[1167] 誰にでも判る経済論<ど素人の経済論>
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- 日時: 2011/08/14 16:04
- 名前: 天橋立の愚痴人間
ID:GRqrD9so
- 誰にでも判る経済論<ど素人の経済論>
昔、昔、その昔。 原始的な狩猟採集の時代には、経済と言う領域は生まれていなかった。 人々は、動物と同じように必要に応じて食料を確保していただけであり、ただ、その食料が豊富にある場所、採りやすい場所の取り合いはあったであろう。
農耕が始まると人々は生産力を上げることが豊かさを維持し蓄えが出来ることを身に付けた。 同時に、直接採取しないでも、欲しいものを交換によって手に入れることが出来ることが解かってきた。 これが経済の始まりである。 そこで交換の為に余分のものの捕獲、生産をすることになる。 生活手段の分業、これが経済の始原であった。 人々が誰でも欲しがる貴重なものを手に入れたものは、多くの他の物資と交換できた。 貴重でなくても、生活の必需品を大量に生産することで豊かになれることが解かった。 やがて人々は経済によって富者となれることに気がついた。
そうすると人間の群れの中の統率のありようも変わってきた。 それまでは、狩猟、採集の能力に優れたもの、他部族との戦いに強いもの、呪術師など部族を牽引していたのであるが、そこへ富者の発言力が高まることになる。
やがて、自分だけで多くのものを作らなくても、作っている人間を支配下に置くことで自分が豊かになれることに気がついた。 救い様のない人間の性は、他部族への侵略も含めて、豊かさを求めて血眼の争いを起こし、その中から王なるものが出現するようになる。
王は少なくとも自分の国の国民が生産するものは全て自分のものと思っていた。 これが封建国家で、その後何千年と続いたものである。
経済の話しに戻して、王権が確立するようになると物々交換の市場も広範囲が対象となり、搾取すべき王の豊かさも物資で保管することが困難となってきた。 そこで登場したのが貨幣である。 最古の貨幣は紀元前1600年のころの中国の殷王朝で使われたタカラガイだと言われている。
単なる貝に物資同質の信用を付加することは、まさしく現代に通じる信用取引の始まりである。 その信用の根拠は、丸ごと王権であり、逆に言えば王だけが信用する勝手なものであった。 それでも貨幣経済は、民衆にとっても便利なものでたちまち世界へ広がった。 後先になるが、物資が豊富になるに連れて商業と言う分野が発達したが、商人は、貨幣の信用をなくしては安心して活動が出来ない。 こうして中世までの商業は、交易を中心に発達してきた。 この頃になると、経済は王権から独立しており、王権をも脅かす存在になっている。 また、物々交換に変わる存在であった貨幣は、富者をより富者とするための機能も発揮して、富の蓄積が大きな目標となってきている。
産業革命が始まり、急激に多種多様の物資が大量に生産されることになり、貨幣経済の存在は一般大衆にとっても不可欠のものとなった。 マルクスではないが、今まで物々交換に変わる手段として考えられてきた貨幣が、労働の対価と言う認識に変わってきた。 この頃から金本位制は採用されたことも、貨幣の価値の国家による担保として頷ける。 そうして、ここ200年の人類の歴史は、貨幣制度による、物資の流動性、利便性により飛躍的に発達してきた。
現在、デリバティブ取引などで、架空の貨幣が存在し、その規模は数京円と言う天文学的数で、とても物資の対価や労働の対価では計算できないものとなっている。 これは、貨幣の対価を物資以外のものへ基準を移したこの時代に端を発した傾向である。 最初は金本位制が商業の分野の金融業を著しく発展させ、貨幣経済の運用に自信をつけることにより、最終的には金本位制の衣も脱ぎすてて不換紙幣制度へ進んだ結果である。
物資の対価としての貨幣でなく、労働の対価としての貨幣でない現在の貨幣制度がもたらす不安定は、株価や為替が1日で乱高下する現実となって現れている。
現代の貨幣制度は一体何のためにあるのであろう。 現代の経済理論は何のためにあるのであろう。
物々交換の仲介としても、その貨幣の不安定さは古代のそれよりもましているではないか。 労働の対価としても同じで、インフレ、デフレの様は、本当に正しく労働の対価を現しているのであろうか。 貨幣経済が富の集積に偏った影響を与えていることまでは、昔からのものでもあり容認しよう。
だが、実態経済を破壊するような貨幣制度を何故存在させているかは理解できない。 新自由主義だ、否だ、と言うより前に、根本的な貨幣のあり方を検証しなければならないのではないか。 原発と同じような、人類では制御できない架空の世界で遊んでいるような現代経済学の怠慢を糾弾する。

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