ホームに戻る > スレッド一覧 > 記事閲覧
[3495] タルコフスキー 映画『僕の村は戦場だった 1962年』
日時: 2022/05/15 06:33
名前: スメラ尊 ID:QhNEiVps

タルコフスキー 映画『僕の村は戦場だった 1962年』

動画(英語字幕)
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%98%D0%B2%D0%B0%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%BE+%D0%B4%D0%B5%D1%82%D1%81%D1%82%D0%B2%D0%BE&sp=mAEB


監督 アンドレイ・タルコフスキー
原作 ウラジミール・ボゴモーロフ
脚本 ウラジミール・ボゴモーロフ ミハイル・パパーワ
音楽 ヴァチェスラフ・オフチンニコフ
撮影 ワジーム・ユーソフ
公開 1962年4月6日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%95%E3%81%AE%E6%9D%91%E3%81%AF%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F

キャスト

Ivan コーリヤ・ブルリヤーエフ
Kholin V・ズブコフ
Galystev E・ジャリコフ
Katasonov S・クルイロフ
Gryaznov N. Grinyko
Maska V. Maryavina
Ivan's Mother I. Tarkovskaya
The Oldman D. Milyucheko


映画のストーリー

イワン(コーリヤ・ブルリヤーエフ)がいまも夢にみた美しい故郷の村は戦火に踏みにじられ、母親は行方不明、国境警備隊員だった父親も戦死してしまった。

一人とり残された十二歳のイワンが、危険を冒して敵陣に潜入し少年斥候として友軍に協力しているのも、自分の肉親を奪ったナチ・ドイツ軍への憎悪からであった。

司令部のグリヤズノフ中佐、ホーリン大尉、古参兵のカタソーノフの三人が、イワンのいわば親代りだ。グリヤズノフ達はイワンをこれ以上危険な仕事に就かせておくことはできない……これが、少年を愛する大人たちの結論だった。しかし、イワンはそれを聞くと頑として幼年学校行きを拒否した。憎い敵を撃滅して戦いに勝たねば……やむなくイワンをガリツェフ(E・ジャリコフ)の隊におくことにした。

ドイツ軍に対する総攻撃は準備されていたがそのためには、対岸の情勢を探ることが絶対必要であった。出発の日、カタソーノフはざん壕から身をのり出し敵弾に倒れてしまった。執拗に彼の不在の理由をきくイワンにはその死は固く秘されホーリン、ガリツェフの三人は小舟で闇の中を対岸へ。

二人が少年と別れる時がきた。再会を約して少年は死の危険地帯の中に勇躍、進んで行く。その小さな後姿がイワンの最後だった。終戦。ソビエトは勝った。が、そのためには何と大きな犠牲を払われねばならなかったか……。

かつてのナチの司令部。見るかげもなく破壊された建物の中に、ソビエト軍捕虜の処刑記録が残っていた。その記録を一枚一枚調べるガリツェフ。あった。イワンの写真が貼りつけられた記録カードが。戦争さえなかったらイワンには平和な村の毎日だった筈なのに……。
https://movie.walkerplus.com/mv13198/

 
▲△▽▼

僕の村は戦場だった

噂には聞いていましたが、これほどまでの傑作とは思いませんでした。すばらしい映画でした。

タルコフスキーならではの詩的な映像と、独ソ戦争の悲劇を現実的にとらえた対照的な映像が見事にコラボレートして、一歩間違うとおとぎ話のような陶酔感の中で迎える衝撃的なラストにうなってしまいました。


一人の半裸の少年が森にたたずんでいます。

蝶が舞い、その蝶を視線が追いかけるとカメラが蝶の視線のごとくふわっと舞い上がります。

ショットは変わって少年の前に一人の母親らしき女性。

うれしそうに駆け寄る少年。

次の瞬間、ぼろ小屋で飛び起きる少年。

実はこの少年はソ連側からドイツに潜入して情報を探るゲリラ兵なのです。ショッキングなオープニングに一気に引き込まれます。


湿地の中を必死で駆け抜けてソ連領に舞い戻ったところから本編が始まります。


戦場の場面がリアルに生々しく語られる現実と、少年が夢見るときにみる平和な頃の詩情あふれる映像の対比が実に効果的で、本当に美しい。

湿地の中を進む場面で水面に映る照明弾の光の動きの中で船をこいでいくショット、

少年が夢の中でみる母親が井戸の外で倒れたところに降りかかる井戸水のショット、

あるいは少年が愛らしい少女とリンゴを積んだトラックに乗っていく中で、リンゴが道にこぼれだし、馬が拾い食いするショット

などタルコフスキーならではのファンタジックな映像もふんだんに盛り込まれています。


すでに両親の行方もわからない少年イワンの親代わりは戦場の3人の兵士たちだった。そして、冒頭のゲリラ斥候を終えたイワンにその兵士は幼年学校へ行くように勧める。

しかし、それに反対し、再度斥候にでる。無事ソ連領に送り届けた兵士たち、しかしまもなく戦争は終結。

ドイツの収容所を制圧した兵士たちがそこでみたのはドイツ軍が捕まえたソ連からの斥候たちの処刑のリストファイルだった、そしてそこにはイワンの名が・・・・


処刑される寸前に見たであろうイワンの幻想は愛くるしい少女と一緒に浜辺を駆け抜ける場面でした。

タルコフスキーならではの映像美の世界とサスペンス色あふれるストーリー展開、そして悲劇的なラストに見せる切ない現実への警告。完成度の高い見事な作品でした。
http://d.hatena.ne.jp/kurawan/20100510


▲△▽▼

19 :無名画座@リバイバル上映中:2006/02/25(土) 18:52:48 ID:nrY8uN4r

原作は「イワンの少年時代」というタイトルですよね。

でも何だか皮肉な題だなあ。少年時代を少年のまま過ごすことも叶わず、
戦争によって踏みにじられ、大人にならざるをえなかったイワン。

回想シーンがあどけない笑顔を浮かべてたのに、現実のシーンでは微笑を忘れた
一切感情を押し殺した表情をしてたのが余計に哀しい。


25 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 10:25:13 ID:za8+WElc
もし、記憶違いなら悪いけど少年のお母さんが腋毛生やしてたような・・・


26 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 14:54:33 ID:pWzQBXUM
おっ、いいところに目をつけましたね。なかなか目ざといですな。
あのお母さんはどうも色っぽすぎていかんです、ハイ。

28 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 21:33:09 ID:BSZv+BGP
いや、ほんとに。
少年の回想シーンとは思えないほど肉感的ですね。


『鏡』を観ててもそう思うんですが、

どうもタルコフスキーにとって母親というのは
そういう肉感的な存在としてイメージされるみたいです。


29 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/10(金) 21:02:41 ID:G7Eo1+60

母親役はイリーナ・タルコフスカヤ。


30 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/11(土) 13:38:57 ID:UEITlvEh

おそらくイリーナ・タルコフスカヤさんは監督の最初の奥さんではないかと。
(同姓同名でなければ、イリーナという奥さんがいたはず)


38 :無名画座@リバイバル上映中:2006/05/12(金) 17:13:15 ID:9534X0Wy
浜辺で母が手を振って立ち去ろうとするところ恐いぐらい。


48 :無名画座@リバイバル上映中:2006/09/03(日) 23:38:29 ID:VbWH5bGO
ラストの水はすごかった
http://mimizun.com/log/2ch/kinema/1139048950/


▲△▽▼


アンドレイ・ タルコフスキーは、ヴォルガ川近郊のザブラジェで1932年4月4日、アルセニー・タルコフスキーとマリア・イワノヴナ・ヴィシニャコーワの息子として生まれた。

父は詩人で、その詩作によって後年にはかなりの名声を獲得することになる。

両親はモスクワの文学大学に学ぶ。

タルコフスキーが生まれた村は、もはや存在しない。

ダムがその地域に建設されて、人工湖の水底に眠っているのだ。

しかし、タルコフスキーが子ども時代を過ごした場所とそのイメージは、彼に消えることのない影響を及ぼし、作品に深甚な影響を残すこととなった。

一家がモスクワ郊外に引っ越した1935年には、父母の間の関係にひずみが見えはじめ、やがて、2人の離婚と、父の出奔を招くことになった。

アンドレイは、母、祖母、及び妹の家族構成、つまり男手のない家庭で成長した。

1939年に彼はモスクワの学校に入学したが、後に戦時中の疎開でヴォルガ河畔の親類の元に移った。

戦争の勃発で、父は兵役に志願、負傷して片脚をなくすことになる。

一家は、1943年にモスクワに戻った。

そこで、タルコフスキーの母は、印刷所の校正係として働いた。

戦時の年月は、少年の心に2つの大きな懸念が重くのしかかる日々であった。

死なずにすむだろうか? そして父は前線から無事に帰ってくるのだろうか? 

しかしながら、アルセニー・タルコフスキーがやっと戻ったとき、赤い星の勲章で顕彰されていたが、彼が家族の元に戻ることはなかった。


息子が芸術分野の仕事を見つけることを、タルコフスキーの母は一貫して望んでいた。

芸術の価値に対する彼女の信念は、彼が正式に授けられた教育に反映されている。

音楽学校、後には、美術学校に学んだタルコフスキーは、自分の映画監督の仕事はこうした訓練がなければ到底考えられないと、後年になって述懐している。

1951年から、彼は東洋言語大学で学んでいる。

これらの勉学は、しかしながら、スポーツによる負傷によって終わりを告げ、タルコフスキーは、シベリアへの地質調査団に加わり、そこでほぼ1年の間滞在し、ドローイングとスケッチのシリーズを製作した。

1954年に、この旅から戻った時、彼は、モスクワ映画学校 ( VGIK )に首尾よく合格し、ミハイル・ロンムの元で学ぶことになる。


タルコフスキーの商業映画第1作『僕の村は戦場だった』 (1962年)は、きわめて見通しの悪い状況で生まれた作品であった。

この映画は、E・アバロフ監督で撮影が開始されていたが、撮影されたシークェンスの質が不良なので中止されたプロジェクトだった。

後に、やはり映画を救済しようという決定がなされて、タルコフスキーがその完成の責任を負った。

こんな状況であのような情緒的なインパクトをもつ作品を創造できたという事実は、映画監督としての彼の力量とヴィジョンの強さを証言するものである。

彼のものでない素材が混ざっているにもかかわらず、このフィルムは彼の子供といってもいいだろう。そして、彼のスタイルの紛れもない刻印を帯びている。

大人に早くならざるをえなかった幼い少年、最後には戦争によって殺された少年の運命を描いている。

タルコフスキーは、自身の子ども時代とイワンの子ども時代との見かけの平行関係を否定して、両者の共通点は年齢と戦争という状況にすぎないと述べている。

映画は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、タルコフスキーの国際的な名声を一気に確立させた。


『鏡』 ( 1974ー75年)は、自伝的な要素を強くもち、親密な幻視の強度を有している。

伝えられるところでは、映画には実話でないエピソードが全くない。

それゆえに、『鏡』はタルコフスキーの最も個人的な作品であり、特にロシアでは、(その主観主義のために)厳しい批判にさらされることになった。

しかしながら、幼年期を描出するその驚異的な手法と、子どもの、魔法のような世界観は、タルコフスキーの全作品に横溢する暗示的な技法を理解する鍵を我々に提供している。
ttp://homepage.mac.com/satokk/petergreen.html
メンテ

Page: 1 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

タルコフスキー 映画『鏡 1975年』 ( No.2 )
日時: 2022/05/17 05:02
名前: スメラ尊 ID:Gjda1JhU

タルコフスキー 映画『鏡 1975年』

監督 アンドレイ・タルコフスキー
脚本 アンドレイ・タルコフスキー アレクサンドル・ミシャーリン
音楽 エドゥアルド・アルテミエフ
撮影 ゲオルギー・レルベルグ
公開 1975年3月7日

動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%20%E9%8F%A1?f_range=0&l_range=0&opt_md=&start=&end=


作中挿入音楽

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ 『オルガンのためのプレリュード』,『ヨハネ受難曲』 断章
ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ 『スターバト・マーテル』 断章
ヘンリー・パーセル 『弦楽組曲』
テーマ音楽作曲:エドゥアルド・アルテミエフ

キャスト

母マリア/妻ナタリア:マルガリータ・テレホワ
父:オレーグ・ヤンコフスキー
少年時代の作者(アレクセイ)/現代の作者の息子(イグナート):イグナート・ダニルツェフ
幼年時代の作者:フィリップ・ヤンコフスキー
医者:アナトーリー・ソロニーツィン
挿入詩朗読:アンドレイ・タルコフスキー
ナレーション:イノケンティ・スモクトゥノフスキー
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1_(%E6%98%A0%E7%94%BB)


映画のストーリー

木々に囲まれた木造りの家で母親(マルガリータ・テレホワ)はいつももの悪いに耽つていた。一面の草原にたたずむ彼女に行きずりの医者(アナトリー・ソロニーツィン)が声をかけるが、彼女は相手にしない。

息子(イグナート・ダニルツェフ)が家の中にいると、外では干し草置場が火事だと母が知らせに来た。1935年のことだった。その年、父は家を出ていった。

そして今、母からの電話で息子は夢から醒める。彼女は、セルプホフカ印刷所で働いていた頃の同僚の死を知らせてきたのだが、息子は母に夢をみていたことを知らせる。

両親と同様、彼も妻のナタリア(マルガリータ・テレホワ)と別れた。彼は、母に似たナタリアを時々母と間違える程、母への執着が強い。そしてことごとく、林に囲まれた木造りの家と母の姿を思い出す。母もナタリアも彼には哀れに感じられる。

大戦中、モスクワからユリエヴェツに疎開した時、祖父の知人をたずねて行き、宝石と引きかえにお金を借りようとし、肩身のせまい想いをした時のことなど、彼にとって脳裏に鮮かに焼きついている幼い頃のことが思い出される。そして広い草原の夕暮時を彼の子供たちが歩く。
ttps://movie.walkerplus.com/mv11186/


▲△▽▼

『鏡』 (ロシア語:ЗЕРКАЛО [Zerkalo],英語:The Mirror) は、アンドレイ・タルコフスキーが監督した1975年のソ連映画である。

作者の自伝的要素の強い映画であるが、また同時にロシアの現代の歴史を独特の手法で描き出した作品でもある。タルコフスキーの作品において、中心をなす代表作である。

オープニング−反響の暗喩

『鏡』は、言語症の少年が回復訓練を受けているTV画面の情景から始まる。女医が話しかけ、少年は吃音でうまく話せない。女医は少年をリラックスさせ暗示を与えつつ、「ぼくは話せます」と言ってごらんなさいと指示する。女医の言葉に合わせて少年が鏡像のように言葉を繰り返したとき、彼はうまく話すことが出来る。そして同時に「鏡」というタイトルが出てくる。

このオープニングはきわめて示唆に富んでおり、ここにタルコフスキーの映画のエッセンスが表現されているとも言える。無意識のなかに確かに存在するが、何かの障害によって意識にうまく再現されない記憶・情景。このような「心の深層」のイマージュが、ある魔術的とも言える手順を通じて、この現在に、鏡に映る像のように再現され意識化される。これがタルコフスキーの映画の基本的な構造でもある。

フラッシュバックと記憶

映画はそこから一挙に過去にフラッシュバックし、作者 (タルコフスキー) の少年時代に戻る。まだ若かった母が農場の柵に腰掛けている情景が出てくる。医者だと自称する見知らぬ男 (アナトーリー・ソロニーツィン) が現れ、作者の母と意味ありげな謎めいた言葉を交わし、風の吹くなか遠ざかって行く。その過ぎ去って行く医者の姿と共に、作者の父であるアルセニー・タルコフスキーの詩を朗読する声が流れる。

『鏡』は具体的な筋や物語を持っていない。妻との離婚問題に直面し退廃的に精神の絶望に陥って行く作者の「枠物語」はあるが、ふとした言葉や出来事が映画の場面を多様な過去の記憶の情景へと引き込んで行く。現在は過去の記憶に浸透される。

様々な魅力的でもあれば象徴性に富んだ情景が、あるときは田舎の自然として、家のなかの薄暗い情景として、印象的な雪のなかの坂道を登る少年の姿として現れる。映画は歴史ドキュメンタリーの映像を挿入しながら過去と現代を交互に行き来しつつ、記憶の積み重ねとして構成されている。展開して行く映像の場面に、詩人であった父アルセニーの詩を朗読するタルコフスキーの声が重なって行く。

個人の記憶とロシアの歴史

過去と現在を往復しながら、作者であるタルコフスキーの記憶が呼び出されると共に、ロシア(旧ソ連)の歴史、過去の時代の政治状況などが描き出されている。祖父の別荘で、夜、納屋が燃えた事件。このとき以来、父は家族から去って行ったのだった。母が印刷所で校正係を務めていたとき、印刷物の校正ミスをしたかと思い、早朝に活版の文字を確認しに出かけた情景。誤植が政治的意味を持つとき、人のいのちにも関わった、スターリン独裁時代のソ連の記憶であった。

作者の部屋で、スペイン人たちが闘牛について話している。ニュース映画の映像が現れ、スペイン内戦時代の様々な情景が流れて行く。またソヴィエト最初の成層圏飛行船の成功を祝う人々の姿が映し出される。印象的な情景が幾つもあるが、そのなかの一つは、「魔術的な存在の消失」とも言える、映像の暗喩である。

一人の老婦人の要望に応え、作者の息子イグナートはプーシキンの書簡の一部を朗読する。それは、タタール(チンギス・ハーンなど)の圧倒的な破壊・暴力に対する防波堤となった、ロシア(ルーシ)のヨーロッパ・キリスト教文明史における存在意義に関する一節であった。婦人は部屋のなかのテーブルに向かい紅茶を飲んでいる。イグナートがわずかの時間席を外して部屋に戻って来ると婦人の姿は消えている。紅茶のカップも消えているが、テーブルの上にはついさっきまでカップが置かれていた痕跡があり、それが見ているなかで、湯気が消えるように見る見る消えて行く。

記憶のイマージュの交錯と交響

作者は少年時代、雪のなかの道を歩き、射的場で軍事訓練を受けたことを思い出す。再び、ニュース映像が現れ、濁った川を渡ろうとする兵士たちや、行軍する兵士たちの映像が流れる。ベルリンの陥落とヒットラーの遺体。広島・長崎の原子爆弾のキノコ雲。毛沢東語録を手にした中国人群衆が押し寄せる文化大革命のニュース。中国とソ連の国境紛争であったダマンスキー島事件の情景。そして再び、現在へと時間は戻って来る。

一つの記憶が無意識から呼び出されると、それは別の記憶を更に呼び出し、記憶と記憶が交錯し、それは現在の情景とも交錯して、複雑なこころのイマージュを形造って行く。これは『惑星ソラリス』において、まさに宇宙空間で起こったことであり、歴史大作『アンドレイ・ルブリョフ』は、15世紀のイコン画家の時代と現代のあいだで鳴り響く、歴史と記憶、イマージュの交響音楽とも言える。

タルコフスキー自身は、第二次世界大戦の戦禍のただなかで生まれ少年時代を送った。この経験と記憶が、後に『僕の村は戦場だった (原題:イワンの子供時代,Ivanovo Djetstvo)』の作品イメージの構成に影響を与えているのは自然である。また父アルセニー(オレーグ・ヤンコフスキー)がタルコフスキー母子を、ある意味で見捨てたことも、彼のその後の芸術家としての主題となって来ている。軍服を着た父が少年タルコフスキーを胸に抱くシーンでは、劇的に音楽が高まる。

また映画の後半部でもっとも重い主題となっているのは、母と共に疎開した田舎で、財政的に行き詰まった母が、手持ちの宝石を売って家計の足しにしようと、少年タルコフスキーを伴って、販売交渉に出かける情景である。美しい田園風景の記憶、そして貧しい身なりの少年であった作者が垣間見た、豊かで暖かい家庭。ここにタルコフスキーの映画世界の始源点があると言える。


エピローグ−そしてはじまり

『鏡』は、父と母がまだ若く、高緯度地方の夏の白夜の夕暮れの中、田園の草のなか寝そべって、これから(の戯れにより)産まれる子は、男の子がいいか女の子がいいかと、未来を語っている傍らを、年老いた母が、まだ少年の作者と妹の手を引いて歩いて行く。大地母神的な「ロシアの母」の本能により、(上記の)来たるべき災厄の時代、夢想家で甲斐性の無い父親から、まだ生まれぬ子等を逃れさせているようにも見える。充足感に浸っている父親の傍らで、癇の鋭い若い母親もその事を垣間見、予感しているショットが入る。

十字架の前に赦しを請う、他の男(通りすがりの医師)に心を動かした多情な母、家族の大事な宝物を売り払った母、を捨てて、もはや性の対象ではない安全な老母と、童年時代の美しい記憶に回帰している、という「エディプス・コンプレックス」的解釈もされている。

しかし、映画史に残る名場面、宝石を売りに行った家で、ランプの明りに照らされながら、少年アレクセイが鏡を見つめている有名なシーンで、彼は母を許している(彼が許している、というより、鏡に映った自己の姿・深奥を観照するなかに、「神の赦し、彼らの営みを見守る神、が顕現している。」)という、時空の秩序を越えた情景のなかでクライマックスを迎える。

かつて火事を見たとき、燃える納屋の傍らにあった井戸が、枠組みの木材が虫に蚕食されている。燦然とした光のなかで、草と花のなかで、朽ち果てた過去を背後に記憶が出会い別れ、そして新しい未来へと進んで行く。

記憶と現在−永遠と鏡像

タルコフスキーにとって、過去は記憶のなかに存在する現在であり、現在それ自身も、過去の記憶のイマージュの一つの複合である。このようにしてうつろい行く記憶のなかに「永遠」が存在している。タルコフスキー自身は「永遠」という言葉は使わないが、変わることのない何かが存在しているのであり、それは「鏡」に映る像のなかにその存在の証明を持っている。

『鏡』のなかで、父アルセニーの詩を繰り返し朗読するのは、作者タルコフスキーであるが、父と作者は鏡を通じて、互いに像となっている。母マリアと妻ナタリア(同じ俳優が演じている)も鏡像関係にあり、更に作者と息子イグナート(少年時代の作者とイグナートは同じ俳優である)も互いに鏡像となる。

タルコフスキーの「水」を中心とした自然描写の映像美は魔術的であるが、実は彼の映画の思想そのものが魔術的だと言える。遺作となった映画『サクリファイス (原題:Offret/Sacrificatio)』においては、この「存在の魔術」が、具体的に描かれることになる。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

▲△▽▼


アンドレイ・タルコフスキー(ロシア語: Андрей Арсеньевич Тарковский, アンドレイ・アルセーニエヴィチ・タルコフスキー, 英語: Andrei Arsenyevich Tarkovsky, 1932年4月4日 - 1986年12月29日)は、ソ連の映画監督である。

「映像の詩人」と呼ばれ、叙情的とも言える自然描写、とりわけ「水」の象徴性を巧みに利用した独特の映像美で知られる。深い精神性を探求し、後期から晩年にかけて、人類の救済をテーマとした作品を制作・監督する。表現の自由を求めてソ連を亡命し、故郷に還ることなく、パリにて54歳で客死する。


1932年4月4日、ヴォルガ川流域のイワノヴォ地区、ユリエヴェツの近郊ザブラジェで生れる。

父はウクライナの詩人として著名なアルセニー・タルコフスキー[1]。
タルコフスキーの幼少期に父は家を出て別の家庭を作ったために、主に母親に育てられる(この間の事情は、自伝的作品 『鏡』(1975年) に描かれている)。

この幼少時にタルコフスキーは、作曲家に成る事を夢見て居たと言われる。
赤貧のうちに育ち、芸術学校でまず音楽の勉強をしたが家にピアノが無いので練習不足で断念。次に絵の勉強を始めるが結核で一年間療養生活を送る。

東洋大学のアラビア語に入学するが一年半で中退。ちょうどアメリカ文化に影響を受けた「スチリャーガ」と呼ばれた若者が現れた時期であり、タルコフスキーはその流行の先端を行くジャズと女性が好きな不良少年となった。

心配した母親がシベリア地質調査隊に入隊させ、1953年から1年間をシベリアのタイガの森で過ごす。

その後、映画大学への進学を決意。父親の尽力もあって1954年に全ソ国立映画大学に入学。落ちこぼれだったタルコフスキーが名門のこの学校へ入学できたのは奇跡だったと友人達は証言している。

ミハイル・ロンムのもとで映画を学んで[2]頭角を現し、後にやはりソ連を代表する映画監督となるアンドレイ・コンチャロフスキーやその弟のニキータ・ミハルコフらと親交を結ぶ。アメリカかぶれは健在で3年生のときにヘミングウェイ原作の短編『殺人者』を製作。

タルコフスキーの世代は、スターリン体制が終わりを告げて西側の文化がソ連に急速に流れ込んできた雪解け期が青年期にぶつかっており、タルコフスキーもそうした文化に大きく感化されている。後に彼が書いた映画評論も、ジャン=リュック・ゴダールからルイス・ブニュエル、黒澤明、ロベール・ブレッソン、アンディ・ウォホール、フェデリコ・フェリーニ、オーソン・ウェルズ、ミケランジェロ・アントニオーニ、イングマール・ベルイマンなど西側の映画への言及が多い。

卒業制作短編 の『ローラーとバイオリン』(監督)はニューヨーク国際学生映画コンクールで第一位を受賞。1962年にウラジーミル・ボゴモーロフのベストセラー小説 『イワン』 を原作とした 『僕の村は戦場だった』に急遽代役起用され、長編映画監督としてデビューする。これは1962年のヴェネチア国際映画祭でサン・マルコ金獅子賞、サンフランシスコ国際映画監督賞を受賞。国際的に高い評価を得る。企画段階では参加していなかった作品ではあるが、「水」や「夢」など、将来のタルコフスキー作品を彩るモチーフはこの時期から現れている。

将来を嘱望されたタルコフスキーは、1962年から63年末にかけてロシアの伝説的イコン画家の生涯を描いた歴史大作映画『アンドレイ・ルブリョフ』の脚本を映画大学の後輩コンチャロフスキーと共同執筆。大作ゆえの予算不足と検閲で苦しみながら1967年に完成するがソ連当局より「反愛国的」と指摘されて、国内では5年間上映されなかった。海外では高い評価を受け、1969年のカンヌ映画祭で国際映画批評家賞受賞。ソ連では71年12月にモスクワで公開された後、地方都市でも公開されて全国で290万人を動員した[3]。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

 
▲△▽▼

アンドレイ・ タルコフスキーは、ヴォルガ川近郊のザブラジェで1932年4月4日、アルセニー・タルコフスキーとマリア・イワノヴナ・ヴィシニャコーワの息子として生まれた。
父は詩人で、その詩作によって後年にはかなりの名声を獲得することになる。

両親はモスクワの文学大学に学ぶ。

タルコフスキーが生まれた村は、もはや存在しない。

ダムがその地域に建設されて、人工湖の水底に眠っているのだ。

しかし、タルコフスキーが子ども時代を過ごした場所とそのイメージは、彼に消えることのない影響を及ぼし、作品に深甚な影響を残すこととなった。

一家がモスクワ郊外に引っ越した1935年には、父母の間の関係にひずみが見えはじめ、やがて、2人の離婚と、父の出奔を招くことになった。

アンドレイは、母、祖母、及び妹の家族構成、つまり男手のない家庭で成長した。

1939年に彼はモスクワの学校に入学したが、後に戦時中の疎開でヴォルガ河畔の親類の元に移った。

戦争の勃発で、父は兵役に志願、負傷して片脚をなくすことになる。

一家は、1943年にモスクワに戻った。

そこで、タルコフスキーの母は、印刷所の校正係として働いた。

戦時の年月は、少年の心に2つの大きな懸念が重くのしかかる日々であった。

死なずにすむだろうか? そして父は前線から無事に帰ってくるのだろうか? 

しかしながら、アルセニー・タルコフスキーがやっと戻ったとき、赤い星の勲章で顕彰されていたが、彼が家族の元に戻ることはなかった。


息子が芸術分野の仕事を見つけることを、タルコフスキーの母は一貫して望んでいた。

芸術の価値に対する彼女の信念は、彼が正式に授けられた教育に反映されている。

音楽学校、後には、美術学校に学んだタルコフスキーは、自分の映画監督の仕事はこうした訓練がなければ到底考えられないと、後年になって述懐している。

1951年から、彼は東洋言語大学で学んでいる。

これらの勉学は、しかしながら、スポーツによる負傷によって終わりを告げ、タルコフスキーは、シベリアへの地質調査団に加わり、そこでほぼ1年の間滞在し、ドローイングとスケッチのシリーズを製作した。

1954年に、この旅から戻った時、彼は、モスクワ映画学校 ( VGIK )に首尾よく合格し、ミハイル・ロンムの元で学ぶことになる。


タルコフスキーの商業映画第1作『僕の村は戦場だった』 (1962年)は、きわめて見通しの悪い状況で生まれた作品であった。

この映画は、E・アバロフ監督で撮影が開始されていたが、撮影されたシークェンスの質が不良なので中止されたプロジェクトだった。

後に、やはり映画を救済しようという決定がなされて、タルコフスキーがその完成の責任を負った。

こんな状況であのような情緒的なインパクトをもつ作品を創造できたという事実は、映画監督としての彼の力量とヴィジョンの強さを証言するものである。

彼のものでない素材が混ざっているにもかかわらず、このフィルムは彼の子供といってもいいだろう。そして、彼のスタイルの紛れもない刻印を帯びている。

大人に早くならざるをえなかった幼い少年、最後には戦争によって殺された少年の運命を描いている。

タルコフスキーは、自身の子ども時代とイワンの子ども時代との見かけの平行関係を否定して、両者の共通点は年齢と戦争という状況にすぎないと述べている。

映画は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、タルコフスキーの国際的な名声を一気に確立させた。

『鏡』 ( 1974ー75年)は、自伝的な要素を強くもち、親密な幻視の強度を有している。

伝えられるところでは、映画には実話でないエピソードが全くない。

それゆえに、『鏡』はタルコフスキーの最も個人的な作品であり、特にロシアでは、(その主観主義のために)厳しい批判にさらされることになった。

しかしながら、幼年期を描出するその驚異的な手法と、子どもの、魔法のような世界観は、タルコフスキーの全作品に横溢する暗示的な技法を理解する鍵を我々に提供している。
ttp://homepage.mac.com/satokk/petergreen.html

▲△▽▼

「魂の映像詩人〜タルコフスキー」

「僕のみる夢は、いつも同じだ。

僕が40数年前に生れた祖父の家、それが必ず再現される。懐かしい場所だ。

そして白いテーブル・クロスの食卓がある。

家に入ろうとして入れない・・・、そんな夢を何度か見た。

薄汚れた丸太の壁やよく閉まらない扉などを見て、夢だなと思うことがある。

そういう時には妙に物悲しく、目覚めたくないと思ったりする。

時に何事か起きて、あの家も、周囲の林も夢に見なくなる

夢に現れないと、僕は淋しくなる。夢を待ち焦がれるようになる。

夢の中で僕は子供にかえり、幸せを感じるのだ。まだ若いからだろうか?」

『鏡』は、タルコフスキーの作品のなかで最も難解な作品かもしれない。

なぜなら、この作品に貫かれているのは監督の内省的な自伝的要素の強い作品になっているからだ。自分の内面を見つめることさえ難しいのに、人の内面に入るのは困難なことである。

物語は父と別れた母への思いと、同じように妻と子供たちと別れてしまった『私』の回想と夢で綴られる。


母が印刷工場で誤植かもしれないと大騒ぎした日に、同僚のエリザヴェータから身勝手だと責められる。

そして、主人公も妻から「あなたは自信過剰よ。自分が存在するだけで、家族は幸せになると思っている」と母に似たような非難をされる。

自己の存在があっての世界。自己の存在があっての他者。

そうした人と人の繋がりの感情の襞が、この作品では鏡を通して語られる。


作品の冒頭近く、風に揺らぐ草原の中を通りすがりの医者が母に語りかける。

「・・・ごらんなさい。自然も素晴らしい。草も木も感じたり、認識したり、理解するのです。・・・

われわれは走り回り、くだらんおしゃべりをする。自分の中にある自然を信じないからですよ。

世俗のことばかり忙しくて・・・」と。


内なる自然、それは『神』と同義語ではなかろうか。

人間としての良心。善悪や恥に対する認識。

『惑星ソラリス』でもそれらは同じように語られる。そして、スナウトに「人間に必要なのは鏡だ」と語らせている。

自己を見つめるための『鏡』、
自己の内面を時間と空間を飛び越えて映し出す『鏡』。

鏡に映った自己は虚像ではあっても、その内面の多くを物語ってくれる。そして、それは実像なのである。


スターリン政権下、誤植は命とりだったのである。

そのため奔走した母。それを攻める同僚。
観ているものには理不尽さを感じないではいられない。

それは、時代のゆがみの現れ、タルコフスキーのソ連政権に対する不信感の現われだったにちがいない。


ともあれ、この作品は言葉で表し難い。それは冒頭述べたとおりである。

しかし、タルコフスキー特有の映像。この映像を見ているだけで至福のひと時を感じてしまう。

また、感情の奥襞を言葉のやり取りでさらけ出していく手法はベルイマンを、夢のシーン、特に母がベッドから浮き上がるシーンや家の壁が崩れ落ちるシーンにはブニュエルの影響が認められる。


そして、作品の随所に現れる『水』と『火』のイメージは、次作 『ストーカー』を経て『ノスタルジア』で頂点に達する。


≪父の詩≫

「私は予感を信じない 

前兆を認めない 

中傷も毒も恐れない 

この世に死は存在しないのだ 

すべては不死だ 

すべては不滅で17歳でも70歳でも死を恐れる必要はない 

ただ現実と光あるのみ 

この世に闇もなく、死もない 

我々はみな海辺に出る 

不滅の海の広がり
 
我々は力をあわせて綱を引く
 
家というものも永遠だ 

私は好きなときに呼び戻し 

その時代に生き 家を建てる・・・

それゆえに今 我々は妻や子と祖父や孫と一つテーブルにいる 

もし私が手を挙げれば 未来もここに現れる 

光も永久に残るだろう
 
過ぎ去った日々を私は肩に積み重ねて 深い時の森を抜けてきた 

私は自らこの世紀を選ぶ・・・」

鏡《ストーリー》


私の夢に現われる母・マリア。

それは、40数年前に私が生まれた祖父の家。

うっそうと茂る立木に囲まれた家の前で、母・マリア(マルガリータ・テレホワ)はいつものようにもの思いに耽つていた。

一面の草原にたたずむ彼女に行きずりの医者が声をかけるが、彼女は相手にしない。


母は、たらいに水を入れ髪を洗っている。
鏡に映った、水にしたたる母の長い髪が揺れている。


息子≪私の少年時代≫・イグナートが家の中にいると、外では干し草置場が火事だと母が知らせに来た。

1935年のことだった。その年、父は家を出ていった。


私は突然の母からの電話で夢から覚め、エリザヴェータが死んだ事を知らされた。
彼女は、母がセルポフカ印刷所で働いていた頃の同僚だった。

私は母に、母の夢をみていたことを知らせる。


両親と同様、私も妻ナタリアと別れた。

妻は、私が自信過剰で人と折り合いが悪いと非難し、息子イグナートも渡さないと頑張っている。

妻のもとにいるイグナートのことは、同じような境遇にあった自らの幼い日を思い出させる。

赤毛の、唇がいつも乾いて荒れていた初恋の女の子のこと。

同級生達と受けた軍事教練のこと。それは戦争と、そして戦後の苦難の時代でもあった。


そして、哀れだった母のこと。

大戦中、疎開先のユリヴェツにいた時、母に連れられて遠方の祖父の知人を訪ねて、宝石を売りに行き、肩身のせまい想いをした時のことなど、彼にとって脳裏に鮮かに焼きついている幼い頃のことが思い出される。


母の負担になったかもしれない自分の少年の日々のことを思うと、私の胸は疾く。

イグナートが同じ境遇をたどっているのかも知れないと思うと、さらに私を苦しめる…


そして、夕暮時、母が遠くで見守るなか、広い草原を子供たちが年老いた母につれられて歩いて行く。
http://acusco.cocolog-nifty.com/higurasi/2008/07/post_20eb.html

アンドレイ・タルコフスキー・インタヴュー


―1985年3月、ストックホルム― 『鏡』に関して


Q. 『鏡』であなたはご自身の生い立ちを提示されました。どのような鏡をあなたは使われたのですか。


その鏡は、スタンダールの鏡のように、道中をたどる鏡ですか。それとも、その中に自分自身を発見し、それまで知らなかった自分自身について何かを学ぶことになった鏡ですか。

言い換えますと、この作品はリアリスティックな作品ですか、それとも、主観的な自動創造なのですか。あるいはもしかすると、壊れた鏡の破片を集めて、映画的なイメージの枠内に収めて、完全な総体を構成する試みなのでしょうか。

映画というものは、部分を集めて一個の総体にする可能性をいつも創造してくれます。

映画は結局、モザイクのように、切り離されたショットから構成されています。

色彩とテクスチャーの異なる個々の断片で構成されています。

ですから、断片の一つ一つはそれ自体では、無意味かもしれません。またそう見えることでしょう。

しかしその総体の中に収まると、断片が絶対に必要なエレメントになるのです。

個々の断片はその総体の枠内でしか存在しません。だから映画は、私にとって最終的な結果を見る目で考えぬかれていない、いかなる断片もフィルムに存在しない、存在し得ないという意味で、重要なのです。

個々の断片のひとつひとつは、まったき総体によって共通の意味にいわば彩色されているのです。

言い換えると、断片は自立した象徴として機能せず、ある独自の、唯一無二の世界の一部としてだけ存在するのです。

そういうわけで、『鏡』はある意味で私の理論的な映画観に最も近いものです。


ご質問は、どのような種類の鏡なのか、でしたね。

ええ、まず第一に、この映画は創作されたエピソードをまったく含まない私自身の脚本に基づいています。

エピソードのすべてが実際に私の家族の歴史のものです。そのすべてです。例外はありません。

唯一創作されたエピソードは、ナレーター、作者の病気です。

作者はスクリーンに映りません。


ところで、この非常に興味深いエピソードは、作者の精神的な危機、彼の魂の状態を伝えるために、必要だったのです。


ひょっとすると、彼は命に関わる病気なのです。

ひょっとするとそれが映画を作り上げるさまざまな回想を生み出す理由なのです。
死ぬ間際に人生の最も重要な瞬間の数々を思い出す人のようにです。

ですから、これは作者が自分の記憶に加えた単純な暴力ではありませんー私は私が欲するものだけを覚えているのですーそんなものではありません、これらは臨終の時の男の回想なのです。

自分の思い出すエピソードを良心の秤にかけているのです。

このように、唯一創作されたエピソードは、他の完全に真実である回想に必要な先行条件になったのです。


この種の創造、このように自分自身の世界を創造することがこの真実かどうか、そうお訊ねなのですね。

ええ、もちろん真実ですが、私の記憶に反射したものとしての真実です。

例えば、撮影に使われた私の子ども時代の家を考えてみましょう。

映画であなたが目にする家です。あれはセットです。

つまり、あの家は昔、私の家が建っていた全く同じ場所にもう一度建てられたのです。

あそこに残っていたものは、基礎すらなかった、かつてそこにあった穴ひとつでした。

まさにその場所に家がもう一度建てられたのです。写真から再建したのです。

これは私にはきわめて大切なことでした。

私が何らかの自然主義者になりたかったからではありません。

そうではなく、映画の内実に対する私の個人的な姿勢の総体がそれにかかっていたからです。

もし家が別物に見えたなら、それは私にとって個人的なドラマになったことでしょう。

もちろんこの場所で樹木はずいぶん生い茂りました。すべてが生え放題で、ずいぶん切り倒さねばなりませんでした。

しかし、私がママをあそこに連れて行くと、ママはいくつかのシークェンスに出ていますから、彼女はあの風景にひどく心を動かされたので、私は正しい印象が創造されたのだとすぐに分かりました。


こう思うでしょうね。なぜまた、過去を念入りに再構築することが必要だったのか、と。

それもまた、ただの過去でなく、私が覚えていること、そしてそれを私がどのように覚えているか、それを再現することが必要だったのか。

私は、いわば、内的で主観的な記憶のために特定の形式を探求しようとしたのではありません。

私は昔のままにすべてを復元しようと努めました。

つまり、私の記憶に固定されたものを文字どおり繰り返そうと努めました。
その結果は非常に不思議なものでした。私には何とも奇妙な経験でした。

観客の興味を引くために、関心を引きつけるために、観客に何かを説明するために、構成されたり創作されたエピソードは何ひとつない映画を私は作りました。


エピソードのすべてが、まさしく私の家族に関する、私の生い立ちの、私の人生の回想だったのです。

そして、それが実は非常にプライベートな物語であるという事実にもかかわらずーもしかすると、まさにそのためにー私は後でたくさんの手紙を受け取りました。

映画を見た人たちは「どうやってあなたは私の人生で起きたことが分かったのか」と訊いてきたのです。

これは非常に重要です、ある内的な意味で、非常に重要です。

これはどういう意味なのでしょう。

これは、道徳的で精神的な意味で非常に重要な事実であると私は言いたいのです。

なぜなら誰かが自分の真実の感情を芸術作品で表出するなら、それは他者にとって秘密のままであることはありえないからです。

もし監督や作家が嘘をついているなら、ものごとを人工的に作り上げているなら、彼の作品は完全に-


Q. 「洗練の極み」


そう。イタリアでは、cervellotico, troppo cervellotico と言う。

「人工的に、よく工夫されている」という意味です。

そんな仕事は誰の心も動かさない。

だから、作家と聴衆の間の相互理解は、それがなければ芸術作品は存在しないのですが、創造する者が誠実であるときにのみ可能なのです。

しかし誠実な作家が自動的に傑出した作品を生むという意味ではないですよ。

能力と才能が基本的な予備条件なのは確かです。

ただし、芸術家の誠実さが欠けていたら、真の芸術的創造は不可能です。

本当のことを言えば、何らかの内的な真実を言えば、必ず理解が得られると私は信じています。

お分かりになりますか。提示された問題がきわめて複雑でも、イメージのシークェンスが、作品の形式構造がきわめて複雑でも、創造者にとって根本的な問題はいつも誠実さなのです。

構造の点で、『鏡』は私の映画で全般的にもっとも複雑なものです?構造としてです。

個々に考えられた断片としてではなく、まさしく一つの構造としてです。
そのドラマツルギーはなみはずれて複雑で、内転したものです。

Q. 夢や追憶の構造に似ていますね。結局これは普通の省察ではありませんね。

ええ、これは普通の省察ではありません。そこには、そういう込み入ったものがたくさんあります。

自分でもよく理解できないものもあります。

例えば、母に出演してもらうというのが私にはとても重要でした

映画にイグナーツ少年が座っているエピソードがあります-イグナーツじゃない-何て名前だったけ?

 作者の息子、彼がだれもいない父親の部屋で座っている。これは現在です、今現在です。

この少年は語り手の息子です。その少年は作者の息子と、少年時代の作者自身の両方を演じています。

で、彼がそこにいるとき、ドアベルが鳴ります。

彼がドアを開けると、女の人が入って来て、「あら、家を間違えたようね」と言います。

家を間違えたのです。これが私の母です。

で、彼女はドアを開けるこの少年の祖母です。

しかしなぜ彼女は彼が孫だと分からないのでしょう。なぜ孫は祖母が分からないのでしょう。


さっぱり分かりません。つまり?

第一にこれはプロットで、台本で説明されていません。

第二に、私にもこれは明確でないのです。


Q. 人生のすべてが理解出来るわけでも、明確なわけでもありません。


そうですね、私にとって、それは?どう言えばいいのかな?

さまざまな感情の絆と折り合いをつけることなのです。

私にとって、母の顔を見ることがきわめて大切なことでした。

この映画は結局彼女についての物語なのです。

彼女は玄関を不安げに、何かおずおずと、入って来ます。

ドストエフスキーの流儀で、マルメラードフの流儀でね。
それから彼女は孫に言う。

「家を間違えたようね」

あなたはこの心理状態を想像出来ますか。

私にとって、このような状況に落ちた母を目にすることが大切だったのです。

混乱した時の、気後れした時の、恥ずかしがっている母の顔を見ることが重要だったのです。

しかしちゃんとしたサブプロットを作るには遅すぎると私は分かっていました。

なぜ孫を認知できないのか、明らかにしてくれるように脚本を書くにはすでに手後れでした。

目が悪かったからとか何とか、ね。それを説明するのは非常に簡単なことだったでしょう。

しかし私は自分に言い聞かせました。


何もでっちあげないぞ。


母にドアを開けさせて、家に入り、息子[原文のママ]を認知できないようにしよう。

少年は彼女がだれか分からない。

この状態で彼女は外に出てドアを閉めることになります。

それは、私にとりわけ身近な人間の魂の状態です。

何か不如意の状態。精神的に縛られた状態です。

これを目にすることが私には大切だったのです。

一種、辱められた状態の人間の肖像です。

おとしめられたという感じです。


これを、彼女の若き日のシーンと並べてみると、そうすると、このエピソードは私に別のエピソードを想起させます。

つまり、若いころにイヤリングを売りにあの医者のところに行きます。

彼女は雨の中で立っています。何か説明しています、何かについて話しています、なぜ雨の中でなのでしょう。何のためなのでしょう。

もしかすると、このような謎が何もなければずっと良いのでしょうね。

しかし全く説明のない、理解不可能なこのようなエピソードがいくつかあります。
で、私たちにはその意味を探る手がかりがないのです。


例えば、人々はこう言うでしょう。

「向こうに座っていて、少年にプーシキンがチャーダーエフにあてた書簡を読むように言うこの年配の女性はだれなのか?」

この女性はだれなのでしょう? アフマートワか??

だれもがそう言います。彼女は実際アフマートワに少し似ています。

横顔が同じなので、彼女を思い出させるのです。

あの女性を演じたのは、タマーラ・オゴロードゥニコワです。私たちの製作マネージャーです。

実際すでに『ルブリョフ』の製作マネージャーでもありました。

彼女は私たちの大の友だちで、彼女の姿は私の映画のほぼすべてに映っています。
彼女は私にとって護符のようなものでした。

この女性がアフマートワだと私は思いませんでした。

私にとって、彼女はある種の文化的な伝統の継続を表象する「彼方」からの人物でした。

彼女はこの少年を何としても、そうした文化的な伝統と結び付けようと努力しています。

文化的な伝統を、まだ若く、今この時代に生きている人間と結び付けようと努力しています。

これはとても大切なことです。

簡潔に言うと?それは、ある種の傾向、ある種の文化的な根っこなのです。


ここに家があります。

ここには、そこに住んでいる男がいます。作者です。

そしてここには、この雰囲気に、こうした文化的な根っこに影響を受ける彼の息子がいます。

結局、この女性がだれであるのかは、明確に指示されてはいません。

なぜアフマートワなのでしょう? 

ちょっと衒いすぎです。この女性はアフマートワではありません。

簡単に言うと、この女性はまさしく、時の、切れた糸を繕うのです。

シェークスピアの『ハムレット』の場合と同じです。

彼女はそれを文化的、精神的な意味で回復させるのです。

それというのは、近代と過去の時代との絆です。プーシキンの時代と、です。

もしかするともっと後の時代と、かもしれませんーそれは重要ではありません。

私がこの映画で獲得した非常に重要な、きわめて重要な経験は、私にとって同様に観客にとってもこの映画が重要であると判明したことでした。

私たちの家族だけの物語であって、それ以外ではありえないということはどうでもいいことです。

この経験のおかげで私は多くのことが見えるようになり理解したのでした。

この映画は、監督としての、こういってもいいなら芸術家としての私と、私の仕事が奉仕する人々との間に絆があるということを証したのでした。

そのためにこの映画は私にとってとても重要だと分かったのです。

なぜなら、私がそれを理解したとき、私が大衆のために映画を作っていないと誰も私に不服をならすことができないからです。

まあ後になってもいろいろな人がぐずぐず言いましたがね。

しかしそれ以来、私はそういう不服を自分に申し立てることができなくなりました。


芸術と実人生ーロシアの伝統


Q. あなたとご家族の人生はリアリズムが典型的に必要とするものに従って形成されていません。
あまり典型的な家族とは言えません。
おっしゃったように、観客は自分の人生が反映された映像をそこに見いだしたのですが。
あなたのご家族、あなたの家、最も身近な家族はあなたに何を与えてきたのでしょうか。
そして後になって、何があなたの芸術的で文化的な霊感の源になったのでしょうか。
この質問をするのは、ポーランドの観客はロシアの芸術家の生い立ちや背景を何も知らないからです。これは大きな特徴です。一方、西側の芸術家はしばしば生い立ちしか知らされていません。

それは正確ですが、不正確でもあります。ある意味で、正しいと言えば正しいし、正しくないと言えば正しくないですね。

生い立ちを何も知らないという意味で、ロシアの芸術家に関するあなたのご意見は正しくありません。もちろん、現代の芸術家と比較するなら、もしかすると正しいのでしょう。

しかし、私は自分自身と現在の芸術家との比較を考えたことは一度もありません。

私はいつも、19世紀の芸術家と自分が結びついていると感じてきました。

例えば、トルストイ、ドストエフスキー、この流れの作家たち、チェーホフ、ツルゲーネフ、レールモントフ、やブーニンを挙げるなら、彼らの生がどれほど唯一無二のものであり、彼らの作品が人生と、彼らの運命とどれほど密接に結びついていたかがお分かりになるでしょう。

もちろん、私が述べたことは、私が自分をソ連の60年、70年、80年代の、いわば、文化の流れから完全に除外しているという意味ではありません。そうではありません。

しかし私は革命後に突然巨大なギャップが出来たという意見には、原則的に反対です。

この深い溝は、ロシア文化の発達に新段階をもたらすために、意図的に創造されたものです。

しかし私は文化が真空状態で発達できるとは信じません。

貴重な植物を移植しようと努力することは出来ます。

その根を掘り起こして植え替えるのです。

しかし、枯れてしまうでしょう。何も生長しないでしょう。

だから、転換期の作家は自分の運命を非常に悲劇的に経験したのです。

革命前に作家活動をはじめて、その後も仕事を続けた作家たちです。

アレクセイ・トルストイ、ゴーリキー、マヤコフスキー、ブローク。
文字どおりのドラマでした。ブーニンも-。

これは何もかもがもう恐ろしいドラマです。アフマートワも-。他にどんな人がいたか、神のみぞ知るです。悲劇です。ツヴェターエワ-。何も得るものはなかった。

移植は不可能だった。移植はすべきではなかったのです。

文化にこんな恐ろしい実験をするのを許すべきではなかったのです。

こういう生体解剖は、精神を幽閉してしまうので、人体に暴行を加えるよりもさらに酷いことなのです。


プラトーノフを例に取りましょう。

彼は、言うなれば、ロシアにおけるソ連期の発達時代に完全に帰属しています。
また彼は典型的なロシアの作家です。

彼の人生もまた典型的なもので、彼の作品にくっきりと反映しています。
だからあなたのご意見は全面的に正しいと言うことは出来ません。

このような文脈で私のことを言うならば、古典ロシア文化と私との絆は私にとって非常に大切です。

この文化は当然連綿と続いて、今日に至っています。古典ロシア文化が死んだと私は思いません。

私は、人生と作品を通じてーもしかすると無意識のうちにーロシアの過去と未来の間をつなぐこの絆を現実化しようと試みる芸術家のひとりでした。

この絆をなくすことは私にとって致命的でしょう。それなしに私は生き続けることは出来ないでしょう。

過去を未来と結びつけるのはいつも芸術家なのです。

芸術家は或る瞬間に生きているだけではありません。

芸術家は媒体なのです、いわば、過去から未来への渡し守なのです。


ここで私の家族について何が言えるでしょうか。

父は詩人です。

彼は革命が起きたときまだ小さな子どもでした。

革命前に彼が大人であったと言うことは実際出来ません。それは全く正確ではありません。

彼はソ連時代に成長しました。1906年生まれですから、1917年の革命時には11歳でした。

まだ未熟な子どもです。しかし彼は文化的伝統をよく知っていました、教養がありました。

ブリューソフ文学研究所を卒業し、多くの、主導的ロシア詩人のほぼ全員を知っていました。

言うまでもなく、彼をロシアの詩の伝統から切り離して想像することは出来ません。

ブローク、アフマートワ、マンデリシュターム、パステルナーク、ザボロツキーの系譜から切り離して想像することは出来ません。

これは私にとってとても重要な事でした。或る意味で私はこのすべてを父から受け継いだのです。


私を育てたのは、私の両親、特に母です。

なぜなら父は私が3歳の時に母の元を去ったからです。

そういうわけで、私は実は母に育てられたのです。

詩人として父が私にどのように影響したのか、はっきりとしたことを言うのは難しいでしょう。

もっと生物学的な意味で、無意識のレベルで、私に影響しました。

もっとも私はフロイトの信奉者ではありませんが。フロイトにはちっとも感心しません。

ユングも又私の趣味ではありません。

フロイトは俗悪な唯物論者です。切り口が違うだけで、パブロフと同じです。

彼の理論は人間の心理を説明するひとつの可能な唯物論的異稿にすぎません。


父は私に何ら影響しなかった、内的な影響力を持たなかったと思います。

何もかもが概ね母のおかげによっています。

私が自分自身を見いだすのを助けてくれたのは母です。

映画でも私たちの生活状態がとても厳しかった、とても困難であったことがはっきりと分かります。

そういう時代でもありました。

まさにその時に、母は独り残されたのです。

私は3歳、妹は1歳半、母は私たちをずっと育ててくれました。

再婚もせず、いつも私たちと一緒にいました。

母は2度と結婚しなかった。

彼女は夫を、私の父を、一生愛していました。

彼女は並外れた女性でした。実際聖女でした。

最初母は生活に対して全く準備が出来ていなかった、全くです。

そして、この無防備な女性をとりまく全世界が崩壊したのです。

つまり、まず第一に2人の子連れだというのに手に職が何もなかったのです。

私の両親はブリューソフ文学研究所で勉強をしていましたが、そのとき母は妹を妊娠しました。

それで母は免状を何も持っていないのです。

教育を受けた女性として準備する時間が全くなかった。

彼女は文学で自分の才能を試しました。

私は彼女の文章をいくつか見たことがあります。

彼女を襲ったあのカタストロフィが起きなければ、母は全然違った形で自己実現が出来たでしょうね。

だから本当に家に資産がまったくなかったのです。

母は印刷所の校正の仕事をしました。そこで最後まで働いていました。

つまり、戦後も、ずっとです、退職するまでです。

どうやって母がやりくりできたのか、どうやってがんばり抜いたのか、どうやって身体がもったのか、私にはまったく理解できません-分かりません。

どうやって私たちに教育を受けさせることができたのでしょうか。

私はモスクワの美術造形学校を出ましたが、そのためには金がかかる。
どこからその金を捻出したのでしょうか。

私は音楽学校も出ましたし、先生からレッスンも受けましたが、それも母が払ってくれました。


Q. それは戦前ですね?


戦前と戦中と戦後です。

誰もが音楽家になるものだと思っていましたが、私はなりたくなかった。

とにかく、どうしてこんなことが可能だったのか、私には理解できません。

まあ、こう言う人もいるでしょう、何か財産があったんだ、教育のある一家の子どもだから、当たり前でしょう。

ーしかし、ここには当たり前のことは何もなかった。

私たちは文字どおり裸足で歩いていましたからね。

夏には全然靴を履かなかった。靴がなかったんです。

冬になると私はフェルトのブーツを履きました。

それで、母が外出しなければならないときには-私たちは-貧乏なんてもんじゃなかった。

赤貧でもまだ言い表せない。

まったく分かりません、母は-分かりません。

母がいなければ、私はこんなふうにはならなかったでしょう、言うまでもないことですが。

私が今あるのはすべて、母のお陰なのです。


そのために、母は私に非常に強い影響を及ぼしましたー影響という言葉でも足りないー世界のすべてが私にとって母と結びついているのです。

ただし、私は、母が生きているときには、そのことに本当には気づかなかった。

母が死んでから、母の死後に、私は突然そのことに気づいたのです。

それに、あの映画を作っているときでも、もちろん当時母はまだ生きていましたー私は映画のテーマを十分には理解していなかった。

私は自分自身を語る映画を作っていると思っていました。

自分の幼年時代、少年時代、青年時代を書いたオデッサ時代のトルストイのように。

映画を撮り終えたとき、この映画が私ではなく、母についての映画だと分かりました。

これはー私の見方から言うとー本来の理念よりもこのようにして相当高貴な精神のものになりました。この理念をかくも完璧に高貴なものにした変化は、映画の製作中に生じました。

つまり、映画は私と共に始まりました。

私があれらの回想の、いわば、眼なのですから。

しかしそれから、まったく異なることが生じました。

この映画に携わる期間が長くなるほど、この映画が何をテーマとするのか、私にははっきりしてきたのです。


Q. 映画館を出たとき、私はこの映画が一編の詩として作られたのだと思いました。
つまり、映画では不可能なものに思えたのですー親密な抒情的な独白であると。


そうかもしれません、私には分かりません。

私は当時形式について何も考えていませんでした。特別なものを考案するつもりはなかったのです。

私が追求していたのは、記憶における復活です。

いや正確に言うと、記憶ではなく、スクリーンに私にとって重要であるものたちが復活することでした。

一般に、最も重要なことはこの道をたどるということで、例えば、自分の想い出を構築するアラン・レネの道をたどることではなかった。

あるいは、現代文学から例を引くなら、ロブーグリエの道を採ることでなかった。
ロシアの芸術家にとって芸術創造の非常に重要な側面は、必ずしも、より美しいものを創造することではなく、道徳的な責任感であったのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/illg.html

オルガ・スルコワ:タルコフスキー・インタビュー


映画を撮るとき、私は俳優と出来るだけ話をしないようにする。

俳優自身が自分の個々のシーンを全体との流れでやろうとするのに、私は強く抵抗します。

時には、直前のシーン、あるいはその直後のシーンとの関連でも、ダメです。

例を挙げましょう。

『鏡』の最初のシーンで、主演女優がフェンスに腰を下ろして夫を待ちながら煙草を吸うシーンでも、主役を演じたマルガリータ・テレホワが脚本の細部を知らないことを私は望みました。

つまり、夫が最後のシーンで帰ってくるのか、永久に去ってしまったのか、彼女は知らなかったのです。

彼女が演じている女性がかつて、人生の未来の出来事を何も知らずに、存在していたのと同じ様態で、彼女にもその瞬間に存在していてほしいという思惑があって、なされたのでした。

もし女優が主役の亭主が二度と帰ってこないと知っていたら、状況の絶望ぶりを演技で前もって表出させていたことは間違いありません。

あるレヴェルで、たとえ潜在意識でなしたとはいえ、私たちはそれを察知したことでしょう。

これから起きることを自分が知っていることを、それに対する自分の態度を露わにしたことでしょう。

そういう細部の知識は大きなスクリーンでは確かに隠しようがないからです。

この場面では、そういう細部を未熟なかたちでばらさないことが絶対に肝要でした。

だから、実生活で経験するのとまさに同じやり方でこの瞬間を経験することがテレホワには必要だったのです。

彼女はこのように、希望をいだき、不信に陥り、また希望を取り戻すのです。

「解決のマニュアル」に触れることはありません。


与えられた状況という枠組みの中でーこの場合、枠組みは夫の帰りを待つことにあるのですがー彼女は自分自身の個人的な生の何か秘密の一片によって生きざるをえなくなった。

幸運なことに私はそれについて何も知りませんがね。


映画芸術で最も重要なことは、俳優がその俳優に完璧に自然なやり方である状況を表出することです。

つまり、その俳優の肉体的な、心理的な、情緒的なそして知的な性格に照応した様態で、ある状況を表出することです。俳優がどのようにその状況を表出するかは、私とはまるっきり無関係です。

別の言い方をしましょう、私には俳優に何か特定のかたちを強制する権利はありません。結局、私たちは皆、自分の完全に独自のやり方で同じ状況を経験しているのです。この例外的な表出力こそ、比類ないものであり、映画俳優の最も重要な側面なのです。


俳優を正しい状態に置くために、監督は自分の内面でこの状態を明確に感知できなければなりません。このようにしてのみ、当面のシーンの正確な調子を見つけだすことが出来るのです。

例えば、よく知らない家に入って、前もってリハーサルしておいたシーンを撮影するのは不可能です。知らない人たちの住居になっている馴染みのない家は、私のキャストに何も意思疎通することが出来ないのは、言うまでもありません。

人間の経験可能で正確な状態こそ、映画の個々の特定のシーンで目指すべき核心的でかつ完全に具体的な目標なのです…テイクの雰囲気を決定する魂の状態、監督が俳優に伝えたいと思う主なイントネーション、これこそ大切なのです。

俳優はもちろん、自分自身の方法を持っていなければいけません。

例えば、すでに触れたように、マルガリータ・テレホワは脚本の全体像を知らなかった。

彼女は自分自身の断片化された部分を演じただけでした。

出来事の帰結や自分自身の役のコンテクストを私が明かすつもりがないと探り当てたとき、彼女はひどく困惑しました…

まさしく、このようにして彼女が直観的に演じられた部分のモザイクを生み出し、それを後に私が全体像にまとめ上げたのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/surkowa.html

▲△▽▼

アンドレイ・タルコフスキー 鏡
使われた音楽 バッハ「ヨハネ受難曲」
使われた意図 語ることによる受難


さて、今回取り上げる作品は前回に引き続きソ連の映画作家アンドレイ・タルコフスキー監督作品。

今回は「鏡」です。何でもタルコフスキー監督の中で一番「難解」な作品なんだそう。ただでさえ、「難解」と定評のある監督さんなのに・・・その中でも一番難解って・・・

この「鏡」という作品の最後のシーンで、バッハの「ヨハネ受難曲」が使われています。

実はマタイ受難曲も使われています。

タルコフスキー監督がマタイ受難曲を使った作品としては、彼にとっての最後の作品である「サクリファイス」や「ストーカー」もあり、これらについては以前に取り上げております。彼にとっても、色々と思い入れがあるんでしょうね。

しかし、この「鏡」では、マタイではなく、ヨハネ受難曲の方が目立つ使い方。だって最後のシーンでヨハネ受難曲が使われるわけですので、否応なしに注目することになる。

では何故に、この「鏡」ではタルコフスキー監督は、作品の最後という重要なシーンにおいて、お気に入りの「マタイ」ではなく、「ヨハネ」を使ったのでしょうか?


ちなみに、ここでこの「鏡」という作品のあらすじを・・・
と、行きたいところですが、ストーリーも何もあったものではありません。ダテに「タルコフスキーの中で一番に難解。」というレッテルを貼られているわけではないんですね。

タルコフスキーの記憶の中から様々なシーンが浮かび上がってくる・・・そのような構成です。


映画の中の様々なシーンの中で、作品の最後のシーンは、キリストの受難のイメージが特に顕著ですよね?

ご丁寧に十字架までかかっている。

おまけに主人公の母親(ご丁寧にマリーアという名前)が、2人の子供の手をつないで歩く。

映画での2人の子供は主人公とその妹のようです。


しかし、このとき観客はマリアとキリストとパプテスマのヨハネの組み合わせを連想します。

パプテスマのヨハネとイエス・キリストは親戚にあたります。

ヨハネのお母さんのエリザベツはイエスのお母さんのマリアと親戚で、お互いの妊娠中も一緒に暮らしていた間柄。よくいう言い方ですと、「生まれる前からの友達」ってヤツです。

だからマリアさんにしてみても、「親戚のヨハネちゃん」くらいの感じなんでしょう。

このマリアとキリストとパプテスマのヨハネの関係は、作品中ではレオナルド・ダ・ヴィンチの聖母子の絵で予告されています。

将来において、わが子に降りかかる受難をわかっているマリアが、赤子のキリストを抱きしめようとするシーンを描いた有名な絵です。

そこにはパプテスマのヨハネも描かれています。絵画を使うことによってラストシーンを予告し説明しているわけです。


あるいは、雪の中で主人公の少年に小鳥がとまるシーン。

このようなシーンは、キリストがヨハネから洗礼を受けた際に、鳩がキリストにとまったエピソードを思い出しますよね?

タルコフスキー監督の映画「鏡」において、母親マリアが自分の子供の手をつないで歩くラストシーンは、まさに「キリストとマリア」の「鏡」になっているわけです。


この「鏡」という作品は、実に多くの「鏡」となっている。

作品中では、主人公とその父親の間の共通性を強調しています。

主人公とその父親は「鏡」を挟んで向かい合っている状態。

似た容姿の妻。

本人は同じように芸術家。

同じように妻とは不和。


あるいは、レオナルド・ダ・ヴィンチだって、タルコフスキーにしてみれば、芸術家同士という「鏡」をはさんだ状態。いわば、同族意識ですね。

また、ダ・ヴィンチとタルコフスキーも母親の愛への渇望を共通して持っているといえるのでは?

そして、「始めに言葉ありき」の福音書のヨハネに対する同族意識もあるようです。

芸術家として「語る」こと。

そして「受難」。


「語ること」からの受難は、何も、ソ連の問題だけではありません。
いかなる政治体制でも起こっていることです。
だって本当の問題は為政者ではなく大衆なんですから。

それこそ、旧約聖書の時代から、「語った」人は、受難になったでしょ?

にもかかわらず芸術家は「語らないといけない。」存在である。つまり受難は不可避なんですね。


「語る」ことの難しさで、政治に関わることは、最初の方のシーンで出てきます。
主人公の母親が、「検閲に引っかかりそうな言葉を削除しそこなったかも?」と大慌てするシーンですね。


しかし、誰でもわかるシーンは映画の冒頭。

催眠術によって治った吃音者が「私は話すことができます!!」と喜ぶ冒頭。

そのシーンからは、「困難の中」から話すことの喜び・・・つまり芸術家として表現することの喜びが感じられますよね。


しかし、冒頭は「表現する喜び」ですが、ラストは受難のシーン。

「初めに言葉ありき。」のヨハネであり、芸術家肌のヨハネ。

この福音書のヨハネも、タルコフスキーにしてみれば、芸術家同士の同族と言えるわけです。


ヨハネ受難曲の流れる中、十字架を背景にマリアに手を引かれ進んでいく。
2000年前のキリストの受難も、タルコフスキーの受難の鏡といえそうです。

この「鏡」という作品。タルコフスキー監督の様々な自画像が展開されている作品といえそうです。

つまり様々な「鏡」に彩られているわけですね。タルコフスキー監督個人の「鏡」であるとともに、芸術家全般の「鏡」となっているわけです。


「語る」芸術家は「受難」は避けることができない。

神の意思は本人とは無関係にやってくる。


映画の中で数多く登場する草原の草が揺れるシーン・・・これは神がやってくる意味でしょう。


映画における主人公の父親は、神を意味している。

父親に抱かれること、それは神に召し上げられること。

これこそが芸術家誕生の瞬間であり、受難の始まりとなる。


小屋の炎上、原子爆弾、文化大革命、そしてマタイ受難曲の「そのとき大地が割れて・・・」というフレーズ・・・現在の世俗的安定の崩壊のイメージが顕著です。


だからこそ世界には芸術家の聖なるものが必要であり、芸術家は「語らなければならない」。


しかし、それは芸術家の受難につながっていくわけです。

「初めに言葉ありき」のヨハネで終了するこの映画、そのラストのシーンは「言葉ありき」ということで、最初のシーンの「私は話すことができます!」のシーンに回帰して行く・・・

芸術家の受難はかくも終わりなきものと言えそうです。
ttp://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/04-06/04-06-29.htm

▲△▽▼

1982年9月9日にチェントロ・パラティーノで開催された「映画泥棒ー国際的陰謀」会議で、タルコフスキーは自らの理念を披露した。
彼は『七人の侍』『少女ムシェット』『ナサリン』『夜』のクリップを映した。

彼に影響を及ぼしたのではなく、彼に最も決定的な印象を刻印した映画である。

以下は彼の話のあらましである。


アンドレイ・タルコフスキー:

「影響、何か流れ込んできたもの、すなわち相互活動の問題は複雑です。

映画は真空では存在しません。

つまり共に働く仲間がいて、その影響は避けられない。

それでは影響、流れ込んできたものとは何でしょうか。

自分の働く環境や共同する人々の選択は、芸術家にとって、レストランで料理を選ぶようなものです。

黒澤、溝口、ブレッソン、ブニュエル、ベルイマンそしてアントニオーニが私の仕事に与えた影響について申し上げますと、『模倣』という意味では何ら影響はありません。

つまり私の観点からは、そんなことは不可能です。

何故なら、模倣は映画の目指すものとは何ら関係ないからです。

自己を表現する自分の言語は自分で発見しなければならないのです。

ですから、私にとって、流れ込んできたものというのは、私が賛嘆し高く評価する人々と共にいるという意味なのです。」


「もしフレーミングやシークェンスに他の監督の反響があると気付いたら、そのシーンは避け修正するように努めています。

こんなことはめったに起きないのですが、『鏡』から例を引きましょう。

私は主人公が室内にいてその母が隣の部屋にいるフレームを採りました。

二女性のクロースアップです。

パノラマショットで、女が鏡を見ながらイヤリングをつけてみて、母もまた鏡を覗き込んでいます。

実際シーン全体は鏡に映ったかのように撮られています。

ところが、実は鏡は存在せずに、女性はキャメラを直に見ているだけなのです。

つまり鏡がある錯覚がある。

この類いのシーンはベルイマンにそっくりのものがありうると気が付きました。

けれども、やはり、そのままで、私の同僚ベルイマンに謝意を表明し、肯定する証として撮ることに決めました。


「このリストにドブジェンコも追加しなければなりませんが、これまでに挙げた監督がいなければ、映画は存在していないことでしょう。

誰もが自分のオリジナルの様式を当然探していますが、もしこれらの監督がコンテクストや背景を与えてくれなかったなら、映画はいわゆる同じ映画にはならないでしょう。

現在多くの映画作家が非常に厳しい時代を経験しているようです。

イタリアの映画は窮地に落ちています。

私のイタリアの同僚たちは、私は映画で最も名声のある監督の幾人かについて語っているわけですが、イタリア映画はもはや存在しないと言いました。

もちろん、映画の観客がこの主な原因です。

久しく映画は大衆の趣味を追ってきましたが、今や大衆はあるタイプの映画は見たくないのです。

実際なかなか良いものなのに、敬遠するのです。


「映画監督の範疇には基本的に二つあります。

一つは、自分が生きている世界の模倣を求める人々で出来ています。

もう一つは自己の世界の創造を求める人々で出来ています。

第2の範疇には幾多の映画詩人が含まれます。ブレッソン、ドブジェンコ、溝口、ベルイマン、ブニュエル、黒澤という映画史上最も大切な人たちです。

これらの映画作家の作品の配給は難しい。

その作品は作家の内的霊感を反映しているので、これが必ず大衆の趣味とぶつかるのです。

映画作家が観客に理解されたくないという意味ではありません。

そうではなくむしろ作家自身が観客の、観客も気付いていないような内的感情を捕らえ理解しようとしていると言った方がよいでしょう。


「映画の直面している現在の苦境にもかかわらず、映画は芸術形態であり続けます。

芸術形態の一つ一つが個別のもので、他の芸術形態の本質に含まれない内実を担っています。

例えば、写真は、カル ティエ=ブレッソンの天才が実証しているように、芸術形態になれますが、写真は絵画になぞらえることは出来ません。

何故ならば絵画と競合しているわけではないからです。

映画作家が自問しなければならない問いは、何が映画を他の芸術と区別するのか、ということです。

私にとって映画は時間の領域を包括する点で、他に見られない独創的なものです。

音楽や芝居やバレエのように、時間の中で生起するという意味ではありません。

文字どおりの意味での時間です。

フレームとか、「アクション」と「カット」の間のインターヴァルは一体何でしょうか。

映画は時間の観点で実在を固定します。

フィルムは時間を保持する手段なのです。

これほど時間を固定し停められる芸術形態は他にありません。

フィルムは時間で出来たモザイクです。

そのためにはもろもろの要素を集約する必要があります。

3、4人の監督やカメラマンが1時間同じものを撮影したと想像して下さい。

一人一人独自の映像になるはずです。

結局出来上がるのは、3つか4つ全く異なるタイプのフィルムです。

なぜなら、一人一人がこれは捨て、あれは残してと選択して自分のフィルムを作るからです。

そうして、映画に関わる時間を固定する作業をしているにもかかわらず、監督は必ず自分のマテリアルを磨いて、それを通して自己の創造力を表現出来るのです。


「美意識の観点から言いますと、映画は今ひどい時代にあります。

カラーで撮影するのが、可能な限り実在に迫る手段だと考えられているのですから。

私はカラーは袋小路だと思っています。

あらゆる芸術形態は真理に到達して、一般化した形態を得るために苦闘しています。

色彩を使うのは人が実在世界をどのように知覚するのかと関係しています。

カラーであるシーンを撮影するのは、必然的に、フレームを有機的に構成し、このフレームに囲まれた世界の総ては色彩の中にあり、しかも観客にこの事実を自覚させねばならないという事なのです。

モノクロの利点は、その表現力が強烈で、観客の関心を脇にそらさないということです。


「カラー映画にもすぐれた表現様式の例があります。
でも今述べた問題に気付いている監督のたいていは、必ず白黒で撮影する努力をしています。

誰も、カラーフィルムで新しいパースペクティブを創造したり、白黒ほど効果的パースペクティブを作り出すのに成功したためしはないんです。

イタリア・ネオリアリズムが重要なのは、日常生活を掘り下げることによって映画に新境地を開いたという事実からだけではなくて、本質的に言うと、モノクロームでその探求がされたからでもあるのです。

人生の真理は必ずしも芸術の真理に照応していません。

だから今やカラーフィルムは純粋に商業的現象になりさがったのです。

映画は色彩を通して新たなヴィジョンを創造しようとする時代を通って来ましたが、結果は不毛です。

映画は体裁ばかり飾るものになってしまいました。

つまり、私が今見ているような映画は全然立場の違う人には全く違ったものになっているのです。


今ご覧に入れている映画のクリップは、私の心に一番近しいものを表象しています。

ある思考形態の実例であり、この思考がどのようにフィルムを通して表現されるかの実例です。


ブレッソンの『少女ムシェット』で少女が自殺を図るその様子は特に驚異的です。


『七人の侍』の一番若い侍が怖じけづくシークェンスで、黒澤がこの恐怖感をどうやって伝えているでしょう。

若者は草むらで震えていますが、身震いしている姿は目に見えません。

草むらと花々が震えている、揺れているんです。

ここは雨中の決戦です。

三船敏郎演ずる菊千代が死ぬとき、倒れた彼のその脚は泥に埋もれてします。

こうして私たちの目の真ん前で菊千代は死んでしまいます。


ブニュエルの『ナサリン』の、傷付いた娼婦がナサリンに助けられて、椀から水を飲む姿です。

アントニオーニの『夜』の最後のシークェンスは映画史上、ラブシーンが必然となり精神的行為の似姿を取った唯一のエピソードかもしれません。

肉体が相手の近くにあるのが大きな意味を秘めた独創的なシークェンスです。

2人ともお互いに対する感情は涸れ果てているのに、それでも相手の身近にいるのです。

ある友人が昔こう言いました。

夫と5年以上もいるなんてまるで近親相姦よ。

2人がお互いの近くから逃れる出口はありません。

お互いがまるで死に瀕しているかのように、死に物狂いで相手を救おうとしている姿です。


「撮影を始めるときは必ず、『私の仲間』と思っている監督のフィルムを見ます。

模倣するためではなく、彼らの醸し出す雰囲気を味わうためにです。

今お見せしているクリップがみんなモノクロームなのも偶然ではありません。

監督が自分に身近なものを何か掛け替えのないものに変容しているからこそ、これらは重要なのです。

しかもこれらのシーンは日常生活の出来事とは似ていないという点で独創的です。

ここには偉大な芸術家の刻印があり、私たちに彼らの内世界を垣間見せてくれるのです。

これらのシーンの総てが、娯楽を与えるよりはむしろ美を保持することによって、観客の欲求に応じるのです。

今日この種の主題を扱うのは困難を極めています。

そんな話をするのすらほとんど馬鹿げていると言えます。

誰もそんなものにはびた一文払わないでしょう。

でも映画が存在し続けているのは、これらの詩人たちのお陰なのです。


「映画を作るには金が必要です。

詩を書くのに必要なのはペンと紙だけです。

これが映画の不利なところです。

でも映画は屈さないと私は思います。

万難を排して自己の映画を実現する努力をする監督全員に、私は頭を垂れます。

実例としてクリップをご覧戴いた映画は皆、固有のリズムを持っています

(最近は、たいていの監督が快速で短いシーンを使い、カッティングとスピードのある監督こそ本当のプロだと思われています)。

真の監督なら誰でもその目的は、真理を表現することなのですが、そんなのはプロデューサーの知ったことでしょうか。

1940年代にアメリカでストレスのかかる職業をランク付けする調査がありました。

広島に原爆が投下された時代ですから、パイロットが1位を占めました。

2位が映画監督です。監督になるのはほとんど自殺行為というわけです。


「私はヴェネチアから帰ったばかりです。

そこの映画祭の審査員をしたので、現在の映画の完全な退廃を証言出来ます。

ヴェネチア映画祭は悲惨この上ないものだった。

ファスビンダーの『ケレル』のような映画を理解し是認するには、まるっきり異なる類いの精神性が必要だと、私は信じます。

明らかに、マルセル・カルネは私よりずっとそれを是認していましたが。

私は、それは反芸術的現象の現れだと思います。

その関心は、社会学的で性的な問題にすぎない。

ただファスビンダーの最後の作品だというだけで、あの映画が受賞するのは恐ろしく不当なことではないでしょうか。

ファスビンダーは『ケレル』よりずっと良い映画を作っているはずです。

けれども、映画の現在の危機は重要ではありません。

なぜなら芸術は絶えず危機の時代を通り過ぎてはそこで復活するからです。
ただ映画が作れないからと言って、映画が死んだということにはならないのです。


「最良の映画は、音楽と詩のはざまにあります。

映画はどんな芸術形態にも比肩する高いレベルに到達しています。

芸術形態として自らの姿を具体化しています。

アントニオーニの『情事』は随分昔の映画ですが、今日作られたばかりという印象を与えます。

本当に奇跡的な映画で、ちっとも古ぼけていません。

まあ今日作られるような類いの映画ではないかもしれませんが、それでもとても新鮮です。

イタリア人の同僚たちはとても悪い時代にいます。

ネオリアリズムも偉大な監督たちも去ってしまったように見えるし、プロデューサーはドラッグの売人みたいなもんですから。

金儲けだけを考えているんですが、長続きはしないでしょう。

イタリアで上映されている『ソラリス』は私の映画ではないと言いたいです。

もその配給会社はもう潰れてしまいました。たいていの配給会社の運命じゃないですか。」
ttp://homepage.mac.com/satokk/at_in_italy.html



▲△▽▼
アンドレイ・ タルコフスキーは、ヴォルガ川近郊のザブラジェで1932年4月4日、アルセニー・タルコフスキーとマリア・イワノヴナ・ヴィシニャコーワの息子として生まれた。

父は詩人で、その詩作によって後年にはかなりの名声を獲得することになる。

両親はモスクワの文学大学に学ぶ。

タルコフスキーが生まれた村は、もはや存在しない。

ダムがその地域に建設されて、人工湖の水底に眠っているのだ。

しかし、タルコフスキーが子ども時代を過ごした場所とそのイメージは、彼に消えることのない影響を及ぼし、作品に深甚な影響を残すこととなった。

一家がモスクワ郊外に引っ越した1935年には、父母の間の関係にひずみが見えはじめ、やがて、2人の離婚と、父の出奔を招くことになった。

アンドレイは、母、祖母、及び妹の家族構成、つまり男手のない家庭で成長した。

1939年に彼はモスクワの学校に入学したが、後に戦時中の疎開でヴォルガ河畔の親類の元に移った。

戦争の勃発で、父は兵役に志願、負傷して片脚をなくすことになる。

一家は、1943年にモスクワに戻った。

そこで、タルコフスキーの母は、印刷所の校正係として働いた。

戦時の年月は、少年の心に2つの大きな懸念が重くのしかかる日々であった。

死なずにすむだろうか? そして父は前線から無事に帰ってくるのだろうか? 

しかしながら、アルセニー・タルコフスキーがやっと戻ったとき、赤い星の勲章で顕彰されていたが、彼が家族の元に戻ることはなかった。


息子が芸術分野の仕事を見つけることを、タルコフスキーの母は一貫して望んでいた。

芸術の価値に対する彼女の信念は、彼が正式に授けられた教育に反映されている。

音楽学校、後には、美術学校に学んだタルコフスキーは、自分の映画監督の仕事はこうした訓練がなければ到底考えられないと、後年になって述懐している。

1951年から、彼は東洋言語大学で学んでいる。

これらの勉学は、しかしながら、スポーツによる負傷によって終わりを告げ、タルコフスキーは、シベリアへの地質調査団に加わり、そこでほぼ1年の間滞在し、ドローイングとスケッチのシリーズを製作した。

1954年に、この旅から戻った時、彼は、モスクワ映画学校 ( VGIK )に首尾よく合格し、ミハイル・ロンムの元で学ぶことになる。


タルコフスキーの商業映画第1作『僕の村は戦場だった』 (1962年)は、きわめて見通しの悪い状況で生まれた作品であった。

この映画は、E・アバロフ監督で撮影が開始されていたが、撮影されたシークェンスの質が不良なので中止されたプロジェクトだった。

後に、やはり映画を救済しようという決定がなされて、タルコフスキーがその完成の責任を負った。

こんな状況であのような情緒的なインパクトをもつ作品を創造できたという事実は、映画監督としての彼の力量とヴィジョンの強さを証言するものである。

彼のものでない素材が混ざっているにもかかわらず、このフィルムは彼の子供といってもいいだろう。そして、彼のスタイルの紛れもない刻印を帯びている。

大人に早くならざるをえなかった幼い少年、最後には戦争によって殺された少年の運命を描いている。

タルコフスキーは、自身の子ども時代とイワンの子ども時代との見かけの平行関係を否定して、両者の共通点は年齢と戦争という状況にすぎないと述べている。

映画は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、タルコフスキーの国際的な名声を一気に確立させた。


『鏡』 ( 1974ー75年)は、自伝的な要素を強くもち、親密な幻視の強度を有している。

伝えられるところでは、映画には実話でないエピソードが全くない。

それゆえに、『鏡』はタルコフスキーの最も個人的な作品であり、特にロシアでは、(その主観主義のために)厳しい批判にさらされることになった。

しかしながら、幼年期を描出するその驚異的な手法と、子どもの、魔法のような世界観は、タルコフスキーの全作品に横溢する暗示的な技法を理解する鍵を我々に提供している。
http://homepage.mac.com/satokk/petergreen.html
3. 2022年5月16日 09:56:11 : C6PUscOcec : VHcuTXBHTXZJY2s=[9] 報告
▲△▽▼
『僕の村は戦場だった』戦争を「沼」で描くタルコフスキー
Wed, February 17, 2021
https://ameblo.jp/madamezelda/entry-12656412114.html
戦争映画はアクション映画。全てがその図式にあてはまるわけじゃありませんが、戦争映画ファンの多くが期待するのはそこじゃないでしょうか。戦闘機に戦車、兵器、軍装!それぞれの出来栄えを論評するのもお楽しみのひとつでしょう。

しかしタルコフスキーは、そんな戦争映画ファンの期待にこたえてくれるほど甘くはありません(笑) 『惑星ソラリス』が世界三大SFの1つに数えられながら、宇宙らしい絵ヅラのシーンは殆どなくて、「SF??」な作品であるように、『僕の村は戦場だった』も、アクション要素は皆無。軍用車両と言えばジープくらい、戦闘機も飛ばず、地上戦の映像もありません。

宇宙が舞台であろうが、戦争の時代であろうが、タルコフスキーが描くのはいつも同じ、人間の内面にある心象風景。「写真」よりも「絵」に近い、一旦タルコフスキーの中をくぐりぬけたイメージです。

本来他人には見えないはずの心の世界を映像詩として現出させるのがタルコフスキーであり、それが彼の作品が常に唯一無二である理由。だから、戦車や機関銃のディテールのような三次元的リアリティは、タルコフスキーの映画には不要。それどころか、世界観を損ねるものですらあるのかもしれません。

母が殺された時、少年の心も死んだ(ネタバレ)
冒頭、美しい夏の森で、少年(イワン)が楽し気に戯れています。

そこに水桶を抱えた母親(イルマ・ラウシュ:当時のタルコフスキーの妻)が現れ、少年は嬉しそうに駆け寄って、母の水桶から思う存分に水を飲みます。

「ママ、郭公が鳴いてるね!」

水桶から顔を上げて母を見上げる少年の笑顔! 母がいて、母が汲んだおいしい井戸水があって、森の木々がそよぎ、野生の鳥が鳴いている。それが少年の欲しいもの全て。喉を潤した彼は満ち足りて幸せそうです。

しかし次の瞬間、母を異変が襲います。地面に倒れる母。少年の叫び声・・・何が起きたのかは分からない、ただ、少年の母親が命を奪われたという事実だけが伝わります。

そして場面が変わり、舞台は闇に包まれた戦場へ。照明弾の光が不気味に閃く川の対岸の敵地から戻ってきたのは、冒頭の少年・イワン。ずぶ濡れの体で歩いているところを味方の兵士に怪しまれ、尋問されます。

この場面で、観客はイワンの変貌ぶりに驚かされることになります。

さっき母親に甘えていた無邪気な少年と同じ少年とは思えないほどやつれ、子供らしさが消えた彼の顔。もはや戦い以外の生きる目的をすべて削ぎ落してしまったような、ある種老成しきった少年の佇まいに、何か鳩尾がひんやりするような感覚をおぼえます。

尋問する将校が、

「俺に、命令する気か!」

と怒り出すほど淡々とした横柄な口調で、司令部に連絡すればわかる、連絡しないと責任問題になるぞ、と繰り返すイワン。彼が連絡先として伝えた電話番号は、将校が普段かけることを許されていない番号。しかしイワンに脅されて連絡をした結果、ポーリンという大尉が車でイワンを迎えにやってきます。イワンの話は本当でした。

大尉の姿を見て、

「ポーリン!」

と抱きつき、何度もキスを交わすイワン。イワンはいわゆる「連隊の子供」。自ら申し出て司令部の斥候として働いていたのです。

イワンは司令部の面々に可愛がられていて、彼らはイワンの安全のために幼年学校に入学手続きをしますが、イワンは頑なにそれを拒否し、復讐のために前線で戦うことを選びます。

どうやら母親だけでなく妹も殺され、父親は戦死したらしいイワン。母親や妹がいた幸福な時代の夢ばかり見る彼にとって、家族をうしなった世界で生きる意味もないのかもしれません。

或る日、いつものように偵察に出て、そのまま戻らなかったイワン。戦後、ポーリンはイワンの消息を最悪の形で知ることになります。

原作はウラジーミル・ボゴモーロフの小説。

タルコフスキーは戦場も平和も命も、水で表現する


(これは平和な時代。水辺で妹と追いかけっこをする少年イワン)

卒業制作の『ローラーとバイオリン』(1961年)から一貫して、水を演出に取り入れているタルコフスキー。長編デビュー作となった1962年の本作でも、それは変わりません。

彼の描く戦場は、美しい白樺が林立する沼地や、対岸に敵陣がある川辺。敵は姿を現さないものの、身を隠す場所のない川面をボートで敵陣側へと渡る危険、いつ泥に足をとられるかもわからない冷たい沼地を照明弾の光に怯えながら前進する困難、そういう形でタルコフスキーは戦場の厳しさ・命の瀬戸際を表現しています。

さらに言えば、本作の中での水は、命そのもののシンボルでもあります。

少年イワンが母親の夢を見る時、母はいつも井戸水を汲んでいます。イワンを夢から目覚めさせるのは、母が倒れ、井戸水がこぼれる瞬間。母親の命の理不尽な蹂躙が、こぼれた水で表現されているんです。

その井戸は、イワンと家族にとって命の井戸だった。母との思い出もそこには詰まっていました。美しい母と、母が汲んでくれるおいしい井戸水がある幸福な日々の夢は、それをすべて失った今のイワンの心の空洞を、否が応でも見せつけてきます。

彼はその空洞を復讐心で埋め尽くした。まだあどけない少年の中に漲る憎悪は痛々しく、そのまま戦争の悲惨さとして胸に迫ります。

逆光の十字架の不吉さ


「水」に加えて本作で巧みに使われているのが逆光の効果。

独軍の爆撃を受け、無残に傾いた教会の屋根の十字架を、タルコフスキーは逆光の中で黒く浮き上がらせます。爆撃シーンに実際の爆撃映像はなく、そこは爆撃音だけで流すのですが、爆撃機が去った後の焼け野原に焼け残った十字架を逆光が照らすこの映像だけで、戦争の禍々しさ、悲惨さが映像から噴き出してくるようです。

絵画による伏線


(デューラーの『ヨハネの黙示録の四騎士』。左下が死の騎士)

名画も、タルコフスキーが作品内で多用するアイテムの1つですよね。

『惑星ソラリス』にはブリューゲルの『雪中の狩人』が、『鏡』にはダ・ヴィンチの画集をめくる場面が、『ノスタルジア』にはピエロ・デッラ・フランチェスカの『出産の聖母』が、といった具合い。そこには深い意味が込められているようでもあり、単にタルコフスキー自身の記憶の一片のように見えることもある・・・ただ、タルコフスキーがそれらの名画に対して特定の強いイメージを抱いていたことは間違いない気がします。

もっとも本作では、とても分かりやすい意図をもってデューラーの『ヨハネの黙示録の四騎士』が使われています。

イワンが基地にあるわずかな本の中から見つけ出したデューラーの版画集。独軍からの戦利品らしいその画集をめぐりながら、イワンは『ヨハネの黙示録の四騎士』に目を留め、中でも「死」の化身である老騎士に興味を抱きます。

「この男に似たドイツ兵を見たことがある」

まさか! こんな骨と皮の老人が戦場に?と思ってしまうのですが、敵味方誰もが死相をひっさげ、殺意をギラギラさせながらうろついている戦場のこと、「死の騎士」に似ている男がいたとしてもおかしくはありません。

この「死の騎士と出会った」というイワンの言葉は、彼の辿る運命の伏線でもあります。

美少年と大人の友情


それにしても本作で少年イワンを演じているニコライ・ブルリャーエフの美少年ぶり!

タルコフスキーの作品には殆どの作品で少年が登場しますが、その中でも自らの意思を持って行動し、観客を共感の渦に巻き込む吸引力では、イワンがダントツ。彼がとびきりの美少年であることも、その吸引力の源泉になっていることは間違いないでしょう。

タルコフスキーはニコライ・ブルリャーノフを次作『アンドレイ・ルブリョフ』(1966年)でも起用しています。お気に入りだったのかもしれないですね。

面白いことに、『ローラーとバイオリン』でも本作でも、タルコフスキーは青年と少年の友情を描いています。しかも、その男同士の友情と対比するかのように、男女の恋愛も描かれているのですが、どちらのケースも男女の恋愛は浅いものとしてしか描かれていません。

本作の中で、イワンをとてもかわいがっているポーリン大尉が、女性の看護中尉・マーシャを森に誘い出し、誘惑しようとする場面があります。

ただ、マーシャのほうがその気になろうとすると、ポーリンのほうは引いてしまいます。どうやらポーリンは、マーシャに気があるらしい将校にちょっと嫌がらせをしたかった風情。本気で彼女と付き合う気持ちはなかったようです。

初期のタルコフスキーの作品には、恋に恋する女心に対する嫌悪感のようなものが感じられる気がするのは気のせいでしょうか? 逆に、男同士の友情、それも年長の男性が少年を対等の存在として尊ぶ関係性に美しさを見出していた。

タルコフスキーの父親は、家族を捨てて別の女性と生活していたようですが、父に対する思い、父を奪った女性への思いも、彼がこういう構図にこだわった背景の1つなのかもしれません。

タルコフスキー的美意識から乖離したゲッベルス一家の遺体
戦闘機も戦車も使わず、戦争のリアリティーを映像に持ち込むことを嫌ったかのように見えた本作ですが、終盤突如様相が変わります。

というのは、本作にはベルリンが陥落して独ソ戦が終結した後の描写があり、そこで自決したナチ幹部の遺体を写した映像が挿入されているのです。その中にはゲッベルス夫妻と幼い6人の子供たちの遺体もあります。

タルコフスキーは後年『鏡』でも戦時中の記録映像を挿入していますが、そこで映し出されているのは、広大な沼地(ここでも「水」!)を、兵士たちが筏に乗せた戦車を押しながら行進していく様子。戦闘や人の死を映し出すものではありませんでした。

本作が作られた1962年は冷戦の真っただ中。ソ連を代表して国際映画祭に参加した本作に、当局の息がかかっていないはずはない。当局の指示でこうなったのか、タルコフスキー自身が敢えてそれをしたのか、たしかなことは言えませんが、それまでのテイストとは打って変わって、突如映像に生々しさが注ぎ込まれる違和感からみても、前者だったのではないかという推測もあながち間違いではないのかもしれません。

クライマックスは爆撃ですっかり破壊されたナチの収容所。残された書類によって、そこで連合国側の捕虜の処刑が行われていたことが判明します。

ジュネーブ条約はどこへ行った?という話ですが、同時に、「カティンの森は・・・」とつい言いたくなってしまう。

このあたり、冷戦時代の西の教育を受けた私としては、どうしても違和感を持ってしまうんですよね。それもまた一種のバイアスなのですが。

結局、両者同じことをしていた。

戦争になったらルールは無意味になってしまう。子供の無邪気さも、命も奪ってしまう。

戦争だけは、嫌ですね。
https://ameblo.jp/madamezelda/entry-12656412114.html
メンテ

Page: 1 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

題名 スレッドをトップへソート
名前  「名前#任意の文字列」でトリップ生成
E-Mail 入力すると メールを送信する からメールを受け取れます(アドレス非表示)
URL
パスワード ご自分の投稿文の編集、削除の際必要です。面倒でしょうが入力をお勧めします。
投稿キー (投稿時 投稿キー を入力してください)
コメント

   クッキー保存