[1158] 我々は、何に NO を突きつけるべきなのか<小沢待望論の矮小性>
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- 日時: 2011/07/28 12:02
- 名前: 天橋立の愚痴人間
ID:HDP6T1fI
アメリカ経済の破綻が囁かれています。 市場主義経済の旗手として君臨したアメリカがこれである。 どうにもならない財政赤字と、極端な格差社会を国内に生み出し、失業率も10%を超えようとしている。 新自由主義という旗を掲げて数十年、世界中に格差社会を蔓延らせ、数京円と言う天文学でより使わない単位の架空経済を作り上げ、そのために世界の実体経済は民衆のための機能を失い、多くの国が瀕死の状態である。
アメリカに追従してきた我が国は、無論、その矛盾の真っ只中にいる。 ところが我が国の民衆の問題意識は、長らく続いてきた官僚支配や自民党政治の付けを払うことの方に集中し、結果、漠然とした小沢待望論のみが政治改革と思い込んでいる。 その小沢待望論の内容は、先の衆院選でも民主党のマニュフェストに拠っているのであるが、それが現実の世界情勢に比べて、対応できるものであるか、否かの検証をする気もない。 要するに現実の問題意識に欠け、あるべき、進むべき方向性を認識せず、棚ボタ式に救世主を待っているのみである。 その結果、常に目の前にある事象の比較検討によってより意思が表明できないテイタラクの状態である。
フィンランドでの無差別殺人事件も、単なる個人の狂気と片つけていては間違いであり、荒廃した人間性は、非人間性、非社会性という行動を引き起こす。
我が国のことに限って言えば、我々がNOを突きつけるべきは、官僚組織のありようであり、財界の方針であり、現在の国の形であるはずである。 それをストレートに抗議してこそ、国民の生の声と言えるのである。
それを「小沢待望論」と言う形に摺り変えていることの矮小さを認識すべきである。 国民が小沢に拘ることで、官僚共、財界人は、その分だけ安堵の気持ちでいることであろう。 国民が、我が国を本当に改革したいのであれば、何に攻撃の矛先を向けるかを明確にしなければならないのである。 そのことすら判らない、我が国の現状は、政治が3流であると同じく、3流の民意を持つ国家であるということになる。 また、それでは改革は遅々として進まなく、当事国アメリカの改革にすら遅れを取ることになるのではないか。
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