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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2018/05/23 11:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

「大和魂」と言う言葉を使うと嫌悪感に満ちてこれを否定する人たちが多い。
まるで街宣右翼と同類に扱われる。

しかしながら先の大戦において、国を守る為に散って行った200万近い兵士の事は、どのように思われるのか。

全てが全てでないとしても「大和魂」を信じて突進し倒れた兵士の事は考えられないのか。
その「大和魂」が軍部によって利用されていたとしても当事者の兵士の責任ではない。

ここで「大和魂」をミソクソに言う事は彼らの死を馬鹿にする事になる。
調子者が騙されて死んだと言えますか。

彼等の為にも「大和魂」は正当に評価することが大事と思います。
彼等は、まさしく彼等なりの「大和魂」を持って、国を守る為に死んで行ったのです。


(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。


(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

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Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.153 )
日時: 2013/05/01 14:53:15
名前: 天橋立の愚痴人間

鎌倉時代の仏教を検証する前に、ウィキペディアで概要を確認する事にします。

「仏教の歴史」

仏教は、約2500年前(紀元前5世紀)にインド北部ガンジス川中流域で、釈迦が提唱し、発生した(初期仏教)。他の世界宗教とは異なり、自然崇拝や民族宗教などの原始宗教をルーツに持たない。当時のインドでは祭事を司る支配階級バラモンとは別に、サマナ(沙門)といわれる出身、出自を問わない自由な立場の思想家、宗教家、修行者らがおり、仏教はこの文化を出発点としている。発生当初の仏教の性格は、同時代の孔子などの諸子百家、ソクラテスなどのギリシャ哲学者らが示すのと同じく、従来の盲信的な原始的宗教から脱しようとしたものと見られ、とくに初期経典からそのような方向性を読み取れる。

釈迦の滅後100年頃、段々と釈迦の説いた教えの解釈に、色々の異見が生じて岐れるようになってきた。その為に釈迦の説法の地であるヴァイシャリーで、第二回の三蔵の結集を行い、釈迦の教えを再検討する作業に入った。この時、僧伽は教義の解釈によって上座部と大衆部の二つに大きく分裂する(根本分裂)。

仏教の上座部の一部は、スリランカに伝わり、さらに、タイなど東南アジアに伝わり、現在も広く残っている(小乗仏教)

一方大衆部は、単に生死を脱した阿羅漢ではなく、一切智智を備えた仏となって、積極的に一切の衆生を済度する教え(大乗仏教)が起こる。この考え方は急速に広まり、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国・韓国・日本に伝わっている。


「日本の仏教史」ウィキペディアより

(飛鳥時代)

『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。
仏教が伝来した際に、次のような騒ぎが起こったと『日本書紀』に書かれている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ(「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。その後、仏教の可否を巡る争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋と蘇我馬子)の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者を巡る争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは厩戸皇子(後に聖徳太子と呼ばれる)が馬子側に参戦していた。厩戸皇子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺(大阪市天王寺区)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を建てて三宝を広めることを誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。厩戸皇子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、天皇家自ら寺を建てるようになった。

(奈良時代)

中国や日本では仏教の発展に伴い律令法の中に僧尼の統制(仏教そのものの統制ではない)を定めた法令(僧尼令)が導入された。だが、中国では、仏教の出家が「家」の秩序を破壊するなど、儒教論理に合わないとされ迫害されたのに対し、日本では「鎮護国家」の発想の下、「僧尼令」や僧綱・度牒制度が導入されて官僚組織の一員とまで化したのは興味深いことだと言える(僧正・僧都などは律令制で定められた僧官)。もっともこうした統制について国家が建立した官寺とそれ以外の貴族や民衆によって建てられた民間寺院(私寺)とでは温度差があったともされ、後者に対する統制がどこまで行われていたかについては意見が分かれている。
こうした「南都六宗」と呼ばれた、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗などが大勢を極めた。また、聖武天皇は位を孝謙天皇に譲り、出家した。聖武は妻の光明皇后の影響から信仰に厚く、国分寺、国分尼寺の建造を命じ、大和の国分寺である東大寺に大仏を建造した。出家した聖武上皇は「三宝の奴」とまで称した。仏教が定着するにつれて、実は日本の神々も仏が化身として現れた「権現」であるという考えである本地垂迹説が起こり、様々の神の本地(仏)が定められ、神像が僧侶の形で制作されることがあった。しかし、仏法が盛んになってくると、今度は戒律などを無視する僧などが増えたりしたため、聖武天皇の時代に鑑真が招かれた。鑑真は東大寺に戒壇を設け、僧侶に戒を授けた。聖武天皇も鑑真から戒を授かった。鑑真は唐招提寺を建立し、そこに住んだ。

(平安時代)

その後これら寺院群は政治に口を出すようになった。桓武天皇は、彼らの影響力を弱めるために平安京に遷都し、空海及び最澄を遣唐使とともに中国に送り出し、密教を学ばせた。新しい仏教をもって、奈良の旧仏教に対抗させようとしたのである。最澄(天台宗)、空海(真言宗)には、それぞれ比叡山と高野山を与えて寺を開かせ、密教を広めさせた。平安時代中期は釈迦入滅の二千年後にあたる。正法の千年・像法の千年の後、仏教が滅びる暗黒時代、すなわち末法の世が始まったと考えられた。末法の世にはどんなに努力しても誰も悟りを得ることができない。国が衰え人々の心も荒み、現世での幸福も期待できない。このような人々の状況から、ひたすら来世の幸せを願う浄土信仰が流行した。貴族も阿弥陀仏にすがり、極楽浄土に迎えられることを願って来迎図などを盛んに描かせ、その究極として宇治の地に平等院を建立した。その鳳凰堂の姿形は、正に極楽の阿弥陀仏の宮殿(くうでん)を模したものである。だが、平安時代末期に入ると社会不安が増大し、広大な所領の持ち主であり裕福であった大寺院は盗賊などに狙われる危険性が高くなった。そこでこうした外部からの侵入者から防衛するために僧侶や信徒が武装したのが僧兵である。だが、次第に僧兵そのものが勢力拡大のための武装集団と化し、対立宗派・寺院への攻撃や朝廷への強訴などの武力行使を行う集団として社会の不安要素の1つになっていった。また、寺院内に石垣や堀を巡らせる等の一種の城塞化を進める寺院も現れた。

(鎌倉時代)

鎌倉時代に入ると、前時代末期からの動乱で仏教にも変革が起きた。それまでの仏教の主流が「鎮護国家」を標榜した国家や貴族のための儀式や研究に置かれていたものが、次第に民衆の救済のためのものとなっていったのである。主として叡山で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られ、新しい宗派が作られていった。これらの宗派では、それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれている。これらの中には、「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われるとする日蓮宗、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ける(称名念仏)事で救われるとする浄土宗、浄土宗からさらに踏み込んで「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや(『善人→「自力作善」の者=阿弥陀仏を頼りとせず、自分の力で善根功徳を積んでさとりを開こうとする者』でさえ往生できるのだから、悪人→我々のような煩悩を具足のように身にまとった者が往生できるのはいうまでもないことだ)」という悪人正機の教えを説いた浄土真宗(一向宗)、踊りながら念仏を唱える融通念仏や時宗があった。このように鎌倉時代には乱立ともいえるほど新しい宗派が誕生した。これらの宗派は、定着するまで例外なく既存の宗派に弾劾されたが、同時に旧宗派の革新も引き起こした。弾劾の中でも日蓮宗の日蓮は過激なことで知られ、他宗を非難し御題目を唱えなければ国が滅ぶと言い、幕府に強く弾圧された。しかし、民衆に浸透し一般化すると、この弾圧も次第に沈静化していった。

鎌倉時代は、武士が貴族から権力を奪い、力を着々とつけていた時代でもあった。この時代には臨済宗と曹洞宗という二つの禅宗が、相次いで中国からもたらされた。力をつけつつあった武士に好まれた事から、鎌倉などに多くの禅寺が建てられ、大いに栄えた。この代表的なものを「鎌倉五山」という。また、虎関師錬が仏教史書である『元亨釈書』を著した。
更に従来の仏教の間でも現状を批判する動きが高まってきた。特に律宗やそこから派生した真言律宗などでは社会事業などに乗り出しながら民衆の救済に加わるだけではなく、自ら国家の指定した戒壇を拒否して独自の授戒儀式を開始するなど、新しい宗派よりも革新的な動きすら見せた。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.154 )
日時: 2013/06/16 17:31:07
名前: 鎌倉時代・・・天橋立の愚痴人間

「鎌倉時代」

大人しい民族といわれている日本にも「革命」があったと言えば、それは鎌倉時代を創出した勢力である。
大和朝廷の誕生で明確な国家の形を作って以来、平安朝までの天皇家を中心とする貴族社会を覆したのは武士団であり、ある意味で市民による権力奪取であった。

大和朝廷成立までの闘争は、豪族間の覇権争いであり、そうして出来た権力機構に対するはじめての反乱であった。
以後、日本では明治維新で受動的に体制が変わるまでは、一揆こそ起きても体制そのものを変える試みはなかった。
最も、西欧でも、それは市民革命と言われるものが200〜300年前に起きただけのものであり、頻繁に起こりえる現象でもなく、未だ明確な革命の現象を経験しない国家もかなりある。
このような意味では、日本民族が大人しいという定義には当てはまらない。

現時物語、枕草子などの、平安朝の女流文化が世界の先端を行っていたと言われるように、鎌倉時代を現出させた我が国の民の力は相当に評価なされるべきものと思う。
直接の政治権力争いは、平家、源氏に関わる伝承で確認することは出来る。
ここでは、そうではなく、仏教を通した民衆レベルでの革命の雰囲気を探りたい。

倉時代に新しい仏教が出てくる概略は、すでに書いています。
要するに。それまでの国家護持を目的とする一部の人間の仏教から、民衆中心の流布を目的としたものであり、厳しい修業ではなく信じることで救われるというものでした。
これによって仏教が大きく広まる反対に、純粋論理としての仏道意識は希薄化しても行きき将来に課題も残し、現代の葬式仏教の様なものになる可能性も含んでいたのです。
それは、さておき、このことは政治的な領域ではない分野(人間救済と言う)で大衆が市民権を得たという事になります。
ですので下記の新興仏教(鎌倉仏教)は爆発的に支持されて行きました。
その後に起きる一向一揆が、民衆による唯一の反権力闘争であったことも、此処に起源があると思います。
この新しいものを受け入れる鎌倉時代の民衆の心が、何処から来ているのか、それは待ち望んでいたものであったのか、新しいものを受け入れる勇気がどれほどのものであったか興味を引くところです。
同時に、その宗教を興した僧達の気概は何処にあったのか、何故、鎌倉時代のみにそれが噴出したのか。
勿論鎌倉時代の、新興仏教を興す動きは当時の権力者から弾圧を少なからず受けています。
キリスト教圏のそれ程ではありませんが。
その鎌倉仏教を簡単に説明しておきます。
(浄土宗)
開祖 法然  本山 知恩院
 南無阿弥陀仏と唱えると浄土に行ける

(浄土真宗)
開祖 親鸞  本山 本願寺
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(歎異抄)」と説いた親鸞以来、一向宗とも門徒宗とも言われ後世の激しい宗教活動を行なった。


(時宗)
開祖 一遍   本山 遊行寺
一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き「念仏踊り」を取り入れた。

(臨済宗)
開祖 鎌倉時代に中国から伝わったもので 栄西が中心で広めた     
本山 妙心寺、建仁寺、南禅寺派などに分散
問答と座禅を奨励

(曹洞宗)
開祖 道元   本山  永平寺
座禅を奨励

(日蓮宗)
開祖  日蓮   本山  身延山久遠寺
ひたすら、南無妙法蓮華経を唱える

以上のように現代につながる宗旨と名僧が、この時代に輩出している。

一方で、神道は、元々自然信仰、先祖崇拝と言う農業を主体とした我が国で自然発生的に起きたものであったが、大和朝廷の成立の過程で神話と結びつけられて政治に利用されるように変わってきた(大和朝廷成立の体系付け)。
それが鎌倉時代に以降、より体系つけられ国家存立の理念化されて行った。
しかしながら、鎌倉時代の当初のそれは、国家神道へ向かう後世のそれではなく神官の家に生まれた鴨長明が「方丈記」で示したように仏教的無常観が漂う世界からみて、決して後世の様なものではなかったと思われる。

それでは、「何故、その必要(国家神道化する)があったかと言う疑問を呈する」。
これは実権を失った天皇家が、以後も崇拝され現存していることにもつながる。
要するに、名目でも天皇家を中心とした平安朝を倒し、国家を掌握した武士階級が彼等自身の大義名分を求めたからであり、その傾向は江戸時代の神道(平田篤胤)で完成される。

この様に鎌倉時代は新しい社会の清新の意気込みにあふれていた時代であり、権威化、形式化していない生のままの日本人が垣間見られる時代である。
メンテ
大和魂を説明するのは難しい! ( No.155 )
日時: 2015/10/25 00:48
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:MB2nfb3k

このスレッドも、最近の10くらいの投稿が抜け落ちてしましました。

UPするついでに「大和魂」の概念について少し書いておきましょう。

「大和魂」と同様なものとして、

アメリカのフロンティア・スピリッツ
イギリスのジョンブル魂
ドイツのゲルマン魂を挙げています。

それぞれ、これと言った格別の意味は感じませんが、共通するところは民族の「気概」と言う概念でしょうか。
それは、どの民族にもあるとして、これらの言葉があるのは、その民族が、それを誇りに思っているせいでしょう。

但し、気概と言う概念が、結果として国家の暴走行為にも加担することがあります。
しかしながら、対象が何であれ、その集団が何かをなすばあい、そのようなものが認識できなければ、集団は、集団としては何も動かないと言うことでしょう。

特に民主主義が発達して、多くの人々は集団としての行動に、殆ど無頓着を決め込むようになりました。

>「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」
と言うチャーチルの言葉のうちに、民主主義の特性が良く表されています。

要するに民主主義は肯定はするが、問題もあるのである、と言う事です。
チャーチルが否定した独裁、専制政治と大衆のマインドコントロールの非は、現実的にありますが、そうかと言って民主主義の手法では乗り切れない問題もあると言う事です。

民族の「気概」とは、ともすれば、暴走します。
アメリカ大陸におけるアングロサクソンの暴虐も、イギリスの植民地支配も民族のエネルギーの結果でしょう。

ですが歴史は、好む、好まないに関わらず民族の気概によって動かされているのです。
これ(気概)を否定するのではなく、気概の方向性をコントロールすることが大切ではありませんか。

現代日本においても、横たわる問題点の根本を解決できる手段はありません。
少なくとも個人的レベルの問題として解決は不可能です。

これに向かう民族としての意思(気概)なくして、状況を動かすことはできないでしょう。
実際に、この掲示板でも、我々が憂いている状況は、何の打つ手もないでしょう。

方向性は何であっても、この状況を突破出来るのは民族としての気概が高まった時でしょう。
具体的には食料鎖国政策、市場主義経済体制の否定(部分的)、このよううなことは、個人的な現状の損得計算からではできません。

「大和魂」を持てば解決できると言うような単純なものでもなく、そのような都合の良い精神論など、あるはずはありません。
大和魂とは、こうした状況を憂いて何とか切り抜けようとする気概ではありませんか。

それが現代には殆どない。
選挙の投票率が年々減っていることも、何とかしようとする気概がない。
「大和魂」と言う言葉を使って、こうした状況に叱咤激励しているものとしたいですね。

このように見れば、フロンティア・スピリッツと言うものが、どのような場合に考えられているか、理解できるはずです。
糾弾掲示板に寄稿されている皆さんも、そうした思い、いてもたってもおられない思いが、そうさせているのであり。
それを「大和魂」とすることができるでしょう。

>かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)

かくしても何もならないものと知りながらやむにやまれぬ大和魂(糾弾掲示板)

※ ついでに説明します。ネットで発信されると言うことは、他の人にも訴えると言うリーダー心が、そうさせているのです。
大和魂と言う場合、それは必ずしも一般大衆を対象に言ってはいないつもりであると言う事です。

そうして、その皆様の想いは何に向いているのでしょう。
決して独裁国家や軍国主義ではなく、社会を何とかしたいと言う気持ち(気概)でしょう。

みんなの為に、より良い社会を求める、より良い政治を求める、その心が「大和魂」であり、これが凝縮されたとき社会は動くことになるでしょう。
現代日本は、そうした「大和魂」が希薄になっていると言っているのです。
皆さんは個人的満足観の代償に気概を持たねばならないと言う事を認識しないのです。

ですが、私は日本の歴史は、そんなものではなかった。
最も個人的な生活は今ほど満たされてはいなかったこともあります。
そのようなこともあり、
鎌倉時代から戦国時代を通して、否幕末の様相も、日本を思う「大和魂」が息づいていたと思います。
戦前の「大和魂」は確かに方向性が間違っていました。
軍事政権のすることが、より良い道と思わされてきたのです。

ですが結果として「大和魂」が日本のためにはならなかったのは、明治以降の一時期だけの問題です。
後の時代は、権力は権力として、民衆は従わざるを得なかったものの、決して権力に服従していた訳ではないのです。

ずっと将来は地球国家として人類は一つのシステムの中で生きていくものとしても、それまでは、やはり集団を統率する理念も必要でしょう。
地球国家となっても「大和魂」のような概念は必要でしょうが、そんな時には「大和魂」とか「ゲルマン魂」とか区別する必要はないでしょうが、とりあえずは現代、我が国が我が国としてできることはやらねばならないでしょう。

「大和魂」と呼ぶような概念なしに、やっていけるでしょうか。そのような概念の裏打ちなしにやっていけるでしょうか。

やっていけるものなら、糾弾掲示板に何も書き込まなくても、様子を見ているだけで良いことになります。
「大和魂」のような概念を具体的に現せないのは、このような概念なのです。
全体としては、何らかの色のついた「大和魂」ではいけないのです。

最後に、社会を何とかしたいと言う気概ですが、
その方法は飽くまでも日本的な発想が根底にあり、決してフロンティア・スピリッツやゲルマン魂とは同じではありません。
だから「大和魂」なのです。

メンテ
大和魂の言語学的おさらい ( No.156 )
日時: 2015/10/26 19:01
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:omAbr/Kw

満天下さんなどに、かなり誤解されているようなので、ここで言語学的に「大和魂」を検証して見ます。

言語はある個人の認識(認識内容や関係意識――以下同様)を他の個人に伝えるための物質的・物理的媒介物である。個人の認識そのものを直接他の個人に伝えることは不可能であるからそれをなんとか伝えるための媒介物として人類は言語や絵画などの表現を創り出した。したがって人間が自己の認識をいかにして言語(表現)という形態に変換し、また言語(表現)という形態からいかにして他者の認識――この場合の他者には自己も含まれる――という形態を再形成するのかを知るためには、人間の認識がいかなるものであるのかという科学的な研究が必要になる。(三浦つとむ著 認識と言語の理論)

要するに、言葉を用いて意思伝達をするのであるが、微妙な問題ほど、よほど神経を使わなければ、自分が思う事を相手に伝えることが出来ないと言う事です。

さて「大和魂」と言う言葉ですが、大和と言う言葉自体は地名をさし、これによって、その地方に住んでいた民族の総称と言う意味でも使います。
ですが、これを日本と言う国家を意味する事があるのです。
単なる民族の総称と、国家をさすこととは微妙に違ってきます。


また、魂と言う言葉は、通常、次の様な場合に使います。

1 生きものの体の中に宿って、心の働きをつかさどると考えられるもの。古来、肉体を離れても存在し、不滅のものと信じられてきた。霊魂。たま。「―が抜けたようになる」「仏作って―入れず」
2 心の活力。精神。気力。「仕事に―を打ち込む」
3 それなしではそのものがありえないくらい大事なもの。「刀は武士の―、鏡は女の―」
4 (多く「…だましい」の形で)そのもののもつ固有の精神。また、気構え。「大和(やまと)―」「負けじ―」
5 思慮。分別。
6 素質。天分。才気。

これは飽くまでも個人の人格的な内容を現しているに過ぎません。

これが組み合わされて

「大和魂」となった場合が大変です。

一般的には、以下の様に言われています。

>日本民族固有の精神として強調された観念。和魂,大和心,日本精神と同義。日本人の対外意識の一面を示すもので,古くは中国に対し,近代以降は西洋に対して主張された。

いつの間にか、民族の心が国家の心となってしまっています。
国家と言う概念は、別途検証しましたが、決して地理的なものにとどまらず、国家を構成する国民の利害も含むことになります。

更には、これが国家神道とも結びつき、国家の為に死を顧みず行動する勇猛さを「大和魂」と解釈するようになりました。

どこで間違ったかと言えば、大和と言う言葉を国家と置き換えたこと。
大和魂と言うのは、飽くまでも大和に住む人たち(民族)のこころの持ちように過ぎないのです。

個人の、こころの持ち様が源泉なので、それは具体的な事象に対して結束を促す様なものではないはずです。
先にも書いていますように、糾弾掲示板で社会を憂うのも大和魂のなせる事と思います。
松陰の様な厳しい大和魂も見られますが、みんながみんな、そのように気違いじみた行動をされても困りものです。

それぞれの立ち場の人たちの、それぞれの生き様と言ってよいと思います。
その大和魂は、人の為に社会の為に必要な事があれば、それにも向かってやると言う単なる気概であり、思想的な方向性とは関係ありません。

但し、それは古くは平田篤胤などが出てから、大和と言う単語を国家と規定し、神道的な大和魂の概念を構築することになりました。
大和魂と言う言葉の意味は数種類挙げられていますが、近世以降はこの傾向が強く明治以降最悪の使われ方になりました。

これは、民族のこころとは、似ても似つかぬ概念です。
「大和魂」の概念には決して国家があってはなりません。

それを統合して何かをするのではなく、飽くまでも個人のこころの持ちようの事です。
ですが、実際には、ここまで誤解されてしまった「大和魂」を正しく受け入れさせることも大変でしょう。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.157 )
日時: 2016/02/13 11:38
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:El3Dbx/E

文明的転換の為のスレッドですが、後半の部分が、先のサーバのトラブルで消えてしましました。

鎌倉時代の検証ですが、思い出しながら続けて見たいと思います。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.158 )
日時: 2016/02/29 17:59
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:HDnb.89E

大和魂と言う言葉が、この掲示板の中でも随分と歪に捉えられています。

大和魂は、我々日本人の心のルーツとして取り上げています。

何が、大和魂でしょうか。

現代日本の困難を克服するために心を合わせましょうと言う意味で

大和魂を探っています。

随分と長いスレッドになっていますし、未だ完成していません。

興味のある部分でも垣間見てきださい。
メンテ
今までのまとめ ( No.159 )
日時: 2016/05/17 11:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:KrDwBxyc

このサイトのサーバのトラブルにより最近の鎌倉時代の検証をして記事の多くが消失しがっかりしていましたが、気を取り直して再開します。

このスレッドは、表題の「大和魂」と言う言葉で連想されるような、民族精神を鼓舞するようなものではなく、日本に生きる人々の生き様を考えようとするものです。

日本人の特性を表すのに「和」と言う概念がよく使われます。
ある意味で正しい認識とおもいますし、多くの人がそのように思い込んでいます。

世界の各地にも、多民族に対しても、国内生活に置いても戦闘的ではない民族があります。
それは概ねブータンや東南アジアの島国の様に小さな民族です。
1億の国民を有する大国で「和」の心が、これほど息づいている民族はないでしょう。
大きな民族というのは、常に闘争を繰り返し発展してきた場合が多いのです。

「和」と言う概念が注目されたのは、1500年前に聖徳太子が取上げられた頃からです。
このスレッドでは、その頃、及びそれ以前の日本民族の様子を探り「和」の最新がどこから生まれてきたのかを検証することから始めました。

しかしながら、民族性と言うものを、単純に「優しい心」とか「争いを好まない」とは「融合の精神」とかの単語に押し込めて考えるのは軽率であり、もっと深く考える必要があります。

そこで、古代の神話、伝説のないようを通して、それを他の民族のそれと比較することによって、当時の日本人の特徴をつかむ事に随分と時間をかけました。
これは、日本民族の特徴を「和」などという単純な概念を当てはめるのではなく、当時の生活の有り様を探求することで、我々自身が感じる必要があると思ったからです。

それを調べているうちに、日本民族のルーツを見ることになり、日本民族と言うものは紀元前1万年頃から大陸や南方から渡ってきた多様な人々の集合体と言うことが解りました。

また人口的には弥生時代以降に、より多くの渡来人があり、海外の文化も多く入ってきました。
その中で、弥生時代に伝わった稲作の影響で、我が国にも大規模な集落が出来ると共に、豊作を願う信仰行事が盛んになり、そこから氏神信仰が興りました。

おそらく、神話、伝説の内容も、当時の人々が作り上げ、語り継がれたものでしょう。
このスレッドの副題「日本人の心のルーツ」を弥生時代と考えて良いと思います。

もちろん日本民族の生活も、その後大和朝廷により統一、飛鳥時代へと進み、全てが体系付けられてきました。
その中で「和」の概念が尊重されて来たのだと思います。
しかしながら「和」と言っても、実際の生活自体が「和」にかなったものであったと言うことではありません。
「和」の心が強い民族が、実際はどのように国づくりをしてきたのでしょう。
そう言うことがテーマなのです。

次に「大和魂」ですが、これは「和」の概念とは異質のものです。
「大和魂」とは、先に挙げた、

>「和」の心が強い民族が、実際はどのように国づくりをしてきたのでしょう。

この国づくりに登場する要素なのです。
統治と言うものは「和」の心だけで成り立つものではありません。
「和」と反対の機能も必要となるからです。
また、統治の問題だけではありません。
時代の文化的発展も「和」で充足出来るものではありません。

民族の生命力とは「和」以外の要素なのです。
その象徴を「大和魂」と現しています。

政治的な「大和魂」は大和朝廷成立から飛鳥、平安時代で検証し、文化的なことは平安時代から鎌倉時代に、その様相が顕著に見られると思い鎌倉時代には格別の注目を払いスレッドを続けてきました。

鎌倉時代には現代に続く大衆仏教、舞踊、工芸などが芽生えています。
遺族社会から武士社会(武士とは言ってもいわば民主国家とも言えるのです)に変遷。
海外雄飛(倭寇)など、良い悪いは別として民族の力が息づいていた時代と思います。

今後は、この活気ある民族性が、やがて徳川政権の政策、儒教精神の流布、武士道精神による束縛などで民族性を萎縮させてきた経緯を検証し、明治時代を検証し、我々日本民族の本来の姿、民族の心は何であったかを見てみたいと思います。


メンテ
鎌倉時代考証 1 ( No.160 )
日時: 2016/05/19 15:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BjMZCv6Y

鎌倉時代は我が国の民族の伊吹を感じされる時代であったと思っております。
大和朝廷成立以来、数百年続きた貴族政治から武士階級が政権をとったということは、ある意味、民主化の始まりでしょう。
思えは中国では清王朝、韓国では李氏の朝鮮王朝までは貴族政治であり、建国時代の有力部族が政権をたらい回しにしてきました。

鎌倉武士団による政権ダッシュは、中国、韓国、それに西欧の場合も含めて、数百年も古い快挙であったと思います。
これから少しの間、その鎌倉時代とは、どのようなものであったか見てみましょう。

鎌倉時代考証

(鎌倉時代の政治)

鎌倉時代は武士が政権を獲得した時代と一般には認識されているが、依然として京都は鎌倉を凌ぐ経済の中心地であり、朝廷や公家、寺社の勢力も強力だった。武家と公家・寺家は支配者としての共通面、相互補完的な側面、対立する面があった。よって朝廷の支配との二元的支配から承久の乱を通して、次第に幕府を中心とする武士に実権が移っていった時代とみるのが適切であろう。
鎌倉時代を通して京都朝廷との対立は続き、最終的には朝廷の意を受けた足利氏により鎌倉幕府は終焉を迎える。
代わって政権を取った足利氏も武士出身であるにも関わらず貴族化した政治を行う様になる。
室町幕府は200年以上続いたが、世の中は乱れ、戦国時代を経て、再び強力な武士政権が出来た。
鎌倉時代の対外関係としては、当時、中国は宋から元の支配となっていて、その戦闘的な性格から良好な交易とはならず、最終的には元の侵略対象となり2度の戦役が起きる。
国家としての交易の不振であるか否かは、分からないが、民間で「倭寇」と言われる集団が、韓国、中国での略奪を初めている。

「鎌倉時代の文化」

鎌倉時代の文化の特徴をざっくりと言うなら、武家政権が確立し、武士の力が強くなったので、武士の好む素朴で力強い文化が発達したといえる。また、武士や民衆は教養の程度が高くなかっため、わかりやすく親しみやすい文化が発達した。ただし、京都では伝統的な公家の文化が栄えたし、日宋貿易も盛んだったことから、宋の文化の影響もあるということに注意したい。
(武士の習俗)
流鏑馬の射手の狩装束
笠懸(「男衾三郎絵詞」東京国立博物館蔵)
上述したように、鎌倉時代にあっても主たる文化の担い手は公家や寺社であり、一般的に武士の文化水準は低かった。承久の乱の際、5,000を超える武士のなかにあって後鳥羽上皇の院宣を読むことができた藤田三郎は「文博士」と称されてめずらしがられるほどであった。しかし、武家政権の成立にともなう武士階級の政治的、社会的、ないし経済的成長は、おのずから彼ら自身を文化を享受する立場へと引き上げ、上述の板碑などにみられるごとく、彼らの好みや指向を反映する新しい文化の創造をうながすこととなった。この時代の仏教が新仏教・旧仏教ともに穢れ多き者の救済を掲げたことも、武士階級の地位向上と深いかかわりがある。

武家特有の文化も徐々に形成されていくこととなった。その萌芽は武士の日常生活のなかに認められる。たとえば、戦陣に備えた犬追物、流鏑馬、笠懸の修練は「騎射三物」と称されて重視されていたが、王朝国家の武人の儀式も採り入れて「弓馬の道」として体系化がすすみ、つぎの室町時代にいたっては礼の思想その他と融合して武家故実の一部となった。狩猟行為であると同時に軍事演習の意味も有した巻狩は、山の神を祭る聖なる行事でもあり、富士野・那須野でのものが有名である。巻狩の獲物はイノシシやシカであり、貴族や仏僧が宗教上の理由で忌み嫌った獣肉も、武士にとっては重要な食糧となった[25]。工芸の面でも、甲冑や刀剣の名品がつくられている。

のちに武家の家訓へと発展していくものとしては、武士の子弟に対する教戒があり、北条重時家訓(極楽寺殿消息)、金沢実時教戒などが著名である。武家文書のなかに多数のこって今に伝えられる置文にも同様の内容が盛られている。

武家の学問への関心も高まり、北条実時(金沢実時)は、鎌倉の外港として繁栄した六浦の金沢(現在の横浜市金沢区)に金沢文庫をつくって和漢の多くの書籍を集めた。その子孫も文庫の充実に努め、のちに金沢氏の菩提寺であった称名寺が管理を委ねられた。収蔵されたおもな書籍は、古鈔本、宋版、元版で、『群書治要』『春秋左氏伝』『尚書正義』『律』『令』『論語正義』『春秋正義』『文選』『白氏文集』等がある。このような営為の蓄積が、室町時代にはいって武家が衰亡化する公家にかわって古典文化保存の担い手たる役割を果たしえたものと指摘される。また、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』も幕府自身によって編集された。
メンテ
鎌倉時代考証 2 ( No.161 )
日時: 2016/05/19 17:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BjMZCv6Y

鎌倉時代の文化は、今までの貴族の文化とは異なり、中国の宋の影響を受けながらも素朴で力強いものが多く、貴族や武士だけ
ではなく、一部の庶民まで広がりを見せている。

宋風文化の移入

上述した禅や宋学のほかにも宋風文化の移入は多岐にわたった。幕府もまた、京都の朝廷との対抗上、新しく確立した東国政権を宋風文化によって壮麗かつ威厳あるものにしようと意図した。陳和卿などの宋人が多数渡来・移住し、博多には大唐街(唐人町)がつくられた。肥前今津、肥前神埼荘、薩摩坊津、越前敦賀にも宋人の来住があった。日本列島の側からも重源・栄西・俊芿・道元などが渡宋したが、栄西は将軍源実朝に宋より伝来した茶に関する『喫茶養生記』を献上しており[2]、道元とともに渡宋したといわれる加藤景正も大陸の製陶技術の影響を強く受けた。

宋との往来や活発な日宋貿易は、宋銭の大量輸入をもたらし、これにより日本でも本格的な貨幣経済が進展して商業取引がさかんになった。そのことは経済や政治のみならず文化の諸相にも影響をあたえた。律令国家期の大陸文化の移入は外的には華やかさ、強さがあっても、そのおよぶ範囲は限定的であったのに対し、民衆の地位向上の進展が著しい鎌倉時代以降にあっては、外来文化の影響は必ずしも表面的に際だってはいないにもかかわらず、後世の日本人の生活様式に広汎な影響をおよぼしたといえる。

鎌倉時代に興った大衆仏教については先に書いたので省略して、

(絵画)

絵画では、前代につづいて絵巻物がさかんにつくられ、写実的性格の強い人物肖像画があらわれた。絵巻物のなかにも伝記物が登場し、肖像彫刻の隆盛と合わせ、この時代の個人および個性に対する強い関心がうかがえる。

絵巻物

院政期につづいて、絵巻物がさかんにつくられ、全盛期をむかえた。戦乱や武士の生活に題材をとったものがあらわれ、寺社の縁起や高僧の伝記、仏教説話などを題材としたものも多く描かれた。後者は、民衆に教えを広めるためにさかんに制作されたもので、社寺への報恩の意味で奉納されたものも多かった。

合戦絵

>「平治物語絵巻」

「後三年合戦絵巻」雁行の乱れ平治物語絵巻平治の乱を描写した合戦物で鎌倉中期(13世紀)の制作である。紙本著色。藤原信頼・源義朝による「三条殿夜討」の場面がとくに有名。六波羅行幸巻1巻(東京国立博物館所蔵本)は国宝に指定されている。他に静嘉堂文庫本、米国ボストン美術館所蔵本等がある。この時代の大和絵正系に属する作者による合戦物の最高峰と評される。蒙古襲来絵詞元寇のようすを描いたもので、肥後国の武士竹崎季長が子孫に自分の活躍を伝えるために描かせたもの。当時の武士気質と戦闘の実際を伝える貴重な絵画資料ともなっており、土佐長隆の筆と伝わる。私的な事項についてみずから絵巻にして記録した事例は他に類例をみない。三の丸尚蔵館蔵。前九年合戦絵詞『陸奥話記』を先行文献として前九年の役の経緯をあらわしたもので、現在は千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館に所蔵されている。重要文化財。後三年合戦絵巻後白河法皇による4巻本と玄恵による6巻本があるが、後者は1347年(貞和3年)に飛騨守惟久によって描かれたものと伝わる[51]。後三年の役において出羽清原氏の内紛に介入した源義家を描く。殺戮の場面が生々しくあまりに残虐なため、宗教的意図の介在も指摘される。東京国立博物館所蔵。重要文化財。


(工芸)

工芸の面では、武士の成長とともに武具の製作がおおいにさかんとなった。陶磁器・漆器などの面でも新傾向がみられる。

染色

伝世された遺品は必ずしも多くないが、東京国立博物館の鎧直垂の錦、東寺の舞楽用具の錦などによって、この時代の力強い作風がうかがうことができる。全体的に伝統的な技術に則っていたが、鎧の威(おどし)や染皮(そめかわ)においては新しい技術・技法の発達がみられた。なかでも、鎌倉時代初期につくられた大山祗神社(愛媛県今治市)の赤糸威は優品として著名である]。この時代の武士は、合戦で目立つ赤色をことのほか好んだ。

甲冑・刀剣

甲冑では京都に住んだ明珍が名高く、鎌倉時代のはじめごろに初代が朝廷より明珍の号を賜り、以後代々この号を称したため、この流れを汲むものを明珍派(または明珍家)と呼んでいる。甲冑はまた鎌倉時代後期になると戦勝祈願のために神社に奉納する慣習が定着したため、いっそう装飾性を強め、鎌倉末期の制作になる青森県八戸市の櫛引八幡宮および奈良市春日大社の赤糸威鎧はいずれも国宝に指定されている。

刀剣は、山城、大和、相模、備前、備中などの諸国の鍛冶がそれぞれに地鉄や刃文に特色のある作品をつくった。山城の来派(らいは)、備前の長船派(おさふねは)・福岡一文字、備中の青江派などは多くの著名刀工を輩出している。個別の刀工としては備前長船の光忠、長光、京都の藤四郎吉光(粟田口吉光)、鎌倉の正宗、景光などが著名で、多くの名品を残した。これら刀剣は、日宋貿易での重要な輸出品でもあった。

陶磁器

尾張国猿投窯では、すでに5世紀頃から須恵器が生産され、平安時代前期(9世紀)には中国の越州窯青磁を範とした施釉陶器が焼造されていた。しかし、平安時代中期以降、律令制の崩壊とともに猿投窯はその製品を支配者層向けから一般庶民層向けの大量生産品へと転換させていった。それに応じ、施釉陶に代わって実用的な無釉の碗皿(山茶碗)が大量生産されるようになるが、こうした動きは12世紀に本格化し、中世全体を通じて展開される。山茶碗窯の分布は、伊勢の亀山周辺、駿河の藤枝周辺、飛騨の高山周辺におよぶ広大なものである。これら猿投窯系の山茶碗窯のなかから常滑焼と渥美焼があらわれ、無釉または自然釉(窯の中で自然に灰が降りかかって釉薬となったもの)の壺、擂鉢、甕などの日常雑器が生産された。

一方、猿投窯の流れをくむ尾張の瀬戸窯では、宋や元の舶来陶磁器の強い影響を受けながら、13世紀から施釉陶器の生産が発展した。瀬戸の施釉陶は、道元とともに入宋した加藤藤四郎景正が、宋の製陶法を学んで帰国したのち創始したものという言い伝えが残るが、こんにちでは、その伝承には裏づけがないとされている。ただし、古瀬戸焼の製品には器形などに宋・元の製品の強い影響がみてとれることも確かである。古瀬戸は中世の日本で唯一の人工的に施釉した陶器として珍重された。器種は中国白磁を模した梅瓶、四耳壺、水注が多くつくられ、経筒などの仏器もあり、前代に比較して器種の増加が著しい。釉薬は当初灰釉が用いられ、後に精製した灰釉で黄色に発色した黄釉、鉄分を混入して飴色に発色した飴釉、天目釉などが用いられた。

12世紀から13世紀にかけては、常滑窯系列から常滑焼、信楽焼、丹波焼、越前焼など全国を流通先とする地方窯(じかたよう)がつぎつぎに生まれ、それに前述の瀬戸焼と須恵器系の備前焼とを加えて、世にいう「六古窯」の名称が後世生まれた。「六古窯」という用語は小山富士夫が昭和30年代に使用し始めたものである。その後の研究の進展により、中世の日本には「六古窯」以外にも多数の窯場が存在したことが判明しているが、中世から今日まで製陶が継承される窯の代表的なものが「六古窯」であるといえる。当時広く流通したものの今日では廃れた地方窯もまた数多い[62]。これら陶器は日本列島に広く流通し、京都・鎌倉をはじめとして、各地の湊や宿などの都市遺跡から出土している。

日本において磁器が製造されるのは近世以降のことで、中世においては青磁・白磁・青白磁などいずれも宋・元および高麗からの輸入品であり、もっぱら上層階級により珍重された。院政期から鎌倉時代の前半では白磁が多くの遺跡より出土するのに対し、鎌倉時代中期以降はとくに龍泉窯(中国浙江省竜泉市)の青磁が重んじられた。なお、古代の土師器の流れを汲む素焼きの土器は「かわらけ」と称されて祭祀を目的として大量に使用された。1回限りの使用ですぐに廃棄されるという独特の使用がなされたため、中世の遺跡からは大量のかわらけが確認される。

漆器・漆製品

漆器は、前代にくらべて器形が端正になり、文様も従来の象徴的な自然描写から写実的な絵画表現へと変化した。また、歌絵、葦手絵にならった意匠も用いられた。技法としては、平蒔絵、高蒔絵も出現した。

鎌倉時代前葉では、畠山記念館所蔵の蝶文手箱、出雲大社秋野蒔絵螺鈿箱、輪王寺蒔絵手箱、中葉では、鶴岡八幡宮籬菊文硯箱、サントリー美術館浮線綾文手箱、後葉では三嶋大社梅文蒔絵櫛笥、大倉集古館の扇散文蒔絵手箱などがある。

なお、この時代の螺鈿技術の進展も著しく、ことに、螺鈿のみで巧妙に絵画的模様を示した永青文庫所蔵の時雨鞍は、その妙技を示す逸品として名高い。

金工

鎌倉時代の金工品として知られているのが、安芸国厳島神社(広島県廿日市市)の密教法具および近江国神照寺(滋賀県長浜市)の透彫金銀鍍華籠である。また、三嶋大社の手箱(梅文蒔絵櫛笥)には数種におよぶ美麗な和鏡が内容品として納められている。

舎利信仰の高まりとともに多くの舎利塔が造られたが、なかでも透かし彫りの美麗さで知られるのが西大寺(奈良市)の金銅透彫舎利塔である。梵鐘には鋳物師物部重光による建長寺鐘、同じく物部国光による円覚寺鐘があり、鎌倉時代の二大梵鐘となっている。それぞれ建長七年(1255年)、正応三年(1290年)の紀年銘が刻されている。


書道

書道では、平安時代に藤原行成が創始した世尊寺流はしだいに公家社会で衰え、かわって宋・元の書風が伝えられたのを受けて鎌倉時代末に伏見天皇の第6皇子で京都青蓮院 の尊円入道親王 が青蓮院流をひらいた。青蓮院流は、和様(世尊寺流)をもとに宋(とくに南宋の張即之)の書風をとり入れたもので、江戸時代には朝廷・幕府・諸藩の公文書に採用され、御家流と称された。庶民間でもひろく普及し、習字の手本などにもなっている。有名な『鷹巣帖』は、同じ持明院統で兄後伏見天皇の孫にあたる後光厳天皇のために、尊円が漢字と仮名で詩歌を一巻に書きついだものである。


古典研究

鎌倉時代に入ると、日本の古典研究(和学)が顧みられるようになった。日本書紀の民間初の注釈書である卜部兼方の『釈日本紀』のほか、鎌倉の僧仙覚が万葉集の諸本を校訂して注釈書『万葉集註釈』(別名『仙覚抄』)を著し、源氏物語の研究では、源光行・源親行父子が『水原抄』を著して注釈を加えた。

歴史研究

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮による序文
執権政治のもとでの合議制への参加や成文の法典などを定めるようになった鎌倉武士たちも、ようやく内外の文化や学問への関心をいだくようになり、幕府の歴史を編年体でしるした歴史書『吾妻鏡』が編纂された。執権北条時頼の命令によって書かれた公的日記であり、全52巻、頼朝挙兵から1266年(文永3年)までを記述している。鎌倉時代の政治史を知る上での根本史料となっている。

鎌倉時代の史論書として名高いのが、天台座主で九条兼実の弟、また『新古今和歌集』の歌人でもあった慈円の『愚管抄』である。転換期の世相を深い思索をもとに記しており、歴史をつらぬく原理をさぐり、「道理」による歴史解釈をこころみた。『愚管抄』は、一貫して慈円自身が歴史の瞬間に我が身を置き、歴史を追体験するかたちで叙述されており、人間の理解やはからいを超越した歴史の不思議が歴史を動かす力ともなっていること、あるいは、歴史が動くときの軸ともなっていることを「道理」の語で表現しようとしている、との指摘がある。そして、公家社会の人びとにはどうしても理解できない「武者ノ世」の出現を、道理のしからしむるところと考え、幕府との協調を説こうとした。この著は、承久の乱の直前に後鳥羽上皇の挙兵を知って記されたもので、慈円はこの挙兵を道理に合わないとしてひとつの思想的立場から批判したのであり、また、現実の政治論としての意味ももっていた。

上述の日本書紀の注釈書『釈日本紀』のほか歴史への関心は仏教史におよび、日本最初の仏教史として臨済宗の僧侶虎関師錬によって『元亨釈書』が著述された。


※ 文化の対象が、貴族の趣味から、現実に即したものとなっています。
メンテ
鎌倉時代考証 3 ( No.162 )
日時: 2016/05/20 14:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:Y9Y2S9E2

(文学・文芸)

鎌倉時代の文学は、軍記物の隆盛など武家の成長をあらわす新しい傾向とともに、公家がそれに対抗して伝統に傾斜してその集大成を指向する傾向が強く、すぐれた和歌集があらわれた。また、転変する時代の移りかわりを冷静に受けとめて思索し、それを書きとめた人びともいた。

この時代の文学の特徴に無常観がある。『平家物語』冒頭の「諸行無常」は有名であるが、無常観にもとづいて人生を観照しようという態度ですぐれた随筆や評論があらわれた。鴨長明の随筆『方丈記』が代表的であるが、武士出身の西行が諸国を遍歴して詠んだ歌を集めた『山家集』もその所産といえる。卜部兼好『徒然草』にも無常観はみられるが、長明よりも兼好の方が現世に対する距離が近い。上述した慈円の『愚管抄』も、歴史の移りかわりに無常をみて、その転変の原因などについて思索した著作である。

隠棲した人びとの手になるものに優れた作が多いのも、この時代の特徴である。公家の手になるものの多くが創造性や現実主義・写実性を欠き、文学上の新展開を主導できなかったのに対し、隠者は、より自由な立場にあって、客観的な批判精神によって新興階級たる武士の台頭の意味に一定の認識をなし得たことが、その理由として考えられる。

軍記物

この時代の文学の特色を示すものに軍記物がある。いずれも漢語や仏語、俗語とくに武士ことばをまじえた力強く簡潔な和漢混淆文でつづられた。従来の漢文体の合戦記では表現できない躍動性が発揮され、実際の武士の活躍ぶりが描かれている。

本格的な軍記物のさきがけをなすものとして、保元の乱を題材とする『保元物語』、平治の乱を描いた『平治物語』が知られる。ともに成立年代は不明だが、『平家物語』に先だって成立したと考えられ、前者は鎮西八郎源為朝を、後者は悪源太源義平を主人公とし、両乱を題材としながらも主人公の悲壮な武運を描いている。

『平家物語』は、全編を「盛者必衰」の無常観によりながら平清盛・木曽義仲ら個性的な武士像や運命に翻弄される女たちの悲哀などを和漢混淆文によって描いており、合戦場面のきびきびとした簡潔な文体、女性の哀話における叙情的な和文体など多様な文体が駆使されている。一族の運命をみずからの運命として受容し、いさぎよく最後まで戦い抜いた武士たちを生き生きと描ききったところにこの物語の魅力があり[69]、また、「祇園精舎の鐘の声…」ではじまる韻律的な書き出しは特に有名である。

後続する『源平盛衰記』は『平家物語』読み本系の写本中の一異本と考えられ、異説・異伝も載せるなど一種の史書としての体裁をとっている。他に戦乱に取材したものとしては1221年(承久3年)に後鳥羽上皇が討幕の兵をあげた承久の乱を描いた『承久記』がある。なお、そのころに著述されたと思われる『平家物語』巻十二「六代被斬」では、「承久に御謀反おこさせ給ひて」という一節がある[注釈 37]。

歴史物語

平安時代の『大鏡』『今鏡』を受けて『水鏡』が著されている。いわゆる「四鏡」の第三にあたるが、叙述の対象となっているのは『大鏡』より前の神武天皇から仁明天皇の治世54代の事績である。筆者は、平氏一門と親しく、頼朝や院ともかかわりをもった公家の中山忠親である。長谷寺に参籠した老女がその夜に出会った修験者の語った不思議な体験を書き記したという体裁を採用している。史実は『扶桑略記』をもとに編年体で叙述されており、仏教思想の影響が強いとされる。

説話文学[編集]

説話文学では、院政期文化のあとをうけて、多くの説話集がつくられた。文芸性豊かで『今昔物語集』の続編にあたる編者不明の『宇治拾遺物語』、承久の乱後、橘成季が古来の伝説を集めた『古今著聞集』はいずれも世俗的興味の多い説話集である[67]。『宇治拾遺物語』は196段中80段余りが『今昔物語集』と重複する。庶民の生活にふれた新鮮でユーモアに満ちた伝説や童話などを多くふくむ。また年少者への教訓書で儒教の影響がみられる『十訓抄』、源顕兼の『古事談』がある。仏教説話では禅僧無住が弘安の役前後に著した『沙石集』、平康頼の『宝物集』、鴨長明著ともいわれる『発心集』、西行の漂泊に仮託された編者不明の『撰集抄』、それに影響を受けた僧慶政作とみられる『閑居友』などがあり、いずれも世人を教化して菩提心をおこさせようという意図をともなっている]。

このなかで『沙石集』は125段の短編説話が仏教原理をまじえて説かれたものであるが、鎌倉に生まれ尾張国木賀崎(名古屋市東区)の長母寺に遁世したという無住自身が諸国を遍歴したため、実際にかれが見聞したものも多く、民間の挿話や伝説、童話のほか連歌の作例などのほ]、なかには当時の僧侶の生活をありのままに記したものもあり、当時の庶民の生活や思想も知られる貴重な歴史資料となっている。

随筆

鴨長明
時代の流れを冷静に受けとめ、それを随筆として書きとめた人びともいた。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」の名文で知られる鴨長明の『方丈記』は、人間も社会も転変してすべてはむなしいと説いた。最晩年に日野山(京都市伏見区)の奥に一丈四方の草庵を営み、「世の不思議」と人とのかかわりを思索するなかで、長明は「方丈」という自らが占める栖という空間の意味を見いだし、そこに自身のすべての思いを託した[70]。また、長明はわびしい生活を送りながらも信仰一途に生きた求道者でもなかった。保元以来度重なる兵乱と諸勢力の消長、福原遷都や数々の飢饉を経験した長明は、すべてを泡沫のごときものとしてあきらめるいっぽう、逃避と否定の生活に安住しようとして安住しきれなかったのであり、その苦悶が彼の諦観を文学的、人間的なものにしているのである。

鎌倉時代末期には説話文学の系譜をひく卜部兼好(兼好法師) があらわれた。その代表作『徒然草』は、「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」の序段でつとに有名で、著者の広い見聞と鋭い観察眼によって人生や世相を批判的にながめた名随筆として知られる。長明と兼好はともに遁世して隠者としての生活をおくり、『方丈記』と『徒然草』は国風文化期の清少納言『枕草子』とあわせ「日本三大随筆」と称されることがある。

紀行文

散文では、国内政治が二極構造となり、京都と鎌倉の往還がさかんになったことを反映してすぐれた紀行文があらわれた。

そのなかのひとつに、阿仏尼が、藤原為家との実子(冷泉為相)と為家の嫡子二条為氏とのあいだで起こった播磨国細川荘をめぐる所領相論で幕府に訴訟するため鎌倉に赴いた際の紀行文日記『十六夜日記』がある。

『海道記』と『東関紀行』はともに著者不詳の紀行文であり、いずれも和漢混淆文で記された、中世紀行文学の嚆矢となった二作品である[71]。前者は1223年(貞治2年)に京都白河の中山に住む「侘人」が、後者は1242年(仁治3年)に京の東山に在住していた「閑人」がともに鎌倉を旅したようすを紀行文としており、『東関紀行』の作者は『海道記』を読み、それを強く意識し、かつ前提にして書かれているという要素が濃厚である[注釈 39]。『海道記』の作者については、かつては鴨長明説もあったが長明没後の作品であることが明らかであるので、こんにちでは源親行説が有力である。

日記・日記文学

平安末から鎌倉時代初期にかけては、関白九条兼実の日記『玉葉』、内大臣中山忠親の日記『山槐記』などが著名である。ともに中央政界で重要な位置にあった人物の手になるものであり、内乱期の政治史にとって重要な史料となっている。幕府編纂の『吾妻鏡』は北条時頼の命令によるものであり、それ以前の幕府創業期の記述は少なからず誤りをふくんでいるほか、『平家物語』をはじめとする軍記物で記される事実とは多くの点で異なる叙述がなされているため、『玉葉』『山槐記』はこれらを補う文献資料としてよく用いられる。

藤原定家『明月記』は、1180年(治承4年)から1235年(嘉禎元年)まで56年の長きにわたってを漢文によって克明に記した日記であり、子孫にあたる冷泉家に歌道・書道の家の家宝として相伝されたものである。『新古今和歌集』成立期の資料としては他に源家長の『源家長日記』がある。

他に、『岡屋関白記』、『勘仲記』、『三長記』、『花園天皇宸記』、『伏見天皇宸記』、『平戸記』、『民経記』などの日記・日記文学があらわれた。女性の作品には、宮仕えの記録を主とする『建春門院中納言日記(たまきはる)』、『弁内侍日記』、『中務内侍日記』や、阿仏尼『十六夜日記』があり、後深草院二条(あかこ)の『とはずがたり』は赤裸々な愛欲生活と出家後の旅の描写に特徴があり、論者によっては中世最高の自伝文学との評価がある。発見が遅く、その意味では忘れられた名作と言ってよい。

評論

日本最古の物語評論書『無名草子』が1201年(建仁元年)ころに成立している。筆者は藤原俊成女ではないかとされている。『源氏物語』など28編の物語や歌集・歌人などを批評しており、文学史的意義が高い。『源氏物語』を最高傑作とし、上述した擬古物語の評価は低い。散逸した物語を知る資料にもなっている。小野小町や清少納言など女性についても論評している。

慈円『愚管抄』は、歴史を「道理」と末法思想の観点から眺め、独特の歴史哲学を展開した歴史評論書である。


和歌

鎌倉時代初期の公家社会では、ことに和歌がさかんであった。歌人としては藤原定家が名高く、平安時代の伝統に学んで、技巧的な表現をこらしながら、妖艶で情趣豊かな歌をよんでおり、また、観念的な美の境地を生み出そうとした。こうした新しい歌風と歌論は、当時の歌壇の中心となり、後鳥羽上皇を中心とする貴族たちのあいだに広く受け入れられて多くのすぐれた歌人を生んだ。

勅撰集

1205年(元久2年)後鳥羽上皇の命で、『新古今和歌集』が編纂された。撰者は藤原定家と藤原家隆、源通具、藤原有家、藤原雅経、寂蓮の6人である。後鳥羽院自身も撰歌の配列などに大きく関与した[注釈 40]。八代集の最後にあたり、当時の歌人の歌を中心に約2,000首がおさめられ、勅撰和歌集でも傑出したものの一つとされ、優美で技巧的な歌風は、のちに新古今調とよばれた。前代の『千載和歌集』を継承し、さらに感覚的・絵画的ないし色彩的に追究した作風が多い[68]。いっぽうでは、『古今和歌集』へのあこがれと古代王朝国家の盛時を回顧する指向が強く、従来の和歌の伝統を集大成したと評される反面、新鮮さではもっぱら掛詞、縁語、畳語など技巧の点に集中したとも評価される。この時代のおもな歌人には、後鳥羽院、慈円、藤原良経、藤原俊成、式子内親王、藤原定家、藤原家隆、寂蓮、藤原俊成女、


百人一首の成立

百人一首は、1235年(嘉禎元年)、宇都宮入道蓮生(宇都宮頼綱)が京都嵯峨野小倉山に建設した中院山荘の障子(現在の襖)に貼る色紙形のために、宇都宮蓮生より色紙染筆の依頼を受けた藤原定家が、上代の天智天皇から当代の順徳院まで、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ百首選んだものが原型といわれる。なお、蓮生は定家にとって子息藤原為家の岳父にあたる。カルタ遊びとなったのは後代のことであるが[注釈 43]、定家著『近代秀歌』とは若干の異同があり、これについては、公式の著述には鎌倉幕府の権力をはばかったものの私的な染筆に際しては定家はみずからの美学に忠実たろうとしたのではないかという見解がある[72]。百人一首、『近代秀歌』ともに古来、王朝和歌の入門として人びとに親しまれてきた。

連歌

この時代の後期になるにつれ、和歌は衰えていったが、かわって和歌の余技から発生した連歌が、武士や僧侶、庶民のなかで流行した。長連歌(鎖連歌)は平安時代にさかのぼり、院政期に流行して、鎌倉時代には連歌の会が催されるとともに連歌の規則(式目)が整えられていった[注釈 46]。後鳥羽上皇の時代には平安以来の機知を中心にすえた滑稽な無心連歌と和歌的情趣を重視する有心連歌とに区分された。しだいに有心連歌が優勢となっていくが、「無心」であること(情趣にはずれて滑稽であること)は和歌においては低評価にとどまるものの、無心連歌・俳諧連歌[注釈 47] においては文芸としての連歌の本質であるとして積極的評価がなされた。


※ このように貴族文化にはなかったものが次から次へと興っていて現代に続いている。
メンテ

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