[2376] 人類の環
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- 日時: 2016/02/15 15:05
- 名前: 天橋立の愚痴人間
ID:qaBRES1U
- 以下の文章は、掲示板を始めたころ、10年前の私の考えの原点を示すものです。
(第1章 まえがき)
世界各地で頻発するテロ、感染の勢いが止まらないエイズ禍、一方で爆発する人口増に対応しようとして世界の資源の争奪戦があり、エネルギー消費の増大と地球環境の悪化など人類は世界的困難な問題に直面している。 科学の発達のスピードは人類自身がその環境に適応できる猶予を与えてくれない。
IT産業の発達による過多な情報社会のあり様は、人類の動物的本質を自覚出来なくしてしまっている。 グローバル化した資本主義経済体制は開発途上国のみならず先進工業国内にも体制に組み込まれない貧困層を生み出しながら、世界中に撒き散らしている過度の競争原理の行き着く先を見ようとしていない。
我々人類は、歴史的に確認されている数千年前から、我々自身の背丈にあった成長をとげてきた。 数十万年といわれている、ホモサピエンスの歴史全体からみれば急激かもしれないが着実な進歩であった。 その間に我々は多種多様な物資を生産することを覚え、指導者を中心とした機能的社会組織を作り上げて来た。
宗教的なものは人々の共通認識として早くから発生していた。 文字の発明・発達は人類の社会機構の整備・科学的思考を爆発的に発達させ、また現在に連なる宗教・哲学・芸術といった精神的内容をもった文明を形成した。 中学校の教科書のような内容で恐縮ですが、人類の問題が現在いかに屈曲点にあるかを証明したく今しばらく続けさせていただきます。
ギリシャ時代近くになると、我々の精神世界は生きるための生産から開放されて独自の発達をはじめました。 宗教ではユダヤ教・ゾロアスター教などの本格的な宗教がおこります。 またギリシャ時代は、数学のターレス・自然科学のデモクリトス・哲学のソクラテスなど一大繁栄期を向かえます。
やがて世界はキリスト教・イスラム教・仏教などが指導する宗教的影響の大きな社会を形成することになります。 政治的にみればこの頃は各地の王侯が支配する封建国家の時代です。 人々は十分に発達した自然科学のもと、ずっと以前に比べ、安定した生産に従事していました。
商業も隆盛になりシルクロードなども栄えました。 しかし流通の内容は特産品の交換が主で拠点ごとによる生産の競合は少なかったと思われる。 人々の生活は現在から見れば相当虐げられたものであったろう、しかし生産手段の発達により出来た余暇の時間が宗教的活動や文芸に向かえるようになっていて一面では安定した時代といえる。
その後、ルネッサンスと言われる時代を経て、人類の大躍進が始まった。 言わずと知れた人間の自由な精神の追求・封建社会の崩壊・産業革命・各分野の科学の大発達などによる社会の変革はあっと言う間に現代の社会を造りあげてしまった。 生産面での変化は特に工業生産の面で大きく、大量生産・価格競争などの要素が組み入れられ、アダムスミスが最初に主張したような、現代資本主義の隆盛が始まった。
人文の面では人間自身の探求が深まり哲学・文学・芸術が華を開いた。 ここ300年間の人類は、戦争による悲劇はあったものの、また地球上の全ての人種では無かったものの、とんでもなく豊かな繁栄を謳歌してきました。 そのスピードは空想小説が50年で現実のものになってしまうくらいです。
しかしながら、余りにも性急な繁栄のもとで、我々は何かを見過ごしてはいなかったか、また将来のために、落ち着いて思考すべきものはないかと考えるべき時期であると思います。
(第2章 経済の事)
自給自足で生計を営む根源的な生き方は、現在でも大災害に見舞われた地域などでは一時的にせよ脳裏に浮かぶように、生物としての人類はこれを忘れてはならない。 幸いに我々の社会での現実は進歩した社会システムの恩恵により手厚く守られている。
経済における資本主義の考え方は物質面における生産・流通を飛躍的に発展させ、現在の豊かな社会を形成するにいたった。 その原動力は我々自身の本能に基づいた物質的欲望を各自が競って取得することを肯定し、またその環境を整備したことである。
永い間続いた封建領主のための生産から、自らのための生産に移行できた時代(後述の民主主義の思想とも相まって実現した)から約300年の間、人類はガムシャラに現代まで行き着いた。 そして、その結果をただ喜んでばかりいてよいのだろうか、現在及び将来について考えてみよう。 地球上ではまだまだここまで至っていない地域のあるのも事実だが、先進工業国と言われている国々においては共通に次のような事態が現出している。
1 生産手段の発達により、地域で消費する必要以上の物質が大量に生産され、そのはけ口を必要としている。
2 生産手段の機械化・ロボット化により、余剰労働力が大量に発生しているはずである。 ただし現在は余剰生産品を他の地域でさばくことで、かつ発展途上国を中心にそれを受け入れられる状況にあるので表面上は重大視されていない。
3 生産手段の高質化に伴い、生産は大組織及びそれに関係する組織が中心となり、健全な労働意欲を持っているだけでは生産に従事できない多数の人々を生み出している。
4 企業は自らの利益追求のため、従来の衣食住に基づく主生産品以外の多種多様の商品の開発生産をせざるを得なくなっている。 これ自体は豊かな生活のため悪いことではないが、新しい商品の氾濫がやがて引き起こすだろう人間の精神面の荒廃を予想したとき手放しで期待してよいものだろうか。
5 膨大な商品生産がもたらす、資源・エネルギーの消費は地球環境を考えなければならない段階に来てしまっている。
6 先進工業国と発展途上国の生産手段の格差は広まるばかりで、人口の多くをしめる途上国との調整の問題は今後増大する。
過ぎ去った時代の状況を思い出してください。 各家庭の子供の目には、近所の左官屋さん・米屋さん・うどん屋さん等々、身近にはたらく人々が映っておりました。 子供にとって、おとなになることはそれらの何かになることと、ごく自然に体得しておりました。 また人々は働くきっかけは自身で手軽に見つけられました。
現在はどうでしょう、安定した生活手段を得るためには、どこかの組織に入り込むことが必要です。 組織の窓口はあちこちにあるわけではありません、また、その職業の多くはサービス産業・IT産業など形態としては把握しづらいものが多くなってきている。 沢山の子供達は就労の根源的意味すら希薄にしか意識できておりません。 このような状況がだんだんと蔓延してきております。
資本主義経済の理論的長所は、人々が誰でも能力・努力に応じて報酬を得ることが出来、各自がその欲望に基づき行動することにより、より豊かな社会を現出することでした。 現在ではその原点の思想に限界があることを現しております。 今や資本主義の経済体制は組織から外れた人々・余剰の人々を除外して進もうとしております。
また大量の余剰商品をさばくための競争は、人間社会での自然で必要な需要供給の関係を逸脱して進んでいます。 巨大組織による強引な物資の押し付け、システムの押し付けは地域の正常な社会基盤の発達を歪なものとしております。 企業はそのために開発した商品を出来るだけ沢山売り込むことで、より巨大化しようと懸命です。
多量の物資への妄想が我々の社会の全能の神となっています。 現在、我々は大量の商品と情報の中で狂喜して生活しております。 迫り来る危機を見つめようとはしておりません。 野生のライオンもその狩猟に当たっては必要以上の狩はしません、北海道のヒグマは必要以上の鮭は取りません。
資本主義経済体制も科学も我々自身が作ってきたものです。 享楽に任してシステムをコントロールする事が出来なければ、それが最後まで人類に幸運をもたらすとは限らないのではないでしょうか。
(第3章 自由の事)
産業革命が起こり、資本主義経済体制の確立とともに、物質文明は見事に開化しました。 封建時代、それ以前の時代と違い経済の仕組は人々のものになり、自分自身で自分達の幸福をつかめる事は誰もが当然のことと疑いません。 同じころから、民主主義の考え方が発達してきました。
ところで「民主主義」とは何を言うのか改めて検証してみましょう。 民主主義の第一定義は政治権力(国を統制する機能)の主体がそれまでの君主から人民に移行した形態を言う。 具体的には選挙で為政者を選び自らの社会と統治を委ねるシステムである。 別に人権(平等・自由等)を重んじる意味があります。 また一般的に民主主義を言った場合、社会主義的な考え方(人々はスタートにおいて平等である事を重要視する)を示す場合があり、自由主義(資本主義的な考えに基づき個人の責任で皆が幸福に暮らせることを理想としている)とは異なって使われる。 それと対比する、以前の封建制における人々の生活は映像や文字で見るばかりで、もはや実感出来ない。
かわりに人々は民主主義の時代の只中に居ることにより、民主主義の意味も自覚できなくなっている。 為政者を選ぶ選挙は人々の意思の総体であるべきなのだが、真面目に参加しようとする人がだんだんと減少している、選挙にも行かないくせに、政治の内容になるとやたらと不満を言う人々が増加している。
封建制の時代でも立派な君主も存在していた。 民主政治でも、我々の代表を真摯に選ぶ努力が必要なことをもっと意識すべきだ。 他方で民主主義の第一義を限りない自由と勘違いしている沢山の人々がいる。 民主主義制度の中であるからこそ、個人の自由が保障されているのだ。 また民主主義の制度と言っても、為政者が人々の代表と言うだけで、社会秩序を維持するための制約は厳然として存在する。 個人の自由と言っても無条件で認められるものと、社会のルールを優先すべきものがあり、その境界線の認識に差異が発生している。
論理的にみても、物事を限りなく分類すると、物事の数だけの分類となり分類の意味が無くなってしまう。 同様に限りなく自由を追求することで人々は自由でなくなってしまう。 なぜなら人々が自由でいられるのは他の人がそれを認めてくれている限りであり、ある人にとっての自由が他の人の不自由をきたすなら、そこには双方にとっての自由は無くなってしまう。 そして社会で生活をしている限り、全ての人々の限りない自由が保障されることはありえない。
過度の自由競争の結果待っているものは、昔の秩序無き時代の弱肉強食の世界である。 特に先進諸国といわれる国々に住んでいる人々は、民主主義になれてしまい、都合のよい自由の追求に狂奔しているように見える。 これは大量生産により手に入る多種多様な商品の取得欲と比例している。 大切な民主主義も、人々の認識を当初の精神から見直さなければ、やがて制御出来ない享楽地獄へ向かわせる事になるのではないでしょうか。
(続く)

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