ホームに戻る > スレッド一覧 > 記事閲覧
[2378] 人生論<現代に生きるとは
日時: 2016/02/27 08:01
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:feTh8YOA

現代社会は物質的に豊かになり、あらゆる情報が飛び交い、メディアによってほとんどの人の知るところとなっています。
民主主義の発想と相まって、人々は自分自身のの生き方を考えます。
そういう余裕があるのです。

物事の事象、生命の神秘も科学的に解明され、因果関係などは誰もが知っています。

インターネットの発達により、我々はあらゆる知識を瞬時にして取り込めます。
学者が何年もかかってまとめた知識も、30分もあれば自分のものにできます。
気儘勝手に過ごしている大衆も、時代が時代なら偉大な哲人、科学者、宗教家なのです。

言葉でこそ現せないが、先人が主張してきた様なことは、無意識のうちに体現しているのです。
宗教心についても同じです。

逆に言えば、現代の社会に生きる人々には、人生の指標がないのです。
民主主義は良いとしても、引き換えに人々は自分の人生を自分で切り開くしかないのです。
問題は、70億と言う人口、日本で言えば1億の人々が、皆、自分の人生を自主的に確立できるのでしょうか。

一般的に無気力、怠惰と言う現代人の性癖は、彼ら自身の内面的な葛藤の結果であり、それ以上のものを全ての人に自主的に求めることはできないのではないか。
このままで人類は幸せであるのか。

それを問い直して見ることも必要ではないか。
昔の人生論と対照するに留まらず、新しい可能性を探りたいものであれる。


(人生 その1)

私の住んでいるところは京都北部の田舎町です。
時折、京阪神へ車で行くのですが、途中の内陸部の過疎地域(と言っても私が住んでいる町とそんなに変わらないのですが)と通るとき、ポツン、ポツンとある家に洗濯物が干してある光景が見えます。

こんなところにも家族がいて、奥さんが毎日、毎日家を守って生活しているのだ。
何の刺激もないようなこの場所で、いったい何を張り合いに生活しているのであろうと。勝手に同情して人生の儚さを感じます。

そうして、その後で、何時もの事ですが、人生とは何であろうと言うことへ向かいます。
妻のことを伴侶とも呼ぶように、妻でなくとも人生には伴侶がなくては空しさに耐えられないのではと思います。

そういうものが何処から来るのかは、別の範疇の問題として、人は多くの人とつながりながら生きていることに心の安寧を感じることだと思います。

その結果、1軒屋の生活を寂しく思い、都市部の密集に我を忘れることになるのでしょう。
まあ、密集と言っても「隣の人は何する人」と言いますように密集の中の孤独と言う概念もあります。

また、単につながりと言いましたが、量的なつながりばかりではないはずであり、小さな集団であっても、その深さにおいて量を凌駕することも考えられます。

結局は、その1軒屋の家族が幸せであれば良いのだと、幸せであることを願って、私の心を納得させるころには、車は数キロ先を走っていることになります。

1軒屋の奥さんにとって、まったく御節介な干渉ではありますが、車で通る時、私自身の心が平穏であるときは繰り返し浮かぶ感傷です。

「人生とは何か」と問うとき、
もっともっと、赤裸々な答えを出すことがあります。

人生論の始めに言ってみたかった経験でした。
メンテ

Page: 1 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄 ( No.7 )
日時: 2022/05/06 07:11
名前: スメラ尊 ID:JcXkm0c6

アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄


反対者をいちいち説得するより、賛同者を増やす方が効率的
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180213T0221090900.html


100%好意的な評価を受けることは絶対にない

人は誰でも意見を持ったり、何らかの意思表示をした瞬間に、期せずして批判の渦に巻き込まれる。

人は生きている限り、他人の批判から逃れることができない。自分が持った意見は、必ず正反対の意見を持つ人たちから激しく責められる。

自分自身が考えたことは、必ず妨害され、野次られ、敵視され、けなされる。何かすれば、敵対者からは必ず責任を追及され、いかに馬鹿げたことをしたのかと責められ、どうしようもないと軽蔑される。

私たちは、何かしたらそれで責められ、何もしなければ何もできないと責められる。真面目でいると面白味がないと嘲笑され、不良がかると社会不適合者だと吐き捨てられる。


結論から言うと、最も合理的かつ効率的なのは、反対者や批判者は、あっさりと「切り捨てる」ことなのである。

私たちは世の中を支配できない。そうであれば、私たちがしなければならない唯一のことは、「常に批判する人間はいる」と認め、その人たちを切り捨ててしまうことである。

相手を変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのは無駄だ。切り捨てて関わらない。自分の人生に関与させない。説得しない。教えない。


なぜ、それがいいのか。理由は簡単だ。反対者や批判者の意見を変えさせるよりも、賛同者を増やした方が「効率が良く合理的」だからだ。

反対者の意見を変えさせるのは苦労する。結果的に無駄な努力になるかもしれない。無駄ではないかもしれないが、かなり面倒な仕事になる。

この忙しい現代社会で、なぜいちいち反対者や批判者のために、効率の悪いことに取り組まなければならないのか。ひとりの反対者を転向させるより、賛同してくれる人を見つける方が効率的なのだから、それを選択すべきだ。

「どうでもいい人間は切り捨てる」

「批判者を転向させるより賛同者を見つける」

日本人は今まで自分に反対する人たちの意見や、自分たちに対する批判には過剰に反応し過ぎてしまっている。無意味な配慮も横行している。

基本的に、優しすぎるのだ。

だから「どうでもいい人間は切り捨てる」という効率的な生き方ができない。しかし、そろそろこのあたりを変える必要が出てきている。

日本人はもっと我が道を往って幸せをつかんでもいいはずだ。
 


▲△▽▼

世の中では何をしても嫌われる、世の中の人間の 9割 はどうしようもないアホ
「誰にも嫌われないこと」を重視して生きるのは危険なこと


アメリカ人はイスラム教徒に嫌われる。イスラム教徒はキリスト教徒に嫌われる。キリスト教徒は共産主義者に嫌われる。共産主義者は資本主義者に嫌われる。富裕層は貧困層に嫌われる。貧困層は富裕層に嫌われる。

テロリストは全世界に嫌われる。しかし、助けに来たアメリカ軍は、他国に介入したとして嫌われる。

軍人は平和主義者に殺人鬼と罵られて嫌われる。平和主義者は夢想家だと言われて現実主義者に嫌われる。現実主義者は宗教心がないと宗教家から嫌われる。保守派は左翼に嫌われる。愛国者はグローバリストに嫌われる。

ありとあらゆる国で、国民は隣の国の人間を嫌う。国民は国民で、何重にも割れて互いに相手を嫌い合う。考えてみれば、なかなか悲惨な世界だが、これが人間社会の実態でもある。

つまり、私たちは何をどうしても、他人に嫌われる運命にある。ただ道ばたに立っているだけでも嫌われてしまう。どんな生き方をしても、何を言っても言わなくても、他人に嫌われない生き方はない。

私たちは存在してるだけで誰かに一方的に嫌われる。どんなに品行方正であっても、どんなに愛すべき存在であっても無駄だ。この世で嫌われない人間はどこにもいない。

この世の中は、何もしても嫌われるのが現実だ

嫌われないことを考えて生きるのは立派に見える。しかし、それは基本的に報われることはない。誰にも嫌われないで生きるのは不可能だからだ。

別に無理して嫌われる必要はないが、何をしても嫌われるのが現実なのだから、そんなものを重視して生きると100%失敗してしまう。

他人に媚びても、結果的には何も得られない。媚びることが嫌われるからだ。他人に同調しても、それが自分の本意でないのであれば自分で自分を壊してしまう。

嫌われたくないために他人に謝罪なんかしてしまうと、足元を見られて「もっと謝罪しろ、賠償しろ、誠意を見せろ」と恐喝されることもある。

誰でも人間関係を円滑にしたいと思う。しかし、嫌われたくないと思うが故に自分が折れると、自分の立場を悪くするだけである。自分で自分の首を絞めることになる。

何らかの意見を言えば必ず嫌われる。どんな意見でも、その意見と対立する意見が必ずあるからだ。逆に意見を持たなければ持たないで嫌われる。意見を持たない人間は愚かだと思われ、愚かな人間は本能的に嫌われるからだ。

立場を築くと必ず嫌われる。どんな立場でも、その立場を嫌っている人が必ずいるからだ。立場を築かない人も嫌われる。立場も築けないほど実力のない人間だと思われるからだ。

若いと若いがゆえに嫌われる。歳を取れば歳であるがゆえに嫌われる。男であれば男だから嫌われる。女であれば女だから嫌われる。

目立つと目立つというだけで嫌われる。嫌われないように目立たない生き方をしても、その生き方自体が姑息だと言われて嫌われる。

何をしても嫌われるのだ。そんな社会で私たちが生きるためには、誰もが最後に同じところへ落ち着いていく。

それは「嫌われることを恐れない」ということだ。


何をどう言っても、他人に理解されないのが現実

「嫌われることを恐れない」と言っても、誰かの悪口や罵詈雑言を恐れずに言い回ってもいいというわけではない。わざわざ他人に嫌われることを進んでする必要はない。

私たちは自分が心地良く生きるために、ある程度の常識や良識を持って生きなければならない。

しかし常識や良識を持って生きたとしても、嫌われることは最初から受け入れておく必要がある。どんなに常識や良識を持っても、それを持っているが故に嫌われるのだ。

分かってもらおうと思ってはいけない。徒労に終わる。相手は説得されることを望んでいないからだ。理解してくれる人もいるかもしれないが、理解してくれない人もいる。

理解してくれない人は、それがいかに理路整然とした正論であっても絶対に耳を傾けない。

なぜ分かってくれないのかと、隔靴掻痒の気持ちになることもあるかもしれない。しかし、世の中は何をどうやっても交われない人間が存在するのは誰も否定できない事実だ。

自分とはまったく逆の世界観を持つ人も多い。同じ人間であっても、同じ言葉を話していても、そこに横たわる溝は限りなく深い。

だから、自分を嫌い、何を言っても理解してくれない人がいるからと言って、落ち込む必要もなければ激怒する必要もない。

また、そういった人たちにひどく嫌われているからと言って、それを気に病む必要もない。媚びる必要もなければ、理解してもらう必要もない。

大人になればなるほど、意見を持てば持つほど、地位が上がれば上がるほど、有名になればなるほど、反対するために反対している人たちと山ほど遭遇することになる。

つまり、私たちは何をやっても批判され、何を言っても反対され、行いや生き方や主張が正しくても必ず反対者に嫌われるということだ。


嫌われるということ自体は、誰もが経験すること

「誰にも嫌われないこと」を重視して生きるのが危険なのは、それが確実に失敗するのが分かっているからだ。

嫌われる度合いは発言内容な信条や性格によって違う。しかし、どんな性格でも、どんな発言でも、誰かに嫌われることだけは間違いない。

だから、嫌われること自体は別に気にする必要はない。

職場でも、家庭でも、友人関係の中でも、世間の中でも、自分を嫌う人は必ず生まれ、自分の敵が必ず生まれる。私たちはそれに慣れなければならないのだ。

現代のような高度情報化時代になると、多くの人がインターネットで自分を嫌う人を発見することも多い。自分が「受け付けない」と思う人を発見すると同じく、相手もこちらを「受け付けない」と考える。

しかし、それほど気に病む必要はない。それは個人的な問題のように見えるが、本当のことを言えば誰もが経験する普遍的な問題であるからだ。

嫌われるということ自体は誰もが経験することであり、個人的な経験ではないのだ。

気持ちが収まらないかもしれない。潔癖な人であればあるほど、自分が誤解されたり、嫌われたりすることに苦悩する。人間関係の悩みで自殺する人もいれば鬱病になる人もいる。それほど苦しみ抜いたということなのだ。

しかし、マザー・テレサのような聖女さえも批判の対象になるのだから、聖人でも何でもない私たちが、誰かの怒りを買わない方がむしろどうかしている。

だから、誰かに嫌われて気に病むのは無駄だ。私たちが生きている世界は、誰かが誰かを嫌い、批判し、嫌悪し、恨み、排斥し、衝突する世界なのだ。それが現実だ。

そうであれば、逆にこうした世界に早く慣れておく必要がある。特に日本人であれば尚更だ。なぜなら、日本人は日本人であるというだけで、中国・韓国・北朝鮮のような反日国家の人間に嫌われるからである。

嫌われて何か問題でもあるのだろうか。何もない。相手を嫌うことに問題はあるのだろうか。何もない。相手と断絶することに問題はあるのだろうか。もちろん、何もない。


全般的に、蛇は嫌われる。中には蛇を愛する人がいて、この生き物がいかに愛すべき存在なのかを主張したとしても、やはり多くの人は蛇を嫌う。



▲△▽▼


価値感を共有しない国家、集団、人間と分かり合えると思ったら大間違いだ

2017年3月に入って、中国が事実上の制裁を韓国に課すようになっている。なぜか。韓国が高高度ミサイル防衛システム「THAAD(サード)」を配備しようとしているからだ。

これはミサイル攻撃に対する防衛システムなのだが、これが配備されると北朝鮮のミサイルどころか中国のミサイルまでもが防衛されることになる。

中国は以前より韓国にTHAADミサイルの配備は絶対に認めないと通告していたのだが、韓国はアメリカには早く配備しろと命令されていた。

結局、コウモリ外交のツケで板挟みになった韓国は、アメリカの命令の方に従うことに決めたのだが、それは中国を蹴ることでもあった。だから、中国は激怒して韓国を追い込んでいるのである。

中国のやり方は傲慢だが、日本は韓国に対する扱いはこの中国に学ぶ必要がある。韓国のような、すぐに裏切り、約束を守らず、価値感を共有しない国家は、中国のように有無を言わさない「制裁」や「報復」によって関係を断ち切らないといけないのである。

韓国は反日を繰り広げている。あちこちに「嫌がらせ像」を立てて日本を嘲笑している。このように価値感を共有しない韓国に対しては、日本こそが中国のように報復で返さなければならないのである。岸田文雄外相はすぐにそれをすべきだ。


「価値観を共有しない」とは、このようなことだ

価値感を共有しない国家、集団、人間と分かり合えると思ったら大間違いだ。絶対にそれはない。結果的には関係はうまくいかない。無理に一緒になっても、常に同床異夢であり、呉越同舟である。

この事実を認識するのは重要だ。

人間関係の軋轢や問題は、そのほとんどが「価値観を共有するかしないか」だ。相手が同じ価値観を持っていないと、どんなに長い時間一緒にいても必ず破綻が待っている。

自分の譲れない部分で価値観を共有していないと、一緒にいられない。個人でも、グループでも、民族でも、国家でも、重要な部分で価値観が共有されいないと必ず関係は壊れる。

「価値観を共有しない」とは、具体的にどのようなケースが考えられるのか。日本人の一般的な性格を元に考えれば、いくつもの例が挙げられる。

たとえば、日本人は自立心が高い。生活でも経済問題でも、その多くは他人に迷惑をかけず、自分で何とかしようと努力するし、困難にも耐える人が多い。

そうすると、依存心が強く、何でもかんでも他人を利用しようと考える民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は黙々と「すべきこと」をする。他人がどうであれ、自分のやることはしっかりとやる人が多い。ある意味、これも自立心の高さから生まれている。

そうすると、すべきことをせず他人に期待し、裏切られると恨んだり非難するような民族とは「価値観を共有しない」と言える。日本人には合わないのだ。

日本人は、それぞれ他人には他人の考え方があることを理解する。他人と意見が違ったり、思想が違ったりしても、できる限り相手を許容する人が多い。

そうすると、相手も自分と同じ考えだと思い「違う」と分かると裏切られたと思って頭ごなしに批判してくるような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、すぐに目の見えるような成果がでないことでも、長い目で取り組み、少しずつ効果を生み出せるように努力する。他人が見ていなくても責任を持って取り組む人が多い。

そうすると、すぐ目に見える成果をあげようと行動し、効果が出ないと分かると、さっさと見捨てて顧みないような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、見栄や虚栄心よりも身の丈に合った生活や考え方を好む。うわべを飾り、外観を取り繕い、他人に良く思われようと過剰な努力をしたところで、内面が伴っていないと意味がないと考える人が多い。

そうすると、整形手術でも嘘でも詐欺でも騙しでも何でもいいからうわべだけを飾ろうとするような民族とは「価値観を共有しない」と言える。


日本と「価値観を共有しない」民族が存在する

日本人は、個人的な約束から公的な約束まで、たとえ自分が損をかぶることになっても、責任を持とうとする人が多い。いったん約束したことはきちんと果たそうと考える。

そうすると、自分の都合によって約束を守らなかったり、前に言ったことを翻したり、約束などした覚えはないと言い張るような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、物事を徹底して取り組み、綿密さや正確さをできる限り保障しようとする人が多い。また、そうやって物事に取り組むことに誇りを感じている。

そうすると、物事には適当に取り組み、問題が出たら責任を他者に押しつけ、それでいて最初は「何でもできる」と根拠もなく言うような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、信頼されることや信用されることをモットーとして取り組み、そのために地道な努力をする人が多い。信頼を得るには長い時間がかかる。しかし、その時間は無駄だとは思わない。

そうすると、金のためなら、嘘でも裏切りでも詐欺でもゆすりたかりでも何でもするような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、事実関係が間違っていると謝罪し、同じ間違いが起きないように物事を改善しようと考える人が多い。自分の感情よりも、事実を優先する。

そうすると、都合が悪くなると泣き叫び、ごまかし、逆切れし、被害者を装ったりするような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、他人に対する思いやりや、恩義を忘れない。また、思いやりには思いやりを返し、恩義には報いようと努力しようとする人が多い。

そうすると、思いやりを見せる相手は弱い人間だと考えたり、恩を受けたことをなかったことにし、恩を仇で返すような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。


関係を断たなければ、問題はますます深刻になる

もちろん、個人間や民族間で、すべての価値観が完全に一致しているというのはあり得ない。

人間はひとりひとり違っており、民族もそれぞれ違っている。文化も違えば、人種も違えば、宗教も習慣も何もかも違う。だから、完全一致を目指すとすべてがうまくいかなくなる。

しかし、根本的な部分で、ある程度の価値観の共有が為されていないと、最初からうまくいかないというのも事実である。

あまりにも価値観が違っていると、どこかで妥協したとしても、他のほとんどの部分が対立してしまって、次から次へと問題が発生していく。

無理に一緒になっても、関係は必ず破綻してしまう。ただ破綻するだけではない。互いに最も不幸な形で関係が破綻するのである。常に同床異夢であり、呉越同舟というのは、そういう意味だ。

したがって、「価値観を共有していない」「今後も共有できる見込みがない」と分かれば、互いに深入りすべきではなく、関係は断絶するか、もしくは必要最小限の関わりにとどめておくしかない。

「価値観を共有していない」というのは、共に生きるのに適していないということだ。生きている世界が違っているのだ。その上、相手が憎悪を向けてくるのであれば、関係は断絶すべきであり、関わるべきではない。

「誰とでも仲良く」というのは幼稚園か小学生低学年の標語であり、それは現実的ではない。うまくいかない関係は、いずれ壊れる。悪化する可能性のあるものは、いずれ悪化する。

日本は八方美人になってあちこちに良い顔をしても仕方がない。「価値観を共有していない」と悟った国とは関係を断たなければ、問題はますます深刻になっていく。

価値観を共有していない相手とは戦略敵に関係を断つというのは、問題を複雑化させないために、とても大切なことだ。

今後、韓国のように価値観を共有していない相手と関係を断てるかどうかで日本の命運が決まる。

日本は、韓国の反日で凄まじく迷惑を受けている。民族の尊厳を貶されていると言っても過言ではない。それならば、なぜ政治家は躊躇しているのか。日本も中国を見習って、さっさと韓国に報復すべきなのだ。

そして、最終的には韓国と一切の関係を断つべきだ。国交断絶と非韓三原則こそが、正しい韓国との付き合い方である。


最終的には韓国と一切の関係を断つべきだ。価値感を共有しない国に遠慮は要らない。国交断絶と非韓三原則こそが、正しい韓国との付き合い方である。


▲△▽▼

反日国家との関係はマネージなどできないので断交が正しい

「一見、良いことを言っているように見えて、実は裏には別の意図がある」というのは、中国・韓国・北朝鮮のような反日国家が常に使う手口である。

たとえば、「平和を守れ、平和は素晴らしい」というのは、とても美しい言葉だ。人は誰でも平和でいたいし、協調したいと思っている。誰も他人と衝突しながら生きたくない。

しかし、それを反日国家が日本に強要したとしたらどうだろうか。日本の防衛力をゼロにするために「平和を守れ」と諭しているのだから、言うがままに反日国家を信じていると、あっさりと侵略される。

「平和を守る」というのは美しい言葉であり、理想だ。しかし、現実には暴力国家・独裁国家・詐欺国家が日本のまわりに存在するのだから、きれい事など聞いている場合ではない。

反日国家が、あの手この手で日本を侵略しようとするのが現実社会のリアルな姿なのである。

日本の侵略にはいろいろあるのだが、その中のひとつの大きな手法が捏造ファンタジーの歴史プロパガンダを日本に押しつけて「謝罪しろ、賠償しろ、金を出せ」と恫喝したり、「平和を守れ」と叫んで武装解除させる方法だ。

日本はやりたい放題されている。


建前の美しい言葉は、警戒心を解くための手口

「信じ合うのは美しい」というのは間違いない。しかし、簡単に中国・韓国・北朝鮮のような国を信じてしまったら、日本は騙されて終わりだ。

韓国を見ればいい。国と国の約束すら守れない史上最悪の詐欺国家である。

だから、普通の常識を持った日本人であれば、他国を信じたいと思っても、それは「お花畑の理想論だ」と一定の警戒心を持って生きている。

この「警戒心」こそが反日国家にとって、最も邪魔なものだ。だから、反日国家はこのように言う。

「友好関係は美しいのに、日本人は他人を疑って生きている。間違っている。我々を信じなさい」

そうやって彼らは自分を信じさせて、守りもしない合意を結んで金を毟り取っていく。現に、日本は日韓合意で10億円を毟られて合意も反故にされている。

韓国の方は国内で好き放題しているのに、「友好関係は美しい。協力し合うべきだ」と都合の良い建前や理想を日本に押しつけているのは日本をカモにするための手法でしかない。

悪人ほど美辞麗句や理想を語りたがる。その理由は明らかだ。それは、要するに相手から「疑う心」を奪い取るためのテクニックなのである。

どこかのインチキ宗教の教祖も、美辞麗句を語って自分を信じさせている。もちろんそうやって自分を信じさせて、信者の財産を根こそぎ奪うためだ。

建前や美辞麗句を押しつける人間というのは、本当のところを言えば、非常に危険なタイプの人間であることも多い。

問題は、日本人はこの手の手法に弱いということだ。

日本政府も、中国・韓国・北朝鮮から「友好しろ」と押しつけられると友好し、「友好のためには謝罪しろ」と迫られると謝罪し、「謝罪するなら賠償しろ」と凄まれて賠償してきた。

日本政府がそうなら、日本人個人もまた「きれい事」に弱い。赤ん坊の手をひねるように簡単に騙される。日本人は友好を好み、弱者を守りたいという美しい気質があるので、そこを見透かされている。


自分が弱者になりすまして「弱者を守れ」と叫ぶ

生活保護にしてもそうだ。やむにやまれぬ事情で生活が困窮して生活保護を受けている人もいる反面、わざと働かないで生活保護を不正受給をするクズのような人間もいる。

本当に困った人にとって、生活保護は一縷の望みであるにも関わらず、それを不正受給する一部のクズのために生活保護というシステムは崩壊の危機に瀕している。

こうした生活保護に寄生する悪人どもは、自分が弱者になりすまして「弱者を守れ」と叫ぶ。

よくよく考えれば、本当の弱者というのは、自分が弱者であることを恥じてそれを隠そうとする。間違えても「自分は社会的弱者だが、世間は自分を守れ」と叫ばない。

そんなことを叫んで社会運動している暇があるのなら、一日でも早く仕事を見つけてまっとうに暮らせるように努力する。あるいは、心情的に、世間に迷惑をかけないように慎ましく目立たないようにする。

しかし、弱者を装ってタカリをする人間は逆だ。

「弱者を守れ」と声高に叫び、「弱者の人権を保護しろ」と役所の職員を恐喝し、もっと金をよこせと声を荒げて要求する。弱者という立場にあぐらをかいて、「保護しないのは差別だ」とわめいて、上から目線で高飛車に金を要求する。

「弱者を守る」というのは、当たり前のことであり、これは誰も否定することができない。だから、弱者を装っている悪人は、ことさらに建前や理想を他人に語って金を奪い取る。

「人を信じろ」「弱者を守れ」という正論は、悪人の手にかかるとそれ事態が相手から金を毟るための「ワナ」となる。それは、正論を無理やり相手に押しつけて、自分の都合の良いように相手を動かす手法に過ぎない。

宗教ビジネス、弱者ビジネス、人権ビジネスというのは、こうした「理想の押しつけ」「善意の押しつけ」によって成り立っている。

それを国単位でやっているのは韓国である。この国はありとあらゆる問題にケチをつけて自分が被害者だと言い張り、事あるごとに「謝罪しろ、賠償しろ」とわめき、合意を結んでも平気で破る。


悪人が善人に見え、善人が悪人に見える理由

「友好関係は美しい」という人と、「騙されるな。友好関係は破棄しろ」という人がいたら、どうしても「友好関係は美しい」というメッセージを発した人の方に好感が集まる。

「友好関係は美しい」と言っている人は、一見すると悪人に見えない。

悪人どころか善人のように見える。たとえ、友好関係を結んでから「友好を壊したくなければ謝罪しろ、賠償しろ」という邪悪な魂胆があったとしても人格者に見える。

逆に「騙されるな。友好関係は破棄しろ」と言っている人は、邪悪で心が狭い人のように見える。

たとえ反日国家の友好に裏があると分かっていて、日本を守りたいと思うがゆえの発言であっても、そのメッセージからはどうしても偏狭な悪人のような印象に見える。

悪人の方が善人に見えてしまうというのは、別に不思議なことではない。悪人は信用されなければ商売にならないから、必要以上に信用されるために外見を飾り、言葉を飾るからだ。

たとえそれが嘘でも、そのように振る舞っていれば人々が騙されることを悪人は知っている。

だから内面が真っ黒な人間ほど、外見を飾って飾って飾りまくる。美辞麗句を語り、善意を声高に要求する。そんな人間こそが危険なのである。

もう日本人は分かったはずだ。

「平和を守れ」も「友好関係は美しい」も、邪悪な人間や国家が言うと、そこには裏があるのだ。「騙した方と騙された方では、騙される方が悪い」とうそぶく国民や国家が美辞麗句を言うのはワナなのである。

美辞麗句に騙されてはならない。

中国・韓国・北朝鮮は反日国家であり、すでに日本の敵国と化している。歴史は捏造し、何の約束も守らない。ただ、日本を責め立て、日本を貶め、日本を崩壊させようとしている。

特に韓国は許せないほど卑劣だ。そうであれば、日本人はもう韓国と関わるべきではないというのは誰でも分かる。反日国家との関係はマネージなどできない。

相手にして騙されるくらいなら、完全に関係を断ち切ってしまうのが正しい。そして、それは政府だけに突きつけるのではなく、日本人ひとりひとりが肝に銘じるべきなのだ。個人も「非韓三原則」をすべきなのである。


相手にして騙されるくらいなら、完全に関係を断ち切ってしまうのが正しい。そして、それは政府だけに突きつけるのではなく、日本人ひとりひとりが肝に銘じるべきなのだ。個人も「非韓三原則」をすべきなのである。





▲△▽▼


許すと現実から抜け出せる

さて、先日は、今の伝統だとか常識だとか。
そんなものは時の権力者が適当に作っただけ。
伝統でもなんでもないですよ。

そんな話を載せますた。

世の中にあるこうすべき。
こう生きるべき。
こういう人が素晴らしい。これがまっとうな大人。

そんな常識は、時の権力者が広めた単なる物語。

例えば、家畜を見る

狭い牛舎に押し込められて
モーモー鳴いてる牛さん達。

はたから見ると可哀そうに。。そう思うのですが。
せまい満員電車に押し込められて通勤する人たち。

なぜか人間になると、それが常識的でまっとうな生き方になってます。

って、あんた!それは単なる奴隷でしょ!

多くの人は完全に洗脳されて
自分や他人を取り締まって生きてます。

日本に広がる不寛容社会。

今から100年後。

2017年当時は、どうも不倫だとか不謹慎発言だとか。
お互いにネットで叩き合うのが流行ってたらしい。
バカな社会だったんだなぁ。

そう笑う時が来るでしょう。


Sponsored Link


こう生きるのが正しい生き方。
あなたが学校で習った道徳。
常識。

ワタスが最近、思うのは、

例えばワタスの知り合いに、いつも人に優しく
自分を犠牲にしてまで人に尽くさなきゃならない。
そういう観念に凝り固まった人がいますた。

ワタスも以前はそういう正義感で色々活動をしてたこともあるんですが

でも、そういう正義をかざして生きてると、なんだか生きづらいんですね。

正義とか声高に言う人を見ると、
むしろ、普通の人より社会の不平不満を口にして生きてる。

あいつは卑怯だ。
あいつには常識がない、モラルがない。
あいつは許せない。
この社会は最低だ。

いつも不平不満を言ってる。

で、むしろ、そういう観念=洗脳を手放すと、そんな毎日、愚痴ばかり言わないで生きられるのでは?
もっと楽になれるのでは?

そう思ったりするのですた。

宗教もそう。

宗教を信じるあまり、結局のところ人を攻撃するようになる。
幸せになるべくして宗教をやっているのに、なぜか元々の目的は忘れ去られ戦争をやるようになる。
宗教が殺し合いの道具になってる。

実は歴史的に見て一番殺し合いをやってるのは宗教で、
そして今の不寛容社会に日本を見ると

なにか日本全体が変な宗教に入ってるように思えるのです。

バシャールさんや他のスピ系の人たちが言う「許す」「手放す」。

許すと楽になれる。
現実が溶け始める。

それはワタスは本当だと思います。

他人を許す。それは大事なことです。

でも、人からイヤーなことを言われたら、
そういう嫌な人を許す必要があるでしょうか。

聖人君子じゃあるまいし。
人ばっかり許してると、自分が苦しくなっていきます。

まずは、そういうイヤーな気分になってる自分を許す。
そしてイヤーなことを言う人とは金輪際会わない。
良い人ぶらない。

そうやって自分の中にくすぶってる思いを開放する。
許す。

こうあらねばならない。正義であらねば。優しくあらねば。
そういう○○であらねば。
それをやめてみる。

自分の内側と外側は違うことのようで元々同じものです。

だから自分が自由に生きるようになると、むしろ他人に腹が立たなくなるし
やさしくなれる。

不寛容社会は自分を取り締まってる人が多いからです。

自分をまず許す。ユルユルして解放する。

この世界は許せない、認めない。
そっちをずーっとやってるとどんどん苦しくなる。

で逆に、許す方。
認める方に行くとどんどん楽になる。

肯定の言葉が増えて良い出来事が寄ってくる。
現実が変わり始める。
バシャールさんなどは現実が溶け始めると表現してますが。

ワタスはそれは本当だと思ってます
https://golden-tamatama.com/blog-entry-yurusu-nukedasu.html



▲△▽▼



日本人は、人間関係を壊してはいけないという刷り込みが強い 2013-01-04

日本で不文律のように言われていることがある。それは


「人間関係は維持しなければならない」

「どんな人間関係でも、それを壊すと自分が困る」


というものだ。日本人は農耕民族なので、協調性も非常に重要視されており、どうしようもない人間とも嫌々付き合わなければならないとも言われている。


「世の中、誰もが好きな人間とだけ付き合って生きていけるほど甘くない。ときには嫌な人間とも付き合わなければならないのだ。我慢しなければならない」


日本人は昔は「村」の人間関係から逃れられず、今は「職場」の人間関係から逃れられない。だから、自分の我を出すのは非常に嫌われ、子供の頃から「我慢」と


「孤独な人間には価値がない」


と徹底的に刷り込まれていく。日本人は、


「人間関係を壊してはいけない」


という刷り込みが、極度に強い社会なのだ。

金を失い、時間を失い、平常心も失ってしまう

嫌われたら「村八分」される。村八分されたら生きていけない。だから、日本人は仲間はずれにされたり、孤独にされるのを非常に恐れており、孤独にも恐怖を感じる人も多い。はた目から見ると、人間関係の強迫観念にとらわれているかのようにも見える。社会がそれを強制している。だから、日本人は、仲間はずれにされないように他人に合わせるようになり、主張することもできず、何でも流されるように受け入れてしまう。

夜の街、歓楽街、欲望の街、売春地帯では、これが致命傷になる。手練手管に長けた女性や、自由奔放でまったく他人のことを考えない女性に、とことん振り回されるのである。

相手に不満があっても、流されるように受け入れ、そのために、どんどん金を失い、時間を失い、平常心も失ってしまう。そうなってしまっても、相手を切れず、利用され、カモにされ、踏み台にされる。

怒ったり、たしなめると、


「本当はあなたを愛してる」

「次からはきちんとする」


と答えて反省するが、しばらく経つとまたもや同じことを繰り返す。こういった女性は、他の男とトラブルを起こし、社会的なルールを守らず、金銭トラブルを起こし続けるのである。それでも、切れずに、ずるずると付き合って行く。人間関係で、「流されている」典型的な例である。

売春地帯では、日本人が束になっても敵わないほど奸知に長けた恐ろしい女性もいて、セックスをエサに男を破滅させる光景を山ほど見る。売春地帯で男が飛び降り自殺したり、自棄になって女性を殺害したりする事件が多発している。時には最悪の事件を起こす男もいる。日本人に多いのは


「ずっと貢がされる」

「断り切れなくて金を毟られる」

「次々とタカられる」


というものである。


詐欺で逮捕されたタイ女性。外国人を手玉に取って騙すような女性は、どこにでもいる。


流される人間関係が致命傷になってしまう

フィリピンでも、タイでも、ずるずると金を毟り取られる一方の男が山ほどいて、すべて奪われたら大使館前に「捨てられる」ような男もいる。すべて毟り取られて乱射事件を起こす男もいる。

なぜ、そうなるまで関わってしまうのか。ここに、人間関係で我慢し、村八分を恐れ、人間関係を切ることができない日本人の「刷り込み」を見ることができる。日本社会が日本人に強要している「刷り込み」とは、


「我を殺して協調性を重視する」


ことと


「ノーと言って人間関係を壊してはいけない」


というものだ。日本人の多くは子供の頃からそれを「刷り込まれている」ので、まったく意識していないが、だから危険なのである。過度に協調性を意識すると、それを良いことに、ずるずると利用され、タカられ、毟り取られていく。

東南アジアで女性ひとりと知り合ったら、その女性の友人や家族や親戚が次から次へと出てきて、当たり前のように、毎日のようにタカられる。

日本人は、それに強烈な不満を感じても、決してそれを口に出さず、ただ耐えて耐えて耐え抜いて、タカられるがままになる。それに何とも思わないで溶け込める人間ならいいのだが、最後に爆発して事件を起こすのであれば、最初から人間関係は遠慮なく切り捨てるほうがいい。日本から一歩出ると、むしろ「人間関係の切り捨て」ができるようにならないと、どうしようもなくなってしまう。特に、アンダーグラウンドではそうだ。流される人間関係が致命傷になってしまうのである。


自分のためにならない人間関係は、容赦なく切る

裏社会(アンダーグラウンド)は、常に表社会とは、逆のルールが作用している。

愛は表社会では正しい感情。
愛は裏社会では間違った感情。

信じることは表社会では正しい感情。
信じることは裏社会では危険な感情。

疑うことは表社会では嫌悪されること。
疑うことは裏社会では重要なこと。

何もかもが、表社会と裏社会ではそっくりそのままひっくり返っていて、表社会のルールで裏社会を泳ぐと、たちまちのうちにカモにされてしまう。

特に日本人は、自分の我を出すのは非常に嫌われ、子供の頃から「我慢」と「孤独な人間には価値がない」と徹底的に刷り込まれているので、世界中どこでもカモだ。カモにされても、気がつかないほどだ。

そこから逃れるには、


自分のためにならない人間関係は「容赦なく切り捨てる」

「ノーと言う」

「付き合えないと言えるようにする」


べきなのである。あなたのためにならない人間関係は、長く生きていると必ず出てくる。単に、群れるための人間関係、流されてできてしまった人間関係、我慢しているだけの人間関係、自分をダメにしてしまう人間関係、破滅が目に見えるだけの人間関係……。

そんな人間関係を強いる人間が、必ずあなたの目の前に現れる。特に海外では「友達」を押し売りする男と、「愛」を押し売りする女が、高確率で現れる。そのときに、人間関係を切れるかどうかが命運を分ける。悲劇を避けるためには、一刻も早く、日本社会特有の「刷り込み」から脱して、「悪い人間関係を切る」経験を積まなければならない。

大切にしなければならない縁と、容赦なく切らなければならない縁を見極めて、切るべきものは早めに切るべきだ。


重荷になっている人間関係に囚われてはならない。日本社会特有の「刷り込み」から脱して、悪い人間関係を切る。


▲△▽▼

自分を苦しめる人間関係から脱却するために最初に考えるべきこととは?
https://blackasia.net/?p=9867

人間関係に苦しむ人は多い。人間関係に苦しむ人が最もすべきことは、苦しい人間関係を何とか改善することだろうか。そうではないと私は信じている。それよりも、もっと効果的で合理的な方法がある。

それは、「自立できる経済力を持つこと」である。

なぜか。どの組織、どの人間関係にも依存しないだけの自立できる経済力があれば、自分に合わない人間を、簡単にかつ明快に断ち切ることができるからである。自立できているのに、自分にとって有害な人間と一緒にいる理由はどこにもない。

自立できる経済力があれば、自分にとって知的な刺激を受ける人、一緒にいて心地良い人、共に楽しめる人だけを残して、どうでもいい人間は切ることができる。人間関係を「改善」するのではなく、「取捨選択」することができる。

合理的だと思わないだろうか。

そう考えれば、自立できる経済力を持つというのは、なかなか深遠なテーマであることに気づくはずだ。経済的な豊かさは、実はしがらみを切るためのツールでもあるからだ。(鈴木傾城)

自分の価値を認めない人のために時間を使うな

すべての人間は分かり合えると思ったら大間違いだ。

人はそれぞれ信じるものが違い、主義主張が違い、文化が違い、習慣が違い、生き方が違い、目的も違う。ありとあらゆるものが違うのに、すべての人と分かり合えるはずだと思うのは、それこそどうかしていると言っても過言ではない。

「何をどうしても分かり合えない人がいる」

これが現実なのである。ただ、すべての人と分かりあえなくても問題ない。互いに節度ある関係を保つことができるのであれば、それで世の中は回るからだ。

しかし、節度ある関係すらも築けず、自分にとって害でしかない人間も世の中にいる。それも莫大な数で存在する。何をどうしても好きになれない人間や、うまく関係を築けない人間は避けられない。

本当のことを言えば、好きになれない人間と一緒にいるような選択はすべきではない。好きになれない人間と長期に渡って継続的に関わるのは合理的ではない。避けなければならない。

親兄弟や親族とうまくいかないという人は多い。その場合はどうすればいいのか。私なら近くにいない。疎遠になる。関わらない。避ける。物理的に接触を避けて、自分自身の人生や生き方を最優先する。

関係が切れないのであれば、関係を限りなく疎遠にしておけばいい。親兄弟であっても、自分にとって心地良い関係を保つことができないというのであれば、なぜ緊密な関係を持つ必要があるのか。

自分の価値を認めない人のために、貴重な時間を使うべきではない。

「自立できるだけの経済力」はここで生きてくる。自立するというのは「自分が好きでない人のために時間を使わない」ことなのである。

意外にドライな合理的精神を持っている

幸せな人間関係で自分の環境を固めたいのであれば、一緒にいて心地良い人との関係を良くして、そうでない関係は清算する作業を繰り返すのが理に適っている。

自分を理解してくれない人や自分にとって有害な人と関係を改善することではない。「人類みな兄弟」ではない。不必要な関係は切らなければならないし、もし切れないのであれば疎遠にしていく必要がある。

農家は育てている農作物に栄養を与え、雑草を引き抜いて実りを得る。雑草も大切だと言って一緒に雑草を育てていては重要な農作物が枯れる。農作物を成長させるためには、雑草を引き抜いて取り去る作業は欠かせない。

人間関係も同じで、自分にとって実りにならないばかりか有害ですらもあるような人間関係は引き抜いて取り去る作業をして当然だ。

分かり合えない人との関係を何とかしようと思うのは、まさに雑草を育てているのと同じなのである。そんな労力があるのであれば、大切な人間関係の方に時間を使う方がよほど役に立つ。

しばしば壊れ、しばしば改善しなければならず、しばしば自分に害を為す人間関係をどうにかするのは困難な仕事だ。それよりも、最初から心地良く、お互いに尊重できて、自分を向上させる人間関係を増やした方が絶対にいい。

扱いにくい人間と関わるべきではない。取引もすべきではない。扱いにくい人間は遠ざけることによって自分の大切な時間を守ることができる。

人生の中で素晴らしい人間関係に囲まれている人は、意識的にも無意識にもそうしている。その人は大勢の人をふるい落とした結果だ。彼らは付き合う人を慎重に選んでいるのである。

素晴らしい人間関係に囲まれているというのは、意外にドライな合理的精神を持っている人であると私は見ている。ドライに人間関係を取捨選択しているから、よけいな人間関係に煩わされないで幸せな人間関係だけでまわりを固められる。

幸せな人間関係でまわりを固められるというのは、「人間関係の取捨選択」がきちんとできている証拠なのだ。雑草を引き抜いて、大切な存在に水を差している。

そして、彼らはそれができる経済的な余裕も持っている。自立できているから、雑草が引き抜ける。経済的に自立できていなければ、雑草を引き抜く力がない。

地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから

問題は、切らなければならない関係が放置されること

極度に悪化した親子の関係、暴力が絡むようなパートナーとの関係に苦しむ人もいる。血縁的、法的な結びつきがある場合、人間関係は簡単に切れない。しかし、切れないからと言って自分に害を為すのを放置しておくのは良いことではない。

切らなければならない関係は、意図的に切らなければならない。

いろんなしがらみで切れないのであれば、関係を疎遠にしていかなければいけない。相手が自分に害を為すことができないように「一定の距離」を置いて、関係を限りなくゼロに薄めていかなければならない。

多くの場合、自立できる経済力があればそれが実現できる。

経済的に自立できていれば、関係を切ることも、疎遠にすることも、それほど難しいことではなくなる。経済力を背景にして、新天地を求めて旅立つことが可能になる。

だから、注力すべきは壊れた関係の中でサバイバルすることではなく、着実に自立できる経済力を身につけることとだ。

すべてはそこに行き着く。

人間関係は切ってもいいのだと分かっていれば楽になれる。それができる経済的な余力があれば、さらに楽になる。実際に「何をどうしても分かり合えない人」を切ったら、もっと楽になれる。

人間関係に苦しんでいる人は「切ること」をより重視してもいい。そして、経済的に自立できるのであれば、その決断は実現化できることに気づくべきだ。

社会の底辺で多くの荒んだ人たちを見てきたが、彼らの問題はひどい人間関係にがんじがらめにされていたということだけでなく、そこから抜け出すための経済的な余裕がなかったことにも私は気付いている。

自立するだけの経済力を手に入れるというのは、それを実現できている人にとっては別に大したことではないように思うのだが、そこに至っていない人にとっては、大変なことでもある。

しかし、大変だからと投げ出してはいけないものでもある。自立するだけの経済力は、破滅的な人間関係から脱却するための武器にもある。武器は持っておくべきだ。(written by 鈴木傾城)

農家は育てている農作物に栄養を与え、雑草を引き抜いて実りを得る。雑草も大切だと言って一緒に雑草を育てていては重要な農作物が枯れる。農作物を成長させるためには、雑草を引き抜いて取り去る作業は欠かせない。人間関係も同じで、自分にとって実りにならないばかりか有害ですらもあるような人間関係は引き抜いて取り去る作業をして当然だ。

▲△▽▼

自分と合わない人と関係改善の努力するよりも、もっと良い方法がある
https://blackasia.net/?p=10033

柔軟な人は、頑固な人と合わない。約束をきちんと守る人は、約束と守れない人とは合わない。優しさを基本にして生きている人は、他人に冷酷な人とは合わない。人間は、いろんな部分で他人と合わない面を持つ。

だから、人間関係は常にトラブルに満ち溢れている。人間関係のトラブルを経験したことのない人は、この世にいないのは断言できる。

性格も、年齢も、職業も、性別も、教育も、国籍も、文化も、宗教も、主義も、それが違うと常に対立と衝突と反目が生まれる。必ず何かが起きるのだ。

そうなったとき、いったいどうすればいいのか。

誤解を解いて互いに分かり合えるように話し合うのは基本だ。しかし、話し合って議論をしても、性格や感覚や信念が違っている場合は、結局のところ相互理解は非常に難しい。

そもそも、あまりにも違っていると、話し合うことすらも難しいのだ。そのため、あまりに個人個人の性格や信念が違っていると、もはや何もしなくても人間は分離していくことになる。

意図してもしなくても、自然にそうなる。分離する。(鈴木傾城)

「自分と世界観が違う」と思った人間に対して

分かり合おうと努力するのは基本だが、根本的に合わない人というのは存在する。

「自分と世界観が違う」と思った人間に対しては、相手を変えようとしたり、自分が変わろうとしたりしないで、静かに関係を切る方向で考えるしかない。結局、最後にはそこに行き着く。

合わない人といつまでも苦闘する必要性はまったくない。どのみち、そうなるのだから、それが自然なのだ。

実は「合わない人」と離れるのは、それほど悪いことではない。

自分の人生で常に関わっていけるのは150人が限度だとイギリスの人類学者、進化生物学者であるロビン・ダンバー氏は「ダンバー数」で提唱した。

人生に密接に関わることができる人の数というのは、せいぜい150人だった。それ以上の人間と関わったところで、人間関係が希薄になって関係を保てない。

全人類はすでに74億人を超えているが、その中でたった150人しか強い人間関係を築けない。だとしたら、「合わない人と苦闘する」というのがいかに「時間に無駄」なのか分かる。

合わない人と苦闘するような実りのないようなことをするより、むしろ合う人を150人見つけた方が合理的だと思わないだろうか。

仮にその150人を探そうと思って、1年に3人をがんばって見つける計画を立てたとする。気の合う人を1年で3人見つけるというのは、大変なことだ。それをクリアしても、150人に到達するには、なんと50年もかかる。

そうであれば、なおさら「合わない人と苦闘する」ような時間はないと分かるはずだ。人間は合わない人間とは意図しなくても切れるのだが、自分に合う人を探すためには時間も必要なので、意図的に合わない人間を切る必要もある。

それは、誰もが進んでやってみたいと思うべきもの

カナダの小説家、モンゴメリは小説『赤毛のアン』で「心の奥底を打ち明けられる本当の仲間。いままでずっと、そういう友達に巡り会うことを夢見てきたの」と主人公の少女に語らせている。

「気の合う人を150人見つける」というライフプランは、別に苦痛と忍耐にまみれたものではない。むしろ、誰もが進んでやってみたいと思うべきものでもある。

しかし、それを実現するためには時間が重要になってくるので、どうしても削らなければならない人間関係が出てくる。誰を削るのか。もちろん、努力してもうまくいかない人間関係を切るしかない。

(1)うまくいかない人間関係を切る。
(2)新しい自分に合う人間関係を探す。
(3)自分に合う人間関係を保つ。

人生は短いのだから、合わない人を切って合う人を自分のまわりに残すことの方が、合わない人と苦闘するよりもストレスがないというのは少し考えただけでも分かるはずだ。

努力する方向性を間違えてはいけないのだ。自分と合わない人と合うように努力する方向よりも、自分と合う人を見つける努力する方向の方が報われる。

どんなに努力しても報われず、違和感や異質感を感じて引っ掛かるのであれば、それ以上望むべきではない。

人間関係というのは、自分の一方的な思いで動くわけではないので、相手が自分の思う通りに変身してくれると思うのは子供の無邪気な想像と同じだ。

自分の性格や考え方を他人に変えられたくないのと同様に、他人もまた誰かに変えられたくないと思っている。

そんな中で、関係がうまくいかないのであれば、関係をフェードアウトさせて、自分の気の合う人を探す「冒険」に出た方が生産的なのである。

関係を断つというのは、失う方ばかりに焦点がいってマイナスの目で見られることが多いが、そんなことはない。新しい冒険のために身軽になるというプラスの側面もある。

あなたに合う人が、世界のどこかで待っている

合わない関係を静かに終わらせるというのは、もうひとつプラスの面がある。「合わない人を断ち切る」というのは、皮肉なことに共存共栄になるのだ。なぜなら、互いに没交渉になれば争いが起きないからである。

衝突というのは、相手がそこにいるから発生する。関係が断ち切れたら衝突もない。

うまくいかなくなった関係も、長い歳月が問題を氷解させて和解になることもある。仲違いして離れ離れになった親子も、数十年後に静かによりを戻すケースもある。

一緒にいれば殺人事件が起きていた可能性もあるような憎悪剥き出しの人間関係だったとしても、数十年も経てば怒りも憎しみも薄らいでいることもある。

合わない人間とは離れ、関わりをなくすことによって、また関係が築けることもある。関わりを消すことによって、逆にうまくいくきっかけがつかめることもある。

だから、「うまくいかないものを切る」というのは、何かを解決する上でも重要なことである。

自分自身の人間関係も、あるいは世界中で起きている民族闘争も、ありとあらゆる対立は、互いに完全に相手を断ち切ることによって逆に致命的な破滅を避けることが可能になる。

それをしないで、一方的に関わろうとすればするほど問題は激しくこじれて行き、最後には破壊的な事態に陥っていくことになる。

「合わない相手を断ち切る」という合理的な方法論は、もっと取り入れられて然るべきだと言える。

それは、とてもシンプルな方法論だ。

切った相手には、その相手に合う別の相手がいる。自分には自分に合う別の相手がいる。だから、合わない相手を切るというのは、互いに共存共栄することでもある。

私たちには、自分に合う人が世界のどこかで必ず待っている。それを探しに行くのは、悪い話ではない。

人間関係も断捨離が必要だ。人間関係を断捨離をすることによって私たちは時間と精神の余裕を作り、そこに合う人を埋めていくことで人生を豊かにすることができる。「切る」というのは大切なことなのである。(written by 鈴木傾城)

自分自身の人間関係も、あるいは世界中で起きている民族闘争も、ありとあらゆる対立は、互いに完全に相手を断ち切ることによって逆に致命的な破滅を避けることが可能になる。
メンテ

Page: 1 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

題名 スレッドをトップへソート
名前  「名前#任意の文字列」でトリップ生成
E-Mail 入力すると メールを送信する からメールを受け取れます(アドレス非表示)
URL
パスワード ご自分の投稿文の編集、削除の際必要です。面倒でしょうが入力をお勧めします。
投稿キー (投稿時 投稿キー を入力してください)
コメント

   クッキー保存