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[2698] 仏教を考える
日時: 2017/04/26 11:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:4lvwyxPA

少し堅苦しい話題を取り上げます。
最近、全国のお寺で住職が不在の寺の割合が30%を超えたと言われます(13000寺)
仏教とは何かという話題で、我が国の文化としての仏教に取り組んでみたいと思います。
まずは、世界の3大宗教の世界観を見てみましょう。


キリスト教の世界観

形而上学的な説明に三位一体説があります。
三位一体とは、キリスト教において「父」と「子 (キリスト)」と「聖霊(聖神)」が「一体(唯一の神)」であるとする教え。
要するに神(創造主)が3つのかたちで現れると言い、キリストだけが実際の我々との接点であるとする世界観です。
具体的な示唆は何もなく、ただ信じることを前提としています。
そうして、宗教としてはキリストを通して神のおぼしめしをしり、実践せよと言う事です。

神が初めに創造した男女・アダムとエバが、神に食べることを禁じられた善悪を知る木の実を食べたという物語を通して、人の自己中心性という罪、神への裏切り・信頼関係の断絶を示しています。またそれに続いて、兄カインが弟アベルを殺害した人類最初の兄弟殺人事件が描かれていますが、それは、人間のもろさ、弱さを教えてくれます。

この世界と人間は、神によって創造されたものであるという世界観をもっています。過去のキリスト教(旧約聖書)ではこの世界観に基づき、人がいかにこの世界を支配し克服していくかという考えが強調されてきました。
旧約聖書の世界として、かつて映画にもなった「十戒」というモーセの有名な話があります。神と人、人間同士の関係において大切に守るべきルールが、神から与えられました。イスラエルの民は、これをさらに細かな律法にして守ろうとするのですが、守ることのできない姿や様子が描かれています。また、罪に苦しむ人間が、神の導きと守り、怒りと裁き等を、歴史の進展や文化・宗教の発展に伴って示されるさまざまな啓示として受け止め、民族的信仰が高まり、深まっていく様子が、歴史書や詩、文学、預言書などのかたちでつづられています。

イエスの登場については、福音書の始めにクリスマス物語として描かれます。彼は30歳頃から、その後十字架につけられ死ぬまで、キリストとして約3年間活動したといわれます。イエスはあまねく巡って人々を教え、また病人をいやしたのです。小さく弱い人々にとって、イエスの存在自体が「福音」でした。神から人々に与えられた嬉しい知らせという意味です。イエスは人びとに対して、神の思いを知り生きること、また、自分を愛するように人びとを愛するようにと教え、また、人びとはキリストを通して、神の呼びかけ、語りかけを聴き、従うようになりました。
要するに、新約聖書の世界では、イエスと共に生きよと言う啓示が示されています。

次にイスラム教の世界観についてみてみましょう。

イスラム教が形而上学的には、モハメッドが登場したのは7世紀になってからである様に、哲学的にはすでにギリシャ哲学、インド哲学の影響を受けていて、どちらかと言えばギリシャ哲学の自然科学的な様相を持っていた。

宗教的には、イスラム教では、神(アッラーフ)が、預言者(モハメッド)を通じて人類に下した啓典が、人類にとって正しい信仰の拠りどころになると考えている。そうして、イスラム教の聖典『クルアーン』は、ムスリム(イスラム教信者)の実生活上のさまざまな事柄を規定している。
キリスト教とイスラム教の成り立ちは、発祥においても類似しているが、形而上学的な裏付けがイスラム教ではキリスト教の前提とは少し異なり、現実的ともいえる。
しかしながら、同じ一神教として、神に対する姿勢は、より具体的で厳格なものである。コーランの内容と聖書を比べても明確です。

これら2大一神教に対して多神教世界である仏教は世界観は随分と異なります。

仏教の世界観

まず、形而上学的にはインド哲学の影響を受けております。
簡単ではありますが、その概念の一部を「ウパニシャッド」から見てみましょう。
インド哲学と言っても多岐に渡りますが、世界観(形而上学)として、アートマン、ブラウマンの認識を見てみましょう。
ブラフマンとは宇宙の最高原理を、アートマンとは個体の本質を指している概念と言います。
アートマンとはいわば世界、人間、被造物の網の目をなす糸であり、万物の内制者だ。それは認識の主体として万物に内在している。
私たちはアートマンによって初めて何かを認識することができるのだから、それが何であるかを認識することはできない。アートマンとは、「目に見えない視覚の主体、耳に聞こえない聴覚の主体、思考されない思考の主体、認識されない認識の主体」なのだ。
欲望をもつ人の場合、アートマンは世界に執着し、そこから離れることはない。しかし欲望を持たない場合、もしくはそれが満たされた場合、諸機能は上へと出て行くことはない。彼はブラフマンそれ自体となり、ブラフマンに到達するのだ。

(引用終わり)

少し解りにくいかもしれませんが、そこには創造主、神の様なものはなく、飽くまでも人間の認識の世界です。

それが宗教的に取り入れられると以下の様になります。
仏教においては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされている。部派では「天・人・餓鬼・畜生・地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生先に生まれ変わるとされる。生前に良い行いを続け功徳を積めば次の輪廻では良き境遇(善趣)に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わる。

また、神(天)とは、仏教においては天道の生物であり、生命(有情)の一種と位置づけられている。そのため神々は人間からの信仰の対象ではあっても厳密には仏では無く仏陀には及ばない存在である。仏教はもともとは何かに対する信仰という形すらない宗教であった。時代が下るにつれて開祖である仏陀、また経典に登場する諸仏や菩薩に対する信仰を帯びるようになるが、根本的には信仰対象に対する絶対服従を求める態度は持たない。仏教における信仰は帰依と表現され、他宗教の信仰とは意義が異なっており、たとえば修行者が守るべき戒律を保つために神や霊的な存在との契約をするという考えも存在しない。


ここで一般的に宗教とは何か、と言うことを考えてみたいと思います。
これについては「宗教とは何か」と言うスレッドを立てていますから御参照ください。
http://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=314&l=1-

一般的な人の心は自立すればするほど、生きる為の生活に余裕が出来れば出来るほどに、不安も募ると思います。
また、アニミズム、シャーマニズムの時代の不安は、人間にとってより始原的な不安(大自然の脅威、飢えへの脅威)であったのに対して、現代人の不安はより自己発生的な、それ故に多様で気儘な内容を含んでいます。
人間の社会が多くの人を抱合する共生社会である限り、人々の精神的安寧を求めねば社会の平安は保てません。
それは享楽でも倫理、道徳でも補うことは出来ないでしょう。
宗教心とはそのようなものであり、またそれ故(共生と関連する)に社会の有様とも関連してきたと思います。
宗教と言われるものが確立して以来、多くの宗教団体が政治に関わり悲劇の歴史を作ってきたのも事実です。

(引用終わり)

宗教とは人間が生きていく上に感じる不安感に対応するものであり、哲学、芸術なども、そうした人間の不安感に対応する領域の活動であると思います。
幾ら科学が発達しても物質的に豊かになっても、人間本来の不安感を拭うことはできません。
むしろ民主主義を謳歌する現代ほど個人的な悩みも強くなっているとも言えます。
そういう意味で、心の直接的な救済を求めて、オーム心理教などと言うカルトも発祥するのでしょう。
こういう観点から見て、多神教である仏教の世界観が好ましいか、アラーの神に従う一神教の救いが良いかは単純には言えないでしょう。
しかしながら、私は断然と仏教的世界観を推奨します。
何故ならば、一神教の於けるキリスト、アラーを救世主とする思想の中に、別の好ましくない多くの問題を見出すからです。

信仰する神が異なる故の争いもあります。
また人間の生活は、キリストの教え、アラーの教えでは包括できない多様なものです。
そうしたことに対応するには、やはり自らが考えて生きたかを選ぶ仏教的世界観を求めたいと思います。

次回からは、その仏教界の現状について語りたいと思います。
メンテ

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Re: 仏教を考える ( No.2 )
日時: 2017/04/26 12:18
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:4lvwyxPA

葬式仏教

本来の仏教は葬礼を重視するものではなく、人々の救済や心理の探求する宗教であったのですが、最近は葬儀のために寺があり、僧侶がいると言う様になってしまっています。
この状態を葬式仏教と呼んでいます。

人が死ねば古代の昔より、これを葬祭する風習が続いています。
仏教の教えの中にも輪廻という思想があり、葬礼は、それなりに意味のあるものですが、それでは昔の祈祷師、呪術師の様な役目であり、高等宗教としてはいただけません。

仏教の基本理念に輪廻があります。

輪廻(りんね)

仏教の術語。人間は死後もなんらかの形で存続するという普遍的信念の一つの形態が輪廻で、とくにインドで発展した。人間の本質は実体的な霊魂である。一方、人間の行為(カルマン、業(ごう))はのちに影響を及ぼす潜在的な力(カルマン、業力)を生み、霊魂がこれを担うから、人は死後、生前の業に従ってしかるべき死後世界に生まれ変わる。こうして無限に再生を繰り返すのが輪廻である。サンスクリット語でサンサーラsamsraといい、「流れ」「回り巡ること」が原意である。死後世界は、基本的には、安楽な世界たる天、罰としての苦の世界たる地獄、人間、そして動物(畜生(ちくしょう))の世界である。業の発現の仕方は「自業自得(じごうじとく)」と「業果の必然性」を鉄則とする。自らの行為の果報はかならず自分に現れ、今世でなければ来世、あるいはその後の生に現れる、善因善果・悪因悪果の因果応報の考え方は現実社会の不平等を巧みに説明し、さらにその不平等を来世で回復してバランスをとりうる可能性を示す。心理的にも説得力があり、またなにゆえに善行をなさねばならないか、という倫理の根拠をも提示しつつ、遅くも紀元前4世紀にはインド社会に定着した。以降、今日に至るまでインド文化の基本的観念として思惟(しい)方法、宗教、哲学、社会慣習などに多大の影響を与えた。仏教では餓鬼(がき)ないし阿修羅(あしゅら)世界を加えた五道、六道輪廻の観念が発達し、東南アジア、中国、韓国、日本、チベットなどの仏教徒の生活をさまざまに規定している。

西欧哲学は、人間の存在を理性で解きほぐすことをやってきましたが、結局は特定するに至らず、唯物論、観念論として抽象的な概念を見出す結果となっています。

インド哲学、仏教は、始めから人間の存在を現世に特定することなく永遠の存在の一部として取り上げていました。
永遠の存在と言っても、それは決して不死とか、物質的な存在を意味するのではなく、意識の問題であり、考えようによっては空や無の概念を伴います。
数学でいう〇(無)の概念はインドで初めて考えられたことにも通じます。

リグベーダには次の様な表現があります。

その時、無もなく 有もなかった
空界もなく その上の天もなかった
世界を庇護しのは誰か それを包んだのは誰か
あの底知れぬ深遠さはどこにあったのか あの海はどこに

その時 死もなく不死もなく
夜と昼とが定かでなかった
かの唯一者は 息もなく呼吸し
その他には 何も存在しなかった

・・・・

この様な思想的環境があって、輪廻の思想が出てきたのでしょう。
これに(輪廻)よって人々は現世に存在することの不安感を拭い去ろうとしたものです。
もっとも、本当にそのような精神に成れるのは、修行を積んだ僧侶という事ですが、考え方としては人々を諭すことにはなるのです。

ところで、話は葬祭に戻りますが、輪廻の思想とともに先祖を敬うことが重んじられることになるのは当然の経緯でしょう。
これは後世に儒教精神と相まって、先祖を権威化してしまい、忠誠の精神を強要する傾向が強くなってきましたが、これば仏教の精神ではありません。
現在、墓を建て先祖を敬う風習の中には、このように権威的な要素もあるように思います。

本来の仏教の教えは、善悪の問題であり、来世で生まれ変わったら幸せになろうと言う様な諭しであるはずです。
そういう意味の連綿が仏教の輪廻の思想のはずです。

現在の仏教が葬式仏教と揶揄されているのは、仏教の本当の教義を示すことが出来ていないからと思います。
出来ていないと言う事の中に、僧侶の怠慢もありますが、西欧精神を至上のものと思い込んだ現代人(言わYる広義の意味の西欧かぶれ)が仏教の精神に興味を持たなくなったか、気が付かないのです。

仏教の精神に気が付くべきと言えば、それも信仰の自由の意味で問題もあるでしょう。
しかしながら、私は仏教精神を、神道の精神とともに日本民族の文化の様に捉えています。
仏教自体を支持するのではありません。

経典を読み、釈迦の教えを理解せよなどとは言いません。
仏教の心底にある思想こそ、多神教世界の心魂で、西欧(キリスト・イスラム)とは違うところなのです。
一神教世界の人間になりきることが出来るなら、望むなら、しいて強要はしませんが、何も解らず漫然と、西欧をまねることはないではありませんか。
我が国には、このような優れた文化があるのに。

メンテ

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