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[314] 宗教とは何か
日時: 2009/10/30 11:44
名前: 天橋立の愚痴人間

「アメリカ研究<ピューリタニズム」スレッドでの返信ですが、宗教論として別のスレッドの方がよいと思いましたので立上げました。


「宗教とは何か」と言う問いに下記のような説明がある。

世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則とい
う象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻
く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。この信念は、
生き生きした実在感をもって体験として受け取られ、合理的には解決できない問題から生
じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期
待されている。また、信念を同じくする人々が、教会、教団とよばれる共同体を形成する。


ただし、これは宗教の外見上(教団の存在)の概念については理解できるが、宗教そのものについての説明には乏しい。
概略すぎて申し訳けないが、歴史的に宗教のことを追ってみよう。

(呪術の段階)

宗教は最初、アニミズムやシャーマニズムと言う形で、生産の為の自然崇拝から始った。やがてそれが一神教とか多神教の形で神という概念を創り出した。
この段階では、個人及び生計を共にする小集団がその不安に対応するために宗教活動を行うのが中心であり、そのうち指導者が長老とか呪術者という形で出てくる。

(古代宗教の段階)

その後社会が発達し、人間の生活単位が部族から民族へ、さらに国家と広がるに従い宗教のあり方(宗教によせる気持)も複雑化し大規模となり、部族神、国家神の形をとることになる。
古代エジプト王国などは、その究極の形である。
此処では王は宗教上の最高権威でもあり、宗教は個人及び生計を共にする小集団の宗教的願いを包括しながらも統治の為の要素も宗教活動の中に入ってくる。
この時代の国家は純粋な宗教国家と言える。

続く
メンテ

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般若心経 2 ( No.55 )
日時: 2019/01/04 17:03
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:cO7i41JY

舎利子 是諸法空相

(しゃりし ぜしょほうくうそう)
シャーリプトラよ、驚いただろうか?
それとも、言っている意味がよくわからないだろうか?
もしくは、当たり前のことを言われたような気がしただろうか?


まあ、今はどれでもいい。
あらゆる存在が「空」であるという理解は、当たり前のもの、普遍の事実であるから、今すぐ理解できなくても大丈夫だ。消えてなくなることはない。
これを知ろうと志せば、必ず知ることができる。

ただ、世界の在りようをしっかりと見つめて真実を見抜いていこうとする態度だけは失ってはいけないよ。
このことは人生を生きる上で本当に重要な理解となるから、くれぐれも忘れないでおくれ。


不生不滅 不垢不浄 不増不減

(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)
あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。


あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。


「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。


だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。


「存在」「空」「自性がない」「無常」「変化を繰り返す」「常なるものは存在しない」
これらのキーワードはすべて、互いに深く関係しあっているものなのだ。


そして存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。


是故空中 無色 無受想行識

(ぜこくうちゅう むしき むじゅうそうぎょうしき)
これまでのことを繰り返すことになってしまうが、もう一度言おう。
身も心も、すべては「空」であり、固定的な実体などというものはどこにも存在しない。
私たちを含むあらゆる存在は、変化するなかで「今はこの状態として存在している」というふうな存在のしかたでしかこの世界に存在することができない。


つまり存在には自性がなく、すべて無自性なのである。


無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

(むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう)
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心。
そのどこにも不変のものはなく、みな「空」である。


見えたもの、聞こえた音、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思い。
それらもまた「空」であり、不変の実体として存在するものではない。

無眼界乃至無意識界

(むげんかいないしむいしきかい)
私たちは感覚器官で周囲の世界を感じとる。
つまり私たちが理解できる世界とは、自分の感覚器官で感じた世界であって、世界そのものを感じているわけではない。


世界とは、私と世界とが互いに関係し合うところに生まれるものなのだ。
そうした世界もまた、「空」であることに違いはないのだがね。

無無明 亦無無明尽

(むむみょう やくむむみょうじん)
私たちは、真実に眼を向けずに、自分本位の誤った認識で生きることで「苦」という感情を抱く。
真実とは、存在は「空」だということ。
誤った考えとは、自分を含む様々な存在が実体として存在していると思ってしまうこと。


なぜ世界が「空」という真実のもとに存在しているのかは、私にもわからない。
ただ、世界は現にそのように「空」として在るわけだから、これは事実として受け止めるしかない。


あらゆるものは、有るようで無いのである。
それは、ただ無いのとも違う。
やっぱり、有るようで無いのだ。

乃至無老死 亦無老死尽

(ないしむろうし やくむろうしじん)
だから、老いや死ということも、本当は存在しない。
老いや死とは人間の眼から見た、概念としてのみ存在するもので、実際には「空」である存在が変化をして形を変えているだけである。


老いないわけではないが、死なないわけではないが、それはやはり老いでも死でもない。

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

(むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ)
あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。
それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。
じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う。


ここはとてもややこしいところだが、頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。
これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。


私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。
真実を受け取るとは、知識で理解することではない。
だから、得ることなどできないのだ。


菩提薩埵 依般若波羅蜜多故

(ぼだいさった えはんにゃはらみったこ)
無い無いばかりで申し訳ないが、やはり無いと言うほかに方法がない。
誤った認識の発端は、「有る」と思うことだから、やはりどうしても否定の形をとらざるをえないのだ。

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

(しんむけいげ むけいげこ むうくふ)
ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである。
わだかまりを抱くことが何もない。


わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。
心に何の恐れも生じないのだ。

遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃

(おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん)
人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。
だが、本当にそうだろうか。


たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?
この体を作ったのは、自分か?
熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?


自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか。


それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ。


このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。


三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
いつの時代であっても、どの国であっても、いかなる宗教を信じていても、この「空」という存在の真理を知っている者は心が安らかでいられる。
よく、「仏」という言葉が使われるが、その仏とはこの「空」を知る者を指す言葉でもあるのだよ。
仏とは「真実に目覚めた者」という意味の言葉だからね。


真実を感得するのに仏教徒でなければならない理由などないのだ。
誰の眼の前にも真実は姿をあらわしているのだから。

故知 般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒

(こち はんにゃはらみった ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)
だからいいかい、存在が存在することの真実を見抜く「般若波羅蜜多」という智慧は、あらゆる人に平等にもたらされるこれ以上ない尊いものなのだ。


人は、「生きる」ということの意味を真剣に考えたとき、必ずこの真実に向き合うことになる。
存在が存在することの意味を知らずして、存在が生きることの意味なんてわかるわけがないからね。

能除一切苦 真実不虚

(のうじょいっさいく しんじつふこ)
あらゆるものは「空」である。
この真実を本当に知る者は、どんな苦しみも、それが概念でしかない自分が築き上げた、さらなる概念であることに気がつくだろう。


だから苦しみから逃れようとして苦しむことなど、あるはずもない。
病などによる痛みや疼きが消えるわけではないが、それらを「苦」と認識して「苦」から逃げようとすることはないという意味だ。

故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰

(こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわく)
最後に、この真実を見抜く般若の智慧を、短い咒文で讃えたい。
これだけは意味を訳さないで、古代の言葉のまま読んでほしい。
昔のままの言葉で読むことに意味があるのだ。


だから言葉の細かな意味は知らなくてもいい。
「尊ぶ」という心でもって唱えるだけでいい。
頭で理解することが、理解の全てではないのである。


では、その咒文をここに記しておく。

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

(ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)
ギャーテーギャーテー
ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー
ボウジーソワカー

(引用終わり)

如何でしょう、私たちが仏式儀式でよく聞く般若心経の世界です。
般若心経は、釈迦の挨拶の様なもので釈迦の基本姿勢を現しています。
具体的な教えを説くお経は沢山ありますが、一般の人々が理解しやすいものに「和讃」があります。
その一つ「菩提和讃」はNO52のレスで紹介しています。

これに対してキリスト教とは何か。
そのキリスト教の世界観を現してみましょう。


>キリスト教の世界観

この世界と人間は、神によって創造されたものであるという世界観をもっています。過去のキリスト教ではこの世界観に基づき、人がいかにこの世界を支配し克服していくかという考えが強調されてきました。

(原罪)

神が初めに創造した男女・アダムとエバが、神に食べることを禁じられた善悪を知る木の実を食べたという物語を通して、人の自己中心性という罪、神への裏切り・信頼関係の断絶を示しています。またそれに続いて、兄カインが弟アベルを殺害した人類最初の兄弟殺人事件が描かれていますが、それは、人間のもろさ、弱さを教えてくれます。

(救済 イエスの登場)

イエスは人びとに対して、神の思いを知り生きること、また、自分を愛するように人びとを愛するようにと教え、また、人びとはキリストを通して、神の呼びかけ、語りかけを聴き、従うようになりました。
信じる、もしくは、そのような神の存在があることを受け入れるということを、キリスト教では「信仰」といいます。このような思いを受け入れるならば罪のゆるしにあずかり、どのような人でも神と人との新たな関係に生きることができると教えています。「救い主・メシア」という意味のギリシャ語である「キリスト」という言葉と、固有男性名詞「イエス」をならべて「イエス・キリスト」と書き、「イエスはすなわち救い主」であるということを指すようになりました。

(引用終わり)

全く異なる世界観でしょう。
私は、断然、釈迦の世界観が好きです。

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