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[2378] 人生論<現代に生きるとは
日時: 2016/02/27 08:01
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:feTh8YOA

現代社会は物質的に豊かになり、あらゆる情報が飛び交い、メディアによってほとんどの人の知るところとなっています。
民主主義の発想と相まって、人々は自分自身のの生き方を考えます。
そういう余裕があるのです。

物事の事象、生命の神秘も科学的に解明され、因果関係などは誰もが知っています。

インターネットの発達により、我々はあらゆる知識を瞬時にして取り込めます。
学者が何年もかかってまとめた知識も、30分もあれば自分のものにできます。
気儘勝手に過ごしている大衆も、時代が時代なら偉大な哲人、科学者、宗教家なのです。

言葉でこそ現せないが、先人が主張してきた様なことは、無意識のうちに体現しているのです。
宗教心についても同じです。

逆に言えば、現代の社会に生きる人々には、人生の指標がないのです。
民主主義は良いとしても、引き換えに人々は自分の人生を自分で切り開くしかないのです。
問題は、70億と言う人口、日本で言えば1億の人々が、皆、自分の人生を自主的に確立できるのでしょうか。

一般的に無気力、怠惰と言う現代人の性癖は、彼ら自身の内面的な葛藤の結果であり、それ以上のものを全ての人に自主的に求めることはできないのではないか。
このままで人類は幸せであるのか。

それを問い直して見ることも必要ではないか。
昔の人生論と対照するに留まらず、新しい可能性を探りたいものであれる。


(人生 その1)

私の住んでいるところは京都北部の田舎町です。
時折、京阪神へ車で行くのですが、途中の内陸部の過疎地域(と言っても私が住んでいる町とそんなに変わらないのですが)と通るとき、ポツン、ポツンとある家に洗濯物が干してある光景が見えます。

こんなところにも家族がいて、奥さんが毎日、毎日家を守って生活しているのだ。
何の刺激もないようなこの場所で、いったい何を張り合いに生活しているのであろうと。勝手に同情して人生の儚さを感じます。

そうして、その後で、何時もの事ですが、人生とは何であろうと言うことへ向かいます。
妻のことを伴侶とも呼ぶように、妻でなくとも人生には伴侶がなくては空しさに耐えられないのではと思います。

そういうものが何処から来るのかは、別の範疇の問題として、人は多くの人とつながりながら生きていることに心の安寧を感じることだと思います。

その結果、1軒屋の生活を寂しく思い、都市部の密集に我を忘れることになるのでしょう。
まあ、密集と言っても「隣の人は何する人」と言いますように密集の中の孤独と言う概念もあります。

また、単につながりと言いましたが、量的なつながりばかりではないはずであり、小さな集団であっても、その深さにおいて量を凌駕することも考えられます。

結局は、その1軒屋の家族が幸せであれば良いのだと、幸せであることを願って、私の心を納得させるころには、車は数キロ先を走っていることになります。

1軒屋の奥さんにとって、まったく御節介な干渉ではありますが、車で通る時、私自身の心が平穏であるときは繰り返し浮かぶ感傷です。

「人生とは何か」と問うとき、
もっともっと、赤裸々な答えを出すことがあります。

人生論の始めに言ってみたかった経験でした。
メンテ

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人生論と人生観 ( No.2 )
日時: 2016/02/28 19:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:keCpiPyA

「人生論」とは

人生について論じること。また,人生の意義・目的・価値などについての考え方。

「人生観」とは

人間ひとりひとりが、自身自身の人生や人間全般の人生について抱く諸観念のこと。人生の見方。

人生観とは多分に形而上学的な認識。

ここでは、人生論について掘り下げてみましょう。

まずは、トルストイの言葉を紹介します。

人生論「現代の迷える人たちへ」トルストイ

いっさいの自己愛を捨て、理性的意識に生きることによってのみ、人間は真の幸福を獲得することができる――人間いかに生きるべきか? 現世において人間をみちびく真理とは何か? 永年にわたる苦悩と煩悶のすえ、トルストイ自身のこの永遠の問いは、本書にみごとに結実した。誤ることのない鋭い観察力と、愛の直感と心の目で綴った、人生についての内面的、哲学的な考察。
人はだれしも、自分が快適になるために、自分の幸福のためにのみ生きている。自分の幸福を望む気持ちを感じないなら、その人は自分を生きていると感じていない。自分の幸福を望む気持ちなしに、人は、人生を想像できないものだ。一人ひとりの人間にとって、生きるということは、幸福を希、獲得することと同じだし、幸福を望み、獲得することは、いきることと同じである。

ところが、自分のその幸福を手に入れようと努めているうちに、人はその幸福が他の存在によって左右されることに気づく。


この世界の限りないすべての存在が、それぞれ自分の目的の達成のためにいつなんどきでも、自分一人のために生命が存在するはずのこの自分を抹殺しかねないのだ。
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互いに滅ぼし合い、みずから滅びてゆく無数の同じような個我の中で、自分の幸福だけを得ようと努める個我としての人間の生活は、悪であり、無意味であって、本当の生活はそんなものではあり得ない。

生命とは何か、幸福とは何かも知らないのに、自分たちが生きているように思っているのであり、それはちょうど何の方向もなく波に運ばれている人間が、自分の望んでいる必要な方に向かって泳いでいるのだと思いかねないと同じである。

それでも、生きていかなければならない。

(引用終わり)

これでも結構抽象的な概念ですが、その言葉の中に、幸福とか、真理とか愛などと言う言葉が出てきます。
トルストイは、これらの言葉の意味を自分なりに想定しています。
この言葉で連想される共通の思いを前提としています。

ところが、現代社会において、民主主義の名の下に、やたらと個人の自由、権利意識が強い人たちに、トルストイが思い描いた「幸福」「真理」「愛」の概念が当てはめられるでしょうか。

現代社会と言っても、まだまだ我々の多くは、トルストイに共感できるものを持っています。
それに照らし合わせて現代の若者は!
と言いますが、現代の若者にとっては、何故!トルストイでなければならないか!

と言う事になります。
そうなのです、ある意では現代の気質が正しいのであり、その息で、そのまま受け入れるべきと言えます。
結婚をしたくないことも、出世を望まないことも、それぞれが、そのまま受け入れられるべきであるのです。

新しい人生論として認めれば良いことで、それを批判する根拠などはないのです。



と、まあ

このような論理になるのですが、
果たして、それで良いのでしょうか。

民主主義が謳歌されている現在、あっさりと、それを認めるべきでしょうか。
認めないと言っても

それなりの根拠が必要で、頭ごなしに言うべきではないことは確かですね。

とりとめもない話になりましたが、これが究極のテーマです。




メンテ

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