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[3495] タルコフスキー 映画『僕の村は戦場だった 1962年』
日時: 2022/05/15 06:33
名前: スメラ尊 ID:QhNEiVps

タルコフスキー 映画『僕の村は戦場だった 1962年』

動画(英語字幕)
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%98%D0%B2%D0%B0%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%BE+%D0%B4%D0%B5%D1%82%D1%81%D1%82%D0%B2%D0%BE&sp=mAEB


監督 アンドレイ・タルコフスキー
原作 ウラジミール・ボゴモーロフ
脚本 ウラジミール・ボゴモーロフ ミハイル・パパーワ
音楽 ヴァチェスラフ・オフチンニコフ
撮影 ワジーム・ユーソフ
公開 1962年4月6日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%95%E3%81%AE%E6%9D%91%E3%81%AF%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F

キャスト

Ivan コーリヤ・ブルリヤーエフ
Kholin V・ズブコフ
Galystev E・ジャリコフ
Katasonov S・クルイロフ
Gryaznov N. Grinyko
Maska V. Maryavina
Ivan's Mother I. Tarkovskaya
The Oldman D. Milyucheko


映画のストーリー

イワン(コーリヤ・ブルリヤーエフ)がいまも夢にみた美しい故郷の村は戦火に踏みにじられ、母親は行方不明、国境警備隊員だった父親も戦死してしまった。

一人とり残された十二歳のイワンが、危険を冒して敵陣に潜入し少年斥候として友軍に協力しているのも、自分の肉親を奪ったナチ・ドイツ軍への憎悪からであった。

司令部のグリヤズノフ中佐、ホーリン大尉、古参兵のカタソーノフの三人が、イワンのいわば親代りだ。グリヤズノフ達はイワンをこれ以上危険な仕事に就かせておくことはできない……これが、少年を愛する大人たちの結論だった。しかし、イワンはそれを聞くと頑として幼年学校行きを拒否した。憎い敵を撃滅して戦いに勝たねば……やむなくイワンをガリツェフ(E・ジャリコフ)の隊におくことにした。

ドイツ軍に対する総攻撃は準備されていたがそのためには、対岸の情勢を探ることが絶対必要であった。出発の日、カタソーノフはざん壕から身をのり出し敵弾に倒れてしまった。執拗に彼の不在の理由をきくイワンにはその死は固く秘されホーリン、ガリツェフの三人は小舟で闇の中を対岸へ。

二人が少年と別れる時がきた。再会を約して少年は死の危険地帯の中に勇躍、進んで行く。その小さな後姿がイワンの最後だった。終戦。ソビエトは勝った。が、そのためには何と大きな犠牲を払われねばならなかったか……。

かつてのナチの司令部。見るかげもなく破壊された建物の中に、ソビエト軍捕虜の処刑記録が残っていた。その記録を一枚一枚調べるガリツェフ。あった。イワンの写真が貼りつけられた記録カードが。戦争さえなかったらイワンには平和な村の毎日だった筈なのに……。
https://movie.walkerplus.com/mv13198/

 
▲△▽▼

僕の村は戦場だった

噂には聞いていましたが、これほどまでの傑作とは思いませんでした。すばらしい映画でした。

タルコフスキーならではの詩的な映像と、独ソ戦争の悲劇を現実的にとらえた対照的な映像が見事にコラボレートして、一歩間違うとおとぎ話のような陶酔感の中で迎える衝撃的なラストにうなってしまいました。


一人の半裸の少年が森にたたずんでいます。

蝶が舞い、その蝶を視線が追いかけるとカメラが蝶の視線のごとくふわっと舞い上がります。

ショットは変わって少年の前に一人の母親らしき女性。

うれしそうに駆け寄る少年。

次の瞬間、ぼろ小屋で飛び起きる少年。

実はこの少年はソ連側からドイツに潜入して情報を探るゲリラ兵なのです。ショッキングなオープニングに一気に引き込まれます。


湿地の中を必死で駆け抜けてソ連領に舞い戻ったところから本編が始まります。


戦場の場面がリアルに生々しく語られる現実と、少年が夢見るときにみる平和な頃の詩情あふれる映像の対比が実に効果的で、本当に美しい。

湿地の中を進む場面で水面に映る照明弾の光の動きの中で船をこいでいくショット、

少年が夢の中でみる母親が井戸の外で倒れたところに降りかかる井戸水のショット、

あるいは少年が愛らしい少女とリンゴを積んだトラックに乗っていく中で、リンゴが道にこぼれだし、馬が拾い食いするショット

などタルコフスキーならではのファンタジックな映像もふんだんに盛り込まれています。


すでに両親の行方もわからない少年イワンの親代わりは戦場の3人の兵士たちだった。そして、冒頭のゲリラ斥候を終えたイワンにその兵士は幼年学校へ行くように勧める。

しかし、それに反対し、再度斥候にでる。無事ソ連領に送り届けた兵士たち、しかしまもなく戦争は終結。

ドイツの収容所を制圧した兵士たちがそこでみたのはドイツ軍が捕まえたソ連からの斥候たちの処刑のリストファイルだった、そしてそこにはイワンの名が・・・・


処刑される寸前に見たであろうイワンの幻想は愛くるしい少女と一緒に浜辺を駆け抜ける場面でした。

タルコフスキーならではの映像美の世界とサスペンス色あふれるストーリー展開、そして悲劇的なラストに見せる切ない現実への警告。完成度の高い見事な作品でした。
http://d.hatena.ne.jp/kurawan/20100510


▲△▽▼

19 :無名画座@リバイバル上映中:2006/02/25(土) 18:52:48 ID:nrY8uN4r

原作は「イワンの少年時代」というタイトルですよね。

でも何だか皮肉な題だなあ。少年時代を少年のまま過ごすことも叶わず、
戦争によって踏みにじられ、大人にならざるをえなかったイワン。

回想シーンがあどけない笑顔を浮かべてたのに、現実のシーンでは微笑を忘れた
一切感情を押し殺した表情をしてたのが余計に哀しい。


25 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 10:25:13 ID:za8+WElc
もし、記憶違いなら悪いけど少年のお母さんが腋毛生やしてたような・・・


26 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 14:54:33 ID:pWzQBXUM
おっ、いいところに目をつけましたね。なかなか目ざといですな。
あのお母さんはどうも色っぽすぎていかんです、ハイ。

28 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 21:33:09 ID:BSZv+BGP
いや、ほんとに。
少年の回想シーンとは思えないほど肉感的ですね。


『鏡』を観ててもそう思うんですが、

どうもタルコフスキーにとって母親というのは
そういう肉感的な存在としてイメージされるみたいです。


29 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/10(金) 21:02:41 ID:G7Eo1+60

母親役はイリーナ・タルコフスカヤ。


30 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/11(土) 13:38:57 ID:UEITlvEh

おそらくイリーナ・タルコフスカヤさんは監督の最初の奥さんではないかと。
(同姓同名でなければ、イリーナという奥さんがいたはず)


38 :無名画座@リバイバル上映中:2006/05/12(金) 17:13:15 ID:9534X0Wy
浜辺で母が手を振って立ち去ろうとするところ恐いぐらい。


48 :無名画座@リバイバル上映中:2006/09/03(日) 23:38:29 ID:VbWH5bGO
ラストの水はすごかった
http://mimizun.com/log/2ch/kinema/1139048950/


▲△▽▼


アンドレイ・ タルコフスキーは、ヴォルガ川近郊のザブラジェで1932年4月4日、アルセニー・タルコフスキーとマリア・イワノヴナ・ヴィシニャコーワの息子として生まれた。

父は詩人で、その詩作によって後年にはかなりの名声を獲得することになる。

両親はモスクワの文学大学に学ぶ。

タルコフスキーが生まれた村は、もはや存在しない。

ダムがその地域に建設されて、人工湖の水底に眠っているのだ。

しかし、タルコフスキーが子ども時代を過ごした場所とそのイメージは、彼に消えることのない影響を及ぼし、作品に深甚な影響を残すこととなった。

一家がモスクワ郊外に引っ越した1935年には、父母の間の関係にひずみが見えはじめ、やがて、2人の離婚と、父の出奔を招くことになった。

アンドレイは、母、祖母、及び妹の家族構成、つまり男手のない家庭で成長した。

1939年に彼はモスクワの学校に入学したが、後に戦時中の疎開でヴォルガ河畔の親類の元に移った。

戦争の勃発で、父は兵役に志願、負傷して片脚をなくすことになる。

一家は、1943年にモスクワに戻った。

そこで、タルコフスキーの母は、印刷所の校正係として働いた。

戦時の年月は、少年の心に2つの大きな懸念が重くのしかかる日々であった。

死なずにすむだろうか? そして父は前線から無事に帰ってくるのだろうか? 

しかしながら、アルセニー・タルコフスキーがやっと戻ったとき、赤い星の勲章で顕彰されていたが、彼が家族の元に戻ることはなかった。


息子が芸術分野の仕事を見つけることを、タルコフスキーの母は一貫して望んでいた。

芸術の価値に対する彼女の信念は、彼が正式に授けられた教育に反映されている。

音楽学校、後には、美術学校に学んだタルコフスキーは、自分の映画監督の仕事はこうした訓練がなければ到底考えられないと、後年になって述懐している。

1951年から、彼は東洋言語大学で学んでいる。

これらの勉学は、しかしながら、スポーツによる負傷によって終わりを告げ、タルコフスキーは、シベリアへの地質調査団に加わり、そこでほぼ1年の間滞在し、ドローイングとスケッチのシリーズを製作した。

1954年に、この旅から戻った時、彼は、モスクワ映画学校 ( VGIK )に首尾よく合格し、ミハイル・ロンムの元で学ぶことになる。


タルコフスキーの商業映画第1作『僕の村は戦場だった』 (1962年)は、きわめて見通しの悪い状況で生まれた作品であった。

この映画は、E・アバロフ監督で撮影が開始されていたが、撮影されたシークェンスの質が不良なので中止されたプロジェクトだった。

後に、やはり映画を救済しようという決定がなされて、タルコフスキーがその完成の責任を負った。

こんな状況であのような情緒的なインパクトをもつ作品を創造できたという事実は、映画監督としての彼の力量とヴィジョンの強さを証言するものである。

彼のものでない素材が混ざっているにもかかわらず、このフィルムは彼の子供といってもいいだろう。そして、彼のスタイルの紛れもない刻印を帯びている。

大人に早くならざるをえなかった幼い少年、最後には戦争によって殺された少年の運命を描いている。

タルコフスキーは、自身の子ども時代とイワンの子ども時代との見かけの平行関係を否定して、両者の共通点は年齢と戦争という状況にすぎないと述べている。

映画は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、タルコフスキーの国際的な名声を一気に確立させた。


『鏡』 ( 1974ー75年)は、自伝的な要素を強くもち、親密な幻視の強度を有している。

伝えられるところでは、映画には実話でないエピソードが全くない。

それゆえに、『鏡』はタルコフスキーの最も個人的な作品であり、特にロシアでは、(その主観主義のために)厳しい批判にさらされることになった。

しかしながら、幼年期を描出するその驚異的な手法と、子どもの、魔法のような世界観は、タルコフスキーの全作品に横溢する暗示的な技法を理解する鍵を我々に提供している。
ttp://homepage.mac.com/satokk/petergreen.html
メンテ

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タルコフスキー 映画『ノスタルジア 1983年』 ( No.5 )
日時: 2022/05/17 05:25
名前: スメラ尊 ID:Gjda1JhU

タルコフスキー 映画『ノスタルジア 1983年』

動画
https://www.nicovideo.jp/search/Nostalghia%E3%80%80%EF%BC%8F%EF%BC%96?ref=watch_html5


サンガルガノ大聖堂の廃墟 

 アンドレイ・タルコフスキーの映画はすべてすばらしい映画的光景を映し出している。

『僕の村は戦場だった』はテーマの重さと拮抗するような映像のリリシズムがあった。

『惑星ソラリス』も突出したSF?映画だった。

東京の首都高速が未来都市のイメージとして活用されていることで話題になったが、むしろ、その後のタルコフスキーに頻出するブリューゲルとバッハの融合が印象に残る。

『ストーカー』も晦渋な映画だが、水のイメージがじつに美しい。

そしてタルコフスキー的な映像というてんでは、なかでも、『鏡』と『ノスタルジア』が秀逸だと思う。

 『ノスタルジア』は、イタリアが舞台だ。

ロシアから亡命してきた詩人(アンドレイ・タルコフスキーそのものだ)が、創作の自由のためにはロシアから離れねばならず、しかしその創作の源泉である故郷の原風景やロシアの大地から切り離されることによって生じる心理的葛藤(それをノスタルジアという)に苦しむ姿を美しい映像で描いている。

 ノスタルジアのラストに、ある廃墟の寺院が出てくる。

それがサンガルガノ寺院である

 私は、映画に導かれてこの寺院を訪問した。1993年のことである。


 資料として『タルコフスキーatワーク』(芳賀書店)の「ノスタルジアへの旅」(鴻英良)をみた。彼はノスタルジアのロケ現地をめぐる旅にでかけ、詳細にその発見を記している。

それによると、タルコフスキーの撮影チームは、ラストシーンをサンガルガノで、印象的な地下の聖母のシーンをトゥスカニアで撮影したことになっている。

私は、仕事でローマを訪れたさいに、フィレンツェに移動し、そこでレンタカーをして、トスカナ地方をドライブしてローマに戻る計画をたてた時、ぜひともこのサンガルガノの廃墟とトゥスカニアを訪れてみたいと思った(まぎらわしいが、トゥスカニアは、トスカナ地方にはない。ここもじつに素晴らしいところだった。町にはホテルが一軒しかなかったが、ここが素晴らしかった。)


(トゥスカニア全景と地下の聖母が撮影された場所)


 トスカナ地方をドライブしはじめると、すぐさま人生の至福につつまれるような感慨を味わった。

こんな素晴らしいドライブはそうはない。

フィレンツェもすばらしいが、サンジミニャーノ、シエナ、ペルージャ、アッシジといった小さな町々が途方もなく素晴らしい。

しかしサンガルガノは探し出しにくかった。

さきの鴻英良氏もサンガルガノへ行くのにはたいへん苦労している。
彼はレンタカーでなく電車をつかっていたのだ。

シエナから行くのだが、観光地ではないため、何もない田園のなかを迷いながら運転してたどりつくほかはない。

 うつくしいトスカナの田園のなかに、それはあった。

 夏のあいだには、臨時の売店なども開かれているから、訪れる人は案外少なくはないのかもしれない。絵はがきやカレンダーなども売っていた。

 サンガルガノがどういうものかは、次の写真をみてほしい。


 サンガルガノ大聖堂(廃墟)


 イタリアのガイドブックや、ミシュランの緑には、きちんとサンガルガノが紹介されている(小さくだが)。ミシュランによれば、人は、この廃墟を訪れると、あらためて栄華のはかなさと、人生についてしみじみと想いをいたすだろう、とある。

たしかに廃墟には、そういう想いへと人を誘う不思議な力がある。

ためにヨーロッパには廃墟趣味というのがあって、わざわざ廃墟を建築する!ことも多かったようだ。

もちろんサンガルガノは正真正銘の廃墟である。


 タルコフスキーのノスタルジアでは、ラストシーンで、イタリアに亡命した主人公が死んでゆく意識のなかで、故郷ロシアの原風景が蘇ってきて、その懐かしい風景の中に包まれて死んでゆくのだが、その故郷ロシアのノスタルジアに満ちた風景が、サンガルガノの廃墟のなかに再現されて、廃墟の建物と渾然一体となってえもいわれぬ効果を生み出していた。

そしてノスタルジアの風景のなかに、やがていちめん雪がふってきて静かに映画はおわってゆくのだ。この最期の風景だけでも、ノスタルジアは映画史に残るものではないかと思う。
ttp://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~adachi/sangalgano.htm

Andrei Tarkovsky - "Tempo di viaggio" (italian with french subtitles)

ttp://www.youtube.com/watch?v=PY9DPNQSET0
ttp://www.youtube.com/watch?v=P0pcra3oGQk&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=OAP7Iv4Z0SI&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=bkygo4Kn7CI&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=yyXeDNPzXFs&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=R8hrHfv2Ou4&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=5M4Md2S7Mtk&feature=related


イタリアのタルコフスキー

タルコフスキーは『ノスタルギア』を「単純なラブストーリー」だと言う。

(ヤンコフスキイ演ずる)アンドレイ・ゴルチャコフはロシアの大学教授で、長年講義してきた建築を実際に見るために、イタリアを初めて訪れる。

彼は自分の通訳兼ガイド(ドミツィアナ・ジョルダーノ)に思いを寄せる一方で、トスカーナの数学教授のドメニコ(ヨセフソン)に自分の一種の分身を見いだす。

ドメニコは世界の終末は近いと信じているので狂人と見なされているのだった。

ローマのRAIでの製作発表記者会見で、タルコフスキーはこう述べた。

「『ノスタルギア』のテーマは、人々がお互いを本当に知らずに共に生きるのは不可能なことと、相互理解の必要性から生まれる問題を扱っています。

名前を知るくらいなら非常に簡単だが、他者を深く認識する段階に達するのははるかに困難だ。

また表面にはさほど現れませんが、この映画には、文化を輸入したり輸出したり、異文化を取り入れるのは不可能だという主張を扱った一面もあります。

私共ロシア人もダンテやペトラルカが分かると主張出来る。

それはイタリア人の皆さんがプーシキンが分かると主張出来るのと同じ理屈です。

けれども実はそんなことは不可能なのです。

つまり同じ国民でなければならないのです。

文化を複製し伝播するのは、その本質に有害であり、皮相な印象しか広めない。

異文化を教えるのは不可能なのです。」

「この映画で、通訳のエウジェニアが『どうしたら分かりあえるのかしら』と訊く。

アンドレイ・ゴルチャコフは『境界を壊すことだ。』と答えます。

これは複雑な地球規模の問題で、単純なレベルで解くか、全然解けないかのどちらかです。

単純なレベルでは子供が解決してくれると言えますが、もっと複雑なレベルでは自己認識の問題と関連しています。

アンドレイは自分の分身とも言える狂人にこうした難題を肩代わりさせようとします。
アンドレイは真理を探求しているのですが、自分が直接分かってもいないものを教えても無駄じゃないかという思いが心をよぎることがあります。

彼は、あの狂人に、自分の行動に確信を抱いている人物を見いだす。

世界の救済法を知っていると言って、それに基づいて行動する人間を見いだします。

ドメニコは反省を知らぬ、ただ行動するだけの無邪気な子供に似ています。

ですからある意味でアンドレイに欠けているものを代表しているのです。」
ドメニコのキャラクターは、部分的には脚本が既に脱稿した段階で、グウェラがたまたま見た新聞記事からインスピレーションを受けたものだった。

タルコフスキーによると、それは映画に重要な総合性をもたらす幸運な発見であった。

「グウェラは類い稀な才能に恵まれた詩人で、偉大な発見が出来る。

幸い私は映画畑で、グウェラは詩の方ですから、嫉妬しなくてすんでいますがね。」
タルコフスキーは最初はモスクワでかなりの部分を撮影する計画だったが、ソヴィン・フィルムとの協約が破棄されて、彼はモスクワのシーンに振り分けたフィートを半分に減らさねばならなかった。


「運命は私たちに救いの手を差し延べてくた。

トスカーナで見付けた家はモスクワより映画的にはるかに興味深いものです。

イタリアに、ロシアのこのささやかな一角を拡張出来るのを私はとても嬉しく思っています。」

タルコフスキーは今でも水にとりつかれたままなのだろうか?

「水は神秘的な要素です。一個の分子であり、とてもフォトジェニックです。」

とタルコフスキーは語る。

「水は運動と、変転と流動の感覚を伝えることができる。

『ノスタルギア』にもたくさん水があるでしょう。

たぶん水には潜在意識の反響があるのかも知れない。

ひょっとすると、私が水を大好きなのは、先祖の輪廻転生を隔世遺伝で記憶していることから生まれるのかも知れない。」


彼の映画の「悲観主義」とイタリアの人生観の「楽観主義」に生じうる軋轢について、また、イタリア人には彼の映画を理解するのが困難なのでは? と問い質すと、タルコフスキーはこう答えた。
「私にだって楽観主義はある。

今度の映画は比較的単純で分かり易いラブストーリーです。

けれども同時に私は、表面下に潜むもっと深遠で混沌としたものを、底まで掘り下げる努力をしています。

悲観主義は、気遣いと人が自分に課す問題の複雑さが絡んで生まれてくる。

こうした問題は、歓喜に満ちた態度で世界に向かっても解けるはずもない。

私の関心は、世界の現状を気遣い、胸を痛めている人々にあります。

このために、時には、余りに複雑になるのかも知れません。」

「映画は高度の緊張を伴う芸術形態です。

一般には理解されないことかも知れませんがね。

私は理解されたくないというのではなく、例えばスピルバーグのように、一般大衆向けに映画を作るのは私には出来ないということです。

もし自分にそんなことが出来ると分かったら、恐ろしく恥ずかしいでしょうね。

一般大衆に届きたいなら、芸術とは何ら関係のない『スターウォーズ』や『スーパーマン』のような映画を作らなければならない。

私が、大衆を白痴のように扱っていると、とらないでください。

ただ確かに私は、大衆を喜ばせようと苦心したりしない。

ジャーナリストの皆さんの前で、どうして私はいつもこんなに自己弁護ばかりしているんでしょうね。近頃私には、皆さんが欠かせないでしょう。

私の映画がアンゲロプロスと同じくらいの配給を得るのなら、特にそうでしょう!」
ttp://homepage.mac.com/satokk/at_in_italy.html

タルコフスキー、『ノスタルギア』を語る

内面への旅 ギデオン・バックマン


バックマン:
まず最初に、西側で仕事をする感想を話してもらいたいですね。
アンドレイ・タルコフスキー:今回は初めて外国で映画を撮るだけでなく、私は外国の条件下で初めて仕事をしています。

世界中どこに行っても映画を作るのは難しいと思います。

でも、何が難しいかが場所によって変わってくると私は気づきました。

こちらで、最も大きい障害は金と時間の不足がずっと続くことです。

特に資金不足は創造性を妨げ、また資金が不足すると時間が足りないということになる。

映画に取り組む時間が長くなるほど、コストも高くなる。


ここ西側では、お金が支配する。

ソビエト連邦で私は一度も費用のことは考える必要がなかった。

とにかく心配無用だった。

イタリアのテレビ会社RAIがとても気前よく、この映画製作に招いてくれました。
実際そうなんですが、割り当てられた予算は明らかに乏しい。

これまで外国で働いた経験がないので、いくらかは私の思いこみかも知れませんが。
現在のプロジェクトは実際に「文化的なイニシアチブ」と分類されていて、商業的ヴェンチャーとは思われていません。

一方では、イタリアの映画チームと技術的クルーと一緒に仕事をするのは、とびきり報いのある経験です。

彼らは極めつけのプロで、高度な知識があり、自分の仕事を楽しんでいるようです。
誰もが自分のやっていることを愛しているように見えます。

しかし私は、私たちロシア人の方法とイタリア人のやり方の比較をしたくない。
どこへ行っても、理由が何であれ、映画作りは複雑で骨の折れる仕事です。
私が西側で一番批判に値すると思うのは、全く経済的な要素に全面的に依存していることです。

これは、芸術形式としての映画の未来そのものを危難にさらす可能性をもっています。

ギデオン・バックマン:
あなたが20 年間に作った5作品:『僕の村は戦場だった』、『アンドレイ・ルブリョフ』、『ソラリス』、『鏡』そして『ストーカー』すべてに、個人と個人を取りまく環境の間にいつでも強い対立があります。
『ノスタルギア』でもこれがテーマですか?

強いのは常に葛藤そのものであり、個人ではありません。

それどころか、私の中心人物は必ずと言っていいほど、弱い人間です。

その人間の強さは彼らの弱さから生まれてくる。

彼らがその環境に上手く適応していない、環境と調和していないという事実から彼らの強さは生まれてきます。

当然、個人と社会の間には、際だった個人と彼を取りまく環境の間には、いつでも葛藤があります。

すなわち、これらの間にはいつでも対立が存在していて、これこそ私たちは葛藤だと言うのです。

人間関係の存在しないところには、葛藤もまた存在しない。

私は、社会との関係が対立の強い要素によって特徴付けられる人物を使うことに興味があります。

そういう人は自分を囲む現実に対して強烈な関係を持っていて、このために、そういう人は常に、最後には環境と衝突してしまうようです。

私はそういう人間を追いかけて、彼が自分の問題をどのようなやり方で解決するのか見つけだしたいのです。

自分のなかに閉じこもってしまうのか? 
それとも自分自身に誠実であり続けるのか?

ある意味で、これは私の作劇法のまさに根っこにある問題だと言えるかもしれません。


ギデオン・バックマン:
どのようにして『ノスタルギア』が誕生したのか、話していただけますか?

私は何度かイタリアへ来たことがありますが、およそ3年前に、よい友人で、イタリアの作家、詩人であり脚本家であるトニーノ・グウェッラと一緒に映画を作ることに決めました。

映画は私のイタリア体験をめぐるものになる予定でした。


オレグ・ヤンコフスキー演じるゴルチャコフは仕事でイタリアに来たロシアの知識人です。

映画のタイトルは、『ノスタルジア』という言葉では非常に不満足な翻訳でしかないのですが、私たちから遠く離れたものを求める苦悩、憧れても憧れても一体化することの出来ない諸世界を求める苦しみを示しています。

しかし、それは内面の故郷への憧れ、何らかの内的帰属感を表してもいるのです。

映画の「アクション」、出来事そのものの順序は、何度か修正されました。

一部は脚本を書いている準備段階で、また一部は撮影中にも修正されました。

私は分断された世界で、引き裂かれて砕け散った世界で生きることが不可能であることを表出したいのです。


ゴルチャコフは歴史の教授、国際的に知られたイタリア建築史の専門家です。

彼はそれまで複製と写真だけで知っていた、そして教えていた記念碑と建物を今こそはじめて、眼で見て手で触れる機会に恵まれたのです。

イタリアに到着するとすぐに、彼は、芸術作品を生みだした文化の統合的な部分にならない限り、芸術作品を伝えたり、翻訳することは出来ない。

知ることすら出来ないと実感し始めます。

さて、彼は18世紀の少しは知名度のある作曲家の足跡をたどるためにイタリアに来ます。

その作曲家は元はロシアの農奴だったのですが、主人によって宮廷音楽家として教育を受けるようにイタリアに送られたのでした。

彼はボローニャ音楽院でジャンバティスタ・マルティーニを師とし、やがて有名な作曲家となり、その後は自由人としてイタリアで生活をしました。

映画の重要なシーンに、ゴルチャコフが、イタリア人の通訳であり旅の連れである若い女性に、作曲家がロシアに書き送った手紙を示すところがあります。

そこで彼は、ホームシックを、彼の「ノスタルギア」を表現しています。

それが何を指示しているかと言うと、この作曲家は実はロシアに帰ったが、アル中になり、最後に自殺したということです。


ゴルチャコフにとっても、イタリアの経験は人生を変えるものになります。

イタリアの美とその歴史は、彼の魂に大きな印象を刻み込み、彼は苦しみます。

なぜなら、彼は自分自身の背景をイタリアと内的に和解させることができないのです。

彼のイタリア体験ははじめは全く外的な性格しか持っていないのに、ソ連に帰ったらそれが何かの終わりを内包するだろうと、彼はやがて気づきます。

そのため彼は憂鬱になります。

自分がイタリアで経験したことを忘れることも、捨ててしまうことも決して出来ないと知っているからです。

自分のイタリア経験を生かすことが自分にはできないのだと思い知ると、彼の内的な苦痛、「ノスタルギア」は増します。

このノスタルギアには、彼が自分の体験を故郷の愛する人々と共有することが出来ない、イタリアに出立する前には彼の最も近しい人々とも共有できないということを自覚することも含まれます。

他者と、自分の印象と経験を共有できないことをこのように意識すると、彼の滞在はひどく辛いものになります。

彼の魂は拷問をされたようになりますが、同時に、心の友を見いだす欲求が彼の中で揺れ動きます。彼を理解し、彼の経験を共有出来る者を求めます。


映画はノスタルギアの本性を探る一種の論考です。

あるいは、ノスタルジアと称されるかも知れないが、実際には憧れよりも多くのものを含んでいるあの経験に関する論考です。

ロシア人は、最大の困難を経験しなければ、新しい友人や知人と別れることが出来ない。

ソ連への帰郷が迫ると、それは悪夢になりますが、このイタリアへの憧れも、「ノスタルギア」と呼ばれるこの複雑な現象を創り出す多くの要素のひとつにすぎないのです。

ギデオン・バックマン:
映画では何が、魂の友を求める気持ちをあらわしているのですか?

ゴルチャコフは彼の経験を本に書くという最初の意思を放棄し、むしろ出会ったイタリア人に、その経験を手渡す、あるいは渡そうと心を決めます。

エルランド・ヨセフソン演じるトスカナの村の出身の数学教師に手渡そうとします。
7 年間このイタリア人は、彼が最も恐れる災害から妻子を救うために妻と子どもたちを家に閉じこめました。

彼は世界の終末を恐れていたのです。


この幾分異常で、神秘的な狂信者はゴルチャコフにとって、一種の「第二の自我」になります。

ゴルチャコフは彼に自分自身の感情と疑惑を認めます。

ドメニコ、その教師は映画の肯定的な力と見なせるかも知れません。

彼の性格は、未来に必要な状況を人格化しているからです。

彼はゴルチャコフの主な話し相手になりますが、彼は、ゴルチャコフが自分の内面に現れ始めていると感じる精神的な不安の極端な事例を表しています。

ドメニコはまた、人生の意味、自由と狂気の概念の意味の、絶えざる探求を表象しています。
もう一方では、彼は子どもの受容性を、しばしば子どもに見つけられる並はずれた感受性を、保持しています。

しかし、彼は、ロシア人に欠けているある特徴を併せ持っています。

ロシア人が容易に傷つき、生命の深い危機に陥る状況でも、このちょっと頭のおかしいイタリア人は単純で、核心にずぱっと斬り込んで、彼自身の啓発された外向性で、一般的な問題の解決を見いだします。

トニーノ・グウェッラが新聞の切り抜きでこの人物を見つけてきて、私たちはそれをもう少し展開しました。私たちは彼に子供じみた気前の良さといった感じを与えました。
一種無邪気な寛大さが彼には強力にある。

彼を取りまくものとの関連で彼の率直さは、子どもに見られるような信頼感を強く思い出させます。

彼は信念の行為を遂行するという思いに取り憑かれています。

火のついたロウソクを手に、トスカニアの村の真ん中にある巨大な、四角い古代ローマの温泉、バーニョ・ヴィニョーニの湯を抜いた温泉場を渡りきるといった行為です。

ゴルチャコフがこれをやろうとするのですが、ドメニコはさらに大きな犠牲が必要だと考えて、ローマに行き、カピトレウムのマルクス・アウレリウス像の上で焼身自殺をします。

それは暴力的な犠牲行為ですが、しかし狂信の要素はいささかもなく、 啓示の瞬間に啓示される救済への心穏やかな信念で行われます。

ギデオン・バックマン:
主人公の2人、建築学の教授と数学教師は、あなたが個人的に自己同一視出来る性格を持っていますか?

私が2人のどこが一番好きかと言うと、狂人の行為にある信頼感であり、旅人のほうは、より大きな理解を達成しようとする執拗さです。

その執拗さは希望と呼ぶことも出来るでしょう。

ギデオン・バックマン:
この2人を結びつける関係はご自身の気持ちを反映していますか?…

私のヒーローは、「狂人」を首尾一貫した強い人格だと考えている。

「狂人」は自分自身の行動に確信があるが、ヒーロー自身にはこのような確信が欠けている。

それで彼はドメニコにすっかり魅了され、最後には、ドメニコこそ、私のヒーローがいつも考え込んではすべてを合理化していたのを、そうすることなく生きる勇気を与える助けになります。

この意味で—この展開のおかげで—ドメニコはゴルチャコフの「もう一つの自我」になるのです。

人生で最も強い者は、子供の信頼と直観的な安心感を保持することに成功した者である。

ギデオン・バックマン:
この映画を作る何らかの外的な理由があるのですか? 
その内的緊張を解読する鍵を与える何らかの明らかなテーマが?

私にとって、人々が互いに出会って一緒に働くことがどれほど重要であるかを何度でも示すことがとても大切なのです。

独りで、自分の秘密の片隅で生きるときには、欺瞞的な平穏が支配するように思えます。しかし2人の人間が互いに接触すると途端に、この接触がどのように深められるか、意味深いものになりうるかという問題が生じます。

この映画は、ですから、何よりもまず、文明の2 つの形式、2 つの生き方、2つの異なる考え方に内在する葛藤を扱っています。第二に、人間関係で巡り会う類の困難を扱った映画です。

男女の愛情関係ということになると、一緒に生活することがどれほど難しいか、お互いをよく知らないときにお互いに感じた愛情を感じるのがどれほど難しいか、そういうことを示したいと思います。表面的に知り合うことは簡単ですが、お互いを本当に知るようになるのはずっと困難です。ゴルチャコフはイタリア女性の通訳と一緒です。若い女優ドミツィアーナ・ジョルダーノがエウジェニアを演じています。

それは—単純に言うと— 教授と女性との、始まりもしないラヴストーリーでもあります。


しかし、もっと広いパースペクティヴから見ると、映画は文化を輸入したり輸出することが不可能であることを示すでしょう。ソビエト連邦の私たちはダンテとペトラルカを理解していると思っているが、これは正しくない。またイタリア人はプーシキンを知っていると思っているが、これもまた誤った考えである。抜本的改革がない限り、その文化に疎遠な人に、ある民族の文化を移植することは絶対不可能でしょう。

ゴルチャコフの苦悩がはじまるのは、彼を取りまくすべての新しいもの—イタリア滞在中に彼の関心を惹いた感情と人間に魅了されるのを自分が遅かれ早かれ止めなければならないと気づくときです。新たな魅惑と興味が彼の中でうごめき始めます。

彼はある人物に出会う。彼自身のように、真の関係を築くのは不可能であると理解していて、それゆえに自分自身を犠牲にする人物です。その人物、ドメニコは同じような心の断片化に苦しんでいます。自分の内側で全世界と、あらゆる良きもの、人間、情緒、そして霊性と、一体化することが出来ないことで苦しんでいる。

誰もがドメニコを「狂人」だと思っている。もしかするとそうなのでしょう。
しかし彼が狂人だと見なされる理由、彼の反応と感情を生み出す理由、ゴルチャコフが非常にはっきりと認識する感情は、全く正常なものです。

ギデオン・バックマン:
それは別の受肉をした自己との出会いなのですか?

ゴルチャコフは類似を認識し、出会いが比較的短いという事実にもかかわらず彼は2人の間のつながりを感じることができます。2人の苦しみが似ていることが、2人を結びつけるのです。

映画を撮影していくうちに、ドメニコはさらにもっと重要になり、私たちは彼に、当初よりずっと堅固な造形を与えました。真の触れあいが不可能だとゴルチャコフがますます自覚するようになったことを、彼はさらに明確に表現します。

ある程度、彼はまた私たち全員が生きざるを得ない恐れ、来るべき未来の私たちの不安をも、表現しています。恐怖こそ、未来を待ち受ける私たちの心理状態の問題なのです。—未来が抱えた問題なのです。


誰もが未来を憂慮している。未来に安心できない。

この映画はこの私たちの不安と深く関わっています。
また我々の無感動もテーマです。

無感動がいかなる方向にでも状況を展開させてしまうからです。私たちは憂慮していますが、それと同時に状況を変えるために何もしていない。確かに、私たちは実際には多くのことをしていますが、私たちが「実際に」していることは、絶望的に不十分です。もっと多くのことをすべきなのです。

私がかかわっている限りでは、私にできるすべてがこの映画です。私が捧げるささやかなすべてです。ドメニコの苦闘は私たちすべてと関わっているのだと示すこと、あまりに受け身だと私たちすべてを責めるときドメニコが全く正しいのだと示すしか私には出来ない。彼は「正常者」が怠惰すぎると訴える「愚者」です。彼を取りまくものすべてを揺すり起こすために、自己を犠牲にして、自分自身の警告を強調します。これが彼の犠牲であり、彼に出来るすべてなのです。

彼の意図は、私たちに行動を強制することであり、「現在」を変えることです。

ギデオン・バックマン:
ドメニコにこの行為をさせる世界観はあなたのものでもありますか?

ドメニコの性格の本質的な要素は、彼の世界観そのものではありません。

究極の犠牲行為へと彼を導くあの世界観ではありません。

むしろ彼が内面の葛藤を解決するために彼が選択するやり方なのです。

従って、私は彼に立ち現れる葛藤ほど、彼の出発点に興味がありません。

私は彼の抗議がどのように生まれたのか、彼がどのようにそれを表現したのかを、理解したいし、示したいのです。

私は実は、彼がそれを「どのように」表現するかにも興味がないのです。

最も重要な事は、抗議そのものの存在自体なのです。

私は、個人が抗議を表現するのに選ぶ方法が重要だと思います。

恐れることなくはっきりと表明された素朴な意見すら(頭がおかしいと思われても仕方がない意見でも)、いわゆる「正常人」の話より、怠慢なおしゃべりに身を委ねて、決して何も実際は「行動」しない人の言葉よりも、多くのことを意味しうるのです。

ギデオン・バックマン:
あなたの考えが多数の聴衆に達することが重要だと思われますか?

万人が理解できる芸術映画の形式が存在すると私は思わない。

従って、すべての観客の役に立つ映画を作ることはほとんど不可能です。もしそれが出来たら、芸術作品ではなくなるでしょう。芸術作品は、異議申し立てを受けずに、認められることはないのです。

スピルバーグのような監督には大変な観客がついていて、巨万の富が懐に入り、だれもがそれを喜びますが、彼は決して芸術家ではないし、彼の映画は芸術ではない。もし私が彼のように映画を作るなら—自分に出来るとは思いませんが—私はまったくの恐怖で死んでしまうでしょう。芸術は山のようなものです。山頂があり、それを取りまいて丘陵がある。山頂に存在するものを誰もが理解できるわけではない。


観客を虜にして、私がやっていることに興味をもたせることが私の課題だとは思いません。それが暗示しているのは、私が彼らの知性を過小評価しているということだからです。結局、観客が馬鹿ばかりだとは思いません....

しかし私が芸術作品をつくるということだけ、プロデューサーに約束したら、世界のプロデューサーは誰も私に、びた一文投資しないということを私はしばしば考えます。

ですから、私は自分の作る映画の1作1作に私の精力と勤勉さのすべてを投資します。

私は私のベストを尽くそうとします。そうしなければ、私は二度と映画を作るチャンスに恵まれないかも知れません。

私は私なりのやり方で、自分の理想を妥協させずに、観客の関心を獲得するのに成功してきたと思います。

そしてそれが、結局、大切なのです。

私は、青い空の彼方をただよう知的なタイプではないし、別の惑星からやって来たわけでもない。

それどころか、私は地球と地球の人々に親密な絆を感じます。

端的に言うと、私は知的に実際以上にも実際以下にも見られたくない。

私は観客と同レベルですが、私には別の役割がある。私の使命は観客の使命とは異なっている。

あらゆる人の理解を得ることは私には重要でありません。
私にとって最も重要ことは、万人に理解されることはないということです。

映画が芸術形式なら—私たちは同意見だと思いますが—芸術の傑作は消費財ではない、むしろ、創造性の見地からも、それを生み出す文化に関しても、時代の理想を表現する芸術的頂点なのです。それを忘れてはいけない。

傑作は、私達が生きている特定の時代の理想に形式を与えます。

理想は、決して万人にすぐ近づけるものではない。

理想に近づくには、精神的に発達し、成長しなければならない。

大衆の精神的なレベルと芸術家が証す理想の間の弁証法的な緊張が消えるなら、芸術が本来の目的と働きを喪失してしまったということになります。

残念ながら、目にする映画が単なるエンターテインメントのレベルを超えていると言えるのは稀です。

私がドヴジェンコ、オルミ、ブレッソンの映画を大切に思うのは、彼らの純粋で素朴な禁欲的な感触に私が惹かれるからです。芸術はこうした特徴に到達する努力をしなければならない。それから信頼感に。


観客の意識に創造的な理念が到達する前提条件は、創作者が観客に信頼を寄せているということです。両者は共通のレベルで相互に意思疎通することが出来なければならない。他に道はありません。

創造者にとって全く明白なものに関するときですら、観客に理解を暴力的に強制しようとしても無価値です。しかし、観客の倫理原則を尊重しなければならないとしても、近代的映画芸術形式を創造する自らの義務に妥協があってはならない。

観客の後ろ向きの趣味に支配されてはならない。

私は、文学的、演劇的、劇的な構築を信じない。


それは芸術形式としての映画特有の作劇術と共通点がない。

ほとんどの現代映画はアクションをとりまく情況、映画の叙述を観客に説明することに終始する。しかし映画に説明は要らない。むしろ情緒に直接訴える必要がある。その時高められた情緒の状態が知性を自ずと前進させるのです。


私は、主題自体の論理の代わりに主観的な論理—思念、夢、記憶—を伝えさせてくれる映画を編集する原理に到達しようと努力しています。

私は、現実の状態と魂の人間的な状況、言い換えると、人間の行動に影響を及ぼす要因から発生する形式を探しています。

それは心理的な真実を提示する最初の条件です。

ギデオン・バックマン:
「主題の論理」は映画のプロットと同じですか?

私の映画では、物語自体は特に重要ではありません。

私の作品で真に意義深いものは、映画のプロットに表現されたことは一度もない。

私は不必要に気を散らすものを排除して、重要なことについて話そうとします。

純粋に論理的なレベルでは必ずしも結びつかない事物を示します。

内的な人間性において、私たちにそうした事物を結びつけるもろもろの思念をひっかきまわすのです。

ギデオン・バックマン:
ということは、あなたにとって重要なことは映画で伝えられる情緒であって、語られるストーリーそのものではないと言うことですか?

私は、私の映画であれはどういう意味なのか、これはどういう意味かとよく尋ねられます。

ひどい話です! 

芸術家は自分の狙いを答える必要はない。

私は、自作に関して特に深い考え、深遠な思想を持っていません。

私の象徴が何を表すのか、私はまったく分からない。

私が唯一追求しているのは、そういう象徴が特定の情緒を生み出すということです。

どのような感情が出現するにしろ、それは内面からのあなたの応答に基づいているのです。

ひとは常に、私の作品に隠された意味を発見しようとします。

しかし映画を作り、同時に、自分の思考を隠そうとするのは変ではないですか?私のイメージは、ありのままのイメージであり、何の意味もない.... 私たちは自分自身をあまりよく知らない。

つまり、 時々私たちは慣習的なやり方では計りきれない力を表出することがあるのです。

ギデオン・バックマン:

あなたの映画で「旅人」が頻繁に隠喩として用いられて来ましたが、『ノスタルギア』の場合のように、はっきり定義された主題であったことはありません。あなたはご自身を「旅人」と思われますか?

1 つの旅しか可能でない. 内面への旅です。

地球の表面をあちこち駆けめぐっても大したことは学ばない。

いつか出発点に帰り着くように旅をするとも私は信じない。

人間は決して出発点には戻らない。

なぜなら旅の過程で彼が変わってしまうからだ。

そして言うまでもなく、私たちは自分自身から逃れられない。

私たちは、私たちであるものを、担っている。

私たちは私たちの魂の住処を、カメが甲羅を運んでいるように、運んでいる。

世界中の国をめぐる旅は、単なる象徴的旅でしょう。

どこに到達しようとも、探しているのはやはり自分自身の魂である。

ギデオン・バックマン:
自分自身の魂を探索するためには自分自身に強い確信がなければならない。しかし今日、自分の立場を取りうる自分自身の能力への人間の信念は、 —いたるところで—外的な出来事、外側から来る理念への信念に価値をおく狂信に屈服してきたように、私には思えます。

そうです。私は、人類が自分自身を信じることを止めてしまったと感じています。

言い換えると、「人類」そのもの—ではなく、そんな概念は存在していません—むしろひとりひとりの人間個人を信じる気持ちがなくなってしまった。

現代人の魂を考えるとき、私には合唱隊の女性歌手に見えます。

彼女は音楽のリズムに合わせて口をパクパクするのですが、一音も発声しないのです。

結局、他の皆が歌っているのです!

彼女は歌っているふりをしているだけです。

他の人たちの歌で十分だと思っている限り、そうです。彼女がこんなふうに振る舞えるのは、自分自身の個人の行動の大切さに信頼を失っているからです。

現代人は信念を欠いている。自分の行動で社会に影響を及ぼすことが出来るという希望を喪失している。

ギデオン・バックマン:
そのような世界で映画を作る意味は何ですか?

人生の唯一の意味は、精神的に成長するときに求められる努力にあります。

誕生したときとは別の何かに私たちは変わる。

人生の意味は、発達してそうなるのに必要な努力にある。誕生と死の間の期間にこれを成就するなら、それが困難であり、進歩が時にはのろのろしたものに思えるとしても、私たちは実際、人間性に奉仕したことになるのです。

私はますます東洋哲学に興味をそそられています。

そこでは、人生の意味は観想にあり、人は宇宙の不可分の部分なのです。

西洋世界はあまりにも合理的になり、西洋の人生観は、より実用主義に根ざしているように見えます。
つまり、あらゆるものを少しずつ完璧なバランスに保ち、体を生き続けられるようにして、出来るだけ長い間ただ「存在」していればよい。

ギデオン・バックマン:
存在の経験を描く計器としての時間の概念を信じないのですか?

私は、「時間」が本質的に客観的なカテゴリーでないと確信しています。

「時間」は、人間がそれを知覚しなければ存在できないからです。

科学的な発見の数々も同じ結論を引きだしているようです。

私たちは「今」に生きていない。

「今」はあまりにも移ろいやすいので、ゼロではないが近づくほどにゼロに近づくので、それをつかまえる方法がない。

私たちが「今」と呼ぶ時間の瞬間はただちに「過去」になり、「未来」と呼ぶものが「今」になり、それもまたすぐに「過去」になる。

「今」を経験する唯一の方法は、自分自身を「今」と「未来」の間に存在する深淵に突き落としてみることです。

こういう理由から、「ノスタルギア」は過ぎ去った時をめぐる単なる悲嘆と同じではないのです。

ノスタルギアは、私たちが自分の内的な天賦を当てにするのを諦めて、それらを適切に整え利用しないとき、そうすることで自分の義務を行うのを怠ったとき、そうやって消え去った時をめぐる強烈な悲しみの感情なのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/bachman.html

カンヌのタルコフスキー

50歳になるアンドレイ・タルコフスキー、この繊細な詩人にして見事な映像芸術家(20年で5作−5つの傑作映画の創造者)がカンヌ映画祭にやってきた。

明日『ノスタルギア』を上映してイタリアの旗を高く掲げることになる。

この映画は彼とトニーノ・グウェッラとの共同脚本で、RAIとゴーモンの出資でローマで撮影された。

真剣なテーマの映画を見せることになる彼は、真剣なテーマを語ることになる。


ポルロ:
何への郷愁なのでしょうか、タルコフスキーさん?

タルコフスキー:私たちの「ノスタルギア」はあなたたちの「ノスタルジア:郷愁」ではありません。

個人的な感情ではなく、国外に出たロシア人が経験するとても複雑で深遠なものなのです。

それは、病です。

魂の力、仕事の能力、生きる喜びを枯渇させる病気です。

私は、このノスタルギアを、具体的な物語、イタリアに来たソヴィエトのインテリゲンチャの話と突き合わせて、分析します。

ポルロ:
そのノスタルギアにさいなまれながら、イタリアでの仕事はどうでしたか?

きわめて良好でした。

なぜなら、なんといっても、映画というものはどこでも大きな家族なのです。

この映画をつくるのに通訳もいらなかった。

ブロークンなイタリア語で言いたいことは通じましたから。

映画は普遍的な言語を使っています。

お互いを理解し、自分を説明するのに役立ちます。

ところが、この手の仕事、つまり映画作りの財政面に関して、議論が多すぎるのには驚きました。ロシアでは、議論にもならないことですから。

ポルロ:
ロシア人の主人公を見ていると、自伝的な映画として見たい気持ちに駆られるのですが。

そうですよ。ただし芸術的な観点からに、限られますが。

実際、そういう意味では、この映画ほど暴力的なほど私の気分を反映させた映画をつくったことがありません。

私の内面世界をこれほど深く解放させた映画は初めてです。

私自身、完成した映画を観たとき、この表出力に直面して愕然としました。

気分が悪くなったほどです。

鏡に映った自分の姿を見たときや、自分のもくろみを踏み越えてやりすぎたと感じたときに経験するのと同じ気分です。

ポルロ:
それでは、何があなたのもくろみだったのですか?

私の願いは、イタリアにやってきて、自分に関して思いがけない情緒を発見するロシア人を観察することでした。

もちろん、私がアフリカに行っても、どこに行っても、同じことが起きたことでしょう。

この男は国と国を隔てる障壁がある理由が分からない。

人間同士を分離しようとする人工的な慣例を受け入れない。

こういうことは当然、彼に恐ろしい苦悩を引き起こします。

お互いにもっと理解するにはどうしたらいいか聞けば、子どもでも、国境を開放したらいいと答えるでしょう。

もちろん、これは素朴で、理想主義的な答えですが、基本的には正当なものです。

この素朴な世界観と祖国を出た人間の現実的な生活状況がこのように衝突することから、ドラマが生まれるのです。

ポルロ:
お仕事が助けになりましたか?

映画はもっとも高貴で重要な芸術です。

とはいえ、商業と商品市場から誕生したという原罪をいまだに贖っているところなのですが。

ポルロ:
このすべては悲観論に非常に近いとは思いませんか?

その逆です。真の悲観論者は、幸福を求め続ける人たちです。

2,3年待って、それからどこまで実現したか、訊いてみたらいいのです。

ポルロ:
あなたの楽観論がどこにあるのか訊いてもいいですか?

私たちの文明のドラマは、科学技術のニーズが、精神性の要求から調和を欠いて、一方的に発達していることにあるのです。霊性の完成こそ、人生の本当の目的なのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/canne.html

アンドレイ・タルコフスキー・インタビュー2

(ナタリア・アスペシ)1983年カンヌ
私たちロシア人には、あの優しい感情が致命的な病なのです

アスペシ:
賞に関心はないのですか?

タルコフスキー:ないと言えば、嘘になります。

自分の本が読まれようが読まれまいが、気にしないという作家のようなことになってしまいます。

映画は観られるためにつくられるのです。

万が一、『ノスタルギア』がここカンヌで受賞したら、私はとてもうれしいでしょう。

『ノスタルギア』はイタリアで構想、撮影、製作されましたが、私の映画の中で最もロシア的な映画です。

アスペシ:
イタリアの生活はどうですか?

とても気に入っています。

イタリアは私が長期間いられる唯一の国です。

他なら一週間以上いられないでしょう。

けれども、月末にはモスクワに戻ります。

私の国、私の人々から離れて私は長くは生きられないのです。

私には多くの企画があります。心を決めなければならない。

なかでも、ドストエフスキーの『白痴』に基づく映画を構想しています。

私の教養は、偉大なロシアの作家たちによって、形成され、養われました。

彼らのように、私は物質生活と精神生活を融和させようと苦闘する劇的な状況を経験しています。

アスペシ:
カンヌ映画祭に持ってくるまでに『ノスタルギア』を一度しか観ていないというのは本当ですか?

そうです。大満足です。私の一番うまく実現した映画だと感じています。

私の内面世界を最も良く表現した映画です。

主人公は私の「分身」みたいなものです。

私の感情、私の心理、私の本性、そのすべてを持っています。

彼は鏡に映った私の姿です。

アスペシ:
なぜ自分の映画について話したくないのですか?

それは正確ではありません。映画のプロットを繰り返したくはない。

それ自体は意味がないからです。

ロシアの作家が、同郷の人間の研究をしにイタリアに来た。

その音楽家の足跡は2世紀前に失われている。

そこで、イタリア人の教授と金髪の通訳に出会って・・・。

こんなことを知って、何が面白いのですか? 

しかし、映画が言おうとしていることは説明しようとすることは出来ますよ。

それは情緒の表出です。私の中に最も深く根ざしている感情です。

ソ連を出るときに、それを最も強烈に感じたのです。

まさにその理由のために、イタリアだから『ノスタルギア』を撮影できたと言うのです。

私たちロシア人にとって、私たちにとって、ノスタルギアは優しく優しく甘い感情ではありません。

あなたたちイタリア人にとってはそうかもしれませんが。

私たちにとって、それは一種の死の病です。命に関わる病気です。

この深い共感が私たちを、自分だけの苦しみ、あこがれ、別離に縛らないで、他の者の苦悩に結びつけるのです。情熱に満ちたエンパシーです。

アスペシ:
『ノスタルギア』をご自分の作品のどこに位置づけされますか?

『ノスタルギア』は私にとってきわめて重要な映画です。

私が自分自身をすっかりと表出することができた映画です。

こう言いましょう。映画というものが真に偉大な芸術形式で、人間の魂のもっとも知覚不能な動きすら忠実に表象できるということを私に確証してくれました。

アスペシ:
たとえ一度でもご覧になって、完成した映画でもっとも心に残ったのは何でしょう?

そのほとんど耐え難い悲しみです。

ところが、それが精神性に自分を浸したいという私の欲求を非常に見事に反映しているのです。

とにかく、私は悦楽に耐えられない。

陽気な人たちは有罪だと私には思えます。

なぜなら、彼らは存在の憂慮すべき価値を理解できないのだから。

子どもと老人には幸福を許しますよ、でも、他の連中に関して、私は不寛容だ。


アスペシ:
23年のキャリアで、なぜ6作しか作っていないのですか?

作りたい映画だけを作ったからです。

相当な資金が必要でしたね。今、50歳になり、このような慎重さや、私自身の欲張りな点といった問題を自問し始めています。

私は急がなければならない。

もっと仕事をしなければならない。すべてを言わなければならない。
ttp://homepage.mac.com/satokk/aspesi.html

20年ぶりのタルコフスキー映画「ノスタルジア」


群馬会館でタルコフスキーの「ノスタルジア」を20年ぶりぐらいで見ました。

むかしはタルコフスキーに熱狂していた一時期もあったのですが、しばらく前からその熱も冷めてしまってよいのか悪いのか映画の中身とは関係ないところを見てしまいます。

登場する犬はシェパードみたいですが、この犬がとてもかしこい。

おそらくこの犬がうまく「演技」していなかったら、「ノスタルジア」の完成はおぼつかなったでしょう。


ロシアの田舎のシーン、詩人アンドレが滞在するホテル、狂人ドメニコの家などさまざまのシーンで犬が登場しますが、よほど訓練されていて勝手に動き回るような無駄な演技をしません。

まあ、動物のことですから何度かはNGを出したのだろうが、いい演技をしています。

追記 : このシェパードだが、タルコフスキー自身が飼っていたダックス(ダーネチカ)という愛犬じゃないかと思う。


あと、あらためて思ったのはカメラの撮影がとても丁寧に撮られていたこと。

その前に見た河瀬直美の「火蛍」の撮影ハンディ・カメラだったので対照的に感じられました。

「ノスタルジア」は人物など画面の中心を見ているとわからないのですが、画面の端を見ていると超スローでアップしてゆくのがわかります。

あれはカメラ自体に備わっている機能を使ってズームしたのか、それともレールの上でカメラを移動させたのだろうか?

ラストシーンのロシアの田舎とイタリアの遺跡を合成させたシーンもあらためて見るととても奇妙です。前景と後景とでは雪の降り方が異なっているのだ。

CG全盛の今日からすれば新鮮に感じられます。

もっともタルコフスキーには東京の首都高速を撮って未来都市を表現するというウルトラCの大技がありますね。撮影を担当したのはジョゼッペ・ランチという方らしい。

詩人アンドレのホテルの部屋、アンドレが窓を開けると外は雨降りなので部屋の向こうがわからないのです。

最初植え込みか森だろうと見当をつけていたが、しばらくすると薄黒いかたまりがゆっくりと下に流れていくのです。

なんだろう思っていると、また黒いのがゆっくりと下に落ちていく。
フィルムのキズでもなさそうだし。

窓ガラスはないはずなのですが仮にガラスがあったとすれば、窓に貼りついた木の葉が雨に打たれて流れ落ちている感じがした。

そのシーンではその黒いものの正体はわからずじまいだったのだが、ラスト近くで雨ぬきのシーンがあったので確認してみる。窓の外は土壁。

つまりあの黒っぽいものはどうやら土壁が剥がれて流れ落ちていたのだ。
詩人アンドレのホテルの部屋は映画用のセットだろうから、インスタントにこしらえた壁がホースで散水した水で流れてしまったようです。
ノスタルジア・コム ttp://www.acs.ucalgary.ca/~tstronds/nostalghia.com/
ttp://fuqusuke.s32.xrea.com/archives/000050.html
メンテ

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