが、これらはすでにそれぞれ富永仲基、山片播桃、井原西鶴により江戸時代に育成されていた。


※※※ 「明治維新成立の時、この日本が育てた近代に欧米の近代を接木していれば面白いことになったのではないか。」


○9「尊王攘夷」

宋の時代、北方の女真人が金という国を興し、宋を苦しめた。金も宋ものちに蒙古によって滅ぼされる。
李氏朝鮮にとって攘夷は非常に大きな問題であり苦しめられ続けた。日本の攘夷は、明治を迎えあっという間に開国に切り替わってしまうなど単純なものでしかなかった。

○10「浄瑠璃記」

海商でありロシアに拿捕された高田屋嘉兵衛は、初等教育を受けていなかったが、浄瑠璃好きのおかげで魅力的な表現力を持っていた。最下級の町人に過ぎなかったが、魅力的な人物であり、ロシア側は将官として待遇した。捕虜であるにもかかわらず、日露の問題を解決しようと外交を行った。
浄瑠璃の曾根崎心中では、徳兵衛は、裏切られた油屋の手代九平次を、あいつも男をみがく奴と心で思う。在所から都市へ出て一人前になるには個人の倫理的修業が必要で、江戸人は町人も男を磨いていた。

○11「信長と独裁」

信長は、部下の門地を問わなかった。秀吉は浮浪児のあがりである。信長好みの気迫はあったが個人的な武芸があったわけではない。
信長は、結局人間を道具としてみており、鋭利な方がよく、使い道が多様であるほどいい。秀吉は、早くからこうした信長の性質を見抜き、我を捨て、道具としてのみ自分を仕立てた。
信長は、秀吉に経理・補給という計数の才、ついで土木の才も見いだした。秀吉は大功を立てると、その果実を惜しげもなく信長に差し出した。
信長は、いっさい資料はないけれども、中国の皇帝制のような、中央集権・郡県制を夢見ていたのではないか。
本能寺の変にみられるように、日本史は独裁者につよい反発をもった歴史といっていい。

○12「高貴な「虚」」

大概大概(テゲテゲ)という言葉が薩摩にある。上の者は大方針のあらましを言うだけでこまごまとした指図はしない、といった意味である。戊辰戦争の西郷隆盛、日露戦争の大山巌、東郷平八郎といった薩摩人はみなテゲを守った。これは薩摩の風土性というより、日本全体がそのような風である。
上の三名は、マスタープランを明示した後は、部署部署を責任者に任せてしまい、自身は精神的な象徴性を保つのに終始する。これに対し、山県有朋(長州)はこまごましたことを部下に指示した。
テゲであるには、人格に光がなければならない。そうでない人物が首領になると日本人は参ってしまう。
日本陸軍では、くだらない人物も大山型を気取り、スタッフに過ぎない参謀に大きな権限を持たせた。これら参謀は専断と横暴のふるまいをした。

○13「孫文と日本」

明治の日本には、渋沢栄一ら資本主義の興し手を見ても、民衆を見ても「公」の意識が浸透していた。福沢諭吉はそうした状況から、立国の基礎は公ではなく私なのだと諭したほどである。

○14「江戸期の多様さ」

いまの社会を見ると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性、文化
の均質性、価値意識の単純さが目立つ。国をあげて受験に熱中しているという愚かしさである。価値の多様状況こそ独創性のある思考や社会の活性を生むのに、逆の均一性に走り続けている。
江戸期の商品経済が商人や都市近くの農民に合理主義思想をもたらした。
三百ある藩において、たしかに礼儀作法、服制、結髪、文章表現などはほぼ一種類であったが、教育や学問は藩ごとに違った。

○15「若衆と械闘」

中国人は、とくに個人がいい。中国人はリラックスしているのに、日本人はいつも緊張している。日本人は公意識を持ちすぎている。



続く
メンテ
司馬遼太郎史観→接ぎ木文化 2 ( No.231 )
日時: 2018/05/21 13:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:aA98q2Qw

○16「藩の変化」

「藩」というが、このことばは江戸中期まで使われていない。たとえば大石内蔵助は、播州赤穂藩士とは称さない。浅野内匠頭家来であった。藩という言葉が日常語になるのはようやく幕末になってからであった。奈良時代以来、江戸期に至るまで、公というとお上のことであったが、この「藩」という言葉の普及とともに、公という言葉は、いわゆる公意識のようなものに変わっていったのである。

○17「土佐の場合」

土佐を含む南海道には平等意識が強く、過剰な敬語が発達しなかった。
薩長土肥ということばでまとめられがちだが、この四藩はそれぞれ性格がかなり異なっていた。

○18「豊臣期の一情景」

守護は、のちの戦国初期の北条早雲のように懸命な民政をするわけではなく、ただの租税のふんだくり屋であった。
地侍は、基本的に百姓である。加賀平野はもともと低湿地に過ぎなかったが、ここに13、14世紀に地侍が入植し、美田を作り上げた。守護の富樫氏は、そうした後に入ってきて年貢を要求した。入植者は、兵農不分の頃なので、甲冑も弓矢も持っていた。これら地侍の連合を「一揆」と称した。加賀一揆は、富樫氏を滅ぼし、1488年から100年間、加賀は百姓の持ちたる国などといわれた。この百姓とは地侍のことである。

○19「谷の国」

新興住宅地は丘のうえに造成されることが多いが、もともと日本人は谷に住み、農業を行ってきた。村落や城下町も谷につくられた。
様子が変わったのは、横浜開港後からで、外国人たちが高そうな丘に住むようになった。

○20「六朝の余風」

室町までの日本の貴族は呑気なものだった。北条早雲が初めて領民の暮らしを考えるようになった。

○21「日本と仏教」

本来の仏教はじつにすっきりしており、人が死ねば空に帰するという考え方で、釈迦も墓を持たない。他の宗教のような教義もなく、救済の思想もない。
解脱こそが理想であり、煩悩の束縛から放たれ、自主的自由を得ることが理想である。
一方、日本の宗教改革ともいえる鎌倉時代には、浄土真宗と禅宗が現れた。禅宗は、仏教本来の解脱的性格を備えている。一方、浄土真宗は、仏教よりもキリスト教に近く、救済の性格を持つ。
救済の性格は、本来の仏教にはなく、大乗仏教にはじめて現れるものである。
親鸞は大乗経典のなかでも『阿弥陀経』のみを自分の根本経典とした。阿弥陀仏をGODに近い唯一的存在ととらえた。親鸞の思想にはいっさい呪術性がなく、これを排除した点はプロテスタンティズムに似ている。念仏はひとのためのものではなく自分のためのものであり、鎌倉時代の個の成立と関係がある。

○22「日本の君主」

日本においては君主は君臨すれども統治せず、の姿勢を持ち続けた。江戸期に実権を持っていたのは藩主ではなく老中であった。



(引用終わり)

この中で、

「明治維新成立の時、この日本が育てた近代に欧米の近代を接木していれば面白いことになったのではないか。」

という事を言っています。

接ぎ木とは園芸用語で

2個以上の植物体を、人為的に作った切断面で接着して、1つの個体とすることである。このとき、上部にする植物体を穂木、下部にする植物体を台木という。通常、遺伝的に異なる部分から構成されている個体を作る技術として用いられるが、果樹等の育種年限の短縮化、接ぎ木雑種の育成などの目的で行われる場合もある。

柑橘類の台木にデコポンを接ぎ木した例(左は接ぎ木後に新たな葉が成長、右上は接ぎ木に失敗し枝が枯れる)
接ぎ木は、挿し木や取り木と同じく有用植物を枝単位で栄養生殖させる方法である。他の方法と根本的に異なるのは、目的とする植物の枝から根を出させるのではなく、別の植物の根の上に目的の植物の枝をつなぐことである。接ぎ穂と台木は近縁な方が定着しやすいが、実際には同種ではない組合せもよく使われる。うまくいけばつないだ部分で互いの組織が癒合し、一見は一つの植物のような姿で成長する。勿論実際にはこの接触させた位置より上は目的の植物の枝から生長したものであり、それより下は台木の植物のものであり、遺伝的に異なっている。但しまれにこれらが混じり合ってキメラや、更に遺伝子のやりとりが行われることもある(後述)。

接ぎ木の目的は接ぎ穂とする植物の増殖であることが多い。挿し木とは異なってはじめから根があることが有利な点となる。欠点は、台木となる成長した植物を準備する必要があるために、挿し木ほど効率がよい繁殖が出来ない。

接ぎ木の目的としては、このほかに接ぎ穂にする植物の根を台木の植物に置き換えることそのものである例もある。改良された農業品種は性質が弱い場合がままあり、例えば根の病害虫に対して弱い場合もある。このようなとき、より強健な野生種の根を台木にしてその品種を接ぎ木するのが有効であることがある。更に特殊な例では、葉緑体を持たなくなった品種を野生種の上に接いで育てる、というサボテンの例もある。コニファーでは、根張りの悪い品種の欠点を補うために接ぎ木での繁殖が行われることがある。

よくある失敗としては、台木の方から新芽が出た場合、こちらが元気になっていつの間にか接ぎ穂の方がなくなってしまう、というのがある。たとえばライラックを植えていたのに花が咲くと何故かイボタノキだった、というのがこれにあたる。

接木雑種(つぎきざっしゅ)とは、異なる品種の作物を接ぎ木した結果、変異などにより、生じた新種。栄養雑種(えいようざっしゅ) ともいう。

古代ギリシア人は接ぎ木によって果実の香りや色を改良するよう試みた。ソ連のルイセンコは接木のみで雑種ができると主張し、遺伝的な性質までも変化させるという学説を流布した。スターリン、ソ連政府のお墨付きによって絶対的な学説とされたが、科学的な実証性のない学説であったため、その後、接木によって新しい品種はできないとされた。



以上の様に、接ぎ木したとは言っても、その効果が一定して良いものであるとは限らない。
日本の場合、明治時代の文明開化は確かに接ぎ木されたものであろう。
しかしながら、その接ぎ木によって、望ましい文化が派生したのであろうか。
元木と接ぎ木の関係は、どのようになっているのであろうか。
いずれにしても栄養分は元木のそれに頼っているはず。

どの様な植生が期待できるのか、

勿論、短絡的に結果を望むものではないが、その検証は必要なのではないであろうか。

他の例として、内村鑑三が武士道の上にキリスト教精神を接ぎ木しようとした例がある。
これは成果が全く上がらなかった。
メンテ
時代考証のまとめ ( No.232 )
日時: 2018/05/21 18:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:aA98q2Qw

13世紀の日本は素晴らしいと司馬遼太郎氏も言っているように、鎌倉時代以降の4世紀は日本人が民族として国家として目覚めた時代であった。
私は、その活力を日本人の魂と定義し「大和魂」と言いたい。
しかしながら、その大和魂を導き出した源流(ルーツ)に和の心がある事を忘れてはならない。
鎌倉以降の民族の有り様は、他の民族にもそれぞれあること。他の民族と異なるのは、その前提となる「和」の心である。
このスレッドでは、最初のころ、大きな紙面を割いて、それに言及して来た。
それを理解せずに「大和魂」を取り上げる事は出来ない。

その日本特有の民族の心「大和魂」が、明治時代に言われるような意味に変質して来たのは何故であるか。
それをこれから解きほぐしてみたい。

江戸時代に入って何が変わったかと言えば、それは専制国家としての安定と繁栄の為の制度が完成されたことである。

それは庶民にとって幸せであっても不都合な事ではなかった。
ではあるが、専制君主による統治と庶民の有り様については別の問題が生じる。
お上に従うと言う形の下、政治と言う問題が庶民の間でも問題になる。
政治が上手く機能している場合は、ともかく、政治を、社会を変えようとする民族の力はそがれる事になる。
特に我が国の様に外国からの侵略が無い場合、庶民の民族意識は抑圧される一方であった。

あれほど平和的で活発であった民族意識が抑えられ背景には、朱子学による統治と天皇家を元首とする神道の思想の影響がある。
神道においては、古来氏神信仰として自然発生的に広まった宗教であったが、時代が遡るにつれて、特に室町時代以降、天皇家の氏神を全ての国民の氏神とすることで、天皇家の権威を確立させようとする動きであった。
それは最初は武家に奪われた政権を貴族に取り戻そうとする動きの一端であったが、時の政権、特に明治時代の政権は、これを利用し統治をする事を企んだ。

天皇家を全ての国民の氏神に置き換えるという事は、多神教の枠からはみ出す神道の一神教化であり、あってはならない、また、出来ない相談であった。
毎日天皇に対して礼拝するなど考えられないことではあったが、それに近く各家庭に天皇の写真を飾る事などは奨励された。

これが明治の神道国家思想であり、現在までも影響している国民の思いである。
それとは別に、天皇家への愛着は大和政権以来でも1500年、伝説の時代を含めると2000年以上の長きに渡り国民の間に定着し時代と共に政権が代わっても未だに天皇家が健在である事が証明している。
しかしながら、あるべき天皇の形は、日本人の心の取りどころ氏神信仰の象徴として天皇家の氏神を認めるところでなければならない。
現代の神社庁などの様に、全国の氏神を系列化されることなどあってはならない。

でも、そうした氏神信仰の系列化が室町時代にはじまり江戸時代の本居宣長などによって完成された。
江戸時代、幕府は天皇家を国民の心の代表として敬意を払って認めることで終始し、問題は起きなかった。
明治政府は、此れも司馬遼太郎が指摘している様に、明治維新は特に大義名分に基づいた革命ではなく、子供の様な現状否定から始まった。
そのために新生国家としての理念もなく天皇を担ぎだし神道国家などを求める国家となり、天皇と国民を直接結びつける結果となった。
戦争などで天皇陛下万歳と叫んで突進する様な気概を人為的につくりあげた。

もう一つの要素は朱子学である。
儒教、朱子学については別途、詳細を述べるが江戸時代に入って官学となった朱子学の大義名分論は、家臣は主に絶対的に服従すべきであるという思想を指します。つまり、君主に絶対的忠誠を誓わせるもので、支配者の江戸幕府にとって都合が良いものであり、武家政治という理念を提唱するのに理想的だったのです。また、社会秩序の維持を図ることもでき、個人と社会を統治する思想も提唱しています。そこで、江戸幕府は幕藩体制を擁護する統治思想を必要としていたこともあり、朱子学を統治思想として導入したのです。
武士道とも相まって、この思想は盤石の体制となり徳川幕府を支える事になる。

まあ、この両面から巧妙にマインドコントロールされたと言える。
この様な時代が250年続いたが、やがて外国船の来航が激しくなり西欧文化の匂いが我が国にも入ってきた。
その匂いが幕藩体制の矛盾と共に、新しい芽を生むことになり明治維新を迎えた。
その明治維新の改革(革命)も、内から湧き上がる大義名分と言うよりも外国の圧力にも乗るものであり、理念なき改革に終わり、明治政府の体制を生み出した。
もちろん、立憲民主主義など形式的には西欧化はなしたが、国民のレベルでは受動的なものであった。
現代社会はと言えば、江戸時代、明治時代に渡って巧妙にマイルドコントロールされた日本人が、西欧文明を接ぎ木され、元木の姿が解らないままに、発育して来た様なものである。
メンテ
時代考証のまとめ 2 ( No.233 )
日時: 2018/05/23 21:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

前回、

>現代社会はと言えば、江戸時代、明治時代に渡って巧妙にマイルドコントロールされた日本人が、西欧文明を接ぎ木され、元木の姿が解らないままに、発育して来た様なものである。

と言ったが、元木の姿とは何を指すのであろう。
それは文化、文明の成果の事ではなく「大和魂」で現される心の問題である。
「大和魂」と言っても、その源流である「和の心は」接ぎ木への栄養分として常に供給されていたとも言える。

ごく最近、神戸大震災でも、東日本大震災でも、被害者達の整然とした行動は世界中を驚愕させるものであった。
これが日本人なのである。

ただし、接ぎ木の部分は、別の西欧風の進化を遂げ、別の様相を呈しているのである。
日本と言う大木は、接ぎ木によって、もっと違う形に成長していた可能性もあるのである。

さすがに、司馬遼太郎は整然と日本の歴史を俯瞰している。
それによると、奈良、飛鳥の時代から明治まで、中国の影響を受けながら、それは体制的な分野の事であり、民衆レベルではなかったと言っている。

江戸時代でも一般庶民の生活は西欧に引けをとるものでは決してなかったと言っている。
士農工商と言う、幕藩体制でありながら、民衆が自由奔放に生活していた面は、箱庭の民主主義が成立していたとも言える。
戦争がなくなった250年の間、民衆が育てた社会なのであろう。

また、蒙古の襲来はあったものの、我が国は外国の侵略とは縁の遠い数千年の歴史がある。
「和の心」は、それだからこそ醸成して行ったとも言える。

しかしながら、我が国の民主主義は、本当の意味で民衆が勝ち取ったものではない。
民衆が止むにやまれず行動して勝ち取ったものではない。
民主主義の第一義は主権在民である。

「和の心」が先行して、この面が希薄なまま現代に至っている。
そのために、既に社会としては江戸時代から民主主義と言いながら明治から先の大戦に至る国家権力の暴走を止められなかった。
現代社会においてアメリカ追従に専念せざるを得ないのも、権力に対する抵抗心が弱いからである。
現代社会の専制君主は、アメリカに代表される資本の力(世界経済)である。
世界中が、その専制に疑問を持ち始めているのに、日本は未だに従順に従うつもりであるのだ。

200年前の市民革命は封建権力に対してであった。
現代社会が求められている第二の市民革命の相手は資本(世界経済)である。

「大和魂」の源流{和の心」は現代日本にも未だに息づいている。
でも、それだけでは不十分であり、必要十分条件として「和の心+○○」が必要であるのだ。
「和の心+○○」、これを「大和魂」としている。

そうして、それが認められるのが我が国の中世であると思っている。
江戸時代以降の儒教(朱子学)が潜航する統治への認識は、その「大和魂」の発露を阻害している。

「大和魂」とは、アメリカのフロンティアスピリット、イギリスのジョンブル魂の様に民衆の持つ気概の事である。
フロンティアスピリットもジョンブル魂も、それは決して対外的進攻を意味するものではない。

日本の「大和魂」だけが、戦争の道具の様に思われているが、それは戦前の軍部により押し付けであり、その様な軽薄なもので「大和魂」を理解してはいけないのである。

「和の心」も大切なものであり、民族的な心としては得難いものであるが、時代の困難を切り抜けるには、それだけでは出来ないのである。

メンテ
「大和魂」とは! ( No.234 )
日時: 2018/05/23 21:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

時代考証は終わりにして、改まって「大和魂」とは、何かと考えてみよう。

この文章の書きかけにおいて「大和魂」と言う言葉は紫式部が源氏物語の於いて、当時の貴族の青年たちに、将来、政治に関わるときの心構えとして教えていた事に始まる。

大和魂に代わる言葉として「社会正義」として見る事も出来るでしょう。

ウィキペディアによると、

正義とは、倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正などにもとづく道徳的な正しさに関する概念である。 正義の実質的な内容を探究する学問分野は正義論と呼ばれる。広義すなわち日本語の日常的な意味においては、道理に適った正しいこと全般を意味する。

正義の言葉の中の義については東洋的な意味では、特に次の事が強調される。

人間の行動・志操・道徳で、「よい」「ただしい」とされる概念である。義人とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」。

言語的には問題は無いとしても、実際において、何が正義かという観点から見ると、正義の意味が往々にして変節する場合がある。
ヒットラーの登場も、当時のドイツでは正義であった。
日本の軍部の独走も多くの国民には正義と見えた。

で、あるので「大和魂」を正義と言う概念で見るだけでは問題があります。

また、ヒットラーの場合の様に暴走はしなくても、その言葉に多くの人たちが影響を受けすぎると狂信者の集団の様な弊害をもたらす。
「社会正義」と言っても、それが具体的なある方向性を示した時、一つの勢力となり他方を圧迫する。

革命が必要なとき以外は「大和魂」と言う概念を、その様なもので捉える事は問題である。
正義と言う意味では、個人個人が正義の心根を強く持っている状態としておきたい。

また、その正義とは

>倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正などにもとづく道徳的な正しさに関する概念である。

という意味でもない。
その様なものも超越した生き様と見ている。

人間社会に必要な向上心、助け合いの心を強く持ち、必要な時にはそれを発揮できる気概である。
決して特定の正義に組する事ではない。

その様な「大和魂」であってこそ、民衆を正しく導くことが出来るのである。
また、導くと言っても国家、民族そのものを導くなどと言っている訳でもない。

人間の集団は、幾ら民主主義を唱えても結局は一部の先験者によって導かれるもの。
これは、歴史においても、皆さんの身の回りにおいても実証されているはず。

太鼓を打つとき、大きく打てば大きく反応し、小さく打てば小さく反応するように、「大和魂」は必要に応じて発揮されれば良いのである。

昨今、安倍内閣打倒のデモが国会周辺で行われている。
デモを主宰している人、参加している人は、それぞれ止むを得ない心情(大和魂)に駆られてやっているのでしょう。
でも、それに多くの人が呼応しません。

結果、あの安倍自民党が何時までも悪政を敷いたままです。
イスラムの様な熱狂を支持する訳ではありませんが、我が国は大人しすぎる。

というか、それぞれが身勝手すぎる。
社会正義よりも、己の安全、安泰、損得を優先する。
己と言う小さな小さな入れ物に閉じこもる。

「大和魂」を謳い、熱狂せよとは毛頭言いません。
また、歴史的にも、そんな時代はありませんでした(戦前の一時期を除いて)。

時代が、そういう環境であったのでしょうが、
貴族政権から解放された日本人が、自らの可能性を求めて積極的に動き始めたのが鎌倉時代以降。
その生き様の中に「大和魂」を見る思いです。
勿論、当然の事ですが、当時は、彼らに、その様な自覚など無かったでしょう。

「大和魂」とは、その様なもの
フロンティアスピリットとは、その様なものではありませんか。


(追伸)

「大和魂」と言う言葉を使うと嫌悪感に満ちてこれを否定する人たちが多い。
まるで街宣右翼と同類に扱われる。

しかしながら先の大戦において、国を守る為に散って行った200万近い兵士の事は、どのように思われるのか。

全てが全てでないとしても「大和魂」を信じて突進し倒れた兵士の事は考えられないのか。
その「大和魂」が軍部によって利用されていたとしても当事者の兵士の責任ではない。

ここで「大和魂」をミソクソに言う事は彼らの死を馬鹿にする事になる。
調子者が騙されて死んだと言えますか。

彼等の為にも「大和魂」は正当に評価することが大事と思います。
彼等は、まさしく彼等なりの「大和魂」を持って、国を守る為に死んだのです。


メンテ
大和魂とは ( No.235 )
日時: 2018/08/02 16:37
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:42inf0Oo

阿修羅掲示版などでも、安倍政権批判が渦を巻いている。

批判する心は理解できる。

しかしながら、理屈が先行し、理屈に拘るばかりで、国民の切なる思い、憤怒の気持ち、何とかしたいと言う気持ちは、あまり伝わってはこない。

「大和魂」とは、国民自身が、共に良い社会を築こうとする思いではないかと思う。

「大和魂」と言う言葉を使えば、直ちに戦前までの、権力による押し付けの心の様に取り上げられる。

そうでは、無いでしょう。

権力の形態が何であろうと、国民の望む心意気ではありませんか。

格差が広まり政治は腐敗し誰もが救いの手を差し伸べないとき

国民自身が、これではいけないと想う強い気持ちを持つべきではないか。

その気持ちの総体が「大和魂」ではないかと思う。

民主主義の名の下に、希薄になってしまった連帯意識を取り戻すのが「大和魂」ではないかと思います。

「大和魂」は皆の気持ちであり、権力者に利用されるものではなく、逆に権力者に立ち向かうものであると思います。

メンテ
民族のバックボーン(大和魂) ( No.236 )
日時: 2018/09/30 14:40
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yGU1Ap.Q

久しぶりに書き込みます。
最近、糾弾掲示板の意図に反して邪悪は心根から発する投稿が続いていました。
糾弾掲示板は、どのような内容に関わらず、真摯に思いを訴えるところです。
御口直しにどうぞ!

世界の民族のバックボーン

>フロンティアスピリット(アメリカ)
開拓者精神。特に米国の西部辺境における開拓者たちの精神。剛健・忍耐・創意、また闘争性・現実性・利己性などを特色とする。

>ジョンブル魂(イギリス)
言ってみれば、日本の「大和魂」やドイツの「ゲルマン魂」の英国版です。
一言で言えば「不屈の精神」ですが、意味するところは「イギリス人固有の、頑固で律儀、
こつこつと自分の思いを追求する姿勢」のことでしょう。

>ゲルマン魂(ドイツ)
ゲルマン魂とは、「不屈の精神」などと言われますが、

サッカーで言えば、最後のホイッスルまで絶対にあきらめないめない。
裏を返せば、勝利にこだわり常に敗北を恐れている魂とも言い換えられるでしょう。

ゲルマン人(ゲルマンじん、ドイツ語:Germanen)は、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンディナヴィア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ語族。
原始ゲルマン人は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などの祖先となった[2]。アングロ・サクソン人になったゲルマン人系部族にはアングル人、サクソン人、ジュート人、フリース人がいた。

>ノブレスオブリージュ(フランス)
高い地位や身分に伴う義務。ヨーロッパ社会で、貴族など高い身分の者にはそれに相応した重い責任・義務があるとする考え方。

>中華思想(中国)
中国が世界の文化,政治の中心であり,他に優越しているという意識,思想。中国では伝統的に漢民族の居住する黄河中下流を中原と称し,異民族を夷狄 (いてき) ,あるいは蛮夷と呼んできた。異民族は東夷,西戎,南蛮,北狄に分けられ,この四夷を,中華がその徳化によって包摂しようというのである。この思想は古く周代に始り,以後近代まで連綿として引継がれ,中国人独特の世界観を形成してその歴史や文化に多大な影響を与えてきた。漢民族の優位が確保されている限りにおいては寛容で開放的な博愛主義となって現れるが,ひとたび優位が否定された場合には,きわめて偏狭な保守排外主義の傾向が示される。

>大和魂
日本民族固有の精神として強調された観念。和魂,大和心,日本精神と同義。日本人の対外意識の一面を示すもので,古くは中国に対し,近代以降は西洋に対して主張された。平安時代には,和魂漢才という語にみるように,日本人の実生活から遊離した漢才(からざえ),すなわち漢学上の知識や才能に対して,日本人独自の思考ないし行動の仕方をさすのに用いられた。江戸時代に入り,国学者本居宣長は儒者の漢学崇拝に対抗して和魂を訪ね,「敷島のやまとごころを人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠んで,日本的美意識と,中華思想に対する日本文化自立の心意気をうたいあげた。

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メンテ

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